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どのようにして罪を深く感じ取るか

クリスチャン、またはその立場に一定の理解をお持ちの方に質問です。 人はどのようにして自分の罪を可能な限り切実に感じ取ることが出来ますか? キリストの教え、なかんずくパウロの教えを私は次のように理解しています。 人は原罪と己の犯した罪を負っている。それは律法を完全に行えないことにより証明される。 律法を完全に行うことの出来ない人の罪は、 神の子であり完全なる(罪のない)人間でもあるイエスキリストの贖い、 その流された血によって洗い清められる。 そしてそれに対する信仰により人が霊的な位置において、 主の血によって罪が洗い流される。 このとき、人が罪を洗い流される必要を感じるためには 目的としては審きのときにおいて父なる神の御前に義と認められること、 そして手段としてのキリストの血の贖いと悔い改めであること。 ここで問題となるのは血による贖いも悔い改めも、 自身の罪の深さを認識し、いよいよ自身に救いが必要であると感じることです。 けれども私は自身の罪を認識はしても、 それを感情や魂の悔やみとして深く感じ取ることが出来ません。 牧師や神父はこう言うでしょう。 「あなたの神に祈りなさい、そして聖霊様に祈りなさい、  あなたがそれを正しく理解し、それを心から感じ取ることが出来ますように。」 たしかに己の至らぬ点において祈りと願いによって助けを求めることは必要です。 しかし同時に自身のより一層の感情としての感じ取りに対して人としての 持ちうる限りの努力も必要だと思います。 人としての最大限の努力をなし得ていないならばそれは切実には求めていないからです。 祈りと願いとしては別に人としてのなし得る術として、 人はどのような方法によって可能な限り自身の罪を深く知り得ますでしょうか。

noname#74446
noname#74446

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.6

こんにちは。 僕なりの思ったことを書きますので、何か参考になれば幸いです。 <<ここで問題となるのは血による贖いも悔い改めも、自身の罪の深さを認識し、いよいよ自身に救いが必要であると感じることです。>> 僕も、自分の問題点を「理性に落として明らかにすることによって明確にすること」は重要なことと思います。 <<けれども私は自身の罪を認識はしても、それを感情や魂の悔やみとして深く感じ取ることが出来ません。>> しかしながらそれを再び感情的に「後悔」と言う暗い怒りの感情に転化して増幅させてしまえば、さらに感情的になり、理性的に物事を観る力を滅してしまうのではないでしょうか。 理性を圧迫し滅するなら、己が問題点も改善すべきものも、その方法も、念じるべき思念も見出すことは難解になるし、 理性を圧迫し滅するなら、物事の道理を見抜く力も滅し、再び問題点なる新たな罪を多くなす可能性を増幅させてしまいはしないでしょうか。 <<たしかに己の至らぬ点において祈りと願いによって助けを求めることは必要です。>> 人の心は多く・多数念じた思念に傾く性質が有ると感じます。重要なことですね。なぜそうなるかのその性質の原因をキリスト教の方は「己の至らぬ点において祈りと願いによって助けを求めること」として信仰しているのかな。と感じました。 <<しかし同時に自身のより一層の感情としての感じ取りに対して人としての持ちうる限りの努力も必要だと思います。人としての最大限の努力をなし得ていないならばそれは切実には求めていないからです。>> そうですね。信仰を持つ人持たぬ人に関わらず、人としての持ちうる限りの努力は必要ですし、賞賛すべきものと思います。 <<祈りと願いとしては別に人としてのなし得る術として、人はどのような方法によって可能な限り自身の罪を深く知り得ますでしょうか。>> 感情的になれば物事を観る力はなくなる。 物事を観る力はなくなるなら問題点が見えなくなる。 問題点が見えなくなるなら再び同じ問題や その問題点によって起こる諸々の問題を繰り返しおかしてしまう。 理性的になれば物事を観る力が出てくる。 物事を観る力が出てくれば問題点が観える。 問題点が見えれば改善策がたてられる。 改善策がたてられれば、再び同じ問題や その問題点によって起こる諸々の問題を繰り返すことがなくなる。 理性を育み、理性を持って感情を観て滅していくなら、生命としての問題点・原因が解るようになると思います。 理性に落とし込むことが重要とかんじます。 ゴータマさんは多くこの方法を理性的に論理的に厳密に現実的に科学的に反証も受け入れる姿勢を持って語られています。人として出来ることを具体的に反論が成り立たぬように気をつけながら語られているように感じます。 「八正道」のなかには多く理性に落とし込む方法・ヒントがかかれていますよ。納得がいく所を拾い集めて実践してみてください。 自分の生命としての問題点を見つけ、改善する方法としては、ここまで詳細に厳密に語られたものを他に知りません。人としてのなし得る術として限界まで語られたものと感じます。 信仰に関係なくこの方法は役に立つものと思います。 サンガ出版「仏法」の八正道の項目に詳細にのってます。 参考になれば幸いです。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#74446
質問者

お礼

「理性に落とし込んで」の作業がまだ不十分なのかもしれません。 私は「理性」で理解し、「感受性」で無理解であると自己認識していましたが もしかしたら本当は「理性」においてもまだ理解は不十分だったのかもしれません。 理解を更に深めていく中で「理性」と「感受性」の結合するどこかで真の理解が可能かもしれません。 大変参考になりました。ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (5)

noname#117439
noname#117439
回答No.5

A4です。 >なぜなら罪なんて嘘ですから。 このように遠慮なくイエスを生贄にささげるのがキリスト教の正しい教えです。

noname#117439
noname#117439
回答No.4

むしろイエス自身が罪を捏造した人物です。 古代において神を語るにはよかったかも知れませんが、21世紀の現在も禍根を残している犯罪者です。 このようにイエスの罪を告発するとまさに原罪の体現者になれます。 でも私は平気です。 なぜなら罪なんて嘘ですから。

noname#80116
noname#80116
回答No.3

 ★ 祈りと願いとしては別に人としてのなし得る術として、 / 人はどのような方法によって可能な限り自身の罪を深く知り得ますでしょうか。  ☆ 誰の意見・表情にも 耳を傾けることです。そして 歴史を知ることです。  自分や自分の支持する思想を批判する人の見解を 徹底的に 知り 分析するとよいでしょう。そのような内容を 歴史にも 学びます。  ですが 罪の意識は どこまで持つべきなのでしょう。罪を知ったあと どこまで それを深めるかのように 持ち続けるのが よいでしょうか。原罪にしても 個々の罪にしてもです。けれども 神は もはや 罪を思い出さないと言っています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミヤ書 31:31-34)  これは 成就したと考えます。あるいは パウロも 伝ダヰデの詩を引いています。  ▲ (ローマ書4:7~8) ~~~~~~~~~~~~~~~  「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。  主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」   (詩編32:1-2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいは これは 《祈り》ですが ルカで  ▲ (ルカ福音11:4) わたしたちの≫ 罪 ≪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。  ☆ と《罪 hamartia 》を言いますが マタイでは  ▲ (マタイ福音6:12) わたしたちの≫ 負い目 ≪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。  ☆ と《負い目・負債( opheilemata )》の語を用います。  むろん 《罪》の語は あちこちに見られます。強弁するつもりはありません。  この投稿の意図は 罪とその意識は おのれの内面における作業として納めていることが 肝心なのではないかと思うそのことです。

noname#74446
質問者

お礼

>作業として納めていること この一文を参考にして再度考え続けてみます。 ご回答ありがとうございました。

  • silversan
  • ベストアンサー率34% (17/50)
回答No.2

私にこの真摯な疑問に答える資格があるのかどうか些か疑問ではありますが・・・。 私たち人間においてあなたがなしうるベストを尽くすこと以上はできないし求められていないように思います。 あなたがベストを尽くすように真摯に思いをはせれば、自ずとあなたに必要なものを気づく機会が与えられるように思います。

noname#74446
質問者

お礼

>自ずとあなたに必要なものを気づく機会が与えられるように 今は気持ちを切らさずに継続する必要がありそうですね。 ご回答ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.1

どのようにして罪を深く感じ取るか ほとんどの人はたいした罪を犯してはいませんので、自己反省すればいいだけですよ。パウロにだまされてはいけませんよ。パウロは本当に重い罪を犯した本人ですからね。キリスト者はユダ一人を責めますが、イエスを処刑した側にいたのがパウロ(改名前の名前はサウロ)ですから。その上弟子の一人を石打で殺しています。さらにダマスコにいる弟子を捕らえにいく最中にキリストが現れ、回心した人物です。そのとき、イエスは、「サウロよサウロよ何故お前は私を傷つけるのか。」といったそうです。ある意味、ユダよりひどいことしてますね。ただ、パウロはローマの市民権もあり、高度に教育された人物であったので、その後の伝道は最初の弟子よりりっぱにやったことも事実ですね。それ故ローマカソリックでは評価されていますが、ご本人の罪意識はそれは大変なものでしょう。主たるイエスも弟子も殺したのですから。自身の罪意識を隠すことはできませんが、後世の弟子が余りに哀れなので「原罪」などというありもしない作り話をしたんでしょうね。そんな罪を隠そうという話を信じてどれほどのものが罪意識を刷り込まれたことか、とイエス様も苦笑してらっしゃいますよ。つまり、パウロほどのたいした罪もないのだから反省して祈ればいいんですよ。

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     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教

    プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教関連の本は結構読んでいますが,キリスト教の教義というか,根本原理(精神)等が未だに理解出来ません。取り敢えず下記の疑問点に付いて教えて下さい。*キリスト教で云う贖罪(罪を贖う)と罪を償うとの基本的な違い。*又イエスは十字架で処刑される事により人類の罪(原罪)を贖ったと云われていますが,この場合の人類とはクリスチャン以外の人(例えば仏教徒・イスラム教徒等)も含まれるのか。*前に述べた「原罪」はキリスト教徒以外の者にも有るのか*「贖罪論」・「原罪」等は聖書のどこに記述されているのか。以上宜しくお願いします。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 原罪は死語だと思いますが なぜ無くならないのか

     原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており それは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう?

  • キリストが人殺しを許すのは何故

    昨日、短気なアメリカ人クリスチャンの彼と喧嘩した時に、聖書の教えを守る守らない以前に、もっと人として大切なことあるんじゃない?と聞きました。彼は婚前前交渉NGとか、イエス様がヤキモチやくからイエス様以外への祈りNG、とか禁止事項的なものを頑なに守り抜いていますが、人として何か大切なことを欠いている気がすると前々から思っていました。クリスチャンじゃない日本人のほうが考え方大人だなと感じたこともあるし、心が広いと感じたこともあります。(人を許せなかったり怒りやすかったり。それなのに彼と付き合っているのには、それ以外で彼の魅力があると感じているからです) すると、人間は完璧にはなれないからいい人になんてなれない、と言い張ります。 私の言っているのはそういうことではありません。神と比べてどうこうじゃなくて、人として、人間レベルでのことを話していたのです。 殺人者も自分も、罪を持つ人間には変わりはない、と言っています。 もう呆れました。 人間は罪を持っているけど、神は慈悲深いから人間が神に許しを求める限り、救われたいと思う限り、神は許してくれるのだそうです。 この考えは知っていましたが、 じゃあ人殺しの人はどうなるのか、 と思いこんな質問をしました。 なぜ、許しを求める限り殺人者は神によって許されるのか。 被害者の人生はやり直せないのに 殺人者の人生は何度でもやり直せるのは何故か。 シェイクスピアの言葉で、 人殺しを許す慈悲は人殺しを育てる、みたいなのがありますが、 これを支持する私にとって、 殺人をも許す神は慈悲深いとは言えない、と思います。 むしろ神のしなければいけないことは、殺人を許すことではなく被害者の命を殺人者から守ることではないのですか? それができない神がなぜ全知全能なのですか? また、キリスト教者であればどんな人でも救われるが、キリスト教者によって殺された人は救われないのですか? とにかくこの問題について納得したいです。これが解決されない限りキリスト教を好きになれません。それが意味することは、キリスト教を好きになれなければ彼のことも完全に愛せないということだと理解しています。別れないために解決策を求めているので別れたほうがいい、というご意見はお控え頂けると嬉しいです。 特にクリスチャンの方、よろしくお願い致します。 散文で大変申し訳ないです。