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偽善は何故「悪である」のか?そうなら一体どうしろと言うの?

しない善よりする偽善という発言もありますが、大体偽善って悪く言われる気がします。 何故でしょうか。 自分の心が綺麗だと思い込んでいる? 自分の名誉のために人を利用している? 綺麗なことは綺麗な心でしなければならない? それとも、全ての人は綺麗な心を持たなければならない? ?? でもここでまた一つ疑問。 心は個人の力ではどうにかするのはかなり難しいと思うけど、じゃあ「偽善者」は一体どうしたら良いのでしょうか。 そういう意見はあまり見かけません。 頭で分かっていても何もするな? やり方が売名的で、そのやり方を変えろ?(チャリティーイベントについてなら、こういう発言は見たことあります) 以上、些細なヒントでも下さるとうれしいです。

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  • ecoshopQ
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回答No.2

偽善は確かに悪ですが、なぜ悪かといわれたら、 それは裏切りがあるからでしょうね。 全に見せかけた裏切りは最大級の悪といっても いいでしょう。

noname#68602
質問者

お礼

お答えありがとうございます。 人への偽りという事ですね。 想いが込められていると思った、心のキレイな人だと思った、でも違う・・・と。 うーん。ならば偽善ですよ、買い被らないでねと言って行動するしかないかな。

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noname#84124
noname#84124
回答No.19

「しない善よりする偽善」うまい言いまわしですねwなぜか「亀の甲より年の功」という言葉を思い出しましたw ありがちなことかもしれませんが、こんな話がありました。 ある男性に恋愛感情としての好意を持たれた女性(仮にA子さん)が、どうにも、その男性の好意に報いる気になれず、交際の申込だかプロポーズだかを避けるため、自分の親しい同性の友人を、その男性に引き合わせ、言わば仲人口めいた世話を焼いてみたところ、蓼食う虫も好き好きと言うのか、存外に話が進んで、友人の方が、その男性と結婚することになりました。友人は「すばらしい良い男性を紹介してもらった。あなた(紹介したA子さん)には、とても感謝している」との喜びようで、そもそもは厄介払いとも言えるような動機で引き合わせてみたに過ぎないA子さんは内心複雑だったそうですが、まあ要するに何が幸いするか、何が善行になるやら、、ということですかね。もちろんA子さんの動機が純然たる善意でないことは確かです。でも何が問題になりますか? もし問題化するとしたら、どんな場合が考えられるか。 友人夫婦が結婚生活の途中、険悪な情況になったりして、その時A子さんの本心を知ったとしたら、あるいは恨まれることになるかもしれないけど、それは元々純然たる善意でしたことであっても結局同じことです。 よく指摘されることですが、善悪に普遍はないということになりますか。とは言っても純然たる「善意」そのものは、混じりっ気なし「善意」そのものです。 問題になるとしたら。 善行、善意からの行いであると見せかけ、あるいは宣言し、「だから善行を行った自分に対して報酬を与えよ」と強要する場合です。 これは、本人自身が善意からの行動であると信じて疑わない場合であっても大いに問題化するでしょう。 逆に「報酬の強要」がなければ、そもそもの善意を問う必要すらないはずです。 実際、目の前で切羽詰まった者がいて、本当は手を差し伸べたり関わるのは気が進まないのだが、立場上とか、その場に居合わせてるのが自分だけとかで渋々、、ということもありますね。それは確かに偽善なんでしょう。しかし知らん顔するよりは、ずっとマシなこともあるのも確かです。 だけど、こういう場合に、有形にせよ無形にせよ事後の報酬を与えろと要求することがあったら、どう思いますか? 自分にとって大切な者を助けるのは、ごく自然な気持ちで行うでしょうし事後に恩着せがましい強要もないでしょう。なぜなら、その行為は自分のためでもあるからです。 そういう気持ちでもなくて渋々とか何かしら利益を求めてのことなら口に上せてしまった時点でアウト。自分から白状するようなもんですが、たいがいは無自覚ゆえです。大声で宣言し強要する者は、そのへん気づいてないか、もう一捻りして、気づくこと自体を避けているかもしれません。 自分が、いかなる真意のもとに、それを行ったか。善意であったとか、なかったとか他者に知ってもらわなくてもよいことです。おのれが分かっていればよい。また、その行為が純然たる善の心から発したものでないことを自分で分かっていれば尚更、自ずと口をつぐむはずです。 つまるところは、事後に、どういう言動、行動をとるかで遅かれ早かれ、いずれ分かってしまうことなんです。要するに 「偽善者」であると自覚する。したなら「(いかなる形においても)利益、報酬を強要」しない。これで大きく問題化はしないで済みます。 (善意のはずが見込み違いで、、というのは、また別の次元になるんでしょう)     

noname#68602
質問者

お礼

ありがとうございます。 結果よければ良しと云いますが、その例ですね。 人の縁はどこにあるか分からないと友達が言いましたが、それも思い出しました。 報酬を強要したら状況を悪用した汚い行動と言われるでしょうね。 善意か悪意かって個人的なことなのかな。

noname#80116
noname#80116
回答No.18

 すでに注目すべき回答が出ています。  ★ チャリティーイベント  ☆ は 善なのでしょうか?   あるいは 主催者や参加者はそうすることが 善だと思って おこなっているのでしょうか?   《慈善》という表現から 一般の人びとにとっては それは 《善》だということになっているのでしょうか?  《慈悲》という言葉を出せば それは 善人ということになるのでしょうか? 多少は 偽善だが 根は《仏性》の働くところとして 一般に基本的に 善人であると考えるのでしょうか?  善と悪とは すでに 決まっているのですか? 誰もにとって 分かるように決まっているのですか?  もしそうだとしても 仮りにそうだとすれば 偽悪が 実質的に 善の行為だと認められることもあるのではないですか?   もっと言えば 善だと誰もが認める行為が じつは 悪だったという事例だってあるのではないでしょうか? ないでしょうか?  すべて 相対的なものごとであり すべて 相対的にして互いにどうだということも言えないことがら なのではないでしょうか?   悪 でさえ 関係として 生じる側面も あるかも知れません。悪は悪ですが その当人が 大きな善だと思った人がいたとします。その人に対して ほかの皆が それは 偽善であるとして 疑っているのを見て取ったとき いや それは わたしの見るところ 大善である それじゃ そんなに疑うのなら わたしがその人間に対して試みてみよう という経緯から 悪を 試しにおこなってみるということも あり得ます。  善悪を気にして生活をするというのは 宗教家の世迷いごとに惑わされているだけです。ひとえに ただ それだけのことです。  仏性と言うのなら われらが一人ひとりの心に 善は しっかり坐っていることでしょう。何を 偽善だ悪だと騒ぐのでしょう。  もともと わたしたち市民は もっぱら公共の職務に就くえらい人たちと違って 表と裏の二重性は なかった。和を以って貴しと為せと言われなかったら 和を乱すことさえ 知らなかった。  多少の隠しごとをし それにまつわる悪をかかえていただけです。暴露すれば 生きていけないから 隠しているだけです。その多少の悪があるから 大きな悪をかかえる人と同じように そう言われれば あぁ やはり わたしも 偽善者なんだなぁと認めるというだけのことです。  自信を持ってください。鳩のように おとなしく 蛇のように かしこく。  些細なヒントでした。

noname#68602
質問者

お礼

ありがとうございます。 善悪なんて決められない灰色って事ですね。 この質問も世迷いごとかな。

回答No.17

ANO13です。 お礼のコメントを見て、 言葉が足りなかったと思いました。 (1)福(経済的豊かさ)には、感性を豊かにするためのゆとりの世界があり そのぶんのそのチャンスが大きい。  (2)感性が豊かになれば、其の分 福によるゆとり自体よりも、さらに自然な善の心のゆとりが大きく生まれる。 →偽善の心にはならない。 このうち(2) が回答したい内容の主軸でしたが、 1も 私たちの心に大きくあることなので、  そのへんを付け加えたため、 主軸の方の説明が中途半端となってしまった回答だと思います。 ほんとうは、この感性を豊かにする教育や そういう教育の機会均等が大事だと思います。 そうすればその分、私たちは偽善者の心を持たずに世の中を生きてゆける可能性が大きくなります。 しかし、そうではない、かつきびしい環境の中では、 まずなんであれゆとりを持つということが必要となってしまうので、 できるだけ悪はさけつつも、 また多少冷たい心であっても自分のためにも偽善(心にも無い善)をも 商売とか人にこびたりする必要の中で 認めてもしかたのないこと。 認めざるを得ないこと。 大きく自他を許すしか 前に進めないこと。 そんなふうに認識していただきたかったことです。 そういう時に、あまりに、自分を責めたら、善による福の道、人間関係の修復の道とかも閉ざされてしまいかねない。 ということを(1)では、述べようとしています。 >心は個人の力ではどうにかするのはかなり難しいと思う…< 個人でも できるだけ大自然、木々や森や川や海辺とかに遊びにいったり、すぐれた音楽や歌に触れたり、ゴッホとかの絵を静かにながめたり、できるだけ心の通いあいのある恋をもとめたり、 等々の努力の中で、貧しい人もそれなりに、多くの努力はできると思います。 でも、 そのへんの正しい感性教育のボランティアとかが増えてほしいと思います。 たしかに、そのへん個人ではそれが難しい時の流れが、この忙しい、また森と離れた現代人の中には多々あると思います。 その中で、自分を正直に見つめると偽善の心がいろいろな場で見えてきてしまったりもすると思いますが、 たとえば、大きな心の神とかは すべてわかっていますよ。ということです。 考えすぎる必要はなく、 いっしょうけんめい出来るだけのことをするという感じでいいのではないでしょうか。ということです。 >自分の心が綺麗だと思い込んでいる?  ↓↓↓ 自分をできるだけ客観視して自分の弱さも強さも知っていれば、そういう思い込みから開放されると思う。 >自分の名誉のために人を利用している?  ↓↓↓ 名誉欲のある間は(充分な感性で充足していない間は)、その欲望ともうまく付き合っていくしかない。 これが悪といえるような偽善とかにつながってしまうときもあるけど、それだけ気をつけてれば、それは進歩とか福への道とかにも大きく力になるエネルギーともなったりするのですからね。 >綺麗なことは綺麗な心でしなけれがならない? ↓↓↓ それが理想ですけれども、そのへんあせると、おかしなことになりそうだということの説明をこの回答でしているところです。 >それとも、全ての人は綺麗な心を持たなければならない? ?? ↓↓↓ それが理想です。    でもゆっくりと進むしかない。 無理しないで。 それが理想です。 ということならば、 キリストは 「何か善いことをするときには、右の手でしていることを左の手にさへ知らせてはならない」と言って、善いことをするときには完全に無心は利他の心(綺麗な心)であるべきだと言っています。 同時に「善は 棚の高いところで輝かしなさい」というふうにも 善はどうどうと進めていくべきことも語っています。 私たち凡人は この矛盾の間を迷いゆれてしまいます。 綺麗な善は いつかは求めるべき理想。絶対に。 でもすぐには無理であるのであれば それに向かって すこしでも自分を磨いていくことしかできない。 前進あるのみ、これしかない。 ただ、その時に、無理をしたら、へたすれば さらなるあり地獄へ落ちてしまう可能性があるのでは。  ということなのです。 ごめんなさい。  なかなか うまく書けませんでした。

noname#68602
質問者

お礼

再びありがとうございます。 やはり善の心が無いことは好ましくない。つまりその為に情操教育や自分を見つめなおすことが大事と言うことですね。 あまり自分を責めると、ただの人格否定になってしまいそうですね。よく言えば自分に厳しいと言うことだろうか。

回答No.16

ANo.9  わたし:難しいのは考えるからでしょうかね  あなた:善に奉仕の心を求めるとしたらそれは理想論でしょうかねえ。  わたし:理想論て不可能か?ってことかしら。そんなことはないのではありませんか?  あなた:とりあえずやってみろってことで。  わたし:とりあえず、も、 みろ、も不要にした方がいいのでしょうね。  あなた:善悪って人それぞれですよね。どこまでがまずいのか。  わたし:それぞれでもないですよ。どこまでも許されるし、どこまでも完全ではないと存じます。そしていつの間にか完全になるのでしょう。  あなた:心の中まで美しさを求められるか否か。  わたし:そうです。欠片(かけら)の汚れも全体を汚します。      だから余計なことは考えないのだと存じます。

noname#68602
質問者

お礼

再びありがとうございます。 理想論とは、不可能ではないかという事です。下のほうで、心は変えられると言う意見も出ていますが。 (そもそも、私がこの質問をしたきっかけはそこへの疑問です。 「偽善を非難する人は、涅槃に達してない、同じ血の通った人間に対し、理想の精神を求めるという”無茶”をやっているのではないか?」と) つまり積極的にガンバレってことですね。

回答No.15

根本的な事言えば善・悪なんて無いものだから、あまり気にすること無いんじゃねーの。 まあ、そう言うと誤解が有ると困るので。別の見方で言うと。 (1)(悪意を持て行う悪行)より(悪意を持って行う善行)の方が行い的には良いじゃない。 (2)(悪意を持たず行う悪行)より(悪意を持って行う善行)の方が行い的には良いじゃない。 (3)(善意を持って行う悪行)より(悪意を持って行う善行)の方が行い的には良いじゃない。 はっきり言って「善」と「悪」は、見方や立場によって違ってくるものなので偽善にこだわり悩むよりも、もっと本質的なことに意識を向けるべきだとおもいますよ。世の中とてもグレーですからね。 

noname#68602
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 行い的には良い、それ以上でも以下でもないと言うことですね。 本質的ではないとも考えられますね。

  • fuwapoyo
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回答No.14

偽善は善ではないけれども悪とも限りません。いえ、偽善もたいへん結構です。偽善であるチャリティーもたいへん結構です。しかし、偽善者は悪です。 偽善者は、自分が偽善者であることを認めません。自分は他人とは違い善人であり悪事は為さないと勘違いしています。悪事は為さないと勘違いしているから、悪事を為してもそれを認めず当然、正当化することばかり考え、反省したり改めようとしたりしません。また、他人や社会のことは自分と違い悪であると見るようになり、非難したり責めたりします。これにより、自分は善で他者は悪であるという思いが悪循環となり、ますます偽善者の独善的精神が増強されます。 ただし、本人は自分は偽善者であることを認めず、善人であると思い上がっていることも認めません。なぜなら偽善者は、自分は善人であると勘違いするような悪人ではなく、自分は悪を為すことを認める清らかな心を持っていると勘違いしてもいるからです。しかし、自分の悪は認めようとしません。自分は善人だから悪事は為さないと信じ込んでいるからです。 偽善者は自分の悪や悪事を認めず、しかも正当化し、反省することがないから、自分自身を戒めようとしません。故に必然的に悪事を為すことが多くなります。 だから偽善者は悪です。善人ぶったイヤな偽善者、多いいですね。 自分は善人ではなく悪事も為すと気が付けば偽善者ではなくなります。自分は他人とは違うと思わず、他人とあまり変わらないと気が付いている者は良識のある人です。 偽善者はまず、自分は善人であると勘違いしている偽善者であると気付き、認め、そして悪人に見えている他者のことを自分も変わらないと認め、他者を悪く見ないことです。 まず、自分の正体に気づくことです。

noname#68602
質問者

お礼

お答えありがとうございます。 偽善者の偽善の心は、独善に繋がると言うことですね。 自分の心への欺瞞でもあるかな。 要するに冷静に見ていれば良いわけですね。

回答No.13

仏教の十界論とか十界互具論とかにて(この論自体の説明は、何しろ昔流のめちゃくちゃな心理分析ですから、 その真意を説明するのが、たった10の簡単な言葉とそ組み合わせの世界でも 私流の説明はかなり長くなってしまいます。)  9界、と10界の部分が、 9回→菩薩界(善をする人)であり、其の上が10界→仏の世界ということですから、   そのへんがこの質問に対応してるのですが、 はてさて、 菩薩界には、塵ジャ惑(ジンジャワク)(漢字は正確でないです。)とかいう無数の迷いの世界がある とされているのですから、 これははるか昔から 「誠実な仏教」の世界とかでは toby776さんと同じように迷い悩んでいたことだと思います。 でも、[仏界ではそれがなくなる]ということだけでは、 どうしたらいいのかは結局わかりませんよね。 仏教では、ここに信仰の必要を持ち出しますが、わたしは謙虚であればそれでこのへんはいいのだという考えです。 しかし、肝心の この迷いについては? この問題は 一度このように考えないと 確かに複雑になるだけだと思うのですが、 その考えをここに書いてみます。 ↓↓↓ 忙しい生活にゆとりの無い時、感性もなにかすっかり感動とかしなくなって乾いたみたいになってたとき、 わたしは、たまたますっかり疲れて川原にどてっと何時間もねそべっていたことがあります。 最初は こんな時ですから、川のせせらぎの音も何もあったものではないでした。  何にも聞こえていないようなものでした。 しかし、やがてその音がだんだん 心地よく聞こえるようになり、 えっ なんなんだ?と思うぐらいに、 そのうちには心を癒してくれるように感じられるようになり、      すると、 川のせせらぎの流れも 細やかなその光具合が目にしみこんできてこれも こころを静かにやすらげてくれることに気がつくようになりました。  その時になって 私は始めて 今度は青い空と雲がひろがっているのが どんなすごい豊かな世界かをも感じ始めます。  ねそべって上を向いていながら何も見ていなかったかのような感じだったわけです。  いやあれは確かに そこにいたる数時間までは空も雲も見てなどいませんでした。  網膜には映ってたでしょうけどね。 私たち文明人は 森の中の生活を離れて久しいわけです。 人間が猿から進化したばかりの頃、人間の脳が捉えたのは「自他を見つめる目」なのですが、 それがゆえに反省し進歩できるようになり 言葉とかも獲得したのですが、 最初にあったその能力の内には、感性もまた同時の進化したという論理が私の中にはあります。 其の詳しい説明は省きますが、  ともかく、 その時人間の脳は、素朴で無邪気な子供たちのように新鮮に 川の音や風の音、やその風に揺れる草や花とか、大地のあらゆる光とかを細やかに感じる脳力も、猿よりはるかに進化したものを最初から感じていたのです。   星を見て 始めて あ星だ、すごい!と目と目を見交わしあったのです。 動物のゆとりの無い状態には無かった世界であるはずです。 人間意識でもある世界です。 仲間としての意識は身を守るためのゆとりなんて無い状態の意識ですが 人間は最初それを超えた意識も新鮮に持つにいたっていたのです。 というより、誰でも本来今でも人間は 「「「幸せの可能性」」」をその孤独にてもその交流(目と目 心そのものと心そのもの交流)のどちらにおいても、持っているのです。 その「「「幸せ」」」の感性面と 生物としてのゆとり(経済面)との両方が もっともっと検討されるべき問題、これが この偽善についての解決には必須の問題というふうに 頭を整理してみてください。 そこまで いろいろ客観視してさへも、 生物的にゆとりが無さ過ぎる時には、心の面では、別に人が苦しんでいるのを知っても何も感じないとかとか、そこにそれでも善はすべきなのかとかとか   ね。 そういう問題がどんどん、事実として出てくるわけです。 で、ここで「積善の家には福あり」ですか、ともかくそういう点を考察してみましょう。   心が偽善だって、善をたくさんしてけば、信用されるようになり商売もうまくいくようになり その元手も増えたり、仲間も増えたり、生物的にはまさに 福というゆとりが積まれてゆきます。 幸せがそれだというのではなく、其の可能性というのがかなり増えますし、そしてよりすこしは偽善だろうと、心まできれいな心で善が出来るようになります。  ゆとりがあるだけの分はということです。 積善があっても かならず裕福になるわけじゃないです。 でも裕福じゃなくても、もちろん本物の哲学が豊かなら、可能性としては 心には深いゆとりが生まれうるのが人間です。  そのゆとりの分だけ 偽善者でない善者ではありえます。  がゆとりが無い分だけ、 心には名誉によって 心の穴を埋めたくなる心も生まれます。   たとえ、それを客観視して自然な愛をすでに持ってる人も どうせ生物であるかぎり 程度の問題です。 仏陀がどうだったかは知りません。たぶんまったくいつでもきれいな心であるのでしょう。 でも このさいそれはお釈迦でいいんじゃないですか? 大きな爆発するような偽善者、大嘘つき、大きな争いや苦しみを生み出してしまうようなそんな固まった心にならないためにも、  ふつうの偽善者ならそれでいいのじゃないですか?   最初は自分のため それでいいじゃないですか?  そうすると人間が信じられなくなるような考えに陥っている人もいるのでしょうけど、   ここまで考えても、 そうですか? すっきりするための ヒントになるとうれしいです。

noname#68602
質問者

お礼

お答えありがとうございます。 偽善者でも良いわけですね。それで、福が生まれるし、感性も豊かになると。

回答No.12

「しない善よりする偽善」。これは古くからあることわざのようなものでしょうか。基本的には共感します。 社会性を帯びた事柄については、私の得意分野ではありません。またすでに回答が寄せられてもいますので、もっぱら個人の心理、心についての考えを述べてみます。 回答の中に「偽善も本物の善に変わることもある」と言う言葉がありました。私はこれを、‘時間の経過と共にいつの間にか’とか‘他者との関係において’と言うことでなく、‘自身の努力によって内面が変化する’として捉えたく思います。 それは、人の心は使うほどに育つもの、と言う考え方をしているからです。 肉体は使うほどに発達します。例えば、腹筋運動が三、四回しか出来ない人でも、一週間も続けてみれば七、八回は出来るようになります。そのときの三、4回目は苦もなく通過してしまいます。筋肉が付いたのですね。 偽善と思ったり、また他者に思われてしまうような行為でも、しないよりしたほうが良いでしょう。 始めのうちは偽善ではないかと、自分を責めたり、迷ったりするのが自然ですが、それでも、し続けていると、いつの間にかそのような行為が当たり前のこととして、偽善と言う言葉を思い出すこともなく、行なえるようになっています。 好ましいほうの心が育ったのではないでしょうか。 個人の心の問題としての枠の中での偽善(ちょっとうまく言えませんが)と言う心理について、心の‘性能’を述べてみました。 それではなにを持って、善的行為と認めるか。と言う問題が頭をもたげてきてしまいますが。 断定口調でごめんなさい。

noname#68602
質問者

お礼

お答えありがとうございます。 心も変えられる、だからまず行動すべきだという事ですね。 クヨクヨするななどの自己啓発の本も色々出ていますから、出来るのかもしれません。 (子供を虐待して殺してしまった人間は、心を変えられなかった人という事なのかな) しない善よりする偽善は、検索した所、比較的新しいスローガンのように感じます。

  • yukigle
  • ベストアンサー率14% (9/63)
回答No.11

一: 自分の心が綺麗だと思い込んでいる善人ぶった者が、普段悪い行いをする者に対し、突如善い行いをすると、偽善者呼ばわりするからですよ。逆に、普段善い行いをする者に対し、突如悪い行いをしても、偽悪者と呼んで善人扱いします。 何故だか、始めから善悪一辺倒。善い行いをしていようが所詮あいつは悪者と決め込んで、裏を反せば、悪人を認定することで、自分は善人だと、自己アピールしているのです。おそらく、悪人をかばうは、自分が汚れるとでも思い込んでいるのでしょう。 故に、自分の名誉のために人を利用しているといって、過言でありません。そうはいっても、他人からみたら、自分で自身の名誉を毀損しているのでしょうけど。 二:  こんな出来損ないな人間に、一度偽善者の烙印を押されたらもう大変。更生への道を勝手に閉ざされてしまいます。そこで、心無い発言には、一切意見しないが肝要。改心さえあれば、そもそも偽善者でありませんし、偽善者と呼ばれようが善を見据えていますので、善人へ道が開けます。 いわば、偽善者呼ばわりする者が正真正銘の偽善者であり、真の極悪人と呼ぶべきですね。

noname#68602
質問者

お礼

お答えありがとございます。 先入観、決めつけって事ですか。 目に見えない部分の話ですものね。難しいですね。 そういえば、偽善否定派の方は善を行う上で心と行動が一致する自信はやっぱりあるのかな。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.10

「悪いことをする。」 「悪いことはしない」心では悪い考え・感情 「悪いことはしない」心でも悪い考え・感情でない 「善いことをする。」心で善い考え・感情でない 「得るために与える」 「善いことをする。」心で善い考え・感情であったほうが良い 「与 え て 得る」 「与 え る だけ」 大体こんな感じで、出来る限り↓に向かってやったほうが良いでしょうね。心を徐々にきれいにしていく精進も大事でしょう。その精進のうち外面で見えるものを見て感情で非難するなら非難する人はその程度の人格なのでしょう。 へんてこな実行不可能な理想主義のを押し付ける方々は結局何も出来ない・しない人でしょうから。そんな人の批判は無視して構わないものと思います。 自分の理性で考えて、自他に役に立つことを出来ることを吟味して、そこからやっていくしかないのですから。気にせず出来る範囲で進んでやれば良いと思います。

noname#68602
質問者

お礼

ありがとうございます。 やはり心もキレイであるべきだという事ですね。 心がどこまで自力でどうにかできるか、その考えで理想主義かどうかの判断が分かれそうです。(一方的な非難だと感じるものはあります) 精進とも考えられますね。そうしようとして批判されたらどうしようもない。