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被爆後の広島に戒厳令?

広島の被爆体験を本にするボランティア活動をしています。 被爆者の話によると、被爆直後から敗戦の日まで広島では第二総軍独自の判断で戒厳令がしかれていたとのこと。 Wikipediaにも記載がありますが、そのことを確かめる資料をご存知の方は教えてください。よろしくお願いします。 手元の「広島原爆戦災誌」には見当たらないようなのですが。(探し方が悪いのかも?)

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  • misa-on28
  • ベストアンサー率35% (227/640)
回答No.4

No.2です。 広島原爆戦災誌には原文は載っていないようです。 http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDF/sensai3.pdf 第三巻の18/231ページめに布告された事実は記載されています。 以前は確か資料館の展示物の中に布告文書のようなものがあったような記憶があります。 今回引用したのは孫引きになりますが 宍戸幸輔著「広島軍司令部壊滅」読売新聞社p184 からです。

707TANABATA
質問者

お礼

有難うございました。 手元の第三巻47pにありました。 広島軍司令部壊滅も探して読みたいと思います。 重ね重ね有難うございました。

その他の回答 (3)

  • gange
  • ベストアンサー率4% (5/101)
回答No.3

尚、投下15分後、大阪八尾飛行場に、偵察命令が出て、参謀と軍医を乗せて、その日2回偵察されてます。きのこ雲の頂上は見えないぐらい高かった、地上は真っ白だったとの事。朝日新聞)

707TANABATA
質問者

お礼

教えていただいて有難うございます。投下15分後とは早いですね。 その時の写真などもあるのでしょうか?

  • misa-on28
  • ベストアンサー率35% (227/640)
回答No.2

こんにちは。 戒厳令については見当たらないのですが 第二総軍司令部から原爆投下後当分の間と言うことで、広島市全般の救護および警備に関する総指揮権が比較的被害の軽微であった船舶司令部(通称暁部隊)の船舶司令官であった佐伯文郎中将に委託されました。 そこで同中将は7日午後2時に「広島警備命令」を出しています。 これは「『広島警備命令』8月7日-14時 余は、今次広島警備の担任を命ぜられ、在広書部隊並びに逐次広島付近に到着せる陸軍部隊を合わせ指揮し、速に戦災復旧を処理せんとす(以下略)」原文カタカナ もしかするとこの「広島警備命令」のことを「戒厳令」と覚えておられるのかもしれません。

707TANABATA
質問者

お礼

ご教示有難うございます。 「『広島警備命令』・・・・速に戦災復旧を処理せんとす(以下略)」原文カタカナは広島原爆戦災誌あるのでしょうか。としたら何巻の何ページ目? お手数掛けますが教えていただけませんか。

  • Prunella
  • ベストアンサー率65% (82/125)
回答No.1

こんにちは! 記載があるのかどうか現物がないので確認できませんので、参考までに。 第二総軍の司令官であった畑 俊六は、A級戦犯として処刑されるまで、ずっと日記をつけています。 その日記が、既に絶版にはなっていますが、畑俊六日誌としてみすず書房より出版されています。 (正式名称「続現代史資料4 陸軍 畑俊六日誌」) 古書店でも購入は可能ですが、戒厳令の事がどれ位詳しく書いてあるか判りませんので、図書館で閲覧してみては如何でしょうか? 広島県立図書館の蔵書を検索した限りでは、広島県立図書館では置いてあるそうです。

707TANABATA
質問者

お礼

ありがとうございました。 近いうちに県立図書館へ行ってみます。 ご親切に有難うございました。

707TANABATA
質問者

補足

「畑俊六日誌」は昭和4年10月7日~昭和20年3月28日までの記載がありました。巻末に覚書として原爆被災にも触れていますが、戒厳令については記載がありません。 また「巣鴨日記」(日本人道主義協会発行)として昭和23年2月2日~昭和29年10月31日までがあります。 巻末に第二総軍終戦記がありますがここにも記載なし。 畑俊六は処刑を免れ昭和29年に仮釈放され、昭和37年5月10日、福島県棚倉町忠魂碑除幕式の式場で死亡したようです。

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