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《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?

 一般論です。つまり 一般論として提出することができるほどだという観察があります。  すでに一度 問うたことがあります。   Q:《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか    http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html  たとえば 仏教では 人間を初めとして有情には 仏性があると言います。例外がなければ この事態は 絶対なのではないですか。  八百万の神々は 絶対でしょうか。そうでないでしょうか。あるいは わざと あいまいにしておくのでしょうか。もしそうだとすれば それは なぜでしょう?   曖昧にするということは 絶対と相対との区別を知らないわけではない。知っていて 最後の結論を言わないという事態であるはづです。    司馬遼太郎が 短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。   http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html (第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。  このように効用もあるはづですが もし理解したという姿勢を見せないのだとすれば それは なぜでしょう? おしえてください。

noname#80116
noname#80116

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回答No.29

「鬼頭秀一氏は、ちゃんと『自然保護を問いなおす』(ちくま新書1996)のP21でちゃんとこう指摘してくれている。  「ただし、ツイアビの演説はサモア人の普通の話し方とは異なるし、サモアの演説の形式も踏んでいないことから、文化人類学者の間では疑問視されてきた。そして、最近これが偽者であることはほぼ明らかになっている」 」 「そう、鬼頭氏が指摘するように文化人類学者の間では、パパラギが偽者であることは常識だったのだ。パパラギ・ブームもあいまって日本のサイトには、こうした写真が掲載されているのだが、「ツイアビ」という人物も存在しない。ツイアビとはただ「酋長」を意味する言葉にすぎず、ツイアビの本名はアガエセ(Agaese)といった。そして、実際のアガエセは、反文明思想とはほど遠い人物で、当時サモアにいたドイツ軍の軍属でキリスト教徒ですらあった。加えて、アガエセは、ヨーロッパを一度も訪れたこともなければ、仲間のサモア島民にスピーチもしていないのだ。このことは、実証もされている。オーストラリアのシドニーのニューサウス・ウェールズ大学のグラント・マッコール(Grant McCall)教授が、サモア島民にパパラギの内容を講義してみたところ、サモアの人々は、その内容に首をかしげるばかりだったのである。」 「では、パパラギを書いたのは誰なのか。そもそもパパラギが誕生したサモアがどのような地なのかその背景から探ってみよう。」 「サモアは、ニュージーランドの北2,300km、ハワイの南3,700kmの南太平洋上に位置しする。東はクック諸島、南はトンガ、そして北にはトケラウ諸島が連なる。海峡を挟んで18km離れたサバイイ島とウポル島の2つ島を中心とした群島だが、全部合わせてもその広さ2,935平方キロで鳥取県ほどでしかない。人口も9割以上がポリネシア系のサモア人で、残りは、サモア人とヨーロッパ人の混血である。」 「農業と沿岸漁業中心で、タロイモなどが生産されているが、その80%以上が自給用である。宗教は、キリスト教がほぼ100%である。」 「さて、サモア諸島には、紀元前1000年から人々が定住し始めていた。だが、西洋史に登場するのは、1722年にオランダの探検家ヤーコプ・ロッヘフェーンが「発見」してからである。その後、1768年にフランスの探検家ルイ・アントワーヌ・ブーゲンビルが訪れ、「イール・デ・ナビガトゥール(船乗りの島々)」と名付けている。1828年には、メソジスト派宣教師上陸、その後、各派宣教師が上陸し布教活動が活発化していく。そして、1850年以後は、商売を目的とした移住も増えた。」 「1839年には米国のウィルケスがサモアの部族と通商協定を結び、1878年には米国は海軍の石炭供給所確保のため、東サモアのパゴパゴを併合した。イギリスもサモアに通商の拠点を置き、捕鯨船の補給港として栄えた。」 「ここで、ドイツが登場する。植民地政策で他の列強に大きく後れをとったドイツは、その隙間を埋めるかのように、アフリカや南洋諸島に進出し、植民地を建設していく。1857年、ハンブルクのゴーデフフロイ商会が南洋事業の拠点をサモアに置き、南洋各地の商人と取引を始めたことから、イギリスや米国と権益が衝突する。」 「1888年にサモアの2部族間で起こった争いに米、英、ドイツが介入したことから、混乱が広まる。事態収拾のため、翌年ベルリンでドイツ・アメリカ・イギリスが協議し、サモアでの3国の権益に制限が設けられ、形だけは住民自治が認められた。だが、部族たちは押しつけられた自治を認めず、パパラギの謀略も手伝って、再び1899年に内乱が発生。この混乱に乗じた米国は、イギリスと同盟を結び、ドイツが本拠地としていたウポル島のアピア(Apia)を攻撃した。」 「事態収拾のための協議が再び1899年12月にワシントンで行われ、ドイツは西サモアを、米国は東サモアを、そして、イギリスはサモア諸島から退く代わりにトンガ諸島とソロモン諸島を分割統治することで折り合いがついた。」 「こうしてドイツはニウエ、トンガ、ソロモン諸島から撤退し、ドイツ人知事が西サモアを統治することになる。当然のことながら、これに反対する住民運動も活発化した。」 「さて、アガエセの演説をドイツ語に翻訳したというエーリッヒ・ショイルマン (Erich Scheurmann)は1878年にハンブルグで生まれ、画家、作家、童話作家、人形使い、教師と様々な面を持つ人物だった。19歳のときには全ドイツを放浪し、1903年からは、ボーデン湖畔で暮らしていた。このショイルマンが、サモアや南洋のドイツの植民地を訪れたのは、1914年のことだった。だが、1914年8月、第一次世界大戦が勃発すると、同月に早くもニュージーランド軍がイギリス軍、フランス軍、オーストラリア軍の援護を受けてドイツ領のサモアに侵攻。ドイツはサモアを失い、1919年からはニュージーランドの委任統治領となっている。」 「ショイルマンも第一次世界大戦が起きると抑留された。パパラギを書いたのは、まさにショイルマンである。つまり、自分の思想を売り込むために、ツィアビが語ったことにしたのである。しかも、ショイルマンの思想もオリジナルなものではない。パパラギの基調をなす思想は、同じくドイツ人であり、アフリカや南洋諸島を調査していたハンス・パッシェ(Hans Paasche)の「pacifistic Tolstojan」に基づいている。しかも、ショイルマン本人は、植民地主義を正当なものと考え、後には、ナチのための宣伝文さえ書くような人物だった。」 「ショイルマンは、1918年の戦争終結の直前にドイツに帰国し、1930年からはアルムスフィード(Armsfeld)で暮らし、1957年に79歳で死んだ。」 「南の理想郷は、まさに第一次大戦の厭戦気分にかられたショイルマンの空想のものだったといってよい。」 「ショイルマンが自ら吐露したように「パパラギ」は嘘つきなのである。西サモアが独立したのはその後の1962年で、東サモアは事実上、今も米国の統治下にある。パパラギの中に描かれた理想郷とはほど遠い。だが、スロー・ライフ・ブームに乗って、「へぇー、やっぱり伝統的な民族の文明批判力にはすごいものがあるよなー」とその嘘にだまされてしまっている日本の若者たちは、サモアの人々よりもさらに不幸としか言いようがない。」 http://pub.ne.jp/cubaorganic/?entry_id=293974より引用 「Actions speak louder than words.(人はことばより行ないで判断される)」 http://www.mock-examination.com/mosi_kotowaza.htmlより引用

noname#80116
質問者

補足

 そうですか。パパラギがそういう作り話だったとは知りませんでした。ていねいに貴重な資料をおしえてくださって ありがというございます。お礼申し上げます。  いちおう 正確を期して 細かい点をも添えたいと思います。 ・鬼頭秀一の著書について まだわかりませんが それを紹介するこの《嘘付きパパラギ》の文章にかんして 作り話であることを 決定的に論証しているとは言い切れないうらみがあります。 ・つまり 本人であるアガエセから ショイルマンが聞いた話という要素は まったくないのかどうかです。それに基づいていると言われる《ハンス・パッシェ(Hans Paasche)の「pacifistic Tolstojan」》では どうなのかです。 ・わたしが このパパラギをここで引用したのは 文明批判そのものの問題ではなく 全体として ひとつの・《絶対》なる概念の受容の仕方を示していると思われたからです。ましてや 《南の理想郷》うんぬんというのは まったく 別の問題です。 ・《絶対》に相い対するとき そのようなたぐいの受け留め方もしくは受け容れ方を ニホン人も していて ちっともおかしくない。あるいは さらに別の対応もありうる。こう言いたいためでした。その点は まだ有効だと思います。   (いやいや ちゃんと別の対応をしているではないかというとき それに対しては いまの概念を あくまで概念としては受け取ったということまでは はっきりと触れて 明らかにしていることが 望まれます)。 ・サモア人の話しではなく ひとりのドイツ人の受容の仕方であるのなら まったく話しがちがってくるのですが それでも われわれニホン人は われわれなりにその欧米の文明を受容してきているのですから けっして 問題のあり方が 消えてしまうとは考えられません。 ・《「Actions speak louder than words.(人はことばより行ないで判断される)」》というとき 過去のおこないを 何の留保条件もつけずに そのまま持ち出すのは 考えものだと思います。つまり 極端にいえば あたかもニホン人は いまも 過去と同じだから かれらを拉致してきても 行ないで判断したのだという言い訳を聞かされるような感じが うっすら してきます。 ・問題は 概念を受容することであって そのあと じつは必然的に伴なわれる《信仰》についても それは 有と無との選択があるのですから 何ら問題はないはづです。という質問趣旨なのですが。ですから わざわざパパラギを出してしまいましたが 大航海時代以降の西欧・米のおこないの歴史と 直接の関係はないとお伝えするべきでした。 

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noname#52670
noname#52670
回答No.12

やはり私の勉強不足ですが、 いままで、天之御中主神が 批判されたことがあるのか?ということです。 徹底的に無視されてる点が逆に 日本における絶対性の凄さだと思います。 現れて、すぐ姿を隠したんですよ。 よくこんなこと思いつくなと。 神学論争を回避してますよ。 もうそれを信じるか、信じないかのところまでいっています。 もし八百万の神を受け入れ、なおかつこんな絶対性 を確保した神も受け入れているのであれば 天地創造の神を否定したところで、異教に対して排斥を 行っているだけということになってしまいます。 だから、私の意見としては、日本の絶対性は、実は半端ではない。 というのが答えです。

noname#80116
質問者

お礼

 仏教=人為論にかんして 参考になる解説を見つけました。引用しておきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 水野弘元:仏教要語の基礎知識 1972 第三章・一(p.115)  仏教では存在するものとしては インドの外教や西洋の哲学などが説くような本体や実体を説かず 時間や空間の中にあって われわれが感覚や知覚で認識することのできる現象界だけしか認めない。時間空間を超え 生滅変化にわたらない永遠不滅の存在としての本体や実体といわれるものは 仏教によれば これを認識判断する能力がわれわれにないから それが存在するとも存在しないとも論証することができず またかりにその存在が認められたとしても 本体界はわれわれの世界としての現象界とは無関係なものであって 修行や悟りには役立たないものであるから これを問題にしてはならないとした。この意味で 仏教では存在するものとしては 現象世界のみに限って考察することになった。つまり われわれがその存在を認識し それについて判断を下すことのできるものは 時間空間の中にあって われわれに経験され得るところの現象だけである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 小滝透:神の世界史 ユダヤ教 1998 p.157  〔ヨブが神に関して 間違えて 応報論で捉えていたということを承けて〕  この場合 仏教に見られるように 絶対神の要らない宗教ならば 応報論は罪ではない。いや 仏教者にとっては 因果応報の究明こそ覚者になる条件なのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  降れば土砂降りで 二箇所 見つかりました。かんたんに こういう見方は あったということに 驚きです。  こうなれば 仏教は 経験科学・経験思想です。  《絶対》が想定であるという説は この仏教観と合致すると思います。  仏教は そのとき 信仰の生じる余地があるということにも 触れておくべきだと思います。自分は 無記であるということと 矛盾しないのですから。

noname#80116
質問者

補足

 アメノミナカヌシは 例の河合隼雄がよく持ち出す事例ですが よくもまあ(これは 正負から中立のおどろきの表現です) 引っ張り出してきましたねぇ。ぎゃふんと言わせたいといったところでしょうか。  とも考えてみましたが そうでもなく もともと 奥の院のその奥に 深海の底のそのまた底に あなたの心(思想)の問題としても じゅうぶん はっきりと しっかりと 横たわっているものなのでしょうか。    このところ うううーんと うなりっぱなしです。  このように 綴りながら 反論を考えているのですが ひとつ 思いつきました。  《日本国および日本国民の統合の象徴》――そしてそれは 人間として目に見えるかたちで存在している――と《アメノミナカヌシ》との関係もしくは区別の問題になるのではないか。  簡単に 象徴をアマテラスとよぶことにしましょう。アメノミナカヌシが まったく 何にも触れられていないということと そのことを アマテラスの存在や情況などに当てはめようとすることとは きちんと区別されなければならない。もし区別されているのなら アメノミナカヌシ教のその重低奏なる無言の響き これを認めることにしましょう。シャッポを脱ぎましょう。どうですかねぇぇ。  ですから もしこの沈黙のうちに強烈なひびきを奏でている日本教のアメノミナカヌシを言うことによって アマテラスのことを暗に言っているのだとすれば それは ためにする発言であるでしょう。いわゆるアマテラス予備軍の仕事です。いかがでしょうか。  つまり もし両者が峻別されているとすれば アメノミナカヌシが いかに半端ではない絶対性を表わしていたとしても 構わないわけです。そういう神話であり 物語です。なのでは?

回答No.11

まず…理解できていないのに理解したという姿勢は見せられません。 そして理解できないのは《絶対》足りうる存在が存在しないから。 もしくは《絶対》でない存在の私に《絶対》の存在が認知できないからでしょう。 真実が下の方であれば議論終了ですが、私個人は上の方であると思っています。 学問は幾何学にせよ科学にせよ、AがBでありBがCであったのだからAはCであって欲しい(あるはずだ) 所詮はこういう物で《絶対》と呼ぶには程遠い代物です。 自然(動植物を除いた全て)の法則もまた《絶対》足りえません。 動植物の動きによって流れを変えられてしまうからです。 では人間(個人)の存在は《絶対》でしょうか? いえ、己の命を捨てて何かを為そうとする者が居る以上《絶対》足りえません。 人によって幾多の神が存在しますが、それも《絶対》ではないと思います。 宗教では基本的に人間を作ったのは神であるか、神の末裔が人間である。 とされますが…ならば何故《絶対》な神から《絶対》足りえぬ人間が生まれましょうか? よって、上記の通り…《絶対》足りうる存在は存在しない。 と、結論付けさせていただきます。

noname#80116
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ううーん。大体は おっしゃるとおりだと考えるのですが 細かく見ると 正直なところ いま少し こうじゃないか ああだと思うという感覚が起きてまいります。 ★ まず…理解できていないのに理解したという姿勢は見せられません。 ☆ そのとおりですね。買いかぶりがありました。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そして理解できないのは《絶対》足りうる存在が存在しないから。 もしくは《絶対》でない存在の私に《絶対》の存在が認知できないからでしょう。 真実が下の方であれば議論終了ですが、私個人は上の方であると思っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは おそらく 《〈絶対〉なる概念の想定》とそして 《その想定上実際に生じてくる信仰という事態》との二つの側面に分けて捉える必要が起きているように考えます。  想定もしくは定義としては 《存在するか しないかが 分からない領域》つまりさらには《それが分かるか分からないかが 分からない領域》だと思います。  この《絶対》が 一般に《絶対者》として そしてさらに一般に《神》として 人によって抱かれるという事態が生じます。つまり学問一般の《考える》ではなく それを超えた《信じる》という生活態度です。   じつは この信仰者にとっても 《〈絶対〉でない存在の私》なのですから 《〈絶対〉の存在が認知できない》というのは 当然であり ふつうのことです。(主観の内なる出来事としては まぼろしとしてでも 見た・分かったという瞬間があるかも知れません。《心の清い人は幸いである。神を見るから》)。  かくして ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 学問は幾何学にせよ科学にせよ、AがBでありBがCであったのだからAはCであって欲しい(あるはずだ) 所詮はこういう物で《絶対》と呼ぶには程遠い代物です。 自然(動植物を除いた全て)の法則もまた《絶対》足りえません。 動植物の動きによって流れを変えられてしまうからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ となります。次は 結論ですが 一面では 上と同じことを述べておられると思いますし 他面では 《何ごとも移ろい行く経験世界》には 《絶対》はないというその定義そのものを明らかにしておられて けっきょくは そのかたちで 《絶対》の概念を想定した結果となっており それをとうぜんの如く理解したという姿勢を示しておられる。こういうふうに受け取りました。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ では人間(個人)の存在は《絶対》でしょうか? いえ、己の命を捨てて何かを為そうとする者が居る以上《絶対》足りえません。 人によって幾多の神が存在しますが、それも《絶対》ではないと思います。 宗教では基本的に人間を作ったのは神であるか、神の末裔が人間である。 とされますが…ならば何故《絶対》な神から《絶対》足りえぬ人間が生まれましょうか? よって、上記の通り…《絶対》足りうる存在は存在しない。 と、結論付けさせていただきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 一点だけ やはり細かいことを述べます。  《〈絶対〉な〔る〕神〔が〕〈絶対〉足りえぬ人間〔を生む〕》という話しは 一つに 《絶対》をあくまで代理して仮りに表現したもので さらに擬人化して表現しています。分かり易いようにです。もう一つに それはすでに――主観の問題にとどまるという信仰の領域なのですが それだけではなく―― 《絶対》であるなら 何でも出来るという想像がはたらいているという恰好です。全知全能だというわけのようです。主観の中で そういうふうに神を ことばで説明しようとした結果だと思います。主観は自由であり その表現の自由までが 保証されています。 ☆ つまり わたしが受け取った内容としては  ★ …《絶対》足りうる存在は存在しない。 ☆ という判断じたいが 《〈絶対〉足りうる》という視点において この《絶対》という概念をすでに想定しており 逆説的にでも それを定義した恰好となっていると思うのですが いかがでしょう。

noname#52670
noname#52670
回答No.10

自由という名の不自由。 日本を扱おうとするとこんな言葉が思いつきます。 私は神道に関してはまるで知識がないのでなんともいえないのですが、 とにかく宗教という面で見ると日本は不可解です。 日本という概念がいつできたとか、そういう話は置いといて。 ほんとうに無宗教・無神論なら、神仏の批判が徹底的に できそうなものなのですが いざそれを(哲学のキリスト教におけるが如く)やろうとすると 反発が多いわけです。 たぶん、日本は宗教的には眠っている状態にある…くらいが 穏健な意見で済むかな…と。絶対を知りつつ曖昧にするということでは。 で、新興宗教が多いのは寝ぼけてるから。…と。 教えてgooや哲学においてですら、 神を扱う場合、キリスト教の神を扱っても 天照大神や仏をその議論の土壌には乗せてならない不思議な タブーを感じます。それはそれだけ宗教的なんだと思います。 つまり、絶対ということです。 回答になってるといいのですが…。 本音と建前…という定番な言葉で片付けるのは好みではないですが 便利なので、使わせてもらい答えとします。 それがなぜか?までは、わからないのが本音です。 …もしかしたら、それだけ宗教弾圧があったのかもしれません。

noname#80116
質問者

お礼

 ううううううううううううううーーーーん。    それを――つまり ここで述べられた疑問のすべてを―― 解明するのが 哲学なのでは??????  たとえばわたしも あなたも 誰れも彼れも みな 万世一系として いまここにあります。いささか 側室からの系譜が 割合として 少ないであろうと思われますが。  しかも アマテラス(広く解して もっぱらの公民族)は もともと 市民スサノヲの 実の姉ですよ。段違いになっている状態こそが おかしいのです。二階建てという構造じたいは いわゆる国家形態として 広く経験現象として 普遍的なのですが。しかも やがて この国家も 形態として 次のかたちへと移行してゆくでしょう。(わたしbrageloneの預言です)。   タブーに挑まなくして 哲学の徒ではありえない。タブーに屈していては 北野武の発言のように まったく だらけて 世にも奇妙なほどつまらないことになってしまう。(と感じます)。うんぬん。  なぜ 古代では ひとりスサノヲだけが 自由であったか。  なぜ 現代では ひとりbrageloneだけが 意気を吐いているのか。

noname#49326
noname#49326
回答No.9

>>3・6・7・8です。  連続投稿で、すいません。  今から記述する場所が一番難しい部分なので、一度に記述する方法ではなく、徐々に徐々にという方法を取らせて貰います(投稿者の時間が許す限り)。 >「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」を何故人間は理解したという姿勢を見せないのか。  見る立場から、意見が分かれていきます。 ので、分けて考察します。 (1)言語論(懐疑論)から >形而上のものは姿・形を人間からは見ることは不可能。 →信じる事でしか存在しない。 →想像でしか存在しない。 →よって、それを信じることが出来れば、理解したという姿勢になるのではないか? →又は、それを想像することが出来れば、理解したという姿勢になるのではないか?  想像するだけでは、理解したとはならないですね、汗。 (2)科学の立場から >形而上のものは姿・形を人間からは見ることは不可能。 →存在しない(発見されていない)。 →理解する以前に、理解しようとする対象が存在しない。 →しかし、あるかもしれない(存在するかもしれない)。 (3)言語論(懐疑論)から >形而上のものは姿・形を人間からは見ることは不可能。 →言語によって、形而上のものは(概念上)存在することは可能。 →しかし、言語の中でしか、形而上のモノは生きられない(言語を持つ人間が死んでしまえば、形而上のモノは死滅する)。 →そういう意味では存在しない。 (1)と(3)は少し似ている立場です。 (2)は科学的な立場です。 まとめ  その絶対の概念を何処から見るかによって、答えは分かれると思います。  投稿者さんの満足いく回答ではないですが、汗。

noname#80116
質問者

お礼

 yuki-0217さん 少し面白くなってまいりました。  次の三つの事項を まとめて その次に述べるように見ることができるのではないかと思いました。 (1)のうち →信じる事でしか存在しない。 (2)のうち→理解する以前に、理解しようとする対象が存在しない。  ⇒《〈非対象〉としてしか存在していない》と言い換えうる。 (3)のうち→言語によって、形而上のものは(概念上)存在することは可能。  ⇒《人間の行為や言語を超えているものを その言語で 概念上 代理して表現することが 想定上 可能》と言いかえることができる。  したがって これらをまとめて 一般に 絶対と人間との関係 すなわち より具体的には 《神と〈わたし〉との関係》つまり《わたしの信仰》を 人間のことばで 仮想として代理として表現することが 起こる。  たとえば   きみたちは 真理( X =神)を知り 真理はきみたちを自由にする。   (ヨハネによる福音8:32)  このように想定の上でなら 自由に表現していくことも出来ると思うのですが どうも 人は――そしてわたしの感触では特に 日本人は―― こういうことが なぜか 苦手のようです。もしくは 苦手ではないのに 億劫に感じているのでしょうか。  このようなキリスト信仰の例に反対する人でも その反対の説をとなえるとき 絶対の概念やそれにまつわる信仰のことを どうも ふつうの道徳や倫理思想と取り違えて 論じているように思われます。といった事情のもとに質問しております。・・・

noname#49326
noname#49326
回答No.8

>>3・6・7です。  前回記述の内容を簡単に記述すると、「日本では宗教が盛んでない為、理解されない。その為、そういった姿勢が見られない。よって、投稿者の質問は問題に出来ない(ならない)。」と言いたいだけです。

noname#80116
質問者

お礼

 No.7に いくらか ご返事として述べましたが では yuki-0217さんの場合は いかがですか。語りづらいですか。

noname#49326
noname#49326
回答No.7

>>3・6です。 >「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?  日本人の「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」の理解についての回答。  「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」を「神」に置き換えます。  日本という国は相対的に(他の国々と比較しても)宗教を熱心に信仰している国ではない。 宗教を信仰していなければ、理解以前に、興味・関心もない。  宗教に興味・関心もない、信仰もしていない日本に於いては、理解する以前の問題です。  ですから、理解する姿勢という投稿者の質問は問題に出来ない(ならない)。  (日本人に限らず、)創価学会・キリスト教信者達は理解する姿勢を見せている(信仰・礼拝・布教等)。  よって、そういう信者を対象とするならば、投稿者の質問は成立するでしょう。     仮に成立した質問は以下の通りになる。 →「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」を、日本人の中での宗教の信者達がその概念に理解の姿勢を見せないのは何故か?  しかし、信者達は信仰・礼拝等の行為をしている時点で理解をしていると思います。  よって、その質問が成立しても、その質問に対する回答としては「それはない(信者達は理解の姿勢を信仰という形で示している)。」となると思います。  補足。 →キリスト教世界に於いては、理解をしているが為に様々な反論が起きている(神の証明等)。  「形而上の意味に於いての≪絶対≫の概念」は次に。

noname#80116
質問者

お礼

 なるほど。現状としては そういうふうなのでしょうね。  うぅーん。たとえば 宗教人口は 日本では 総人口より多いと言いますが ただ籍があるだけということなのでしょうかね。  総じて言って ここの教えて!gooの哲学欄では 仏教・キリスト教にちなむ質問が多いですが そのほとんどは いまの《絶対》の概念を――価値自由なかたちで―― 導入すれば 無理なく解ける問題であると感じます。  あるいは逆に 絶対者を神と呼び変えるのは いいですが 性としての存在(女神)にまで言い替えたり あるいは 主神と従属神などなど 勝手に 想像力で絶対を表わそうとしている文章が 目に立ちます。  さらにあるいは イスラーム学者が キリストの三位一体の神を――それは絶対=無限であるから 部分も全体も やはり同じく 無限であるというのに―― 神が三分割されるようでは おかしなことになると言っているのには あきれた経験があります。  ただの一言を言うだけでは かえって 舌足らずとなって よい結果にならないかも分かりませんが 創価学会は 現世利益ですから 絶対をあつかっていません。キリスト教徒のあいだには 絶対である神を 人間の精神(あるいは魂)であると勘違いしている場合が なお見受けられます。うんぬん。  ご回答をありがとうございました。

noname#49326
noname#49326
回答No.6

>>3です。  記述する前の下積みとして、今回は投稿します。 >日本人  それは投稿者の主観である為、外して考えては? 「人間」で良いと思います。  日本人に限定するならば、根拠を出すのが難しくなる(必然的に、調べなくてはらないない)。 >「≪絶対≫の概念」  「≪絶対≫の概念」が形而上のものか、形而下のものか。 その双方の区別をしなければ、まだ記述不可能(可能であるが、双方の見方を記述する必要がある)。  (簡単に言えば、)科学的に証明出来るものか、科学的に証明不可能なものか。  投稿者の質問内容から察するに、形而上の意味に於いての「≪絶対≫の概念」で良いのでしょうか?  区別しないと、混乱した回答が続々出現すると思います。

noname#80116
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ふたつの点とも おっしゃるとおりです。 ・《形而上の意味に於いての「≪絶対≫の概念」で良い》と思います。 ・《この概念を 人間は すでに理解しているのに その姿勢を見せないことがあるようですが それは なぜなのか》です。 * ちいさな反論としては いわゆるキリスト教の広く行き渡ったところでは――司馬遼太郎も触れているように―― その姿勢を隠すどころか 執拗に必要以上にと思えるほど この絶対論を表現しつづけているとも感じられます。その意味で《日本人は》とした部分はありました。  ご見解をお寄せください。

回答No.5

僕もこの場の仏性と空性によって 自生し そして生かされています。 共感し 反発しながらも 教えられ 様々な回答を頂くことによって 一人では到底得られない深まりをもって考えが纏まっていきます。 回答ではたまにというかよくというか 読む人の忍耐の限界?による告発によって 法とマナーに則って 削除されることはありますが

noname#80116
質問者

お礼

 わかりました。貴重なお便りをいただいたように思います。――という言い方は えらそうなのですが。・・・    《まとまった考え》を さらに 投稿してくださるようお願いしておきたいと思います。ご回答をありがとうございます。

noname#52670
noname#52670
回答No.4

前回はどうも。やりすぎたかなぁと…。 今回は端的に。 日本にも絶対はいっぱいあります。 brageloneさんが例に出されているように。 これを否定しようとすると、とんでもない目にあいます。 しかも日本は島国です。徒歩では逃げようがありません。 全部曖昧にして、適当にしないと居場所がなくってしまいます。 エクソダス不可能なわけです。

noname#80116
質問者

お礼

 どうもどうも。  学術論文あるいは ここでの哲学としての議論 そう限定した場合には きちんと述べてもよいのではないか 単純にまづ こう思われますが どうでしょう?  それと 《とんでもない目にあう》のは もう昔の話しではないですか。いかがでしょう。

noname#80116
質問者

補足

 おなぐさみとしてですが。・・・ (1) ホセアは神から言われたそうです。   行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。(1:2) (2) イスラエルがバビロン捕囚の憂き目に遭うことを予表しながら 神はイザヤに言ったと言います。     なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテ  レビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。(6:13) (3) ヒトコトヌシが父なる神 オホタタネコがイエスとして子なる神 オホモノヌシが聖霊なる神で あたかも三位一体が現われているかのようです。崇神ミマキイリヒコイリヱの時代です。  事実( Y )―人間(主観真実:Z)―真理(神:X )   ↓        ↓           ↓  モノ・・・・・・・・・者・・・・・・・・・・・・・オホモノヌシ  (木・・・・・・・・・知恵の木・・・・・・・・生命の木)  コト・・・・・・・・・ミコト・・・・・・・・・・・ヒトコトヌシ  人間に ネコ(根子)とヒコ(日子)とがあります。それぞれ 身体と精神とにも喩えられますが 個体としては オホタタ《ネコ》=市民とミマキイリ《ヒコ》=市長との社会連関です。やがて この社会連関は 二階建てとなり 国つ神(一階なる市民)と天つ神(第二階なる公民)とに分かれていくでしょう。うんぬん。    少年よ 大志をいだき オホタタネコかつミマキイリヒコの連帯に学び オホモノヌシ=ヒトコトヌシの光を仰ぎなさい。しかし 見えないはづである。・・・

noname#49326
noname#49326
回答No.3

>≪絶対≫の概念  その前提条件は何でしょうか? >日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?  日本人だけでしょうか?  宗教世界が確立していない日本特有のものでは?    絶対が神とするならば、日本人以外の人間(外人)も理解をしてはいない。  その証拠に創造論者と科学者が対立しているではないか。 >(投稿者が言う)絶対  絶対の前提条件がない限り、このテーマは成立しないと思います。

noname#80116
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  《日本人》に特定したのは わたしが日本人で ほかの国の事情を 身で知ったという経験がないからです。  《絶対》の概念を 説明した文章を掲げます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《絶対》を 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと》として想定します。次の事情です。  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)    X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは 外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・霊       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は 人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。つまり《精神》は 神ではなく 絶対ではない。  さらには 《無意識》はどうか。これも 広く人間の行なう経験行為の問題として取り上げられており あくまで 経験領域 Y に属す。つまり 非経験 X ではなく 神でもなければ 絶対法則でもないだろう。  ・・・  〔さらには→《Q:信仰はどうやって決まるのか?(近代的自我とキリスト教の神との関係)=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3621072.html 》の ANo.11を参照していただければ幸いです〕。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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     小説家の文章をふたつかかげます。  これらにわれわれが寄ってたかってツッコミを入れることをとおして 日本人論の深みを互いに問い求めることが出来れば さいわいです。  自由にご見解を述べてください。例によって質問者は自由に(つまり 互いに対等の立ち場で) 批判をも交じえて コメントを書き込みます。むろんそれに対して反論してください。  なお 次の遠藤周作における《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはずです。  ▲ (遠藤周作:黄色い人) ~~~~~~~~  神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。  あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。  こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。  最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より)    我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非   らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)   れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は   汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)    (遠藤周作:『黄色い人』 冒頭)  ▼ (司馬遼太郎:《絶対》なる概念と日本人)~~~~~  http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html   近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。  日本に存在しつづけてきたのは、すみずみまで相対的世界でした。  神道、山々や谷々の神々、あるいは仏教という相対的世界を最初から是認した思想。  山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての日本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。  いうまでもありませんが、"あの部分はフィクションです〃という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。  (開高健への弔辞)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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    抽象的概念の必要性について400字以内で説明せよ。 抽象的概念は一般的には分かりにくいが、具体例を用いて示すと分かりやすいことがある。 具体例は抽象的概念の理解に役立つが、一般化することはできない。 抽象的概念は一般化することができるから必要である? うーん・・・。 現代文の教科書を読んだりしてみているのですが、論が深まりません。 どのように論を展開したらよいでしょうか。 お知恵を拝借したく思いますm(__)m

  • 《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。

    なかなか理解できないのでしょうか。そんなことはないでしょうか。 できないとすれば なぜでしょうか。どうすれば よいとお考えになるでしょう。

  • 関係の絶対性

     についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。    【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html  のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。  この言葉は 吉本隆明のものです。  ▲ 関係の絶対性   http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm  ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。  この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。  いまわたしが考えているところとしましては こうです。  (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。  ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?

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