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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ヘブル書に引くエレミア書の《新しい契約》とは?)

ヘブル書に引くエレミア書の新しい契約とは?

このQ&Aのポイント
  • 神がイスラエルの人々と結んだ新しい契約について詳しく教えてください。
  • 最初の契約が欠けたところのないものであれば、第二の契約はなかったでしょう。
  • 神の新しい契約は、彼らの不義を赦し、罪を思い出さないというものです。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

>教会とはなにか、ということにこの問題の鍵があります。 こんな謎めいた言い方をしたのは、教会の研究だけでもいくら時間があっても足りないくらいであり、たかだか数行で教会とはこうだとは言い切れないからです。 ただ、教会の原点はマタイ18:20の、2人または3人集まるところに私(イエス)もいる、ということに尽きると思います。そのエクレシアこそが教会であり、その意味ではおっしゃるとおり家庭が教会であり、そして万人が祭司です。その頭がキリストとなります。 それでは現在の諸教会は間違っているのか、ということになりますが、答えは、その通り間違っている、となります。その根拠は、どの教会も自分達の教会が真の教会と思っているところにあります。自分達の教会こそ、イエスが共におられる教会と思っているからです。 幾千にもあるいは万にも分裂した教会のどれか1つが正当な教会であるはずがなく、その意味でもすべてが間違っています。 それでは教会があること自体が間違っているかというと、それはそうではないと思います。そこに教会の生い立ちを研究する必要性がでてきます。 使途時代の集会は、それこそ2人、3人が家庭に集まるものであり、牧師職があるわけでもなく、ただリーダー的な人の家にてキリストの教えを勉強したものと思われています。 やがて、それが拡大するに従って、偽教師の潜入を防いだり、あるいは教えを正しく伝承するために、組織としての結束が必要になってきます。 コンスタンティヌスのキリスト教解放により、さらに強固な組織、カトリック教会が発足し、教えを正しく伝承することに努めますが、政治的な力を持つようになり、シビリアン・コントロールをするようになってから道を踏み外します。また聖書を庶民から隠蔽し、都合の良いように改ざんし始めます。 やがて有名な免罪符をきっかけとして、ルターの宗教改革となります。 宗教改革により、聖書は庶民のものとなります。ルターは、キリスト教伝承の立場から教会そのものは廃止しませんでした。また、イエスが制定したとされた洗礼と聖餐式も廃止しませんでした。 この洗礼と聖餐式を残したがために、今日数え切れないほどの宗派、団体が存在します。 これは、教会が間違っているととるのではなく、教会のありかたを間違って解釈していると考えます。教会とは形式主義を行うところではなく、聖書に基づいて神の言葉を正しく伝えるところです。 キリストの教えを守り、正しく伝えるために、教会という組織があり、規則があることは、教えを正しく伝えるという意味においてあって当然のものと思います。 ただ、そうした教会を必要としない人たちがいることも、いたって当然なことです。 かいつまんでいうと教会の歴史は上記のようになりますが、家庭が教会の基本であることは今でもなんら変わりないと考えています。 教会はキリストの教えを守るために必然的に生まれてきたものであり、あって当然と思います。 しかし、そこに形式主義を取り入れて、洗礼を受けなければならないとか、10%献金をしなければ神に反するなどというのは間違って教会を解釈しています。イエスはそのようなことを一切言ってもいなければ制定もしていません。洗礼も伝統ある深い意味のある儀式であり、献金も組織の運営には必要です。しかし、それを義務としたとき、つまりそれを行っていなければクリスチャンではない、というのであれば、それは間違っていると考えます。 Brageloneさんの質問に立ち返って、家庭が信仰の基本であり教会であることは上記でも記載した通りです。また、国家はその家庭の集合体ですから、国家が主の家というのもその通りだと思います。 しかし、その国家と政治国家とはまったく別です。なぜなら、政治国家はこの世のものですが、信仰国家はこの世のものではありません。

noname#80116
質問者

補足

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  二人または三人がわたし(イエス)の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。( マタイ18:20) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  BRAVO!!! ヤッホー ワアーイ イエーイ(この語は恥づかしい)!!!  《教会》について この原点をおそわったのは初めてです。 ★ 家庭が信仰の基本であり教会である。 ★ 国家はその家庭の集合体ですから、国家が主の家というのもその通りだと思います。  しかし、その国家と政治国家とはまったく別です。なぜなら、政治国家はこの世のものですが、信仰国家はこの世のものではありません。 ☆ 後者については のちまた 取り上げます。エクレシアおよびチャーチについて このように明確におっしゃっているのを聞いたのは やはり初めてです。  だから 洗礼を受けないというわけではありませんが 信仰を与えられた当初から 社会が キリスト者の仕事の場だと思っていました。  ご回答をありがとうございます。質問というものは してみるものですねぇ。 ★ 現在の諸教会は間違っている・・・その根拠は、どの教会も自分達の教会が真の教会と思っているところにあります。自分達の教会こそ、イエスが共におられる教会と思っているからです。 ☆ そうですよね。(もう そのことには鈍感になっていました)。排他性は 途中から現われたのですね。ルターは 形態・制度じたいは 中立なものだと認識したということですね。 ☆ わたしは ローマは 人を殺し過ぎたと単純に考えます。プロテスタントたちも 挑発に乗り 血を流しすぎました。一たん自己解体して 百年・二百年 時の経過を見守るべきだと考えています。頭を剃るだけでは 償えません。 ☆ 教育施設・研究施設そしてそこは自由な交流の場であること これでよいと思うのですが。 ☆ さて この世の共同自治の問題です。R.A.マーカスという人の研究成果の請け売りですが 次のように考えています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  世界( the sphere of politics )とは 相対的で有限なものである。この有限の領域において 世界は 自律している。ただ 神の国の市民(キリスト者)にとっては まさに この世界の自治ということにおいて それ(世界)とは 無縁ではありえない。  〔これは〕人間という存在の・世界とのかかわりを見つめることを通しての そしてそれが もっとも熟した段階でのアウグスティヌスの考察の一部を成すものであり これはまた 〔わたしたちが巡礼の旅路を行くその〕世界( saeculum )というものを   《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国   ( Civitas Terrena )とのあいだの 非武装中立地帯( no man's   land )として》 見るのではなく   《これら二つの国が互いに入り組んでいて むしろその国境は分ち難  く組み入っており その見分けがつけられるのは 人がただ終末を見  通しえた時のみであるという そのような現実の中に 位置する或る  時間帯( temporal life )として》 見るというかれの理解から 発しているものである。  ・Robert A. MARKUS: 《 Saeculum :History and Society in the Theology of St Augustine 》;  宮谷宣史・土井健司訳『アウグスティヌス神学における歴史と社会』 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ と言います。  国家という単位体が 固定的なものだとは思わないのですが というより 自治体(市町村)の連合に仕える連絡調整の機関になっていくと思うのですが この世という世界の共同自治については キリスト者の見解を 明らかにしたほうがよいと考えます。 ★ 政治国家はこの世のものですが、信仰国家はこの世のものではありません。 ☆ から一歩 進めたかたちをマーカスは アウグスティヌスに拠って 述べているのだと思います。まぁ 世界全体が 主の家だと言ったほうがよいかも知れません。そうすれば 信仰が 民族や何やかやに左右されることはなく けっきょく透明になると思いますし。他の信仰と その信仰の形態・あり方として 互いにまったく 同等であり 差異を認め合っていけると思います。どうお考えになるでしょう。  エレミアがそのことを言葉にしたし イエスがキリストとして実現させたと思うのですが。

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その他の回答 (11)

回答No.1

名指しされたものではありませんが、基本的なことをいくつか。 まず、ヘブル書はパウロ書簡ではありません。読み人知らずです。 それから旧約の考え方ですが、古びて消えうせるのではなく、成就したということです。消えうせるのではなく完成して基礎となったということです。 われわれは全く新しい契約に生きるのではなく、古い約束を土台とした新しい約束に生きます。新約は単独ではおそらく違う宗教になっていたと思います。天地創造からキリストそして最後の審判のストーリーには、古びて消えうせるものはありません。 以上が一般的なプロテスタントでの考えと思っていますが(カトリックのことは知りません)、質問された方の考えはちょっと違うようなので、宗派によっては解釈に違いがあることをここで明記しておきます。宗派による解釈の違いを論じようとは思っていません。 題目のエレミヤ書ですが、書いてある通り、新約の訪れを予言しています。 その新約の世界では旧約の世界とは一転して、王や祭司等が神の言葉を代理するのではなく、神と民が直結の関係となり、新約の最大の特徴である罪の許しもここで予言されています。

noname#80116
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  いえいえ みなさんのご見解もお伺いしたいです。ありがとうございます。 (1)パウロの書いたものではないという点につきましては 仕方ありません。エレミア書の内容として取り上げることにします。 (2)旧約は 《古びて消えうせるのではなく、成就したということ》の中身として このヘブル書も たしかに《年を経て古びたものは、間もなく消えうせます》などと字面で言っていますが エレミア書からの《わたしの律法を〔モーセの時のように 石の板にではなく〕彼らの思いに置き、/ 彼らの心にそれを書きつけよう》という文句を引用しているわけですから それほど逸れてはいないようです。  (たしかにパウロが 律法規範主義のような行き方を批難していますが 律法じたいは 聖であり霊ですから その同じ律法が 成就するという内容を ヘブル書も含んでいると言っていいでしょう)。 (3)★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  題目のエレミヤ書ですが、書いてある通り、新約の訪れを予言しています。  その新約の世界では旧約の世界とは一転して、王や祭司等が神の言葉を代理するのではなく、神と民が直結の関係となり、新約の最大の特徴である罪の許しもここで予言されています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おおむね おっしゃるとおりだと思うのですが 《罪の赦し》にかんして もう少し詳しくおしえていただけると有り難いです。  つまり 《わたしは、彼らの不義を赦し、/ もはや彼らの罪を思い出しはしないからである》という文句をどう解釈するかです。もし《〈主を知れ〉と言って教える必要はなくなる》ということが――《宣教という愚かな手段》を 歴史的に介しつつですが―― 教団の必要がないということでしたら もう《神と民が直結の関係とな》る個人の信仰のみで生きていくと言ってよいように思うのですが いかがでしょう。

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     クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか?  新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち たたき台として 次です:  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。  板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神はみづからを揚棄しちゃった:クリスチャン批判

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。

  • 水による洗礼は 何故なくならないのか

     ◆ 1. 《水による洗礼は 要らない》という命題を問うものです。  1-1. すでに二三度質問しています。このところ質問にあげてやり取りの中から答えが得られるという二度の事例に遭い この問いについてもこころみたいと思いました。  ◆ 2. これまでの経過としましては こうです。  2-1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  2-2. 《要る》の根拠は 《水と霊による》などの記述とそして神秘的なもので おそらくは サクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  ◆ 3. ユダヤ民族の 初めには基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとってもの規範としての律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  3-1. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらの信仰の中の神にもどった。  3-2. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  3-3. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  ◆ 4. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  4-1. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 同じである。と成ったのではないだろうか?  4-2. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学が有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  4-3. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるだろうか。  4-4. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  スサノヲ市民の自由のまったき自由にもとづくご見解を思う存分あきらかにして ご教授ください。

  • 水による洗礼は 要らないのではないか

      1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. 《要る》の根拠は 《すくいは水と霊による》などの記述とそして神秘的なものであって おそらくはサクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  3. ユダヤ民族の初めには 基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとっての規範である律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  4. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらそれぞれの信仰の中の神にもどった。  5. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  6. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  7. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  8. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 宗教に関係なく 同じである。と成ったのではないだろうか?  9. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学についてそれらは有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  10. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるかも知れない。  11. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  12. もしどうしても水による洗礼も必要だというのなら たとえば産湯に浸かること これが その洗礼だと受け留めればよい。  自由なスサノヲ人間語によるスサノヲ世界市民のまったき自由にもとづく見解を 思う存分あきらかにして ご教授ください。  なぜ 水によるバプテスマが まだなくならないのか? どうして必要か?

  • 原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは

     ・・・どうしてか?  原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  キリストによるそれの贖いもともに言われるのですが それでも なおまだ原罪がなくなったとは必ずしも聞けない場合があります。なぜでしょう?  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており しかもそれらは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪は 悪魔とともに 方便であり もともと無い。ということではないのですか?  ということで もう少したたき台をつづります。  1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように--なぜなら ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である-- 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治 また 共同自治》が なかなか思うようにならないこと(=《苦》)の説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に人びとのあいだで想像されていたもので そのような社会通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経つつシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり 初めからなかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  すでに問うたことがありますが なお問う必要を感じます。よろしくご教授ください。