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徳川家茂は何故天璋院を母と呼んだのですか。

NHK大河ドラマ「篤姫」を見ていて、疑問があります。 徳川家茂には実成院(大奥で暮らし、84歳まで生きた)という生母がいるのに、天璋院を母上様と呼ぶのは何故なのでしょうか。家定から家茂に実権が移った時点で生母実成院と和宮が大奥の権力中枢になってもよいはずなのですが。いかなる政治的力が働いたのでしょうか。解説いただけるとありがたいです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mahaze
  • ベストアンサー率29% (217/731)
回答No.1

私も1か月くらい前に疑問に思ってネット調べました。 はっきり記述されたものは見つけられなかったのですが、だいたい話を纏めると、 将軍になるためには徳川宗家の養子とならなくてはならず、天璋院の養子となったからだと思います。 特別な政治的力が働いたわけではないでしょう。

kuni3333
質問者

お礼

的確な回答ありがとうございました。 「将軍になるためには徳川宗家の養子とならなくてはならない」がポイントですね。 篤姫がはじめて家茂から母上と呼ばれたとき、篤姫がいたく感激していたので幻惑されてしまいました。篤姫が感激したのは、母上と呼ばれたことよりは、自分には授からなかった子供ができたことへの喜びだったのですね。

その他の回答 (2)

  • fedotov
  • ベストアンサー率48% (710/1461)
回答No.3

徳川一門ですが別の家の人間なので、養子縁組して将軍家(徳川宗家)の人間になり、 家定の養子として将軍職を承継したからです。 ちなみに、養子は嫡出子と同じ扱いで、養父の正妻が嫡母となります。 また、庶出子も正妻の養子になる事により、嫡出子の身分を得ました。 この場合、子どもは公の場では嫡母(正妻)を母と呼び、生母を母と呼べませんでした。 こういった関係は終戦まで続いていて、大正天皇は昭憲皇太后の養子です。 貴族などでは、正妻と妾が同居して、子どもは正妻を母と呼び、生母は呼び捨て、 生母も子どもを「若様」と呼ぶ事が珍しくありませんでした。

  • BXV02341
  • ベストアンサー率45% (69/151)
回答No.2

No.1の方のおっしゃる通りだと思います。 篤姫も、島津斉彬の養女になった時点で、斉彬を父上、斉彬の奥方を母上と呼ぶようになりました。 実父のことは父と呼んではいけなくなり、上座から「忠剛殿」と呼ぶ場面もあったかと思います。(忠剛の心情を思うと切ない場面でした……。) ホームドラマ的な部分というか、独り言などでは実母を「母」と言うことも多いですが、正式には、もう母と呼んではいけない存在なのだと思います。

kuni3333
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 身分制度のなかでは随分切ない人間模様がたくさんあったのですね。

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