• ベストアンサー

無天で将官に昇った堀井富太郎中将(南海支隊長)

大東亜戦争で、東部ニューギニアのオーエンスタンレー山脈(最高峰4,000メートル)を越え、直線距離にして220キロを陸路で侵攻するポートモレスビー攻略作戦を担わされ、悲惨な運命を辿った「南海支隊」があります。 南海支隊長の堀井富太郎陸軍少将(戦死後に中将)は、作戦の前から 「こんな無茶な作戦はない。補給もなしでどうやって作戦を達成するのか」 と悲惨な結末を見抜いていた優れた軍人だったようですが(※)、ポートモレスビー攻略作戦は堀井少将の言う通りに南海支隊11,000人の過半が戦病死(餓死)する悲惨な結末となりました。 ポートモレスビー作戦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%93%E3%83%BC%E4%BD%9C%E6%88%A6 (※)「遠い島ガダルカナル PHP文庫 半藤一利/著」による http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31511939 さて、堀井富太郎陸軍中将(陸士23期、陸軍大学校を卒業しない『無天』組)は、詳しい履歴 http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/colonel06/horii.html を見ますと、 * 中尉時代に、東京外語学校へ派遣されて支那語を専修している。<異色の経歴> * 少佐時代に、水産講習所(戦後は東京水産大学、現 東京海洋大学)の配属将校となっている。大尉時代に、陸大副官を務めている以外は、一貫して隊付勤務。<無天組将校の典型的な経歴> * 歩兵科の将校である。砲兵科や工兵科の将校で、陸軍砲工学校高等科(優等卒の者は、陸大卒の天保銭組と同等に扱われたらしい)を経ているわけでもない。 と、「連隊付中佐までか、良くて大佐昇進と同時に予備役編入」の「無天将校の道」を歩いていたように見えます。 それなのに、昭和15年3月に少将に進級し、南海支隊長として「最低の貧乏籤」を引かされた(それも自ら分っていた)とは言え、将官として1万の兵を指揮する地位に上ったわけです。例外中の例外と思います。少将進級の時期も、同じ陸士23期で陸大31期恩賜の小畑英良 陸軍大将(昭和13年3月 陸軍少将)と比べて2年「しか」違いません。 小畑英良 http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/colonel06/obata02.html 小畑大将は、陸大恩賜らしく、中央の顕職を歴任しており、隊付勤務に終始した堀井中将とは比較にも何もなりませんが… 質問ですが 「無天の歩兵将校に過ぎない堀井富太郎が少将に進級できたのはなぜ?」 「支那事変の激化で、平時とは異なり、無天で将官に昇る例も結構あったのか?」 です。よろしくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数6
  • ありがとう数6

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.6

>陸軍には海軍のように「委託学生」のように学生にツバをつけて永久服役の技術士官にする制度がなかったので、  いいえ、旧日本陸軍にも依託(委託)学生制度はありました。(「陸軍依託学生、依託生徒規則」陸軍省令第4号 昭和3年3月8日)  陸軍は、大きくわけて戦闘に直接従事する「兵科」(歩兵・砲兵・工兵など)と、そうでない「各部」に分類することが出来ます。後者はたとえば「衛生部」「獣医部」「経理部」(建技)「法務部」「技術部」(兵技・航技)などがあります。これ等の人材を確保するために依託(委託)生としてつまり青田買いを行っていました。  たとえば、衛生部の軍医依託学生の場合、試験に合格した大学・医専学生は、夏期休暇中のうち三週間軍隊教育を受け、卒業後見習士官として郷土の連隊へ入営し、二ヶ月後大卒は軍医中尉に任官、医専卒は軍医少尉に任官。そのご陸軍軍医学校において「乙種学生」として約一ヶ年の教育を受けました。 >陸士卒の将校の中からこれはという人材を大学に送って「技術将校」を養成していたようですね。  これも、正確には養成ではありません。兵科将校のなかで機甲や技術・整備などの任務に任じる者は、まず陸軍の諸学校(実施学校)で基本教育を受けております。このうち選抜された者がさらに専門的な知識をつけさせるために大学などに派遣されたのでした。  各部将校である技術将校の基本教育も、通信・工兵・兵器・整備などの学校のほか、技術部教育隊、兵技教育隊、陸軍航空技術学校などなどの諸機関において実施されておりました。そして、同じく選抜された者は専修教育に派遣されたのでした。 >この辺も『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』で読み取れるでしょうか。  同書は、わが国随一の陸軍将校の履歴総覧ですが、といっても全陸軍将校のごく一部しか掲載されていませんし、単なる履歴一覧ですから具体内容まで読み取ることは出来ない、とおもいます。  旧陸軍各部教育全般に関しては、  ※『徴兵制と近代日本1868-1945』 加藤陽子 吉川弘文館  ※『近代日本軍隊教育史』 近藤芳信 青木書店  ※『前橋陸軍予備士官学校戦記』 同編集委 非買  ※『新編検証 陸軍学徒兵の資料』 同編集委 非買  各部ごとに関しては、  ※『北京陸軍経理学校の思い出集』 熊須常二 非買  ※『白雲悠々 関東軍経理部教育部・新京陸軍経理学校・満州第815部隊第8期生卒業40周年記念文集』 緑園会 非買  ※『陸軍習志野学校』 同編纂委 非買  ※『陸軍衛生制度史 昭和篇』 陸上自衛隊衛生学校修親会 原書房  などがあります。参考までに‥‥

buchi-dog
質問者

お礼

私の蒙を啓く丁寧なご回答を賜り厚く御礼申し上げます。 「陸軍には海軍のように「委託学生」のように学生にツバをつけて永久服役の技術士官にする制度がなかった」 と、たった今まで認識していたのですが、これは大きな誤解だったようですね。わざわざご指摘下さった回答者様に感謝申し上げます。 多くの文献をご紹介頂き痛み入ります。簡単には読めそうにないものもありますが「活字文献の存在」を知っているだけでも大違いですからね。勉強させていただきます。

その他の回答 (5)

回答No.5

>「無天の歩兵将校に過ぎない堀井富太郎が少将に進級できたのはなぜ?」  まず、将校の累進について、いわゆる天保銭組(陸大卒)と無天組(陸士止まり)の格差があったことは事実ですが、それは大筋でのことでそうでない事例も各期ごとにあるので、一概にこうだ、とはいえない。ということを理解してください。 >「支那事変の激化で、平時とは異なり、無天で将官に昇る例も結構あったのか?」  回答No.1の方のように、ちょうど戦争時期にあたっていた。という事情も十分に考えられます。陸士22期・23期は無天組師団長が多く輩出しておりますから。  したがって、堀井中将ひとり例に挙げて、その累進がどうこうと採り上げても仕方がないような気がします。「軍隊」は俗に「運隊」とも呼ばれたように、まさに時の運によって左右されたがごとく、軍人の人事もタイミングで決まった、といえるのではないでしょうか? それは現在の企業の人事となんら代わることがないように。  公立図書館程度の蔵書で『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』(芙蓉書房)をみると、陸士23期では無天組で堀井中将よりも先に少将になった者は三名います。あるいは、陸大卒でありながら少将になったのが昭和十九年三月というひともいます。あるいは陸大卒でありながら大佐止まりで昭和十四年三月に予備役へ編入された方もいます。また陸大卒で大佐、少将で予備役になった人も数名載っています。つまり、そういう経歴をひとつひとつ不思議におもうとキリがない、ということです。  たとえば、陸士24期卒で、陸大首席、砲工学校優等、フランス・イタリア駐在武官歴任、侍従武官、陸大研主事というキャリアの持ち主で、同期中真っ先に中将に進級しながら師団長どまりで軍司令官になれなかったS中将なんか不思議でなりませんが‥‥  つぎに、尉官、佐官時代に学校派遣、学校配属になった例もごく普通のことだったからそれを「異色」というのはあたりません。当時、陸軍将校で東大、京大卒なんてびっくりするようなことではありませんでした。  さいごに補足ですが『終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑』(戦誌刊行会)は、厳密にいうと終戦時ではなく、昭和十九年末~昭和二○年初頭頃の異動通報を基にして編集してあります。なぜならたとえば終戦時にはすでに戦没している人名が多く記載されているからです。(特に航空関係)    

buchi-dog
質問者

お礼

示唆に富んだ、かつ具体的なご教示を頂きありがとうございます。 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』(芙蓉書房)を参照すれば私の疑問は解けそうだと分かりました。県立図書館まで閲覧しに行く必要があるのが何ですが、いずれ読みに行こうと思います。 「尉官、佐官時代に学校派遣、学校配属になった例もごく普通のことだったからそれを「異色」というのはあたりません。当時、陸軍将校で東大、京大卒なんてびっくりするようなことではありませんでした」 陸軍には海軍のように「委託学生」のように学生にツバをつけて永久服役の技術士官にする制度がなかったので、陸士卒の将校の中からこれはという人材を大学に送って「技術将校」を養成していたようですね。この辺も『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』で読み取れるでしょうか。

  • djiburil
  • ベストアンサー率47% (11/23)
回答No.4

 参考書籍ですが、陸大関係であれば「陸軍大学校」(芙蓉書房:上法快男)、陸軍将校のキャリア関係では「日本陸海軍総合事典」(東京大学出版会:秦郁彦)、「終戦時帝国陸軍現役将校職務名鑑」(戦史刊行会:松原慶治)あたりが参考になると思います。

buchi-dog
質問者

お礼

本のご紹介ありがとうございます。 ご紹介の本のうち一冊は、正しくは 「終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑」 松原慶治/編 戦誌刊行会 ですね。この本は県立図書館で見つかりました。

noname#51386
noname#51386
回答No.3

NO.2です。 ANO.2を全部取り消します。 数字違っています。 すみませ~ん。

noname#51386
noname#51386
回答No.2

長い質問文を読まされて、結局質問は >「無天の歩兵将校に過ぎない堀井富太郎が少将に進級できたのはなぜ?」 >「支那事変の激化で、平時とは異なり、無天で将官に昇る例も結構あったのか?」 ですね。 組織がドンドン大きくなっていく中で、「陸大卒だけを将官」ということでは回っていきません。 陸士同期143人中、無天92人でそのうち将官65人 多くが将官になっています。 この中には水上源蔵も入っています。

buchi-dog
質問者

お礼

長い質問文は「堀井中将は無天ながら非凡な能力を認められて将官に昇ったのでは?」という疑問によるものですが、No1さんの言われるように堀井中将の個人的事情ではなく「戦争特需」の影響だったようですね。 アッツ島守備隊長として玉砕した山崎保代中将は陸士25期の無天組で「昭和15年3月 陸軍大佐」で「老大佐をアッツ島に送り込んだ」と言われますが、もう1年ほどご存命であれば、生前に少将に昇進していたかもしれません。 ところで、 「陸士同期143人中、無天92人でそのうち将官65人」 比率で言いますと、無天が65%、天保銭組が35%ということになります。私は「天保銭組は陸士各期の10%程度」と何となく思っていたのですが、35%もいたのですか? その辺が分る本をご存じでしたら是非ご紹介下さい。

回答No.1

有事昇進ではないでしょうか? 陸士23期はほとんどが将官になっています。 筆頭出世は岡田資東海軍司令官と根本博北支那方面軍司令官で 陸大出身者は方面軍司令官など重要ポストに配置されており、前線司令官(師団長・旅団長など)は無天組が多いようです。

buchi-dog
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 大東亜戦争は軍人にとっては「特需」のようなもので、平時ならどんどん予備役にされていく無天組が将官に昇って師団長などにもなっていたわけですね。「陸士23期はほとんどが将官になっています」とはまったく知りませんでした。別に、堀井中将が特別な昇進例ではなかったのですね。 「陸士**期全員の最終官職」などが分る本でもあればぜひご紹介下さい。

関連するQ&A

  • 東条英機は篠塚義男を追い抜いて進級した?

    東条英機が大将に進級する際に、先任者の篠塚義男がいるのにそれを追い抜いて進級した事から、異例だと読んだことがあります。先任者云々の理屈はわかりませんが、篠塚中将のどの辺りが先任なのでしょうか。  手元の『陸海軍将官人事総覧』によると東条・篠塚両名ともに大佐・少将・中将に揃って進級しています。”差”といえば篠塚中将が5年早く陸大を卒業していますが、そこでしょうか?

  • 陸軍大学校生徒の姿恰好・服装は?

    今、戦前にあった陸軍大学校(陸大)の生徒の服装について調べています。 陸軍大学校生徒は将校なので帯剣本分者ですが、別に武装する必要がないので軍刀などを身に着ける必要はないかと思います。 しかし「参謀本部作戦課の大東亜戦争」という本では学生時代の著者が帯刀して写真に写ってました 実際に学校に通う時、陸大生は軍刀をさしていたのでしょうか? 陸軍大学校条例を読んでも服装に言及してません。 どなたかご存じの方教えてくださいm(_ _)m

  • 軍の昇進は一体どうなっているんでしょう?

    大規模な作戦で成功させた場合と失敗した場合。 当然、成功させた場合将兵に対して何らかの武勲が必要ですが、失敗した場合も将兵の間に相当数のポストが空きます。 この場合、どうなるんでしょう? 部隊内に複数の将官がいると指揮系統に混乱が生じるのでは? 無論、先任や上級(あるいは高級)などのワンランク設ける方法もありますが、やはり限界があると思われます。 逆に作戦が失敗したのに昇進というのも変な話です(実際、大戦末期に日本・ドイツの間ではこの手の昇進がものすごくありましたが…) 例えばの話、艦隊司令など中将・少将クラスが多数いたとして、当然司令官は中将クラスが勤めますが、司令にもそれぞれ各方面作戦において得手・不得手があります。 通常、少将クラスは参謀や戦隊の司令など補佐を務める事になるかと思いますが、どうしても司令官に就任せねばならない場合どうなるんでしょう? アメリカの場合、少将から大将に一気に引き上げた前例もあるので(といっても、アメリカの場合慣例で平時において中将クラス以上が第2次世界大戦時には置かれていなかった)、事前に昇格させるというのも考えられますが、その場合作戦終了とともにやはりもとの少将に降格させられるんでしょうか? それとも何らかの武勲を立てた場合、褒賞としてそのままなのでしょうか? また、少将・中将クラスが前線で華々しい武勲を立てた場合などの、その後の昇進も気になります(当然、将官クラスだけでなく佐官・尉官クラスもかなりの規模になると予想されます) ドイツでは大将の上に上級大将が設けてあり、元帥は要塞攻略など華々しい武勲を立てぬ限り、元帥クラスの昇進はなかったと言われます。 (ただし、退役間近の名誉引退…老後の年金目当て?が多かったとか。:大戦末期は除く) しかし、その一方でアメリカはバリバリ元帥が活躍してたりと、??(お国よって違うんでしょうけど;)。 どうなんでしょうね、ここら辺の指揮系統というか昇進ぐあいは…? 連戦・戦勝もありえないし、かといって都合よくポストが空くとも思えません…。

  • 徴兵制なのに志願する人がいる不思議

    陸大や陸士海兵など幹部学校には入れれば軍人で死亡率が一番低くなるから理想です。が、大多数の人間には学力的にそれは無理なわけです。 もちろん本気で自分が何とかしなければならないと若い使命感に燃えて前向きな動機で志願した人は存在すると信じたいです。 ですが、大多数の人はどうなんでしょうか。 ・体力に自信がないから徴兵で勝手に陸軍に決められる前に先に海軍に志願した。 ・莫大な予算をかけた大きな船だから大切にされるだろうと、まさか沈むわけがないと思っていた ・建前はどうあれ新兵器の搭乗員なら貴重な人材として最後まで大切にされると思ってたから決死作戦の新兵器に志願した ・軍内でどうふるまうのが安全かわからないから志願し潜入して情報収集活動や仲間・コネづくりを行っていた ・同じ階級同じ期別でも志願兵のほうが徴兵より大切にされるというデマが広く信じられていた。志願兵が有利というより徴兵が不利な扱いを受けると思われていた ・志願兵が足りてたは誤りで志願兵が足りないから学徒出陣したし年齢の上限も上げた ネットで調べるとこんな感じですが本質的な理由はどれでしょうか。 大戦末期でいよいよ勝ち目がないぞと素人目にも明らかになってきたところでも志願兵が足りていた理由が知りたいです。 その辺りの事情の書かれた本やホームページがあったらお願いします。

  • 牟田口廉也は無能なのか?

    牟田口廉也は無能なのか? の質問があったので以下投稿しました すると不支持の方がいた 具体的に何が不支持なるのか意見を下さい 興味のある方願います 少し加筆しました インパールの失敗は 戦後しばらくは罷免された3人の師団長(佐藤、柳田、山内)が無能とされてた 現在は牟田口廉也軍司令官が悪者となっている そして独断撤退した佐藤幸徳第31師団師団長が英雄になってる この東部インドへの進行作戦は、昭和17年に南方軍が第二段作戦として準備を発令 この時、第18師団長だった牟田口は兵站困難の為反対している その後は、ガダルカナル、ニューギニア線があり、保留に その後ビルマ周囲に英中軍が兵力増強してきたため、日本軍も師団を増強 第15軍の一軍だけでは手に追えなくなるので、上部のビルマ方面軍を新設 同時に大人事異動が行われ、この時、牟田口は第15軍司令官に昇進 牟田口は師団長時代とは違い、今度はこの作戦を進行させる立場になった この異動で西ビルマ方面の地理地勢敵状に通じているのは、牟田口軍司令官のみとなる その為、参謀達を一般論として受け付けず、自ら作戦計画書を加筆したとも伝わる 作戦反対の参謀、参謀長を更迭も行った 牟田口は、陸士陸大で恩賜ではなかったものの、省部勤務が長く、部隊勤務も近衛部隊長を経験し、かなりプライドが高かった だから、特に歩兵科出身者にありがちな皇軍精神論の持主であった だから、気合と根性で人を判断し、人事をないがしろする一面があったようだ その結果は、一介の軍司令官が前代未聞の親補職の師団長解任を3人も行なった。 また、支那事変は自分が始めたので何か自分でカタをつけなければ、という思いがあった だから、牟田口はビルマ方面軍、南方軍、大本営に、インパール作戦を強く要望している 牟田口には、全体像の日本国、全陸軍の情報がなく、自分の担当範囲のビルマ、インドが全てで、そこに猛進していた それでカタをつけた事になると思っていた 大本営の思惑としては、南東方面、中部太平洋方面が押されているので、 絶対国防圏外郭での作戦成功で、戦果の自負と国民の戦意高揚を欲していた一面がある これは大陸打通作戦にも期待されていた また、たった3コ師団くらい現地軍まかせて、どうでも良いと考えていた インパール作戦は日本陸軍が大好きな攻勢防御 と言うか 陸軍大学でそういう教育をしている 日本軍勢力下の外郭要地を望むのは当たり前の事 現在の牟田口廉也像は、生還者、作戦に反対派だった参謀、部隊長達が、一部の牟田口の言動をとらえたり、生還した士官に皇軍士官としての敬礼、軍装品の不備を叱責された事を恨めしく思った一部の極端な一面のようだ また牟田口は作戦にあたり、自動車、輜重兵中隊、合わせて300コを南方軍に要求している その数は全陸軍が保有する中隊数を超える数であった 要求数は、ビルマ方面軍により減らされ、減らされたその数も南方軍の手持ち数を超えており、 南方軍の答申は要求数の2割りだった しかし、この兵站部隊が減らされたのに作戦は実行しなければならなかった ここは、牟田口の責任ではなく、ビルマ方面軍、南方軍の責任である 苦悩の末、参謀のアイデアを採用して、物資を水牛に駄載運搬、必要時に食料に使う、一石二鳥のジンギスカン作戦を採用する 結果はこの地方で徴発した動物は物資運搬には適さずアイデアは成功しない 良く誤解されるが 上部司令部の作戦命令に、第15軍には兵站の不足の状況があったが、命令を達成するために苦悩の末、採用したアイデアである 牟田口が個人的に先走った作戦ではない 日本陸軍は与えられた兵力で目的達成しなければならない 開戦時のフィリピン作戦の失敗が良い例だ 実際問題として、作戦中の3個師団の報告、命令、事務を一人の人間が行うことは不可能だ 作られた作戦計画は、奇襲により短期で敵地を抜き、敵根拠地で食料を得るという、日本陸軍の通例の作戦だった 特に牟田口だけが採用した特殊な作戦ではない 結果の敗戦は牟田口が軍司令官でなくても大同小異 たまたま、そこに牟田口が居ただけ 特に牟田口だけ能力が劣っていたわけではない 第15軍司令官という職責がそうさせた 牟田口自身は、後年作戦失敗を、天皇に詫びる気持ちと、戦死戦病死した将兵に詫びたい気持ちだったようだ ただ、戦後に英軍が危機だったことを聞き、自分の作戦は正しかった事の主張が多くなった。 これが嫌悪感を高めているようだ ただ、出身の北九州では兵を可愛がる良い将軍と人気があった 牟田口は、司令部に家を建て、芸者を呼んで宴会をしていた これが戦場帰りには不快に感じられたようだ 命令違反退却して英雄視されている佐藤幸徳第31師団長は、 食料不足で苦しんでいるときに、前線に慰安所を設置しようとしたり、 兵達がテントを過ごしている中、師団長の為の豪華な家を建てさせている 軍司令官、師団長という親任官は、感覚がズレていた たとえ戦場においても、そういうものなのだ 特にビルマだけ、おかしいものではない 兵隊と同じ兵食を食べたり、減食すること等、庶民の兵隊と同じ生活をすること自体、おかしいと考えられていた 上官ほど良いものを食べ、良い生活するのは、高等官は当たり前の事 特に親任官は、戦場においても、それだけの格式、優雅な生活をしていなければならなかった これは、現在の官僚体質や、国会議員、大臣と同じと言えるかもしれない 戦場で刺身を作らせた事や、担当兵に梅干樽を担がせて移動したこと事を、大問題と投稿されている方もいるが、この戦場の生活スタイルは、当時は当たり前のもの 平等という考えは存在しなかった 軍司令官、師団長は親補職であるから兵にとっては天皇と同じ 兵と一緒にとか、同じなんていうのは、映画で作られた虚像 ただ、100%そうだったかと言うと、一部にはそういう考えの人もいたのは事実 でも内容は違った 感覚はズレていた 本当に兵の生活を理解している人は居たかどうか…。 少尉だって学校出ただけで奏任官であって、それだけの待遇があって当たり前 戦時国際法でも、捕虜の兵は使役に使っても良いが、少尉の士官は免除された これが当たり前 まして、軍司令官、師団長の中将なら当たり前 捕虜になっても、軍司令官、師団長の中将は、その格式の食事給養がされる 捕虜収容所の所長が中将より階級が下であったら、たとえ相手が捕虜でも、所長から先に敬礼しなくてはならない 参謀は作戦に反対意見を述べる事はできるが、どの意見を採用するかどうかは軍司令官の判断 実際米軍と違い、日本軍の主義として、司令官が直接主導権を取らず参謀長が決定するのが通例 これは師団長も同様 司令官自ら決定しなければならないのは、参謀長をもたない旅団長まで 軍司令官により決心された作戦を、細部計画を立案するのは参謀の仕事 これも師団長も同じ 決定に逆らった参謀は罷免、更迭されるのは当然 同じく、決定、命令に従わない師団長が罷免、更迭されるのも当然 また、部下は意見具申はできるが決定事項に従うのは当然 米軍は、作戦が計画通り進まないのは戦意が欠けると、戦場で師団長解任が行われている 日本の場合は、師団長が親補職だから大きな問題として注目されている 実際は、本当に牟田口司令官個人から発せられた解任かどうかも不明 日本軍は、米軍と違い、参謀、参謀長を無視して軍司令官が直接命令を発する事は不可能 師団長に命令伝達するのは軍参謀長 師団長が報告行うのは軍参謀長宛 結局、慌てた南方軍が解任された佐藤師団長を精神異常として処理、予備役編入されている 同じく、牟田口廉也も作戦失敗の責任を取らせる形で予備役編入されている ただ直ぐに召集されて予科士官学校長になっている また佐藤幸徳もすぐに召集されている 陸軍の評価としては、作戦失敗の責任で予備役編入しているが、それ以上のおとがめ無しですぐに召集している これは親補職であったからと言われる 牟田口の予科士官学校長は、軍司令官経験者としては格下、かなり責任を取らされた形である 戦後の評価は、佐藤ら3師団長だったが、現在は牟田口軍司令官に変わっている しかし、牟田口廉也が無能で佐藤幸徳が有能とは一概に言えない 失敗=最終的な作戦立案した参謀の問題 第15軍のインパール作戦失敗は結果論 更に言えば、一番の問題は、作戦開始を命令し作戦中止命令の遅れた上部のビルマ方面軍司令部 個人を言うならビルマ方面軍司令官の河辺正三大将 だから牟田口個人を一概に無能とするには当たらない 誰が司令官でも結果は大同小異 内容はガダルカナルやニューギニアと同じ 問題は3人の親補職の師団長が作戦中に解任になった事 親補職であることが問題 ガダルカナルでも川口清武旅団長が戦場で解任になっているが、親補職でないので全然問題になって無い 牟田口廉也無能論は、戦後随分たってから発生した結果論 当時の一般的な軍司令官 中将で師団長のあとに予備役にならず、軍司令官に昇進できただけで大したもの。 結局、日本の軍司令官の資質ってこんなもん そういう教育しか受けていない だから牟田口廉也個人を無能とするには当たらない どうでしょう? 私の意見 師団長時代と違い今度は進行させる立場になった 自動車、輜重兵中隊、合わせて300コを要求 与えられた兵力で目的達成しなければならない 敵地で食料を得る通例の作戦 牟田口だけが採用した特殊な作戦ではない 個人的に先走った作戦ではない たまたま、そこに牟田口が居ただけ 職責がそうさせた 当時の一般的軍司令官 誰が司令官でも大同小異

  • 頭の中将などがありますが、殿の中将というのは何ですか?調べても良くわか

    頭の中将などがありますが、殿の中将というのは何ですか?調べても良くわからないのでおしえてください。

  • 中将湯について

    卵巣腫瘍です。5cm大でまだ両性か悪性かまだ分かりませんが一週間後にどんな形状かCTをとる事になりました。それまでの気休めではありますが中将湯を母に薦められたので普段飲んでいるお茶代わりに飲んでみようと思いますが、実際少しでも良くなってくれるのか不安です。それに飲んでいたらひどくなることはないのでしょうか。

  • アメリカで栗林中将は倉林中将?

    太平洋戦争の痛ましい硫黄島に関するドキュメンタリー番組を見ました。 戦闘で生き残った元兵士のインタビューで、 日本軍の栗林中将がとった戦法に、いかに苦戦したかを語っていました。 何度も登場する「栗林」の発音がカタカナ的には全部クラバヤシ、と聞こえます。 栗の"ri"の"i"はaに近い発音ですが、 林の"shi"の"i"は、そのままiになっていました。 昔私が学生のころ、日本の学校に赴任してきたアメリカ人英語講師の先生は、このようなことがありませんでした。 この元兵士が栗林をクラバヤシ、と発音するのは、出身地による訛りになりますでしょうか? その場合、どの地域の訛りでしょうか。 どの地域にもそのような発音をすることはあり得ず、単純に、一兵卒にすぎない兵隊さんが、「倉林」だと勘違いしているだけでしょうか?

  • 南海2000系の南海線運用

    南海線に転じた2000系は、 まだ高野越えの装備は残っているのでしょうか? それ以前に、南海線よりも高野線北部で運用したほうが 本来の職場と結びついていて 効率的にも見えますが、なぜわざわざ南海線に持っていったのでしょうか?

  • 硫黄島の栗林中将

    映画では、着任したときに参謀肩章をつってますが、司令官にはおかしいのでは?