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所有とは 何ぞや?

 私的所有という概念および形態を揚棄しうるか? これが 質問です。  例によって 前口上を述べます。まづ わが日本人の昔の民俗を聞いてください。極論をたたき台にしたほうが 回答=議論が進むと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  狩猟や漁撈の獲物の配分を南九州から奄美・沖縄にかけてタマスと呼んでいる。ひとタマスといえば 一人分の分け前のことである。  ここで興味があるのは タマスは当事者だけに与えられるものではないということである。狩や漁の現場にたまたま居合わせた者もタマスにあずかることができる。それを《見ダマス》という。見る者に与えられるタマスのことである。  ・・・  狩人や漁師が獲物を 惜しみなく 平等に分配するのは それが神から授かったものであり 独り占めする訳にはゆかない という考えが根底にある。そこで 漁の現場で獲物をくすねることも大目に見られた。瀬戸内や九州に多く これをカンダラと呼んだ。  (谷川健一 →さらに詳細は 《QNo.3994017 :われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3994017.html 》のNo.29補足欄をどうぞ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  簡単には 個人的な所有ではなく さりとて 国有ではなく また 社会的所有でもなく 《個体的な所有》と呼んでみます。個人としての私有財産という概念 これを基礎として それに 同時に 《関係的な所有》という概念を 絡ませます。経済的な成果の半分は 関係的に・総合的に みなの業績によって もたらされるという考え方です。これは 非現実的な思想でしょうか?  なお 聖書の中で 《ぶどう園の労働者》(マタイ20:1-16)というくだりがあります。よろしければ これも参照してください。→前掲《QNo.3994017 :われわれ日本人は・・・ = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3994017.html 》のNo.34補足欄をどうぞ。

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回答No.7

>勤勉志向が 鍵でしょうか。 それだけでは、足りないのです。先日、テレビ東京系列の番組「カンブリア宮殿」で補装具会社を取り上げていました。どんなに良い商品でも補装具だけでは利益が出ないので、ある特許商品の利益を舗装具事業の方に注ぎ込んでいるということでした。つまり、生産側の勤勉だけでもだめで、顧客満足度優先のみでもだめで、支持される、あるいは、制度や組織を支持できる仕組み造りができたかどうかなのです。封建制度でも、株主資本主義制度でも、支持されていたのか、支持されているのかどうか次第なわけです。支持できない制度は崩壊するだけです。支持できるように制度設計する。ここに設計者の社会的な使命があります。だから、その設計者は、すばらしいと思われます。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  むつかしいですね。と言いますか もともと むつかしいのでしょうね。  ★ 制度や組織を支持できる仕組み造りができたかどうか  ★ 支持できるように制度設計する。  ★ 支持できない制度は崩壊するだけです。  ☆ けっきょく 《制度や組織》と言うのは 企業内外の経営にかんする事柄のすべてなのでしょうね。やや思い入れをしたかたちで 《勤勉志向》は その土壌といったところなのでしょうか。したがって  ★ だから、その設計者は、すばらしいと思われます。  ☆ というのは こうなれば むろん 土壌たる従業員(あるいは 仕入先なり得意先なり 結局は 最終消費者なり)の支持を得て組織を動かす経営執行者・中間管理者を含むということでしょう。  たしかに そうなれば 《所有》ということは 企業内外にわたって 総合的にして かつ 動態の過程であると捉えられて来ます。  《関係的所有》という側面も 現われているように思われます。法律条文に規定されていなくとも 《ならわし(エートス=人間類型)》の中に 刻まれているとさえ 思われて来ます。  ということは やはり 人間の問題に ひとつの筋としては なってくるようです。    少しづつ 歩んでいけるようです。  ちょっと 我田引水なのでしょうが さらに 行けるところまで この所有の思想にかんして 広くみなさんともども 進めてまいりたいと思います。

その他の回答 (16)

回答No.6

たとえば、偽装は一般的に支持されない行為です。でも、一部の人が感覚的に麻痺していて、偽装命令を発します。周りの従業員も渋々従いますが(従うから従業員なわけですが)、その偽装が続く限り、それはそこでの慣習であり、制度です。しかし、発覚しそうになったときでも、慣習や制度から簡単に人は脱し切れない弱さがあります。隠蔽しようとするのです。一部の従業員の責任にして組織の存続を画策する者までいます。慣習や制度は、その組織の肉となり、骨となっていますから、簡単な手術では対応できないでしょう。組織の瓦解で決着となります。 信頼関係は、一部で裏切られています。全部かもしれません。 漁村的な状況ではなくなってしまいました。市場、経済、社会はモンスターになってしまいました。モンスター(慣習や制度)の統御とは、支持と不支持の集積です。不支持の表明によって麻痺を正すだけだと思います。そして、支持されたものだけが残っていくと思うのです。ここのめりはりがないと、麻痺が拡大しますから要注意です。 かなり脱線しました。失礼します。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答を寄せていただいてありがとうございます。  もう少し粘ってみようと思いました。  偽装共同体(その支持・不支持;権限関係における命令の授受関係)  ←資本の論理:貨幣的な側面に傾斜した信用関係の論理  ←人間全体としての信用関係  ←信頼関係;人格全体をとおしてのおつきあい  ←個人どうしの孤独関係  問題は 分業=協業ですね。分業しあっているということは 自分の作らないものは 他者に任せていますから そこに疎外関係があります。これを 信頼関係で補うわけですが あたかも 生産者(会社)が みづからタコ壺となってのように 一部において 偽装共同体を作ってしまう。隠しおおせたなら もうけものとでも考えるのでしょう。(そうしなければ 競争に耐えていけないという理由も あるのでしょうか)。  それにしても 世の中 モンスターばやりですね。  一点突破の如く 何かないかと思ったりします。地道に良心的にあゆむこと つまり ふつうの勤勉志向が 鍵でしょうか。  考える対象としての範囲が 世界という領域に広がっていますから 厄介でしょうね。

noname#117439
noname#117439
回答No.5

毎日母親にご飯を作ってもらっている身の上としては、その愛のこもった恩恵に誰かしかの個人所有を起草するわけには行きませんね。 生きていくためにもっとも必要なものが実は財産ではない。 飢えた記憶のない現代人としては古代にこのような風習と信仰があったのは尊敬に値します。 やはり人間とは奪い合い貪りあうものではなくわかちあうものなのですね。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  そうなんですよね。そうなんですが ここへ来て どうも 制度として考えるのは 法律論に立ち行ってしまって ここでは 馴染まないようですし 慣習としても 希望を空想として出すことで 満足しなければならない。・・・ように思われて来ています。  でも 方向性としては 打ち出せるとも考えます。空想としてでも 出し合っておいてもよいと思います。  個人所有を規制するのではなく 所有権を制限するのでもなく 個人の自由意志を最大限に活用しつつ 相互の自由な連携を図っていけるような思想を まづ 考え出せればと思います。  ☆☆ カンダラ / タマス  ☆ は 谷川の子供時代ということで二十世紀の出来事です。  このような大きく方向性について わたしは 非現実だと思わないのですが どうも 一足飛びにどうにかなるものでもないように思いました。いま現在からの一歩は どうかというように 見通しを立てておくものでもないと思いました。  むつかしいのだと思います。  どうなりますか。  こんなかたちにてですが。

noname#80116
質問者

補足

 No.4補足欄の独り言を受けて 質問趣旨を補います。  そもそも 経済活動は 人間がおこなう。モノやサービスの生産・供与が 社会的に分業=したがって協業するかたちで 営まれるようになってからは モノやサービスの安全や品質にかんしての保証は 人間と人間との信頼にもとづくのが 基本である。安全性が信頼関係にもとづくということは その安全の確保や証明から 当の商品それぞれの生産関係者以外の人には 互いに 疎外されているということである。  人間どうしの《信頼》関係が より一層経済行為に傾斜しモノに即したかたちの《信用》となれば たしかに資本主義の世の中になる。逆に言いかえると この資本というのは 単純に 資本関係のことであり 信用関係に基づいており そのまた基礎は 信頼関係である。友情関係であれ あるいは けんか仲間であれ 人間どうしの関係である。  つまり 人間どうしの社会関係が 資本そのものである。  この資本を どう見るか / どう取り扱うか / その所有行為ということは いったい どういう内実として 成り立っているのか。  所有権という場合 それは そして その主体である個人も 大きく 資本という社会的な関係の中にある。さすれば 個人の独立主観〔としての自己表現の自由〕も 関係性としての社会的存在性を みづからの内に宿している。その限りで 所有は 個人的所有であると同時に 関係的所有でもある。まとめて 大きく 個体的所有である。(もう少し ふさわしい命名はないものか)。  この思想の妥当性如何。そして その現実性如何。  これについて ささやかな質問としての訴えながら いま少し みなさんも ご見解を明らかにして ご投稿をいただけるなら さいわいです。

回答No.4

《カンダラ》という「ちょろまかし」を容認する水揚げ現場の「おおらかさ」は、ナポリ辺りでも、ジャカルタでも、世界中、どこでも多少はあったのではないでしょうか。海洋圏に共通の民俗と言えたと推定します。 >所有権の特例としてのごとく 困窮者には 初めから 部分的に・社会関係的に 所有権が 与えられているというならわし(エートス)のことです。 扶助的な分与は、原始共産制幻想を連想させるようにも思います。 >個人の所有権に どこか 少しの部分において 風穴が開いているといった情況です。そこから 人びとのあいだでの つながりが 想定されるという考え方です。 個人の所有権なのでしょうか。世帯の所有権なのでしょうか。網元毎の所有権なのでしょうか。そこがちょっと分かりません。でも、その所有権に穴はあるようですね。扶助的なもののように思いました。社会扶助の種のようにも感じます。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  qsxdrfvgyhさん 今回の質問は 失敗でした。  すべて 現行の制度や慣習との比較を 第一に考えるかたちになります。現実化を考えれば そういうかたちになります。     1.所有権によって 会社が 左右されるのではなく 従業員の意志の総合によっても 会社の意志決定をおこなうという制度  2.人びとが 自由に寄付して その基金によって 生活扶助をおこなう。  3.会社は 昔のように 余剰人員をかかえて 社会福祉の役割をになう。  4.貨幣がない状態で やっていける経済慣習 / 自由に店から 品物を持っていってよい  などを考えたことがあったのですが たぶん 経済情況の進展するにつれて そのつど 新しく出来ることがあったら それを検討する。そういうかたちになるのかも知れません。  《タマス》も《カンダラ》も 現在としては おっしゃるように 《相互扶助》の問題と制度として 扱うことになると思われます。一足飛びによって 先のことを 考える問題ではないのかも知れません。  所有権にしても まづは 現行の私有財産制にもとづくよりほかにないと思われます。この情況からも ひとまづは 《相互扶助》の問題だなと捉えられるのだと思います。  原始共産制というのでは だめでしょうね。個人の所有は 基本にあるということなのだと考えられますし。  イスラームでは 喜捨(寄付・贈与)をするとき された側がではなく する側が ありがとうと感謝の言葉を述べると聞いたことがありますが そういう現実があるのであれば そこから 出発するということでしょうし いづれにしても 現行の現実と どのように 折り合いをつけるかを考えることも 重要であるようです。そうなると 端的に 法律制度としての問題にもなるでしょうし。  いま ここでの質問には どうも 不向きであるように感じました。  でも ありがとうございました。  もう少し 寝かせておいて 締めたいと思います。

noname#80116
質問者

補足

 独り言のようにですが 補足します。  経済史に沿った議論が必要であるのかも知れない。  そもそも 資本主義は――理性を尊重し その知性の力を重視するという方向性を見出してからは―― 機械の発明・改良によって 発展します。大量規格化生産・商品の廉価の実現・大量消費を通じて 市民社会の内容が――そこかしこに 傷を与えつつも―― 豊かなものになります。身分制度の桎梏からも かなりの程度 解放されて 人びと一般に 自由な自己表現の道が拓かれます。  勤勉によって 産業が発達したという単純な見方ですが ここで 勤勉志向と勤勉志向主義とは ちがうと思われる。後者は 前者の自己目的化であると考えられる。言いかえると ガリ勉志向であると。ガリ勉志向が 資本主義を 先頭に立って 引っ張ってきたという一面があるとしても それを支えたのは 基礎としての勤勉志向である。  ここから 資本主義には 単純に 勤勉資本主義とガリ勉資本主義とがあると捉えられないか。  この荒い仮構で進めるとすれば ガリ勉キャピタリスムが 猛威を振るっているからと言って 社会から落ちこぼれのないようにと 単なる相互扶助を打ち出しても その心は貴いが その成果は 全体としてあまり芳しくない。  ひとつには 土壌としての・基礎としての勤勉経済を 強固なものにして 上っ面のガリ勉経済からの影響を最小限に食い止めることが 重要である。ガリ勉主義者には むしろ好きなようにさせておいて ただし これには振り回されないように制度を作りなおし しかもその上 基礎の勤勉志向のおもむくところに 合わせさせるかたちと方向へと 導く。  そのために たとえば 《タマス / カンダラ》の思想なら それらの生かすべきところを生かしていく。  ということは どうも 経済の問題は 人間の問題であると この想定の限りで 考えられます。

回答No.3

「個体的所有」、「関係的所有」という奇想天外な設定が、面白そうなので、簡潔に回答します。その前に、 おそらく、つい最近まで展開されていた、古代日本の民主主義観議論を恐れおののきながら、拝読しておりました。その続きなのかもしれないと推察しますが、お手柔らかに願います。 さて、《見ダマス》の部分を読んだ時に感じたことは、ははぁ、これは、おすそわけ(裾分け)と同類の習慣・風習だなと思いました。ご近所などにもらい物を分配し合うことに似ていると思いました。つまり、微細な贈与関係です。贈与の前提は所有ですから、微細な所有を前提とします。所有しないで贈与すれば、横領ですから所有していないと困ります。そのとき、所有と言っても、「個体的所有」や「関係的所有」ではなく、「家」中心の所有観だったのではないかと思います。 しかし、反復的で大規模になると「おすそわけ」レベルではなくなります。その場合は、古い時代から、獲物は農村との物々交換に回されるのではないでしょうか。そのときも、「個体的所有」でも「関係的所有」でもなく、「家」中心の所有観だったのではないかと思います。近代法制度よりも前の、武家以外の庶民感覚は、その程度ではないかと思います。風習からの類推です。史実に基づいていません。以上です。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  ★ 奇想天外  ☆ ですよ!! 大いに そうです。  二点に注意していただくと さらに 展開していただけるのではないでしょうか。すなわち 一つは 次の《カンダラ》のことです。  (1)(質問趣旨) 漁の現場で獲物をくすねることも大目に見られた。瀬戸内や九州に多く これをカンダラと呼んだ。  (2) もう一つは 触れ得ませんでしたが 谷川健一は 1921年生まれ・現役の民俗学者で 紹介している民俗は かれの子供時代のことだそうです。   ご回答の中から (3)たぶん 《家》中心という事態は 基本だったでしょうね。それと 所有観とは まったくあい携えていたかどうか。もし家が所有行為の主体であるとすれば そして 昔であれば 共同体の全体がとは言わなくとも 所有にかんしても 親戚一族への広がりは かなり強固に 現実の事態であったと考えられます。  これら三つの事項を考え合わせて どうなるでしょう?   (あ) どうも 《おすそわけ》と 微妙に違っているようにも考えるのですが。というのは 生産(漁労にすれば 陸に揚げるとき)の段階で 《カンダラ》として ちょろまかしてもいいことになっているとすれば そこで 分配して初めて そのあと 所有権が決まるのではないかとも捉えられるのです。  (い) まだ分かりませんが そこからは  ★ しかし、反復的で大規模になると「おすそわけ」レベルではなくなります。  ☆ の問題(段階ないし領域)になるだろうと わたしも 思います。そして そのときには  ★ その場合は、古い時代から、獲物は農村との物々交換に回されるのではないでしょうか。  ☆ これが どうなるかですが。  (う) たとえば――極論が好きで 仕方ないのですが―― 電池工場で出来上がった電池を 付近の住民が ちょろまかすとか あるいは パソコンが 工場で出来上がったなら やはり おすそわけに与かるとか そういう場合は どうですかね。従業員も 持ち出すかも知れません。  (え) いまは これらが  ★ 贈与関係  ☆ ではないという場合を想定してみたらという問題です。《家》中心というよりは 生活の単位体としての世帯を中心として 捉えるといいかも知れません。つまり ちょろまかすと言っても 生活に必要以上に むさぼるというわけではないのです。  (お) そうなると スーパーマーケットでにしろ 百貨店でにしろ その人にとって最低限の生活必需品は 盗んでもよいというような情況です。  所有権の特例としてのごとく 困窮者には 初めから 部分的に・社会関係的に 所有権が 与えられているというならわし(エートス)のことです。  個人の所有権に どこか 少しの部分において 風穴が開いているといった情況です。そこから 人びとのあいだでの つながりが 想定されるという考え方です。    あぁ 我れながら こんなことを想像するとは! この質問を上げたときにも 思ってもいなかったです。この《虚構が現実となりますかどうか》。・・・  とりあえず ここまでをお伝えして ボールを 出来ましたら 打ち返してくださいませ。  * 血の気も多いですが こんなことも考えます。

  • fate_7
  • ベストアンサー率40% (34/84)
回答No.2

ここは議論する場ではありません。強引に回答と議論を結びつけているようですが、これはイコールにはなりませんよ。 前回答者様も促しているようですが、みたところ夏休みのレポートの課題といった感じですが、課題は自分でやらなくては意味がありませんよ。 そしてもし議論のみを希望されてる場合、ここではなくしかるべき場所での議論をお願いいたします。

noname#80116
質問者

お礼

 fate_7さん ご回答をありがとうございます。  ☆☆ 回答=議論が進むと思います。  ☆ この言い回しが 悪かったのですね。  ご回答の中で その過程で ご自身の内面において――なぜなら 現行の私有財産制度を説明せよという問いではないわけですから しかも それを 超えることができるか / 出来るとすれば どのような思想が考えられるか これを問うという出で立ちですから―― 議論を展開して行かれるであろうと推察して 《議論》という言葉が出たようです。《=議論》の部分は なかったことにして 受け取っていただけないでしょうか。  趣旨は No.1の方へのご返答にも書きましたので そういうことになります。  ★ 夏休みのレポートの課題  ☆ でも何でもありませんが  ★ 課題は自分でやらなくては意味がありませんよ。  ☆ というご指摘にかんしては 質問の趣旨説明において 《自分で ここまで やった》という内容を述べております。それについて 尋ねています。質問内容は 明確だと考えますが。  * あらためて振り返って 《回答=議論》というふうに表現しているのですから 質問者が 議論するとは 言っていないと思いますよ。いかがですか? 

  • ecoshopQ
  • ベストアンサー率10% (18/172)
回答No.1

これは質問じゃないでしょ。 議論をしたいわけですか、それとも レポートの話し合い?

noname#80116
質問者

お礼

 ecoshopQさん ご回答をありがとうございます。  《個体的所有》という考え方については それが 非現実的であるかどうかを おしえてください。  《所有とは何ぞや》については 上の概念に絡めても絡めなくても よろしいですから 基本的なことがらについてのご見解を お示しください。特には 現行の思想とは別の概念がありうるか ここに焦点をあてていただければ さいわいです。

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