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仏様について

夏休みの宿題で仏教や仏様について調べています。 仏様=釈迦なんですか? それと、十界 六波羅蜜 十二因縁 四諦・八正道は、すべて仏様がさっとったものなんですか?  この他にもありますか?  調べても難しくてよく分かりません。 よろしくお願いします!!

  • rhrb
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noname#80187
noname#80187
回答No.5

私が知る範囲でお答えしますね。なお私は日蓮正宗の者です。間違っているかもしれないので参考程度に捉えてください。 >仏様=釈迦 一応合っています。 生命体(人間や動物などを含める)の生きる世界には10の世界があり、その1つ1つの世界に10の境涯があるとされています。 仏界の世界で仏の境涯 仏界の世界で人間の境涯 というようにあります。 仏様というのは、仏界で生まれた人ではなく、仏の境涯になった人をいいます。 日蓮正宗では、長い長い修行を得て、今生で仏の境涯になれるかもしれないと説いています。 >それと、十界 六波羅蜜 十二因縁 四諦・八正道は、すべて仏様がさっとったものなんですか (六波羅蜜だけ解らないのです。) 悟るというものをどう捉えるかによりますが、お釈迦様(釈尊)は、これらの教えを理解し、体感し、絶対間違いないと確信されたものです。 以下は、私が知っている範囲のものです。宗派によって違うので信憑性はないと思って、自分で調べ直してください。 日蓮正宗の教えでは、生命体には十界があり、仏心のレベル、功徳のレベルによって生まれる世界、生まれる境涯が違うと言われています。 人間に生まれても、優秀で大抵のことに関して優れた力を持つ人、人の悪口ばかり言う人、すぐにイライラする人などがいます。それらは、同じ人間であっても、仏心のレベル、功徳のレベルが違うからそうであるとされています。 日蓮正宗では、日蓮正宗の教えをすることにより、どんな劣悪な境涯の人も、どんな悪人も仏の境涯に一歩一歩近づけるとされています。仏心のレベルが高い人の方が仏の境涯になりやすいですが、そうなでなくても、まじめにコツコツ修行をすれば半年、1年、2年するとその効果が体感できます。これは私の経験上です。 ただし、修行をしていると、修行を怠けたい気持ち、この教えを信じられなくなります。そうしてやらないと、仏心のレベルは向上しません。人によっては低下していく人もいます。これも私の経験談です。 後、この考えに関してはいろいろと説があるのですが、お釈迦様(釈尊)が今生で悟り戻った時、順に教えが説かれました。華厳経、阿含経、大日経、般若経、法華経、涅槃経という順に説かれました。正確には、違い、華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華時、涅槃時という時間で各、教えが説かれました。その時、その時のお経が阿含経、華厳経だったりします。 日蓮正宗では、法華時、涅槃時の教えが真実であり、法華時の教えの法華経がお釈迦様が嘘偽りなく説いた教えとされています。 日蓮正宗では、法華時以前の教えは、人々を仏道に入らせるための仮の教えです。仮の教えといえども、効果はありますが、法華経の教えには叶わないとされています。とは、言え、1回読んで理解したでは、法華経も阿含経も対して変わりなく、自分にとって自覚できるほどの影響はないです。教えを知り、教えを悟る(体感する)まで修行してこそ、効果があります。 だいぶ上に、お釈迦様(釈尊)が今生で悟り戻った時と書きましたが、これは、お釈迦様は、前世(何十も前の前世)で仏になるための修行をしており、その修行を得て成仏したとされています。  人間という存在は、生命体の力を100%発揮することができず、生まれながらにして仏の境涯であっても、仏の教えを説くことはほとんどできないとされており、成長するに当たって、その力が発揮できるようになる人もいます。それがお釈迦様です。 本来、人間として生まれるということは、生命体として良い世界ではありません。四諦にある通り、この世は苦とされています。ですが、あえて、仏の境涯であるにも関わらず、人間の世界に生まれ、人間として生まれ(仏の境涯)、教えを広めようとして生まれたのです。 仏の境涯とは、自分の醜かった時、愚かだった時、醜く愚かであるが故に苦しんで人生を悲観した経験があり、その時の苦しみが逃れたい、幸せになりたいと思い、修行をし、長い、長い修行をし、何度も生死を繰り返して、仏の境涯に達します。ですので、私が救われたのだから、他の人の苦しみを救いたい、そう思って人間の姿として表れるものだと思っています。 参考になれば幸いです。

その他の回答 (6)

  • craun
  • ベストアンサー率8% (4/50)
回答No.7

仏教系の大学に行ってるので、こういうことも習ってます。 釈迦=仏様=釈尊です(言い方の違いです) 大学では釈尊て呼ぶのが普通です(敬意を持って) ややこしい話なんですが、インドの北部の釈迦族の王子様と して生まれたのがゴータマ・シッダールタ=ブッタです。 釈迦という言い方は釈迦族からきています。 また釈尊という言い方は、釈迦族の尊い人という意味です。 仏様はブッタが悟りを開いた後の状態を言います。 十界やらなにやら書いてありますが、名前が付いてるのは大体 釈尊が死んだ後弟子が集まって決めたものなので、釈尊が悟っ たものかは正確にはわかりません。

回答No.6

仏さま=釈迦。一般的にはそのような認識でしょう。でも厳密にはお釈迦様は仏教の開祖ではあるが、たくさん居られる仏さまの一人にすぎないようです。 四諦八正道・十二因縁・六波羅蜜・十界・=悟りそのものではなく、仏さまが悟りに至るその方法を示されたもののようです。

  • fornaoya
  • ベストアンサー率32% (11/34)
回答No.4

宗派によっても言う事が違いますよ。 仏教は他の宗教よりも学問色が強いので、色々と複雑です。 細かい用語や仏の種類、名前につかまってしまうと、本質を理解しようという本来の目的を忘れてどんどん深みにはまってしまいがちです。 テーマを絞らないと、知れば知るほど混乱すると思います。 仏=釈迦だとして、本当の釈迦の姿を知りたいのなら、現在の日本仏教ではなく、原始仏教の本を読まれることをお奨めします。 現代の仏教は、純粋な釈迦の教えではありません。 どの宗派でも少なからず釈迦以降の弟子や僧らの考えが入っています。 それらが入った状態のものこそが知りたい仏の姿だということならば、原始仏教と現代の日本仏教の違いなどを調べてみるのも手かもしれません。 余計なおせっかい失礼しました。 宿題頑張ってください。

  • Scull
  • ベストアンサー率26% (248/951)
回答No.3

ぶっちゃけた話、ここで「どこの誰だか判らない人」の話を聞かされるよりは、近所のお寺に行って訊いてきた方が百倍ましな話が聞けると思いますよ。なんだかんだ言っても坊さんは「仏様、仏教のプロ」ですから。 わかんないところは「そこをもうちょっと判りやすく説明してください」ってお願いできますしね。(^_-)

  • yucyo
  • ベストアンサー率41% (13/31)
回答No.2

. 念の為・・・ ※ 学校の勉強やレポートに対する質問及び回答は、禁止行為とされています。 質問者様がおいくつなのか分かりませんが、ウィキペディア等では調べてみましたか? 一応アドレスを、はっておきます。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
  • Tacosan
  • ベストアンサー率23% (3656/15482)
回答No.1

うろ覚えですが, 「仏となったものは全て釈迦牟尼仏と同じ仏性を持つ」ってあったような気がします. あと, 「~菩薩」というのは視点が違うだけで本質的に同じだったはず.

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