• ベストアンサー

「時間」は存在するのでしょうか。

私たちが日常感じる時間と言うのは、一日、一年、一生というようなときの経過です。しかし、一日は地球の自転、一年は公転によって時が経過したように感じるだけではないかと思います。つまり、それは運動から時間があるように感じるだけで、時間と言うようなものはないのではないかとも考えるのですが、どうなのでしょうか。一生もただの変化であり、運動と変わらないように思います。時間って本当にあるのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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  • moritan2
  • ベストアンサー率25% (168/670)
回答No.5

宇宙の多世界解釈の一つに、宇宙が生まれてから消滅するまでのすべての状態が多世界として存在して、時間とはそれらの多世界同士のリンク関係を示すものにすぎないという考え方がありますね。量子論的な不確定性はリンクの枝分かれと考えます。

turukame7
質問者

お礼

ありがとうございます。私のような素人にっても時間はとても興味があるテーマです。もし、別な世界が存在するとすれば、空間さえなくなってしまうような気もします。これも素人の空想ですが。

その他の回答 (15)

  • shiara
  • ベストアンサー率33% (85/251)
回答No.16

 No9です。「運動があるから時間があるのでしょうか。」について。  変化していることを、時間が経過する、と言っています。そこに「時間」という何かがあるのではありません。現実に存在するのは、「変化」だけです。光が30万km進むという変化を、1秒という「時間」としています。

turukame7
質問者

お礼

なるほど。ありがとうございます。

回答No.15

放射性物質の崩壊量、 原子の振動周期、 振り子が振れる周期、 一本のロウソクが燃え尽きる時間、 やかんにはいったある量の水が沸くまでの時間、 カップラーメンがお湯を注いでから美味しく食べられるようになるまでの時間、 10メートルの高さから物体が落ちるまでの時間、 これらすべてが固有の速度をもって変化していて、どれかひとつを基準にしてものさしとして使うことで時間が計れるようになること(たとえば、お湯を沸かすのに振り子が10000回振れなければならないとか)は時間があることの証明にはなりませんか?

turukame7
質問者

お礼

すいません。私にはそれらが全て変化だとしか思えない、というようりもそう考えられるのではないかとも思うのです。

  • Xaval
  • ベストアンサー率58% (61/105)
回答No.14

No12に書いてある回答でも間違いないと思います。 その認識なら、日常で言うところの時間はありません。 変化を記録するというか、 ある瞬間の物理状態を識別するための識別子で<時刻>を考えたなら、 時間(時刻の距離)が出るでしょう。 「変化」が「状態A」->「状態B」であるなら、 状態Aに識別子T1,状態Bに識別子T2を割り当てます。 通常、それを時刻と呼んでいるのです。 あなたは今、周りの定義で時間を定義しようとしている試みのプロセスにいます。 No.11での、原始的定義ではなく、 「他の要素から定義される複合要素」としてとらえてるということですが。 なお、時間が無い、という考え方と、 空間上で「高さ」がないという考え方は同一です。 平面の高度(高さxメートル)的な変化を連続体としてみれば、 その各高度の平面状態に識別子(z)が必要になり、 Z軸となるのです。 各高度の切り口だけで、全体を下から上に「変化」で あらわしてしまえば、「高さ」は存在しません。 空間の変化を連続体としてみるときには、時間を高さのように割り当てても問題ありません。ただし、デカルトの空間(各ベクトルの直行型)ではありません、ということを付け加えておきます。

turukame7
質問者

お礼

高さや距離は認識できますが、時間は同じように認識できません。高さがないのと同じという考え方が理解できません。私は時間がなくても話は出来ると思います。声帯を震わせ、音の振動を伝えるという物理的な変化で伝わるように思いますが、そこに時間の概念を絶対に入れなければならない必要がわかりません。

  • Shige29
  • ベストアンサー率23% (121/520)
回答No.13

最初の投稿でも書きましたが、何をもってそういう考えに行き着いたのでしょうか? 疑問を持つのはとても良いことですが、それに対する自分なりの答えも模索してみた方が良いですよ。

turukame7
質問者

お礼

私はもしかして時間というものはないのではないかと思っています。時間は存在しないということは、時間の経過を示す過去も未来もないというこです。「未来」へは冷凍人間となって「百年後」うまく甦生されれば行けます。しかし、それは自分が変化せず、周りが変化しただけのことともとれます。百年(地球が太陽を百週したという運動は理解できますが)という時間経過が本当にあるのかどうかということに対する疑問です。時間がないという証明はできませんが、おそらく時間があるという証明もできないのではないでしょうか。自分なりの答えは、証明することができないので分かりません。

回答No.12

時間がもしなかったとすれば、こうやって話すこともできないのではないですか?

turukame7
質問者

補足

人が時間を感じるのは、時間を決めたからだと思うのです。人が決めた時間にあまりにも支配されすぎているように感じます。私には万物が変化をしているという事実しか認識できず、その変化があたかも時間があるかのように見えると考えるのです。そうに違いないというよりも、考えられないかという自分自身への質問でもあります。

  • Xaval
  • ベストアンサー率58% (61/105)
回答No.11

質問と回答を見ていると、どうも「時間」の概念を、 今の頭の中の既知のその他の概念で理解したがってるみたいですね。 時間は確か、物理学における、基底概念の一つではないですか? つまり、初めて虚数が登場したときに、「2乗してマイナスなんて ありえない!」と言ってる状態です。 存在するしないではなく、考えたときに存在します。 (「存在」というのが、周りの状況が存在理由や存在するための定義を  与えられて初めて「在る」こと、という解釈ができるものなのか、  それとも、周りの状況にかかわらず、定義のように在ることなのか、  この二つはまったく違います) 「時間」とは、「時間」です。ただし、空間と相互変換可能なので、 「空間」「相互変換が定義できる場(時空の概念)」「時間」 のうちの二つは、原始的な定義に収まるはずです。 他で説明することじゃないです。

turukame7
質問者

お礼

あると考えればある、ないと考えればない、ということでしょうか。ん~もう少し考えてみます。

  • choco_jiji
  • ベストアンサー率31% (528/1701)
回答No.10

「時間」=「変化」  「時間」は物事の「変化」の様子を表す「ものさし」みたいなもの、その「ものさし」は変化する「もの」によって異なり、それぞれ自由に基準(単位)が設けられていると考えられませんか。  日が昇り、日が沈むまでを大昔に1「日」と決めました。 日本では、季節の移り変わりを見て「四季」という単位を作りました。  だんだん技術が進歩してもっともっと細かい変化、を知ることができるようになったり、変化を表す言葉が多くなり、それぞれを比較する必要が出てきた。 そして統一された基準となる単位ができてきたのではないでしょうか。

turukame7
質問者

お礼

単純なものさしと言うことなら納得します。しかし、もし時間が存在しないとすれば、何か私たちは大きな勘違いをしているのではないかと思ったりするのです。

  • shiara
  • ベストアンサー率33% (85/251)
回答No.9

 運動があるから時間がある、ということで正解です。ただし、普通の物質の運動では、見る人によって止まったり、ゆっくり動いたり、逆向きに動いたりしてしまいますので、時間の尺度としては使えません。唯一絶対的な運動の基準となるのが光です。光の速度は誰が測っても一定で止まることはありません。つまり、光が存在する限り、この世界に「運動するもの」が存在し続けることになります。光にこのような性質があるため、常に止まることなく流れる時間が存在すると思える訳です。

turukame7
質問者

お礼

運動があるから時間があるのでしょうか。光速は秒速30万キロ、つまり一秒に30万キロ進むらしいのですが、その1秒という時間が本当にあるのかどうか、と疑問に思うわけです。

  • Shige29
  • ベストアンサー率23% (121/520)
回答No.8

>少なくとも一日が24時間、1時間が60分であると決めてるのは人間だけのルール このフレーズでちょっと思い出したので。 遥か以前は、それぞれの国や民族によって、異なる時間定義が成されていました。 概ね、日が昇ってから日が沈むまでが一日、それを何度か繰り返したら一ヶ月、ある星が同じ位置に来るまでとか、日本のように四季の移り変わりのような物で一年と定義されていました。 しかし、以前は10進法や12進法が世界に蔓延してはいなかったため、一ヶ月が10日ぐらいしかなかったり、一年が12ヶ月ではなかったりと、国や民族によって異なっていました。 時間の概念は、そもそも統一はされていなかったのです。 そしてほぼ統一された今でも、それが真に正解なのかは誰も知りません。 何億年も前には一日が18時間だった時期もあるし、さらに今後何億年も経てば一日が30時間とかになります。 結果、仮にその時代に人間が生きていたなら、その時代の一日は30時間であるわけで、現在の時間の概念は崩れてしまうかも知れません。 実体を捉えられない物を観測するには、代替となる物で観測するしかなく、それが正解であるかどうかは観測者が決めることです。 そしてそれを基に、さらに別の物を定義する。 その積み重ねが今の世界の成り立ちです。 そういったところからも「人間原理」という言葉が生まれたわけです。 簡単に言えば、「観測者が居て認識するから"それ"は有る」という、観測者=人間を原則とした原理です。 (この辺はシュレディンガーの猫にも通じる物ですね) 非常に乱暴な理論ですが、色々なモノに回答を与える魔法の言葉でもあるように思えます。 知らなければ、"それ"が無くても問題ない。 しかし知った後では、"それ"がなければ問題がある。 "それ"は人間が居るからこそ存在する。 時間という物も、そういった物なのかも知れません。 乱文失礼。 (ちなみに何かの主張ではなく、こういう考えもありますよって事だけなので、深く突っ込まないでください(^_^;))

turukame7
質問者

お礼

動物にとって1日が24時間であることは何の意味もないでしょうね。また、何らかの原因によって地球の回転が速くなり、1日が短くなることもあるかもしれません。しかし、問題は時間そのものが本当に存在するのかどうか…なんといっても時間は見えませんから…。

回答No.7

一応物理のカテゴリーですので物理っぽく答えてみます^^; この世の中をある瞬間瞬間を切り刻んで見ると3次元に見えるので、3次元で考えることに慣れてしまっているので、時間を特別に感じるのではないでしょうか。 たとえば、2次元に住む人が3次元の円錐を考える時、どう考えるでしょうか?2次元の人が想像できるのは2次元の像だけですが、数学を発展させれば、おそらく正しい3次元の「像」を作れるはずです。 たとえば、「円錐を断面にきったもの」を考えて、一連の断面の円のつらなり、として理解できます。 この描像は私たちからすればややこしいものですが、どちらが正しいということはなく、どのような見方をするかは好みの問題で、まったく等しい価値を持つはずです。 つまり、どのように見えるかは違いますが、その先にある本質は同じもので、そこに違いはない、ということです。 2次元の人たちにとってはこの「三つ目の方向」は非常に謎めいたものではありますが、しかしよく数学を研究することによって、自分たちには直接想像することができないけれでも、それほど異様なものでもなく、自然な考えであることがわかるはずです。また、断面で考えることによってひとつの方向が特別にみえるけれでも、それは理解に到達する手法に起因するものであって、本質的には一体のものであることを理解するはずです。 ただ、この断面の連なりを理解するとき、無秩序のつなぎ合わせてはだめで、どれとどれが隣り合っている、ということもきっと知るはずで、これを3つめの方向として理解するでしょう。 なんだかまどろっこしいだけですが、要するに「変化」を捕らえたときに、順序のある変化なので、突き詰めれば当然に「時間」の概念が入っているのでは? やはり少なくとも、目の前のキーボードを見て目の感覚を通して間接的に「ある」と感じたり、手を動かしてみて手の動きの感覚を通して空間が「ある」と感じたり、またはほかの人が存在して心や意識が「ある」と感じたりするのと同程度には「ある」のではないでしょうか? どうも長いだけですいません^^; 以上でした。 ----------------------------------------------- さらに長くなりそうですが少しだけ物理っぽく^^; 上で2次元の人の話を出しましたが、2次元の人が3次元の円錐を理解するときにのことをもう少し詳しく。 この人が断面を通して私たちと同じ円錐を理解できるようになることはおそらく可能でしょう。たとえば、この正しい知識のひとつには、一枚一枚の断面の距離の情報が得られることが入っているはずです。 それから、おそらく回転に関する知識も得るはずです。2次元の人にとっては、世界は2次元の断面で、まだ3つめの方向は特別です。しかし、回転の知識によって、実は3つ目の方向は特別なものではなく、どっち向きにとってもよいことを知り、特別な方向のない一体の空間として初めて理解します。 実は、私たちの世界でもこの「回転」が、上のたとえ話でいう「時間」という特別な方向と、3次元の空間の間でできて、実際には特別な方向がなく、まさしく2次元の人が3次元の空間を正しく理解したときに特別な方向がないと知ったのと同じように、一体のものだということが知られています。この一体になっている「何か」に対してつけた名前が「時空間」です。 ただし「回転」はほんの少し癖のある回転なのではありますが。

turukame7
質問者

お礼

私の場合、素人ながらに何でも疑って掛かる癖があるのかもしれません。時間でなくても空間でもそうです。三次元はともかく、二次元って何とか。二次元とは絵のような世界とらしいのですが、絵もわずかながら厚さがあるので、実際には三次元ではないかと。一次元って点らしいけど、その点の大きさってどれくらい?とか。点の大きさがあれば三次元だし、なければ0でないかとか。さらに0とは何?とか。きりがないですね。

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