• ベストアンサー

デカルト

デカルトは確実な存在としての自我の発見へといたる議論をしましたよね。その経緯はどのようなものだったのでしょうか。

  • jury
  • お礼率23% (27/116)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tun
  • ベストアンサー率19% (7/36)
回答No.1

デカルトは冬のある日、炉端で考えたんですね。 この世の中に、確実なものなんてあるんだろうか。 世の中の長老たちが言っていることが正しいなんていうけど、それだって確実じゃない。確実なものってのは、もっと明せき・判明なもので、だれにとっても明らかに確実じゃないといけない。 確実なもの、確実なものと考えていって、 「ああ、でも、ここで、この確実について考えている自分っていうのは、絶対確実だ。だれがなんといったって、私が考えているのは、事実だもの」 ということに思い当たり、 「Cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム(我、考える ゆえに 我が 存在する)」と言ったんですね。(スペル間違っているかな?) ところで、有名な「我思うゆえに我あり」って、ちょっと訳が間違っていると思いますね。英語では “I think so I am” ドイツ語では “Ich denke also bin Ich” です。 でも、このデカルトの考え方は、「考える自己」と「考えられる自己」を分けることになってしまい、それからのヨーロッパの思想史に身体二元論というやっかいな問題を残したのでした。 おそまつ。

その他の回答 (3)

  • Lantern
  • ベストアンサー率27% (5/18)
回答No.4

 デカルトの議論は、まず自然的生活において我々に与えられている世界の客観的確実性が、実は徹底的な懐疑には耐えられないほどのものではないか、という処から始まります。云う処の「方法的懐疑」です。世界の存在自体を疑うのですから、自分自身の存在もそのうちに含みます。しかしそのとき、思惟する「純粋自我」だけは残るのではないかと考えた訳です。これは現象学でいう「現象学的残余」と同じようなものです。それを唯一の拠所として、先験的=純粋(経験に汚されていない)自我に内在する原理に従って、神と客観的自然の論理的明証性を実証します。世界とその学問の根拠が明らかにされる道筋です。  簡単に言えばそれだけのことなのです。ただ、勘違いしてはいけないのは、この場合の「自我」は純粋自我であり、私たちが自然的生活態度で言うところの「自我」ではないということです。「方法的懐疑」の有効性は疑うべくもありませんが、純粋自我が独我論的な自我とどう違うのかという疑問が新たに発見されるというべきでしょう。  この問いは、根拠の根拠を問うという形で後の現象学やハイデガーの存在論へと道を拓くことになりました。

noname#254
noname#254
回答No.3

 Tunさんの説明で完全だと思うのですが、少し補足です。デカルトがそういう自我を見出した目的について。  一言で言えば、「学の体系をうち建てる前段階の、確実な基盤の確保」です。一つの哲学体系を構築しようとする哲学者は、すべてではありませんが、まず構築に先立って「懐疑主義(スケプシスム)」の乗り越えを、手続きとして行うものでした。認識の確実性が確保されないと、何を語っても不確実になるからです。(最近は「体系構築」自体が流行りませんので、やる人はあまりいません)  デカルトにとっては、この「考える自我」がその基盤でした。彼はこの自我を「学の第一原理」と呼んでいます。  同じような「構築前手続き」で有名なのはカントの三大批判書です。『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』。「判断力」に関しては対応する体系がないのですが、純粋理性批判はと実践理性批判は、それぞれ理論的哲学と道徳哲学という体系構築に先立って、それぞれの理性の権能と限界を吟味しようというものでした。

  • tun
  • ベストアンサー率19% (7/36)
回答No.2

追加です。 身体二元論ではありませんね。すみません。心身二元論です。 この問題に関して、心理学のコーナーに質問と回答がありました。 そちらも参考にされるといいでしょう。

関連するQ&A

  • デカルトのコギトはどこが独自性なのか

     アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。  ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。  (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。  アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。  ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~  だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。  ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。  精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。   ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――   ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想  がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ  うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは  いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り  きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ  る と仮想しようと決心した。   (方法序説 4)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。  さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。   ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考    する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。  だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・  さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。  或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。  それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・   (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが:  ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・  (方法序説 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  と書いたことは よく知られているところである。  これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。  ● (パスカル) ~~~~~~~~~~  デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・  なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。  (パスカル:幾何学の精神について 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。  《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。  デカルトのコギトに独自性はあるのか?

  • デカルトの言葉

    こんにちは。 デカルトの言葉で、「わたしは考える ゆえにわたしは存在する」というのがありますけど、どういう意味なんでしょう? お願いします。

  • デカルトの良さをおしえてください。

     『方法序説』に限って 批判しますが――《wikipedia:方法序説=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E6%B3%95%E5%BA%8F%E8%AA%AC》――  (1) 《わたしは考える。ゆえにわたしは存在する》は けっきょく 理性信仰であるのではないか?   パスカルは その文句が アウグスティヌスの《われは あやまつならば 存在する》に源を持つけれども 独創性があると言っていたと思いますが そのかれが そのような理性による合理的・論理的な思考としての《幾何学の精神》とともに 人びとの情感の現実性をとうとぶ《繊細の精神》をも 同時にかかげた。というのに デカルトは 結局 幾何学の精神のみを 説いた恰好となったのではないか。  (2) 上の文句とともに 神の存在証明のような議論を その完全性という主題のもとに おこなっているが そのことによっても 同じく 理性信仰を強めたのではないか。  方法序説における神の存在証明は すべて 観念の観念による構築であると思われる。ゆえに (1)の文句が 余計に 変なかたちで 強められたのではないか。  このように 鬼っ子であると考えますが もしそうではなく 良さがあるとすれば おしえてください。

  • デカルトについて

    デカルトについての、レポートを提出しなければならないのですが、皆さんの意見を聞かせて下さい。皆さんはデカルトの「我思う、我あり」についてどう思いますか。

  • デカルト

    デカルトの「方法叙説」とはどのようなものなのでしょうか? できれば詳しく教えていただけたらうれしいです。

  • デカルトの神の存在証明

    デカルトは「我思う、故に我在り」によって、“不完全な存在である我が存在できる”のは“完全な存在である神が存在するからである”ことを証明したと聞きましたが、どうしてこのように考えられるのでしょうか。 不完全・完全とはどういうことか、なぜ不完全な存在だけでは存在できないのか、わかりません。

  • デカルト

    「デカルトの二元論」がどういうものであるかを知るために、参考になる文献などがありましたら、ぜひ教えていただきたいのですが。 よろしくお願いします。

  • デカルト

    デカルトの明晰判明性ができた過程はどうなっているのでしょうか?

  • デカルト

    学校の課題で、「哲学者としてのデカルトと自然科学者としてのデカルト」、「《方法序説》の思想史における位置づけ」の2つについて調べる課題が出ましたが、どのようにして調べたらいいか迷っています。 この2つについて調べる上で、有用な本やホームページがありましたら教えてください。よろしくお願いします。 ちなみに哲学の授業の課題ではないので、参考となるテキストのようなものは持っていません。

  • 原爆はデカルトがつくった?

    原爆はデカルトがつくった、という言葉を聴きました。 デカルトの説いた合理主義、心身二元論といった言葉がキーワードになっているようです。 もちろん、原爆の理由をデカルト一人に帰すつもりはありませんが、 近代科学や近代資本主義に対して、デカルトがどういう役割を果たしたのか、教えていただけないでしょうか。