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神がいる、いないの直感
神がいる(自分はいない)、神はいない(自分がいる)、という考えは、先天的な直感に基づくものなので、議論しても仕方がない、という話です。 理屈で四の五の言っても仕方がない、という話です。というより逆で、この2つの先天的なフィーリングが、その上に積み上げられる理屈と論理の基礎となる感覚である、と判断します。 この2つの直感のことを、関係直感と存在直感と呼んでいます(仮の呼び名) こんな話ですが、興味のある人はおられますか? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3690161.html こちらのほうで大体同じ話をしてるんですが、このときとは切り口が違うので、言い方を変えると通じるかも、と思ってここではこういう言い方をしてみました。 大雑把な表現ですが。 ご意見お聞かせください。よろしくお願いします。
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2です。お返事を興味深く拝読しました。 なるほど、認識・把握する以上は、客観とみなし、 体感や感受性をよりどころにしたものを、主観とよんでおられるのですね。 ご提示の「関係直観」も悟りまでいくと、痛み苦しみも我が事とならず、 自殺・安楽死を考え直す契機になるやも。などと思ったりしておりますが。。。 禅学での直観、したがって京都学派などでもそうですが、 また、スピノザとドイツ観念論からリッケルト、ベルグソンあたりにあつかわれている直観のテーマが、 ちょうどsheep67さんのいう主観に近いように思われます。 わたしは現象学、象徴、エゾテリスム、精神医学史が専門で、哲学には明るくないですが、 主観というと、構成力の高いものとしておく立場です。 感覚の構成もふくめ、フィクションの場を作り出すものとなります(間主観)。 とはいえ、もっとつきつめれば、 自我の破綻した患者が、主体を把握できない場合にも、感覚をたばねる「何か」があるかもしれません。 チンパンジーやボノボノやイルカの場合にも想定できる可能性があるのですけれども、 それが、主観と名付けてよい「何か」である可能性もありますね。 このようなとき先端的な科学は神学に限りなく接近します。 また、わたしの場合、客観とは、認識や把握をつかさどるものとは考えない立場です。 2で、関係性があるからわたくしがあり、わたくしがあるから関係性がある、という話をしていますが、 Aさんが絵を見るときに、Aさんの脳は絵との関係自体だけをインプットしており、 色や形や大きさ、距離や雰囲気、嗜好、価値など、主観における感受性が、Aさんだけの特設絵画鑑賞劇場を構成します。 そしてBさんは、Aさんと絵のあいだに起きている関係自体を見ることができないのですが、関係を推慮することはできます。 さらにまたBさんは、不特定多数の他者とその絵の関係を推慮することもできます。 この関係推慮を客観とみなします。AさんイコールBさんの場合も含まれます。 客観は、事象・物象などの対象自体を認識し把握するものではなく、 一主観とそれらとのあいだに結ばれている関係そのものの諮問機関となります。 なので、たとえばトイレットペーパーを見たときに、これはなんだ、とゲシュタルト崩壊の異様な新奇感をおぼえたとしますと、 主観はダメージを受けていますが、客観はダメージのありかたそのものを参照する力なのです。 そして、一定の文化的背景をもつ範囲内では、不特定他者と事物が、同じ関係を結んでいるという社会的合意がありますから、 客観には、あたかもイコール普遍的な事実であるかのように思われやすい性質があります。 sheep67さんの所現の問い、こういってよければ、唯我と忘我の問いは、 現象学や精神医学では、クサいので蓋をしています。 原因があり、同じ機序があり、同じ現象に至る、 というステップがあるとしておくのが近代科学に共通する考え方ですが、 じっさい現象から見返した場合には、機序を、原因の代替とします。 現象の消滅は、機序をブロックすることによってもたらされますが、 もちろん原因を消滅させることによっても成り立つはずです。 唯我においては自己の死をもって現象の消滅があり、原因に到達したようにみえますが、 唯我の死は、ねじを切ってオルゴールが止むように、一個の機序そのものの消滅として現象の外にあり、現象の原因は先送りされます。 また、忘我において、自己の死は、一個の関係の場の消滅として、現象の内に含まれて有り、 忘我の死は、場の喪失によって現象の機序をブロックするものですが、やはり原因は先送りされます。 ご提示の「存在直観」「関係直観」を、生死を現象の外とみるか内とみるか、と読みかえるとき、 不毛なのか豊かなのかわからない穴をかかえこんだブランショの思考が思い起こされます。
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- terraterra
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先天的な直感に基づくものなので すか? だから議論してもしょうがないのですか? むしろ後天的に刷り込まれたものが 議論をしてもしょうがなくさせているのではないですか?
お礼
NO9番の人のお礼の続きです。 上に書いた主観の考察でも、現実をうまく説明する仮説を作るべきです。物事をよりよく説明する理論が出るまでは、その仮説を採用しよう、というスタンスです。ーーこれは、哲学では普通ですか?何か哲学は、現実を軽視してるのじゃないかな~?そんなこと無ければすみません。人にもよるでしょうね。 客観の定義において、感じるだけでなく、関係を推慮し、捉えるなら、考えるなら、推慮とは把握そのものと思うんですが??違うでしょうか。あるいは同じ把握能力でも、対象が変わることでそれは客観になったりならなかったりする、という定義ですか?関係を本質と見るか、存在を本質と見るかでは、縁起という言葉の定義にあるのですが、僕も同意見です。上にも書いてますが、把握する把握しないの境目と、関係存在の境目は同じなので、その境目を把握することとは別問題になります。この入り子状の構造ー複雑系ですねーは、そもそも認識能力の不完全さから来るので、ややこしいですね。複雑系においては、論理的還元方法が、通用しないので。論理的に説明できないという事実を論理的に捉える、ということになります。不完全性定理みたいな感じで。 機序とはプロセスのことですか?原因があり、プロセスを経て、現実に具体的に現れる、というのはそう思います。現実に現れるーといってもいろいろで、直観で無意識に思う、心でそう思う、態度で表す、行動する、などいろいろあって、それはそれで一つのフィールドなので、個別に分けるべきと思います。どうせしがない人の把握能力は、ややこしい現実を一度には捉えられません。 >生死を現象の外とみるか内とみるか まさに視点の問題そのものですね。視点、あるいは把握についての性質を捉えることが最短距離じゃないかなーと感じます。 amaguappa様の言われた、主観客観の定義にたいする返しになってるでしょうか?あまり自信ないのですが。 というか、全部書く長さがない、4000文字は少ない! エネルギーが・・。(^。^;)ホッ!
補足
直観に基づく、ということと、議論してもしょうがないのか、しょうがあるのか、という2つの話の関連が見えません。 個人的には、議論がかみ合わないのは、直観の違い、と並んで、僕は崩れ方の問題、と感じています。 これは一つの見方に過ぎないですが、 言い換えると現実をどれだけ誤解して、その誤解が固定観念になっているか、の問題です。 最大の誤解(=依存)は、人は生まれて死んでいく、という事実から、ほとんどの人が逃避している=現実を見ていない、という、誰でも知ってるような、知らないような、当り前のような、誰も知っていないような、明快な事実があります。 この意味では、世界中のほとんどの人は、現実逃避をしていて、世界中のほとんどの人は、依存症です。なのでもめ事も起きるのは仕方がないと思っています。赤ちゃんの時は、誰もこんな現実逃避はしてないんですが。 上に書いた崩れ方のもんだいーというのは、赤ちゃんの時はたくましく逃げることなど知らない人間が、生長の過程で、どこで現実逃避を身につけるのかなーと普段思っているからです。
- katyan1234
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そう頭というのか感じるものでしょう。これがスピリですね
お礼
皆様いろいろ意見をいただけ、大変参考になりました。 ありがとうございました。 最後の御礼が、順序が逆になるのですが、すみません。 関係、存在、というのは、実感をうまく説明しようとして思いついた仮説に過ぎないので、気にしないでください。 では失礼いたします。
補足
回答ありがとうございます。 質問です~スピリってなんですか? スピリット?ですか? こころ?かな~?
まあ当たってると思いますよ。 ただ人によってもその真意はまちまちなのでどちらかというと心理学の問題でもあるように感じます。 結局議論しても先天的な絶対的感覚が異論を覆そうとするので反証があればあるほど強くなると思います。 ですが心理学によるとあまりにも強固な説得刺激である場合意見が変容するという実験もあるそうで、そういう意味ではその絶対感覚をうなずかせる理論なり理屈が出てきたときには意見を変えるかもしれませんね。
お礼
NO6の方のお返事の続きです。 間主観といってる意味が分かりました。 僕が言うところの集団人格のことですね。 ちなみに完全オリジナルな主観などありません。すべては間主観で、人はその間主観の集合体です。 タマネギは、葉っぱの集まりで、ただのはっぱの集合体を人はタマネギ、という別のものと見なします。完全オリジナルな主観は、間主観の集合体の別名です。 人格も同じです。ペルソナ、仮面、役割、任務、親、子供、いろんな言葉で言われる集団人格、その集合体が一人の人格であって、そこにはなにもオリジナルはありません。ただ、自己を認識する、その能力が、ただの集合人格の集合体を、一人の個性ある人格と見なします。特に他人が、自分を見る時認識するときは、絶対に一人の人としてみます。この人は複数のペルソナの集合体だ、などと見る人はいません。個性ですーそれは、それは、個人が自覚する内的感覚の外縁であり、外側ですーつまり人から見ないと自分のことはわからへん、言うことですが。その人の個性ーなるものを自覚してる人はとても少ないと思います。 ただ・・・偉そうなこと書いてますが、意識は一つと見なすことで自己の人格を作り、そしてひとまとまりと見ることで、把握と集中力が働き、その間主観の集合体を変化させていくことができます。 無意識は、大きな倉庫みたいですが、その倉庫に何を入れるか、何を出すかは、意識は自らの、よかれと思う気持ちー直観ーに基づいて、倉庫の中身を変えていくことができます。意識と把握を主体としてその視点から構成する場合、こういう状況になるかな、と思います。
補足
回答ありがとうございます。 強固な説得刺激ですか~~初めて聞いたです。 心理学者や脳を研究する人も本当によく考えてらっしゃいますね。 さっき見ていた徹子の部屋に出ていた、脳科学者の、茂木さんの話とかぶりました。 ちなみに、養老先生はもともと大嫌いだったのですが、今はとてもいい人で、好きです。茂木先生とタイプ違いますが。 図書館で、心は実験できるか、という本を読んだことがあるんですが、あれすごいですねー、でも世間の人は、ああいう心の事実にはまだ直視できないかもしれへんなー、とか思いました。いや、僕もですが。
- pojipoji
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主観と呼んでいるものは時代、地域、年齢などその人が属する社会による合意形成について、各人が受け取る意味の違いであると考えます。また合意形成に引きずられる以上、完璧にオリジナルな主観を持つことは困難なので、間主観という言葉がよりふさわしいと考えます。 Aの発語をBは合意形成に寄り添いながらも自己の解釈において受け取るため完全に同一な意味の交換は行なえないということで、例えばボカシの入った映像を見るようなもので、議論はある意味独り言の交換です。 しかし、発語やしぐさなどの反応が無意味であるとは考えません。人間には社会から認知され他者と繋がりたいという欲求があると考えられ、例えば教えて!gooで質問をして毎回のように回答が付かなければ質問者に何らかのマイナスの情動が起こるものと考えられます。 神がいる、いないにしてもそのような範疇の話題として意味があると考えます。逆には会話とかふれあいも合意形成からそういうものだと教えられそういうものだと思っているという限界があるのではないかと感じます。先天的な直感ではなく後天的な直感ではと。
お礼
ただ、会話やふれあいを、学習の視点から見るー教えられそういうものだと思っているーというのは、実に存在直観的=心理学的だなーと思います。 ちなみに、僕は今の心理学は、「西洋心理学」と一人で言ってます。これは、西洋医学と東洋医学の対比で言ってるのですが。 いつも「東洋心理学」なるものができないかなーと思ってます。つまり、心が健康な人が健康でいる理由を追及し、そこから得られた理論で、心が健康からちょっと離れたときに、漢方薬で初期の風邪を治すように、大事に至る前に、ちょちょっと、心の崩れを治してバランスよく戻す、ということが、普通にできる時代が来ないかなーとか思ってます。 言いたい放題書き殴って回答者様の気持ちを今ひとつくんでない文になってますが、別にかまいませんよね? これでいっぱいいっぱいかも。
補足
回答ありがとうございます。 返事送れてますすみません。時間がなかった上に、パソコンの調子が悪くて、なかなか書き込みできないでいます。長い文章の方は、ゆっくり考えてから補足お礼を書きたいと思ってますので、ちょっと後回しになってます。すみません。 先天的か後天的かーこれはいつも考えてます。特に遺伝的なものなのかなんなのか、というのは興味があります。あと、先天か後天か、というのも、主観になるので、決定は難しいですが、僕の実感では、どう見ても先天的なものだったよなー、と思います。うちは別に宗教もなにも関係ない家で、そういう空気もなかったですが、僕は小さいときから自然に、追い詰められたときは神に祈ってたし、それが苦しいときだけじゃなく、普通何気ないときもそのフィーリングがいつも気持ちの中にあることに気づいたのも、誰にも言われない小さいときだったので。今現在は宗教に興味はありますが、人の固定観念の固まりである宗教に、どうやって切り込もうかと気長に思案中です。 議論はある意味独り言の交換~~他人=自分、ということですね。この解釈はずいぶん前から聞いて、正しいなと思ってたのですが、長い間ぴったり来るとらえ方ができなかった=生活の中での生きる実感として、この等式を当てはめ切れてなかったです。それが分かってからは、あーなるほど、確かにそうだ、と分かりました。ちょっと書きますと、この等式は正しいのですが、人の集中力なり、把握と認識というのは、この等式のどちらか一方しか、直感的に把握できない、という能力の限界を持っています。だからこそ、回答者様も、ある意味では、という言葉で視点の移動を行っています。僕もですが。 僕の場合、この等式は、いつもいつも、他人というのは自分のことなんだ(心理学的な投影)、もしくは、自分というのは人への思いの集まりなんだ、とか、この2つしか感じることができません。なので、この2つを同時に思う~つまり、他人と自分は同じなんだイコールなんだ、と直観で感じることはできません。あとで記憶を会わせて、そこから推測してそう思うだけです。だからこれを生活実感に導入するのは優しくないです。そもそも実感がないので。でも慣れてくると瞬間的な解釈というか、そんなものができてきて、直観ではないけど、そのすぐあとに、ああこれは等式が見えてる、と思えるようになりました。いつもいつもです。~ずーっとこんなことやってるとしんどいですが。 オリジナルの主観と、間主観~~間主観をもう少し詳しくかいていただければ・・・。意味が今ひとつ分からないので。主観に関しては、ただどう感じる、という問題ですし。 関係直観というのは、そのどう感じるかというその感じそのものが現実でありリアルであり、自分そのものである、と思う人のことなので、そういう人にとっては、存在直観の人の思うところの「わたし」なるものは、もちろん普段感じていますが、一番本質的には、わたしではなく、心が現実だと思ってるので、わたしというものはただの工作物であり、つまりそういうわたしなるものに、存在の本質を感じない人のことを言います。目に見えないー心の方により強くリアルを感じる人ですから。 目に見えない心に、よりリアルを感じる、ということは、「無私」という言葉が生まれる土台なんです。私はない、と書いて無私、ということ場は、妙に思われるかもしれませんが、生きる実感として本当にそう感じるので生まれる言葉です。これの逆の言葉は、無神です。「私はいない」というのと、「神はいない」というのは実に対称的です。唯物と唯心も、主観と客観もそうです。おもしろい構図です。~~と趣味に走っていますが。関係直観にとっては、確かに自分はいるのだが、それはリアルという点で、2次的です。存在直観の人は逆ではありませんか?神と言っても、よくわからない、あるいは、結果論というか、最初からそんなものを考えるなんて、という声が聞こえるような気がするのですが。 誤解を承知でいうなら、神とは、「心にリアルを感じる」という直観そのものですから。 ここでこうやって言葉を使って説明してる地点で、僕も存在直観のシュミレートを使ってそちらの立ち位置にいるのですが。 これで全部でしょうか?何か飛ばしてるかも? >神がいる、いないにしてもそのような範疇の話題として意味がある これが一番難しそうですね。 というかおっしゃる意味をもうちょっと詳しく聞かないと、見えないなーと感じます。適当な解釈で生返事も嫌だなーと思うので。
生物学のほうで利己的遺伝子と利他的遺伝子という考え方があるようです。利己的遺伝子は自分として存在できるが利他的遺伝子はほかの利己的遺伝子の命令を聞いてはたらかないと存在できないので、いわば部品としてしか存在できない。したがって利他的遺伝子は自分としての存在は不可能であるというようなことだろうと思います。神がいるというのは自分は利他的遺伝子のように神(利己的遺伝子)の部品として存在する(自分としては存在しない)が、神はいないという場合には自分が利己的遺伝子のように自分として存在するということに対応するように思いました。
お礼
NO4の方へ補足ですー文の順序がばらばらで申し訳ないです。 >眠りからいかに脱却するか は、第一段階として、人類が皆死から逃避しているという現実を知らせることだと思います。(書くのは簡単!) 人は、皆、死なない、という幻をもって現実逃避してますし、物質世界への依存症もありますし、現実から逃げてるという意味では引きこもりです。そんな人たちが、いろいろ触れあい作業を行えば、これだけの病気にかかっていると、性格も自己中ですし、何かと問題が起こります。 なので、あなた病気ですよ、と教えれば、東洋医学的原理が働き、この病気は治ります。 東洋医学の原理である、人は自分の心身のゆがみを自分で起こしているのだから、自分がそれを起こしていることを「自覚」すれば、自分で不快なことを発生するような作業は即時に自分の意志で止める、という簡単な事実があります。つぼも、漢方も、整体も、皆この理屈ですが。 言い換えると、人は病気や辛いことにおいて、ある種の手抜きをしているのでーそれを自覚してもらえば、しんどくても、不快は止めようと思う、ということです。気づきが、大事なことは、カウンセリングでも同じですが。東洋医学でも同じです。 切り込み方としては、抽象的な方法と、具体的方法があると思います。これはー各自の性格によるので。真理の形は同じでも、人それぞれ、その真理の全体像の中の、どこが知らなくて問題が起きているのか、というポイントは、人それぞればらばらです。なので処方箋的なものも、当然人それぞれ最適なものは全部違いますー具体的な事例を挙げて相手に知らせる場合は、具体的に相手に言うときは、本当にその人にあったただ一つの最適な言動があります。 たとえとしては数学の学習があります。数学の体系はただ一つだけですし、本に書いてあることの内容は皆同じです。でも、数学ができない人が、数学を分かるようになる最適のアドバイスは人によってばらばらです。なぜなら、人によって、どこが分からなくて数学嫌いになってるのか、人によってばらばらだからです。人生嫌いも同じです。 とは言っても心も数学も、つまずきやすいところはある程度パターンが決まっており、各自の直観の組み合わせを考えれば、無限に多くのパターンがあるわけではないと考えます。 哲学の人とか、抽象的に論理的に考える人だと、抽象的モデル一つを持ってくればいい、と思います。
補足
回答ありがとうございます。 おもしろいですねー。こういう見方おもしろいので好きです。 利他、利己で分けるのは、客観視からの視点ですね、とまず前提を言っておいて。 むつかしいですねー。そんな遺伝子があるって初めて聞きました。 神のいるいないに利他利己を結びつけるのは、下の方に書いているだまし絵の話と重なるものがあるなーとは思ったんですが。あとで勉強します。 だまし絵の話と関連して、同じものが、視点の置き方で2つに見えるというのは日常よくあることで、人の心の中の善と悪や、ポジティブとネガティブも同じです。両面は現実に、意識の置き方で確かにメンタル的には実在しますし、それを選ぶ自由が人間にあるのも確かです。この2面を実在としてその幾何学的構造を考えると、韓国の国旗に使われている太陰大極図になります。この世界の真の構造と、それを捉える意識と把握の限定的な能力が、その真の構造を、どういう角度で断面を切り取って人の気持ちに見えて来るのか、という事柄を図で示したものです。 利己利他遺伝子が、そういう意識のありように関連しているのかわからないですが。 ついでに思いついたので書いていいでしょうか? 人間は、無限を直観することができません。いつもいつも把握と認識で対象を限定し、有限にすることで、初めてその相手を捉え考えることができますから。1/3を小数点に直そうとしても、直感的に感じられないです、僕は。理屈では分かっても。イメージできないものは考えられない、という性質が一義的にはあります。無限や、意識の次元ー哲学でいう止揚とかです、あと複雑系もそうです。イメージできません。 もし心の性質にメカニズムに、このような認識の限界を出てしまう性質が仮にあっても、人は捉えられません、捉えられないものは考えのまな板の上に乗りません。仮定ですが。
以前、質問http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3621072.htmlの回答NO.30で述べたのですが、確かに神の認識は、理屈によるのではなく、我々の脳細胞をフルに働かして現実に知覚することが必要と考えます。 しかし、我々のこの事における問題点は、神を知覚して一体どうしょうと言うのかとういうことと、たとえその目的がハッキリしても、では現在の我々の未発達な脳機能を、神が知覚認識できるレベルまで高める方法があるのか、ということになると思います。 と言っても、我々が神を求める理由は、多くの者にとっては既に自明なことかも知れません。 すなわち、この世のすべての苦しみから解放されて幸せになりたい、そのために神の力を借りたいということでしょうか(ま、一つの例かも知れませんが)。 では次に、その目的のために、我々は、これから神を知覚認識できる脳機能あるいは脳活動を獲得できるか?ということになりますが、 実は、その問題を解決するに当って、我々はどうしてもクリアすべき重大な課題があるのです。 というのは、我々に世界の認識をもたらす顕在意識というものは、当然我々の脳細胞の活動によって発生していますが、しかしその発生した顕在意識は、未だ一時的なもので、未完成なものであると言うことです。 具体的に言えば、我々の(顕在)意識は、この世界にまだ確定して存在していない、すなわち夜になれば消えて(眠ってしまう)ような不安定で頼りないものである、ということです。 そのような曖昧な未完成の「意識」によって、神を知覚認識しょうと考えること自体が不遜なことかもしれません。 将来、我々の意識のこの世における存在の確定(文字通り眠りからの解放)が果たされた時、多分、我々の脳は神を知覚認識できる新しいレベルへと発達を遂げているのではないでしょうか。 ─── 眠りからいかに脱却するかは、さらに次のテーマとなります。
お礼
宗教タイプの人に言うと仮定して書くと、宗教タイプの人は、しばしば哲学の人に嫌悪感を持ちますが、それは神への隠された憎しみです。平たくいうと「そんな理想的に行くわけないやろ^」と言うことですが、まさにその理想こそが、神の視点なので。別の言い方をすると、存在直観の人は、関係直観の人が言うところの神の視点の持ち主です(神ではないです)。なので、この世に神がいないと感じるのは、自分が神の視点なので、それは当然だなーと思います。なんというか、これはとても皮肉な仕組みだなーと思います。 さらにちょっとはしょって言いますと、天国はこの世にあれり?でしたっけ? そう言いますが、それはその通りと思いますし、上の認識の問題が絡むので、あの世はこの世、この世はあの世になります。別の言い方をすると、生死の境は、この世とあの世の境目ではないということです。死ぬというのはあの世に行くことではないです。ーそこは、回答者様の意見はわからないのですが、世間一般の関係直観の人に共通する誤解です。死は確かにある種の境目ですが、生死の境目ですが、この世とあの世の境目とは、また全然別のものですーー>こんなこと宗教関係者の中では当り前ですかね~~。 眠りから覚めるーとは、単に誤解を解く、というだけのことに他ならないと思います(偉そうですみません) 神の知覚認識ー過去の偉人を見ても、神を直接把握した人はいません。少なくとも凡人には、神は体感するもので、祈るもので、把握する能力は脳と心にはないと考えます。別の言い方だと、祈りの崇高さと、それへの把握は、両立しません。僕の経験上はですが。一心に祈ってるときに、その祈る自分を把握できるでしょうか?なので無理じゃないかなーと思うのですが。全身で感覚へ飛び込む関係直観の本分と、捉え、把握し、理解する存在直観の本分は、常に相容れないーもちろん、神へとたどり着いたその場所では、祈りと把握は両立している、関係直観と存在直観は、登り口が違うにもかかわらず、同じ山の頂上にたどり着くと考えますが。 ???、ごめんなさい、違いますね、回答者様が最後のところで同じことを書かれてます。意見の一致ですね。 なんか語り続けてすみません。滅多にない機会なので語ってしまいました。ふー。
補足
回答ありがとうございます! 認識能力が実に問題山積みだと言うことは、全く同意見です。 下の、NO5の方への補足で書かしてもらいました。 ただ、認識能力は、僕らが暮らすこの4次元の時空間の性質に由来しています。4次元のー正確には、ユークリッド空間を正しく把握できるようにできています。それも有限のみを対象とするただし書き付きでです。把握と認識は自分が住む世界を正しく捉えるようにできているに決まってますから、それ以外は使えません。 なので、僕自身は、考える上では、論理直観ーとまた勝手に名前つけてますが、1+1=2である、ということを正しいと思える能力、というか、勘ですね、を中心に置いています。 1+1=2にたいする整合性がとれている、という感覚は心の中心にまで響いています。その感覚は、大きい声では言いにくいですが、神のいるところまで続いてるなーと感じるわけです。 直観の構成についてはずーっと求めています。なかなか見つかりません。存在関係や内外向のような直観もあるし、おなかが痛い、暇だ、というのもあるし、怒りの衝動、笑いの衝動をもともと作るのもやはり直観です。はしょっていうと、主観客観系における、一つ一つの抽象的な形、が、それらの感覚ー直観に対応しています。この辺までは分かるんですが、ここから先現在工事中です。 認識と把握の限界は、いろいろ表現されてますが、下に書いた太陰大極図以外にも、トリニティーとか、仏教用語の縁起などにも書かれて入るんですが、なんというか、みんな優しく表現する気はないのか?と思ってしまう抽象度の高い表現で、禅問答もそうですがーー簡単に表記しようとするあまり、逆に抽象度が高く難しいものになっている、という印象です。といっても言葉を尽くして長々と書けばいいというものかどうか。 一部は全部であり、全部は一部であり、一部と全部は等しく、一部は一部だけで完全であり、同時に一部の総和としての全部が完全である、という、主観客観系を、認識能力というより、直観と把握がその構造を感じ取るときに現れる、一見論理的には矛盾した構造を、きれいに説明しようと、今考え中ですーできるのか?? 直観がなぜ不完全なのか、というのを別の視点でいうと、神や、あるいは神を出さなくても、心の世界に無限感覚はつきものです。ご存じのように。それに反して、物質の基本性質として有限、というものがあります。この壁は越えられません。人の心も脳みそに収まり、その心と脳は一対一の対応をとっているのですから、その脳ー心の系から、無限感覚を直接把握する能力は生まれようがないです。想像で迫るのみです。これは魂はともかく、心や体は物質という有限に縛られてる以上逃れられないものと思います。ものが無限になることはありませんから。もちろん無限感覚は、直観でも捉えることができません。直観が捉えるものもやはり有限のものが対象です。ただ、人は体感によって無限感覚は味わえますー例えば祈っているときとか。子供が、自分の母親を「無限に」好きだとか。いろいろあります。認識できないので、僕はそれを無限感覚と呼んで、人が作り上げる主観世界の時空を越えるときに発生すると、暫定的に定義しています。 >眠りからいかに脱却するかは、さらに次のテーマ めちゃめちゃ期待してます。少なくとも関係直観の人は、それがかなえば、めでたくゴールできるのでは、と思うからです。暫定的ですが。でもそれには、たぶん存在直観の人の視点は欠かせないのではないでしょうか?
- kigurumi
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>神がいる(自分はいない)、神はいない(自分がいる)、という考えは、先天的な直感に基づくものなので、議論しても仕方がない、という話です。 うまく言えるかどうか自信ありませんが、、、、 I と Me では世界が違うんですね。 Iとは「私はマラソン競技で1位をとった」 などを例とする世界。 もう1つ 「私は父親にとって頼もしい息子である」。 この場合 Meになる。 本当のところ 父親は息子のことを頼もしいと思っているのかどうか、息子は知ることはできない。 あくまで息子は父親の反応をみて、父親が自分をどう評価しているか推測しているにしかすぎない。 だから Meになる。 英語だと主語はIですが、私から父親の気持ちを推測して、父親から見えるであろう世界を表現しているので、Meなんです。 >神がいる(自分はいない)、神はいない(自分がいる)、 という意味がよくわからないのですが、、、 信仰をしている人は「神の正義に添った自分」を目指しているので、Meになる。 で、信仰している人は、神というものが一体どんなものか知ることはできない。 息子が父親の体に入って父親の視点に立って、息子を見ることができないのと一緒。 だから、信仰する私 神の存在を信じる私はMeなわけです。 で、神はいる と確信する信者は少なくない。 何かしらが起こったとき、それを神からじゃないか と推測し、そうに違いないと確信し、神に出会った とか 神と接触を持った とか そういう認識にするわけです。 それは例えば偶然のできごとであっても、「神に違いない」と信仰をしている人ほど、偶然と流さず、神と関連づける認識になりやすい。 例えばUFOファンの人が夜空をみあげて、光がぱっと見え、なんだこれは? と疑視していたら、また光が見えて、UFOの飛来だ と確信しやすくなるようなもの。 私が見たら「ああ 蜃気楼みたいな現象が起こっているな。遠くの灯台の光だ」となるものが、そういう大気のいたずらの知識が無いと、記憶の中から引き出せず、一番関連づけやすいのが、UFOファンだからUFOだ って確信するしかないわけです。 これは後のその現象を再現してみせてあげたり、メカニズムを説明することで、UFOじゃなく自然現象だったのか と認識を訂正し、情報として脳に蓄積されれば、次 また光を見たとき、比較として「これも蜃気楼か?」と今度は蜃気楼とUFOの二つの情報がリンクされ、比較対象となる。 ある宗教のリーダーたちは、科学を否定し、図書館を閉鎖し、市民が情報を脳に蓄積するのを妨げた。 本は読むな 聖書のみ読め と情報操作を権力でやったんですね。 北朝鮮の情報操作と一緒。 結果、人々は比較する情報が無いので、神と思うしかなくなるわけです。 こうやって神は人間の手によって作られる 実は人工物なわけです。 神の定義も人間が作り上げ、人々の神の定義を情報として流す。 人々は人間が作った神の定義を基準として、神かどうか比較するわけです。 でも人が神の定義をする以前に、神が存在していれば、神はいることになる。 よくあるのがアトランティス文明。 で、実は宇宙人がアトランティスに文明をもたらしたので、神とは実は宇宙から来た宇宙人のこと って説明する人もいる。 これだと人が神のそれぞれの定義をする以前からいた宇宙人が、神の正体だってことになる。 直感でそうリンクしてしまうのも、実はその手の本の読みすぎ。 古代じゃなく 近代の小説を読んだことで、そういう情報が蓄積され、神とは宇宙人のことだったと直感的に確信してしまうわけです。 いいですよ 宇宙人が地球にやってきて、アトランティスの人々の文明を与えた。 いいですよぉ。 で、アトランティス大陸ってどこにあったの? 実在したの? 実在を証明しなければ、とんでも話の域を出ない。 すると人は、「プラトンがアトランティス大陸のことについて著書に書いていた。プラトンの旅行好きの叔父がその存在をプラトンに話したので、やはり実在した大陸だった。」って言うわけです。 ほーーー プラトンがそんなこと どこに書いているのか? どの本? 一体どの本にプラトンがアトランティス大陸が存在していたと書いているのか? そんな箇所無い。 ところが、世の中は噂を事実だと誤信して、プラトンが書いているというデマを本当だと信じてしまう人々が多く過ぎて、それを又聞きした人が、他の人に事実だって話すんですね。 で、世の中ではそれが事実だとなってしまう。 情報が歪んでおり、その歪んだ情報で比較して、マッチするとして、神はいると直感 というよりリンクして思考するわけです。 直感って実は蓄積された情報が元なんですね。 で、その蓄積された情報に誤りがあれば、いくらリンクしても、誤りを事実だと誤信しているにすぎないわけです。 神の存在を否定することはたやすい。 神だという人の話を検証して、実際そういうことがあったのか 起こったのかを調べて、間違いだとすれば、少なくとも、「神だ」となったその事柄は否定できるから。 でも、神の存在を証明できた人は 一人もいない。 「います 私は感じます」はMeでありIじゃあない。 でもmeの世界をIの世界だと取り違えて、直感としてしまっているわけです。 >先天的な直感に基づくものなので 神モジュールってやつですよね。 人間の脳に神を認識する部分が存在するってやつ。 そこを刺激すれば、神を知覚できるってやつ。 で、側頭葉てんかんを起こす人が神を認識しやすくなる。 で、医者はその神を感じる人を治療して神の降臨を阻止するべきなのかどうか。 側頭葉てんかんを起こす人は先天的な体質でそうなっているのだとすれば、生まれながらに備わっているわけですよね。 実際神の降臨なのかどうかは別として、実際本人はてんかん発作を起こしたとき、神を知覚した と確信するわけですから。 医者がその何度も神の降臨体験をした人にインタビューをとった。 その時 嘘発見器みたいな器具をつけて測定した。 おもしろいことに、セクシャルな写真を見せても針はふれないが、神学的なシンボルを見せると針が大きくふれた。 でも、その人は女性に興味が無いとしながら、女性の看護士を誘うという行為をしていたそうです。 で、他のにも彼の言う証明に対して、検証不可能なことをもって、自分は抜きん出た者だと言う。 誤魔化したりする行為をするが、本人には誤魔化しているという自覚が無い。 その人に「神は存在すると思いますか?」と聞いたら、唖然として「他になにがあるっていうんですか」とその質問自体がばかげているかのような反応をした。 自分の直感を否定しようもないからですよね。 で、その人に誤信だということを、証明しつづけたところで、その人自信が直感を脳が修正して、間違いだったとしてくれないと、その人は永遠に神が存在すると確信するしかないわけです。 あるいみ 脳の誤認識より囚われの身になっているので、脳が修正かけてくれない限りその(おそらく)間違えている直感から逃げ出せない。 医学で治療をほどこしてしまうと、神は降臨しなくなる。 倫理に触れますので、難しいですよね。 よほど重大な犯罪をそれによって引き起こさない限り、強制的に治療することはできない。 で、犯罪を犯していない時点では、司法は手を出せない。 で、司法が手を出すときは、犯罪を引き起こしたとき。 でも、既に遅しで治療のチャンスはない。 何百人もの信者を救いに突撃したら、既に服毒自殺をはかっていた。 集団自殺してしまっていて、間に合わなかったわけです。 で、その教祖は神の存在を確信し、みんなとともに神の国に行くつもりで、服毒自殺を信者に勧め、逃げ場を失い思考を絶たれた信者は、服毒自殺するしかなかった。 こうなる前に治療を、、、、無理だったと思います。 直感っていい方向に働けば、神は存在すると思うのは、それはそれで自由なんですが、悪い方に傾くと惨劇が起こる。 そうなる前に治療をしたほうがいいんじゃないかと思うのですが、残念ながら直感する人が他者を加害をしないと、税金を投入して神の降臨を妨げる権利がない。 倫理の問題が絡んでくるので。 危険だと思っただけじゃ 措置をほどこせない。 人を殺して初めて、治療ができるようになる。
補足
回答ありがとうございます。 返事が遅くなりすみません。 長文ありがとうございます。 まず、神を誤解してる人には、お書きのようにどんどん指摘して、安易な偶像崇拝を阻止していただきたいと強く思います。UFOも、幻覚も同じですね。間違いに気づいた人は、正しい道をその指摘で行くことができます。 ただ、哲学の人が自分探しをするように、宗教の人は、神探しを止めることはありません。それは信念だからです。この人が誤った偶像崇拝ー物質や錯覚や想像、にはまらないようにも、ご指摘のようなことはとても大事だと思います。 まー人は依存心もありますし、形からはいることはよくあるのですが、形ーものに頼るともうすでにそこには間違いの原因が備わっているので、やっかいです。存在と関係は相補的で、いつも助け合う関係にありますから。主に批判を通してですが。 >I と Me では世界が違うんですね ほんと~~にその通りですね。というか、このIとMEの話が、関係と存在の直観の話そのままなのですが、お気づきでしょうか? 神モジュールー脳と対応する心を考えると、無意識はいつもブラックボックスです。なので解明は難しいです。神の認識ーそれは、認識ではなく体感ですが、いずれにせよ、無限感覚と、常にペアを作ることで最大の安定感を発揮する、心の根本的性質の組み合わさりだと、理屈では考えます。心の世界では、一対、という概念、というより感覚は、基本的なものです。 人を殺して初めて治療ー精神科医としてはそれしかできないですね。僕が思うに、ゆがんだ宗教などの集団心理から来る狂気は、戦争も同じですが、僕は集団人格と呼んでいますがーある集団に属することで極めて精神的に安定するーその集団が麻薬の場合依存と呼ばれますがーワーカーホリックも、宗教にかかわらず、この世のありとあらゆるものは依存の対象になる可能性があります。時間も空間も記憶も想像も、すべてです。なのでよくよく慎重に行かないと、と思いますし、この方向からの切り口では、答えが見つからない感じがするので目の前が暗くなりますね。 集団心理や、依存心の解明が、心理学できちんとやってほしいのですが、知識がないのでよく知りません。かなり解明されてるのでしょうか?? 下の方への文でも書いたのですが、心を実験する、という本で、集団心理の狂気を証明する実験がありました。その実験はかなり前のもので、心理学が未だにその実験で得た結果を現実へ還元するところまでいっていないなら、上に書いたことの解明も、まだ少し先なのかなー早くやってほしいなーと思っているこの頃です。 宗教と哲学と心理学は、本来まとまって一つになることで本来の力を発揮するものと思いますので、批判と議論と、互いの立ち位置を知ることで、一つ上の次元の大局観を形成して、心を研究する人~としての全体の集団人格が認識を深める、その原動力になると思います。
いや、前のご質問から、この切り口、というか言い方に変えると、話が混迷するだけだと思うな。 つまり、認識や認知の哲学というのは、たしかに、 古代エジプトから古代ギリシャ、またインドとメソポタミアの系譜で、神学に探られ、宗教にまとめられてきたものなんですが、 そういう歴史のうちで、認識論や存在論は 人間の問題、社会の問題、神のロゴスと、 「ゆるい関係にある」分野に分かれたと思ったほうがいい。 西洋哲学にも東洋哲学にも、宗教の体験的知識が根を降ろしているから 漠然とした「神」の話は向かないな。 で、いま体力がないもので、前のご質問をざっと見ただけなのですが、 客観という概念はどこから得ていますか? わたしたちは主観のうちに、わたくしという像を設け、他の人々や対の事物と同じように存在の感覚を把握しています。 他者や他なる対象がまったくないと、わたくしという像は結べません。 客観の正体とはなんでしょう。 関係イコール存在は、おっしゃるとおりです。 ただし、主観のうちでの出来事といえます。 ふちどりがなければ像がなく、地がなければ図がなく、 ある意味であなたはいない、だが、ある意味であなたはいる、 この不思議なさまよいから、わたしたちを救いだしているもので分かっているのは、 「言語能力」と「コミュニケーション能力」です。 自我において、わたくしをふちどり、形成する、人間の重大な要素です。 この劇場めいた場所では、 関係性だけがある、という台座にあぐらをかいて、 わたくしだけがある、という保護機能をはたらかせている。 矛盾したものですね。 また逆に、 わたくしがいなければ、関係性もない、 と手綱を握り、強みがあるのが、この創られたわたくしの特徴です。 話がご興味からずれていましたら申し訳ない。
補足
こんばんわ。 認識や認知の哲学~哲学の話というわけではないのですが、というより現実の話をしてるつもりです。 考えるというかー確かに考えてはいるんですが、考えさせられるという感じでしょうか。 客観の正体ー哲学の方はよくこういわれます。僕は、客観とは、主観とは、時間とは、という感じの問題は2番目に興味があります。一番は本題に書いたようなことなので、今は考えていません。というか、答えを探して一生が終わりそうな気がするんでやらないのですが。 あと一つは、この問題は、直接追いかけても答えが出ない気がします。解き方としては、数学で言う背理法、のような手法を使えばいいのでは、と思っています。あるいは消去法、というか。客観とはーというとのは、客観の定義を見つけるものなので、言い換えると思考などの自分のよりどころを見つける作業です。直線的なやり方ではまずいのでは、と感じます。専門家の方ならご存じでしょうが。西洋医学が、いくらがんばっても、東洋医学がつかんだ人の健康の真理には届かないように、つまり両者の間には、その間に複雑系に由来する、基本的に還元主義が通用しない構造をとってると推測してますので、とても厳しいなーと思っています。無理というわけじゃないです。なんというかアナログとデジタルが2つそろって初めて回答が見つかるのでは?と思います。2重らせんのように両方が補い合って上に上っていくというようなイメージです。 数学でたとえると、複雑な数式から逆算して、新しい公理を見つけるようなものなので、それは偉く厳しいです。 ものの立体感の定義が、「2つの角度の違った画像を同時に見ること」で暫定的に定義できるように、そういう定義の仕方は有りですし、主観客観などもその方法での定義付けは可能だと感じます。ただ1+1=2はそう約束したのだ、といっても、そこからさらに分け入って分析できるように、きりがないだろう、とも思いますが。 客観とは把握と認識というものを中心に据える立場、と見ています。なので、回答者様と違うところは、ある種の把握によって生じるものー自己ーわたし、や外のものー物質は、僕は同じと見ています。どちらも把握と認識によって初めて生じるからです。 主観はおおざっぱには、体感、あるいは、感じること、でしょうか?考えることや、捉えることは、主観にはありませんから。主観世界を感じることや、アイデアが浮かぶこと、感受性には、その自己の範囲内には把握と認識はありません。自己の範囲の外縁、外側、数学で言う補集合に当たるところには、もちろん把握や認識はあるのですが、それは自分のものではない、そんなものは知らない、というのが主観の立ち位置です。 関係性だけがある、というものを「現実だ」と本心で感じる人が関係直観で、 私(存在)がある、というのを根源的に現実だと感じる人は、存在直観だよなーと思っています。劇場めいた場所で、関係性こそが真実なのか私こそが真実なのか、という問題ですよね。三界は唯心の所現なのか、それとも3界こそが本当なのか、という問題とも言えるでしょうか? 人は演技(シュミレーション)をすることができるので、お書きのように、関係直観の人でも手綱を握りーつまり、恣意的に自分と違うタイプになりきることができる、というのは、よくききます。というか自分がそうですので。 内向の人にとって外向の人が、外向の人にとって内向の人の視点が役立つように、存在と関係でも同じことが言えています。自分の本来の持ち分ではなくても、相手の話はとてもためになるので、取り入れよう、と思われますよね。強烈な刺激なので、毒にも薬にも本人次第だなーと思います。ライバル、というやつでしょうか? >関係性だけがある、という台座にあぐらをかいて、わたくしだけがある、という保護機能をはたらかせている これ、えらい分かります。ほんとそうですね。油断禁物です。 なんか、こんなことしか書けません。まだ僕も考えの途中ですので。まとまらない文になりました。 なんか言葉が足りないのですが、長くなったのでとりあえず。 今もう一度回答文を読んでみて、amaguappaさんとは、考えというか感性というか、近いなーと思っています。 回答ありがとうございます。
- kensan39
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よく分かって居られるのでは神は不幸にならないと気がつきません ごく当たり前のことです 不幸が生まれながらにこれがあると神を 信じないと生きては行けないのです また 途中で不幸になるとまた神を信じないと生きられません ただそれだけのことです ごく当たり前ですが 幸福な人は自分は神みたいに感じる物です 何せ幸せなのですから これらは自分の感覚ですから 他人が見ても不幸のようですね 本人が幸せなら 大きなお世話利になります
お礼
そうですね、同じ神を肯定する人でも、外向的な人ならば、小さいときから信仰を持つ人は今の日本では珍しいかなーと思います。 あと、意識と内面の乖離は大きな問題です。ただ、まーここでは直観のことを質問させてもらってるので、また別の話かな、と思います。 回答ありがとうございました。
お礼
上で、赤ちゃんの問題は定義付けの問題、と書いてますが、実際このような、あの世や、意識や、その他、かなり間違った定義が世界に普通にあるので、それをのぞければいい、というそれだけです。 把握もそうです。我思う故に・・といいますが、我は、把握能力が自分に向いたときに発生します。自分を捉えてないときは、他のものを捉えていても、その時は自分はないです。ここでも把握の再定義がいります。自らを把握するときと、自分以外を把握するときでは根本的に別の種類なので(かつ相互乗り入れをしていますが)、何か言葉を作ってくださいーーー誰に言ってるんだろう? とにかく相互乗り入れは、今、考える性質を持たない主観のことを考えてここで話してる、ということにも起こっていますし。 この、4次元時空間の性質に由来する認識能力の限界とそれによる間違いは、何とかただせないかなー赤ちゃんでも分かるんだから、優しく言えないかなーと思っています。 amaguappa様がどこまで、どういう考えを持ってるのか、ちょっと回答文だけでは計りかねるので、内容をすりあわせしようと思ったのですが、できず、つまりamaguappa様の心情を計りかねたので、それはできず、従って自説を書き殴る文になりました。あしからず、です。これができないということは、僕はまだ全然分かってないと言うことですね。 僕の考える方針は、現実に絶対接触してること、論理的飛躍は絶対にせず、どんなに考えが進んでも、論理の鎖を切ることなく、理屈が分かる人には全員説明できるというスタンスです。前に書いたですが、科学のまねをしてます。ぶっ飛んで先に進まず、科学は絶対と相対を繰り返し、論理の鎖で完全につなぐことで、あることを考えてる人が死んでも、論理性だけで次の人が受け継ぎ、その論理性故に発展しました(実験や再検証も論理の一環とすると)。なのでそれはパクリます。主観の考察においても、同じ方法をとるべきです。例えばー天動説はいまでも擬似的に正しいですし、それは地動説や相対論が出ても変わりません。地上にいる人の生活をうまく説明するからです。すごい仮説だと思います。地動説も相対論も永遠に仮説だと思います。近似的には本物ですがー書くスペース全然足りないー``r(^^;)ポリポリ、NO10の方のお礼に続きです。
補足
再度の回答ありがとうございます!お返事読むのが楽しいです。 まず、哲学の専門用語は難しいな、と思いました。 難しく書くことと、優しく書くこと=絶対と相対、はこの世界の仕組みです。カリスマも、人気アイドルも、ブランド品も、現実という絶対感覚を使っています。自分は世界にただ一人の尊い存在ー自分の考えは他人にまねできない唯一のものーレッテルを貼り専門用語を使うーというのは、相対的でとらえどころのないものを、有限で把握できる物に変えることで、捉え、それに集中し、考えを深めます。それが行き着いたところで相対化ーーそれはありきたりのもので、子供でも知ってる物に変えます。絶対化は、対象としてそれに集中して深めるのに必要です。2つは相互乗り入れをしていて、2重の無限です。というのは、深くて狭い井戸のように縦穴を際限なく掘るイメージと、それが常識として横へ無限に広がる、という2つの無限感覚があるからです。 絶対感覚=プライドと、相対感覚=無私、私はいない、という2つの感覚は、この意味において把握以前の存在として、同じものです。 別の言葉だと、絶対=集中力、相対=大局観、といえます。視野を広くすることと、一つのことに集中することの2つの使い分けが大事なのは常識ですよね。 主観と客観は、2つは同じものですが、それを把握する、それってなんだろうと思ったときに2つに分かれます。というより、人の認識能力が、その本当にある一つのものを、主観と客観という2つの切り口でしか把握できないからです。どこかの物理のパクリではないですよ。ほんまです。 自分と他人も、同じものですが、投影という機構を使って。でもそれは把握の対象となった瞬間、2つの別のものになります。それはもう、認識能力の限界で仕方ないです。現実に、別に見えるのだから、本当にそう観察されるのだから、それは2重の意味で存在している、存在そのものの、そういう性質です。心理学的な投影という概念における中心的役割である「ミラー」は、把握、認識という心の仕組みそのものです。 仮説でもいいので、これを頭に入れて、世界の仕組みを再構築すると、滅茶苦茶世界は簡単になります。というか簡単でなければ、過去の偉人が真理をつかむと言うことはできません。仏陀もイエスも、別に普通の人より頭がいいわけではないので、その理解とはとても単純なものです。微分積分やマルクス経済学くらい難しかったら、もう普通の人の手には負えないです。イエスも仏陀もただの人ですので。主観客観系の仕組みはもっとずっと単純です。問題は論理的難しさでなく、感覚的難しさーいわゆる常識の壁、ですね。問題の難しさの本質が常識の壁だからこそ、それは子供でも理解できる内容になっています。言葉を必要としないので。というか、赤ちゃんなら全部知ってるだろうと思っています。常識の壁や嘘は生きてる中で作られるので、まだほとんど生きてない赤ちゃんはすべてを実感してるやろうなと思います。ここで、早く赤ちゃんに戻りたい、とかいうと、おかしな人と言われるわけです。でもイエスも言ってますー赤ちゃんみたいじゃないと、天国には行かれへん、と。ほんまやなーとしみじみ思います。この辺りから、上で書いたのですが、生まれてく死んでいくというのと別問題として、赤ちゃんは「あの世」にいる、とかいう話も出てきます。人はあの世から来てあの世に戻るのですが、それは物質的な生死とは無関係です。 文脈がむちゃくちゃですがとりあえず訴えます。 感性と把握は裏表で、相互乗り入れをしている、というのはいいでしょうか?でもその裏表と相互乗り入れの形、フラクタルや複雑ネットワークの形式は、把握によって生じます。把握は単純な存在を、ありえないくらい複雑にする素晴らしさがあります。把握と感性は同じですが、見方を加えるーことで、2つに分裂します。そして同じものをそうとしか捉えられない直観の把握能力は、2つが相互乗り入れしてるようにしか認識できません。同じ2つのものが、お互いにからみついているような形でしか捉えられません。だまし絵をご存じですよね?あの絵では、女の人とおばあさんは全く同じものです。見方の問題です。つまり把握ですが。言い方を変えると、把握はこの世、感性はあの世、といえます、言えるというかそのまんまですが。ーー暴走してますねー。よくおわかりの人には突っ走ってしまいます。 視点、視野、把握、が働いた瞬間、あの世がこの世になります。言い換えると、意識の消失ーそれは、睡眠時に意識を失うーと観察されるのとは別の境界線ですが、あの世とこの世の境のように・・把握や意識が脳の機能として働かない、ということは、あの世にいるということであり、この意味での意識がない、ということは、主観客観系での根本的構成要素です。