• 締切済み

自分。

私は、物事を悪く考えてしまう人間です。 最近、「自分」というものについて考えるようになりました。 「自分」っていったいなんなんだろう、と。 学校で冗談をいって面白いこともやって、みんなを笑わせている自分も「自分」であることに変わりはないとおもいますが 授業中、ほっとします。 そして、心(意識的なものとしてとらえてください)が、重くなります。 家でだいたい独りでいて、喋らない、笑わない私が「自分」だとしても きっと今このしんどい状況はかわらないとおもうのです。 1つのことをおもえば、考え続けて夜ねむれなくなったりしてしまうような感じです。 ここ最近のテーマは「死」や「意識と思考」でした。 しかし、考えすぎてしまった先にものすごい「恐怖」がありました。 絶望感、喪失感が大きな鍋に一緒くたにされてたみたいなかんじでした。 今回もそうなってしまいそうでこわいです。 本当の自分(使いまわされた言い方ですね)は、なんなのだろう。 と。 みなさんの考えをきかせていただきたいです。

みんなの回答

noname#194289
noname#194289
回答No.6

私はわからないからこそ自分なのだと思っています。普通の人は、自分の所有物を自分だと言い聞かせて安心しています。所有物の持ち主のことは考えないようにしています。だから自分探しなどという言葉は実はすごく危険なものだと思います。蛇が自分の尻尾を呑み込んでいくようなことになってしまいます。あるいは暗闇とは何かを知ろうとして電灯をともすようなことです。暫くは自分の所有物を真に良いものにしていくことが大切だと思います。まだまだ少し時間は在ります。結論は出すべきでしょうがもっと先でよいと思います。

noname#96295
noname#96295
回答No.5

そうですね、ブラックホールみたいな黒い●とでもいっておこうかな。 アイデンティティという言葉はわかりますか。 ●が、自分だな、とわかる感覚ですね。 ●が経験したことは、自分の経験だな、と。 でも、人間には、これとは別に、アトリビュートというのがあって、 誰々の子とか、どこの学校の生徒とか、どこに住んでいるとか、誰の友達とか、 誰と知り合いとか、どこの会社とか、どこの出身とか、何の職業とかそういうもののことです。 容姿や、声や、言葉は、微妙なものでどっちにもかかっていますが、やっぱりアトリビュートが大きいです。 突然違う容姿や声や言葉になったとしても、「これは自分とはちがう!!!」と思うので、 ●のアイデンティティは動じないものなんですね。 これは、生まれるときに約束されているものです。死ぬときまでかわらないで持っていなさい、と決められているんでしょうね。 これ以外のものは、簡単にひっぺがせる。 お金で買うこともあれば、運で手に入ることもあれば、災難や犯罪にまきこまれてなくすこともある。 他人とかかわるなかで生じて、かかわるなかで貼り付けられたり取り上げられたりしていく。 アトリビュートは、不自由なところだけで出来上がっているので、その不自由なところだけ見ていると、「自分は無い」といえます。 でも、●は自由なものです。自分は、生まれてから死ぬまで、自分だってことだけです。 何をしても、どこで生きても、誰を愛しても、誰を裏切っても、どんな生き方でも。 勇気があれば、ちょっと違う世界がいつでもどこかにありそうですね。 でも、人間は社会や歴史を持っている複雑な動物なので、●だけでは生きられません。 自分じゃない部分をたくさん背負って、巻き込まれて、調和のなかに生きています。 調和の真ん中で泳いでいる●が、自分です。 宇宙の誰も奪い取ることは出来ないし、宇宙の奥深くで約束されたもの、それが自分。

回答No.4

冗談を言っている自分もあなた。1人の世界にいる時のあなたもあなたです。そのバランスがあってこそ今のあなたが存在するんじゃないでしょうか。 みんなを笑わせている時よりもほっとしている時が本当の自分の姿かもしれませんが、周囲はそれに気づいてないと思います。 そして、自分ひとりで考える時間というのはとても大切だと思います。 が、あまりにそういうことを考え過ぎるのは精神的にも不健康だと思います。 「恐怖」をあまり重く考えないようにすることですが、物事を悪く考えてしまうことを忘れるくらい、好きな趣味などに打ち込んで発散するのがいいんじゃないでしょうか? No.1さんが書いている通り、時間があるから考えられるんですよね。仕事や勉強、生活で忙しかったらそのようなことを考えている余裕はありません。 もしそれを趣味や学問として深めてみたかったら哲学の本を読んでもいいでしょう。

noname#60992
noname#60992
回答No.3

自称ペシミストで、難しいことはよくわかりませんが、 自我を形成しているものは自分の思考であって、 自分の思考というものは経験や体験によって形成される。 自分が将来どうなっていくかということは、自分がどういう 決断をしていくかということで、その決断の材料となって いるものは、自分自身の過去の経験である。  これを否定的に捕らえると、自分の決断は自分の過去の経験から そう決断せざるを得なかったということになってしまいます。 「人間、自分自身で決めていることは結局のところそうするしか なかったためである。」というように、 しかし質問者様は、何らかの解決策を探ろうとしておられるので、 (そのような決断をされたのですから)質問をされているわけです。 質問に対する答えは結局のところ自分で納得できるものを見つける しかないのです。  私も若いときに同じようにかなり悩みました。 私はそれに対して、 いろんな本をよみ、いろんな人とはなし、いろんな体験をすることが、 回答に繋がると信じて、希望を感じ、絶望を体験し、幸福を体験し、 空虚を味わってきました。 結局のところそれが自分なのですから。 質問者様もその気があるなら、いろいろな人とはなし、いろいろな本を 読み、いろいろ経験されていくとよいと思いますよ。

  • pack1129
  • ベストアンサー率29% (26/87)
回答No.2

「死んだらどうなるんだろうな~」みたいなことを考えてしまったときのあの感じでしょうか。 大きな絶望感というか・・・・力が抜けて世の中が真っ暗になる感じ? 僕の場合は深く考えないことで最近やっと大丈夫になりました。 「死んだらお花畑に行くんだ。」と勝手に決め付けています。笑 江原智之さんは知っていますか?スピリチュアルの。 あの人の本には「死んだ後の世界」が書かれてあります。 僕は「死んだ後にも世界がある」と書かれていたので少し安心しました。 さて、本題に入りたいと思います。 本当の自分。僕も考えたことがあります。 本当の自分ってなんだろうと。どれが本当の自分なんだろう、と。 でも結局、僕の耐久性が無かったのか途中で考えるのはやめました。 「どれもぜーんぶ含めて自分」なんだと思うようになりました。 暗い自分、明るい自分、いろいろ考える自分。 精神面も全部含めて自分なんじゃないでしょうか。 本当の自分なんていくら考えても分からないんじゃないですか? 今、パソコンの前でキーボードを叩いているのは本当の僕です。 心の中では暗いこと考えて、人の前では無理やり笑顔を作って、嫌われないように、好きになってもらえるようにしてる自分も。 周りの人のことが嫌いで嫌いで、憎くて憎くて、いつも人の悪いところばかりを批判してる自分も。 自然に気を使えるけど、少し頑固で、すぐに友達の好きな人をバラしてしまう自分も。 人は全員、十人十色です。 それと同時に、全て「本当の自分」です。 逆に言うと自分の中に「嘘の自分」っていなくないですか? 確かに嫌いな人にも愛想よくしたりはしますけど・・・それもきっと心で「この人嫌いだけど愛想よくしよう」と思ったからの行動なんじゃないでしょうか。 自分に「嘘はつけない」のです。 長々と書いてしまいましたが、僕の「本当の自分」に対する考えは 自分で自分を見るのなら全て「本当の自分」だということです。 少しでもお役に立てたら幸いです。 別にいろんなことを深く考えることないと思いますよ^^ 自分の「直感」を大事にしてくださいね^^

回答No.1

そういうことを考えるってことは暇なんですよ。 嫌味とか皮肉じゃないですよ? 時間がありすぎるから考えてしまうんです。 普通は「死」なんかよりも今「生」きていることが精一杯でそこまで考えは及ばないものですよ。 多忙をは言わないまでも普通に仕事や学業に精を出している人はそんなこと考える暇もないです。 まず、夜は一日の最後とあって疲れます。 考え事をしようとしても疲労が邪魔をして睡魔が襲ってきます。 ふっとそう思うことはあってもそれを持続的に考えられる時間を与えられている人というのはそんなに居ないんです。 あと、そんなに「自分」がどんな人間なのかを解って生きている人なんていないと思いますよ。 他人のこと以上に解らないのが自分。 私はそう思いますから。 それに表裏あって当然ですからね。 いつでもしゃべりっぱなしや笑いっぱなしの人なんて居るわけありません。 別に「どっちが本当の自分」ということではなく「どっちも本当の自分」なんですよ。 考えるようなことじゃないです。 皆そうやって生きてますよ。 人付き合いに疲れたり、でも一人は寂しかったり。 矛盾してるけど、そんなもんです。

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