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普遍性をなぜ否定できるのか?

reikasuzuの回答

  • reikasuzu
  • ベストアンサー率30% (4/13)
回答No.9

まず「普遍性はない」と断言する人に対する揚げ足取りから。 ー「普遍性はない」という命題は、あらゆる状況、場合を考えたときに「普遍性」なるものは存在しない、という意味で、この「あらゆる状況、場合を考えたとき」にすでにある種の普遍性を前提として話を進めている、だから自己矛盾であるー  一般的な命題を扱った場合、必ずある種の普遍性を想定せざるをえない、気がします。すると「普遍性はない」という意見は普遍的にありえない、と考えたほうが言説内での整合性(真理のひとつの定義)が取れることになると思います。 普遍性=キリスト教の神、と捉えるなら、神様がいるのかいないのか、という決着のつかない議論に陥ると思います。 そもそも普遍的な=universalというのはカトリックの語源であります。つまり、「真理」「普遍性」というのはキリスト教文化の中でセットで考えられ、発展(といっていいわかりませんが)してきた言葉です。 そしてこうした思考方法は非常に説得力があり、現在でもその猛威は世界中に広まっています。 しかしながら、東洋人にとっては普遍的な神様に対する、自然な反発があるのでは。 しかし、普遍性~真理の言説装置の中で議論すると、見事に負けると思います。 ただ、そんな知性的、論理的に捉えられないものがあるのだ、という自己矛盾をはらんだ文学的言説として「普遍性はない」という言い方はできるかもしれません。

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