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弁証法的な発展とは

[弁証法的な発展]とはどういう意味なのでしょうか。 検索してもさっぱり意味がわかりません。 簡単な例で教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

弁証法というと、ものものしいですが、基本は対話の構造です。 質問者さんは、日常でこんな経験をなさったことはありませんか。あることを主張する。そこに反論が来る。相手を納得させるためには、より説得力のある論拠が必要だ。それを考えて最初の主張を発展させていく……。これが弁証法です。 具体的に考えてみましょう。 A「焼き鳥は塩がうまい」 B「いや、タレの方がうまい」 そこで「塩だ」「タレだ」と言い合っていたら、平行線をたどるだけです。 ここでAの人は別の視点を持ってきます。 A「塩の方がカロリーが少ないから健康にいい」 このときAさんは最初の「塩がうまい」という主張から、より人の賛同をえられやすい主張へと転換しています。この転換を「発展」ということができます。 このように、まず、あることがらについて最初の分析をおこないます。…「テーゼ」 つぎに、それに反対する意見が出てきます。…「アンチテーゼ」 ここからこのふたつの対峙するテーゼを包括できるような第三のテーゼが生まれてきます。これを「ジンテーゼ」と呼びます。 あらゆるもののなかにこの弁証法の構造は隠れています。 わたしたちは、たとえばプレゼンなどのようなときにも、自分の考えを煮詰めていく段階でこれをやりますね。 最初に主張すべきことを考える。それに対する反論を見越す。反論に応えられるように最初の主張を練り直し、反論をも含んだものにしていく。 あるいは恋愛ドラマでも同じです。 主人公は恋に落ちる。 その恋を妨害する出来事や人が登場する。 障害を乗り越えて主人公は恋愛を成就させる。 →そのとき、主人公はかならず人間的な成長を遂げています。 テーゼはアンチテーゼの登場によって、より高次のジンテーゼへと発展します。 これをヘーゲルは「止揚」(しよう)と呼びましたが、まあ用語はどうでもいいことです。 こういう関係を「弁証法的発展」といいます。

akiaki_s
質問者

お礼

参考例が身近で分かりやすかったです。 誰かに説明をするときの方法として使わせて いただきます。 有難うございました。

その他の回答 (3)

noname#76141
noname#76141
回答No.4

 NO3ですが、NO3はやや変だったかもしれません。  ですので、それ以外も追加します。  けど、これも少し変かもしませんので、あしからずお願いします。 D (1)平安時代後期、固定化された既得権益身分者社会を打破すべく、武力という能力により台頭して行ける社会に (2)長年の戦乱動乱に疲弊した世の中は、安定を求め、江戸幕府統一以降、士農工商の身分制や鎖国の下で一種の安定した社会を現出 (3)鎖国をし安定していた間、外国との技術国力の差が歴然とし、開国。更に身分制→四民平等とし、武力ではない様々な能力により誰でも道を切り開いて行ける「機会の平等」的社会実現を目指す E (1)歴史的街並の観光客への利便のため、配電盤設置の必要あり、と提言 (2)歴史的街並の景観に不適切だから設置反対との意見続出 (3)歴史的街並の景観にも合うように、昔の「蔵」を外観として中に配電盤を設置することに決定。

noname#76141
noname#76141
回答No.3

 私的見解かもしれませんが、人生事例(あくまで例)としてです。 A (1)能力優秀新人社員が優秀な仕事ぶりをアピール実現して行き、毎日得意で楽しかった。 (2)そのうちアピールすればするほど、周囲が引くようになり、なぜだかわからず焦燥・不満の果てに一人落ち込み、内向的になった。 (3)自省する内、「自分は他者より より賞賛を得たいために能力誇示に躍起になっていたが、それは他者にとってみれば嫌な気がしていたのだ」「新入社員で何もわからなかった自分を一から教えてくれたのは先輩方だった」「自分の能力だって先人から教えて頂いたことの賜物だった」「仕事とはお客様に喜んで頂くことこそに喜びがあるはずだ」、と、こうしたことに気付き、以後、その能力をお客様に喜んで頂くため、先輩方の力になるため、に発揮して行こうと決心し実行して行ったところ、自分も他者も幸福になる展開となって行った。 B (1)生来健康な上に学生時代スポーツをしていたので健康には自信があり、就職後、毎日残業と酒席の付合を続け、出世続きで順調だった。 (2)突然発病、入院、離職で挫折。 (3)健康のおごりがあったことに気付き、反省し、治療に専念し、回復し、自分に合った職場へ再就職し、以後は健康に配慮しつつ充実した日々を送っている。 C (1)王様として奴隷をこき使って自由気ままに暮らしていた。 (2)暴動が起き、捕虜となり、こき使われた。 (3)王様時代の知識等が必要な事態が生じたため、再びそこそこの地位に就くことになったが、今度は人々が幸せな暮らしを送れるように心をくだき、人々からも慕われて、幸せな国となって行った。 以上、「正→反→合」として展開する人生模様を書きたかったわけですが、不適切だったとしたらすみません。あくまで参考までのつもりですので。

  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.2

「弁証法」で検索すると、なにかわかるのではありませんか? 文脈のなかで、自然科学(理系)の文章のなかでは、物質の自己運動が、永遠に循環するだけでなく、生成、発展、消滅をくりかえすということ。量的な変化がある程度蓄積すると、質的な変化になることがある。その新しい質のなかで、以前より著しい量的な変化がすすむこと。 対立物の統一と闘争、物質のなかの矛盾が、運動の原動力である。否定の否定、たんなる破壊ではなく、新しい質の中で古いものがよみがえること。 人文、歴史などの文脈のなかでは、自由な意思をもつ個人の集合である社会のできごとに、科学や法則がなりたつのか?という疑問がでてきますが、歴史のなかに、生産力の発展と所有関係の変化がみられるなど、すこし複雑な、弁証法があるようです。 「弁証法的な発展」というとき、ふつうに「発展」と理解しても、間違いではないでしょう。「弁証法的」=「全面的、すべての連関、らせん状」。著者の気持ちをくんであげてください。

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