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本能寺の変、明智光秀の真相

大河ドラマで本能寺の変をやっていましたね。昔TVで見たのですが、本能寺の変は、実は徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺であったと。そして実行犯の明智光秀は徳川家に入り、優遇されたと。 (その証拠に、光秀の首を秀吉は確認もしなかった、2代3代将軍の名前には光秀の字がつけられている、日光には明智平という地名まである、、、) この説というのは、日本史学的にどういう位置づけ(立場)なのですか?やはり異端説??それとも実は史実に近いと思われているのでしょうか・・・ ※こういう話題好きなので、その他にもあったら教えて下さい。。(長篠の3段程度の火縄銃隊では、実は騎馬隊が来る前に充填できなかったとか・・・)

noname#2111
noname#2111
  • 歴史
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みんなの回答

  • yoshizne
  • ベストアンサー率9% (2/22)
回答No.55

あると思います。 歴史ってそうそう血なまぐさくドラマ化されていて。 その風潮は現代映画の歴史物なんてまさにそうでしょう。 生き残ったと思いますね。 家康公ならば、「よくやった!」と褒章も取らせるでしょうね。 信長公に関しても脚色されすぎて何が本当だか分かりませんが、明智光秀ははっきり言って信長公に家族を滅茶にされたわけですから、亀山の西興寺に向かう途中に「光秀の返り巖」があるのですが、大坂へ行くのにわざわざそこで京へ引き返して本能寺へと向かう心内とは、それはもう憤怒の修羅状態であったことでしょう。 「ううう”おのれ信長め!!ここであったら百年目!!」 という感じかもしれません。 そんな軽装で駐軍してたなら、もう、ほぼ信長公にとっては天下統一したも当然の心境だったのでしょうか。 まさに時は下克上。 だけども、そんなことすら、今は昔。分からないです。なので、いでよ光秀と信長の子孫!!とジャッジをきりたいところです。

回答No.54

まず本能寺にあの時点で信長が投宿しているのを知っているのは、光秀と信長しかいなかった。 これで他の容疑者はほぼ消え去ります。 秀吉も、毛利とギリギリの交渉をしていたわけで、あのタイミングで信長を消し去るのはリスクが高すぎます。 大返しは秀吉の準備の良さゆえです。なぜなら何度も信長軍団は突然の危機に襲われているからです。そうしたとき真っ先に駆けつけるために秀吉も準備していたのでしょう。また、この準備は万が一中国で毛利に敗れて退却するときにも役立ちます。 一方京の都に軍勢が夜に近づけば、相当の物音が響きます。しかし信長方は怪しまなかった。むしろ堅牢な寺院である本能寺にやすやすと侵入できている。 以上の点から、光秀は閲兵のために信長の元に立ち寄る手はずになっていたか、別の理由で信長が光秀を呼びつけたものと思えます。 蛇足ながら、織田軍が弱兵という回答があったので…… 尾張の弱兵とは、司馬遼太郎がよくする言葉ですが、私は疑問に思います。実際は信長に率いられた織田の軍勢は無敵を誇るのです。唯一長島一向一揆には何度か苦杯を舐めさせられています。ボロ負けしています。 やはり鉄砲と輪中という特殊な地形がものをいうのでしょう。 しかし、特に信長親衛隊は強かったのです。 村上砦を少数で力攻めで落とし、数にも勝る柴田勝家の軍を破り、今川義元の軍勢を桶狭間で破っています。 その後も本願寺の強襲に光秀らが包囲されたのを救出し、大軍を敗退させています。 武田よりも騎馬軍団らしい活躍を見せる織田の黒母衣衆こそ最強騎馬軍団といえるでしょう。

  • bays_star
  • ベストアンサー率34% (10/29)
回答No.53

>細川家や筒井家に何度も手紙を出していますが、 >その中に秀吉が本能寺の変に関与していることは書かれていません。 細川 藤孝(幽斎)は光秀を裏切って秀吉についたのだから、 秀吉に不利な書状などは残すはずはないし、 筒井順慶は、やはり秀吉に寝返った後、本能寺の変の僅か2年後に 不審な死を遂げています。(胃の病と言われているが、毒殺とも) これまた何か匂いますよね… 案外、秀吉にそそのかされて信長を殺ったのは、 筒井順慶の手の者だったりしてね。 秀吉の中国大返し自体が、大嘘のようですよ。 おそらく本能寺の変の起こった頃には、 既に京都に向かっていたと思われます。 当時、秀吉が正義の味方に祭り上げられたのは、 それだけ織田信長が嫌われていたということだと 思うんですよね。で、信長べったりの光秀が、 下手人に仕立て上げられたんだ。 家康は、おそらく秀吉にそそのかされて、堺まで 呼び出されていたのでは? すぐに軍を動かせないようにね。

  • indians
  • ベストアンサー率48% (12/25)
回答No.52

本能寺の変の黒幕が秀吉だったとは考え難いです。よく根拠として秀吉が中国大返しの準備をしていた形跡があることが指摘されますが、土地勘のない他所へ攻めて行く軍隊がいざという時のための撤退の準備をしておくのは当たり前。派手好きな秀吉ならその撤退さえもアッと世間を驚かす速さでやるつもりだったと考えておかしくないでしょう。それが明智征討に役立ったのはまったくの偶然ではないでしょうか。 明智光秀の立場になって考えても秀吉黒幕説は容易に否定できます。光秀は迫り来る秀吉軍に対して味方を集めるために細川家や筒井家に何度も手紙を出していますが、その中に秀吉が本能寺の変に関与していることは書かれていません。もし本当に秀吉が黒幕だとしたら、光秀はそれらの手紙に「秀吉は忠義面してるけど、本当は信長殺しの黒幕はあいつなんですよ」と書くはずではないでしょうか。 徳川家康黒幕説も有り得ません。本能寺の変の急報を受けて命懸けの伊賀越えの苦労をする羽目になっているわけですし、武田が滅亡したとはいえまだまだ北条もいるし、織田政権を継承した者が徳川家と敵対するかもしれない(実際に小牧長久手の戦が起きていますね)。まだ小国であった当時の徳川家が織田信長という庇護者を失うのはリスクが大きすぎます。 結局、秀吉や家康が本能寺の変の黒幕という説は、後にこの二人が天下を獲った歴史を知っているからこそ思いつける推理小説的発想の産物だと思います。

  • bays_star
  • ベストアンサー率34% (10/29)
回答No.51

何故、織田信長の軍隊が弱兵だったかというと・・・ その頃の一般的な軍隊は、領地の農民を集めたもので、 いわば土地に縛られていたわけです。 農繁期は田畑に時間を取られ、戦どころではありません。 戦争は農閑期に限られていたのが、当時の常識でした。 つまり兵は一旦村に戻れば、村の共同体の一員ですから、 戦いにおいて逃げたり戦わなかったりすれば、 戻った後村八分にされたり、家族に迷惑がかかる。 だから戦場においては、勇敢に戦わざるを得なかったのです。 ところが織田信長は、この常識を覆した。 織田軍団というのは、金で集めた傭兵集団だったのです。 ですから、織田の領地の農民でもなんでもない。 金で集まっただけですから、平気で逃げる。命を惜しむ。 弱兵と言われる所以です。 しかし農業ともカンケイないから、田植えの時期であろうと 稲刈りの時期であろうと、戦いを吹っかけてくる。 相当ウザい、しかもしつこい。 それで近隣の領主が音を上げるというのが、 織田の戦い方だったらしいです。

  • dora501
  • ベストアンサー率44% (57/128)
回答No.50

長篠の合戦での有名な馬防柵裏からの三段撃ち 検証が進んだ現在では作り話だという事になってます。 似たような作戦行動はしたのかもしれませんが、一般的に言われてた様な効果はなかったようです。 当時、信長軍団は弱兵で有名だったらしいのです。 そのイメージを払拭する為と信長個人の天才ぶり・凄さを世に知らしめる為に、当時最強と云われた武田騎馬隊を簡単に破った!と宣伝する為に誇張したらしいです。 本能寺の変 実は徳川家が天下を取った過程に関わる重要な資料は、残念ながら江戸時代徳川家によってかなり情報操作が行われてきた可能性が非常に高いのです。 本能寺の変自体は秀吉が天下を取れた要因で、直接的に徳川家が天下を取った要因ではありませんが、徳川家にはかなり重要な政変でもあるからです。 ちなみに、徳川家が明治政府に渡した正史も、情報操作・誇張表現をして記載してある事を当時の徳川家が認めてます。

  • IIsa
  • ベストアンサー率12% (1/8)
回答No.49

天海が明智光秀と同一人物なのは、事実だと思うけど・・・ 本能寺の変は、明智光秀の単独で、豊臣秀吉は、知っていた・・ 徳川家康は、明智光秀を助けたんじゃないかな???

  • anikumo
  • ベストアンサー率0% (0/8)
回答No.48

火縄銃については、前の人が打ち終わったら、後ろの人が前の出て打って後ろが前に後ろが前に・・・を繰り返したんではないでしょうか?

  • syuitilwo
  • ベストアンサー率30% (169/547)
回答No.47

小生も教えてgooトゥデイから誘導されてきました。 小生は光秀の心理から考えてみて、「自棄」になっていた。と推測しております。 所謂、精神衰弱=ノイローゼを起していた。と言う訳です。 本能寺前の上司=信長からの重度のイジメを受けていた訳ですから、仕事一筋「働きマン」の光秀は相当悩んでいたと思います。 一生懸命に働いてきたのに、この仕打ちは酷い!! 「自分のやって来た事は一体なんだったのか?」 その為に御袋さんまで死んじゃったのに… (p_q*)シクシク こんな状態であったのは容易に推測出来ます。 精神的にギリギリの状態でとても「天下」を狙う策略を考える&手を打つ事なんて出来る訳がありません。 つまり、本能寺の変は光秀の信長に対する『仕返し』の領域が大半で、その後の事なんて深く考えていなかった&考える余裕すらなかった。 と言う事だと思います。 本能寺前後の光秀の中途半端な言動が、それまでの『家中随一の切れ者』らしくありません。 いくら有能の士であっても精神的に余裕の無い状態では単なる「キレた」者でしょうから… 逆に家康と秀吉が共謀もしくは単独で信長と光秀を「ハメタ」とするならば、普通に考えて「リスクは最小限に抑える手はず」を整えるハズです。 光秀をそそのかして信長抹殺を図る以上、「操り人形の光秀」の狙いはあくまで信長の首が第一。第二に天下。 となる訳ですから第二の狙い「天下」を獲る為の行動はライバルの抹殺。 となると、家康が大阪に居た。と言う事実は操り人形=光秀に逆に殺られてしまう可能性が高すぎです。 策士、策に溺れる。の諺にもなりません。 家康自身が光秀を使い、信長を亡き者にして天下を狙うとしたら、大阪に居る意味は一体なんでしょう?自身をエサにするには脱出の手はずが余りにお粗末です。 秀吉にしても、毛利との戦は自軍有利の情勢であっても、停戦調停の交渉が行き詰まりをみせていた頃です。 毛利方に己の策=信長抹殺が知れたら全滅の可能性だってありました。 調停が成り立たず、日数を要するだけで他の軍団長に後れを取って終う事も考えればリスクが大きすぎです。 毛利方も最初から抱き込んでいた。と仮定すると、史実の実績から毛利方の損害が大きすぎ、利益が薄く、勘定が合わな過ぎです。 第一に、自軍が光秀軍を確実に破れる。と言う確定的な手を打っていなければ成り立たない謀略です。 即ち事前に他の者(畿内の武将達)達に光秀軍につかない様に手を打っていなければなりません。 そんな事をすれば全員が全員秀吉につくハズもないので、信長抹殺の謀略は何処かで漏れているハズ。 と言う事で、家康と秀吉の信長抹殺の謀略は少々無理がある。と思うので・・・ 少なくとも「信長殺しの光秀を」手の内で飼って置く必要性はないし、光秀自身も自らがライバル(すくなくとも同格)の配下になる事を良しとしたかどうか… (ー_ー;ウーン 小生は少なくとも裏で手を引いていたのは家康と秀吉ではない。と考えています。 信長の専横を良く思っていない朝廷が仕組んだ。とするならば、功一等である信長抹殺を実行した光秀に対しての優遇措置があまりにも『ショボ過ぎ』で、光秀すら使い捨てと考えていたとしても、その次のモノも同様に考えるハズ。 朝廷にとって利益をもたらす者が「秀吉」である。と朝廷が考えていたとはにわかに信じ難いです。 キリスト教を主とする外国勢力&キリシタン勢力が光秀をそそのかした。とする説もキリシタン勢力が本能寺後光秀に合力していない以上少々無理があります。 よって小生の結論は 「光秀の行き当たりばったりの行動の結果。」 と考えております。

回答No.46

 多くの回答文をみていてこの問題に対する真剣度がわかります。平成21年3月9日にプレジデント社から「本能寺の変 四百二十七年目の真実」が出版されました。本能寺の変の時代に書かれた古記録といわれる信頼度の高い史料のみをベースに、本能寺の変を解析しきっています。後年書かれた軍記物や小説の誤りも分析し説明しています。 “歴史研究書”といっても小説のような読みやすさで編集されていますので是非書店か図書館で手にとってご覧ください。  本の宣伝のような回答になってしまいましたが、noname#2111様のように疑問を解決できなかった多くの方々から驚きのメールやコメントを頂いています。私はこの著者の活動を応援するブログ「明智憲三郎的世界(光秀子孫の思い)by法丸」を運営している法丸と申します。

参考URL:
http://praha.at.webry.info/

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