- ベストアンサー
同じ映像を相手が見ていることの証明
今目の前に、四角形があるとします。それを二人が見ます。私が見ている映像を相手も見ているということはどうしてわかるんですか?相手が見ている映像なんてわかるわけないし、相手が自分が3角形とおもっているものを4角形としてみているかもしれませんし・・・。 なんかわけがわかりませんがよろしくお願いします。
- みんなの回答 (10)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
同じではないと思いますよ。見え方は人それぞれ、千差万別でしょう。 只、一本のバナナを、二人で取り合ったとしたら、二人ともが一本ずつ、同じバナナを得ることはできないでしょう。しかし、それがバナナであるという認識(ここでは四角形であるという認識)は、お互いが既に持っているもので、分けても減らないものです。 知識(ご質問の三角形や、バナナ等)は、同じでないから、分けられる(共有できる)。 物(バナナ)は、同一だから、分けられない(共有できない)。 このとき映像は、知識であるのか、物であるのか。 映画やテレビを見ていて、前の人の頭が邪魔になったりしたことはありませんでしょうか? 映像は物であるので、共有することはできません。 従って、あなたと他人は、同じものを見ないでしょう。 誰かが食べたその一本のバナナを、あなたがもう一度食べることはできないのと同じ意味です。食べれるとしたら、別のもう一本です。 同じでないから、分かり合えるのだと思いますよ。
その他の回答 (9)
証明はできないと思いますし、おそらく人それぞれ違う絵だと予想します。 三次元以上のものを共通認識することは不可能ではないでしょうか? ゆえに絵や音楽や言葉や…表現し表現を受け取ろうとしたがるのではないでしょうか? 人によるボーダーラインの違いはかなり大きいはずです。 私は絵をやりますが理解できないものは実際に見えないんです。 情報に気付き理解して初めて見えて認識したとなるんです。
- Trick--o--
- ベストアンサー率20% (413/2034)
「同じ映像」を見ているかは証明できません。 ですので、私たちは「同じ言葉で説明できるもの」を見ているとき、「同じ映像」を見ていると定義しているのです。 「定義」とは「証明の必要の無いもの、本質」です。 わたしは、このように理解しています。
- alidon
- ベストアンサー率26% (292/1091)
人間が生活の上で「物を認識する」と言う事は、例えば何かを食べる時、其れが始めてのものでなければ「これは○○と言う食べ物である」という事が判ります。同じように他人を区別する時も知っている人ならば「この人は××さんだ」と言う事を認識します。全ての認識がこういった記憶の確認から成り立っています。 しかし、同じ「○○と言う食べ物」を他の人がどう捉えているかは判りません。あなたにとって其れは甘い軟らかいものかもしれませんが、他の人にとっては『あなたの感覚で判断すると』苦い、硬いものかもしれません。しかし、その『苦い、硬いもの』を其れまでの生活経験から言語上『甘い、軟らかいもの』と認識させられている他の人は、其れを言語などで説明する場合にはあなたと同じ「甘い、軟らかいもの」と言います。 色について考えて見ましょう。 あなたの血液は「赤い」ですよね?これは人間ならば誰でもそうである筈ですし、誰に聞いても「赤い」と答えるでしょう。しかし、例えば色彩感覚が生まれつき貴方と全く逆の人がいたとします。その人は、貴方が「赤い」と思う物を「緑色」と認識しているかも知れません。が、その人はその「緑色」と言うものを生活経験から言語上は「赤い」と憶えていますので、やはり「血液は赤い」と言う認識に立ちます。そしてその違いを視覚的、感覚的に証明する事は現在の科学知識では不可能なのです。 しかしながら、概ね同じ構成物質、同じ構造、同じ生活環境を共有する人間同士ならば、例えば味覚について、人体が欲する栄養素等が概ね同じになりますので、貴方が「甘い」と感じている事は、やはり他人も「甘い」と感じていると予想できますし、色彩であれば、そのものの色素を決定する科学条件が変わるわけでは無いので、これについても概ね違わないだろうと考える事が宜しいでしょう。 つまり、 >相手が自分が3角形とおもっているものを4角形としてみているかもしれませんし・・・ そうかもしれませんが、『その違いは認識不可能であり、また、その認識は生活の上で不要である』が答えです。 PS…ご質問で例にある図形に関しては、他に数学的な特徴や条件が絡みますので四角形と三角形は明らかに分けて考えられるでしょう。
他人の見ている世界を経験するのは不可能なので同じに見えるかどうかを証明することはできません。 ただし視神経とか網膜とか多少の性能の違いはあるでしょうが構造がおなじであればおなじように物が見えるのではないかと推測するだけです。
- corpus
- ベストアンサー率12% (25/200)
相手がカエルだったらどうでしょうか? カエルが見ている映像と人間の私が見ている映像は同じでしょうか?カエルは動いているものしか見えないといわれています。 この場合、私とカエルは違うものを見ていると言うことは妥当でしょうか? 私と人間の相手は私とカエルの相手よりはより多く同じものを見ていると考えることが正常な考えだと思います。
- flashprim
- ベストアンサー率23% (51/218)
勉学で得る知恵よりは、生まれつき備わっている知恵(認識力・理解力)が本当の知恵のそのものである。
- frisk_blue_love
- ベストアンサー率48% (141/293)
もし、アナタが哲学科の学生なら以下は読まなくて良いですよ。「わからない」で終わりですから。 哲学科の方でなければ以下どうぞ。 「認識」については沢山の本がありますので、どれでも良いからお読みになる事をオススメします。昔から多くの哲学者がいかに悩んでいたかが分かるからです。 一般的には四角形を見たあとで、その四角形と別の図形を用意して、「さっき見たのはどっち?」と質問して相手が四角形を指差せば、同じものを見ていたのだなぁ、と安心できますよね。 しかし、哲学者はそこから言語レベルで「さっき」という時間レベルでの同意は正しいのか?「見た」という行為は互いに等しい認識の下に行われた会話なのか?「どっち」という選択を強制する方法は正しいのか?とか一般人からすると「何バカなこと言ってんだ?」という事を考えるのです。 更に眼という器官からの情報を脳が正しく理解しているのか?といった話に膨らんでいきます。 書くと長くなるので省略しますが、結局「わからない」と言うか、「証明できない」(同じものを見ていない、とも実は言い切れないのですよ)という事になります。 更に言えば、回答する人間がアナタの質問を正しく見て理解しているかも本当は分かりませんけどね。
- corpus
- ベストアンサー率12% (25/200)
私は相手が同じものを感じているかどうかがわからないときは相手に聞きます。私に黄色い看板が見えて実際黄色い看板があるのだと確信したとき「あれは黄色い看板だね」と言って相手もうなずけば、おそらく少なくとも赤い看板ではなかったということがわかります。もちろん相手の見ている映像と言語のあいだには溝があるかもしれません。つまり、私が黄色く見えているものが相手には赤く見えていてそれを「黄色い看板」と発言しているかもしれないのです。しかし、相手には「私が感じる」赤を見ているということが検証できるとは思えません。私が相手になってしまったらわかるかもしれませんが。
- kobarero
- ベストアンサー率29% (106/361)
本当に相手が同じものを見ている可能性はほんとんどないと思いますが、「同じものを見ていると仮定」した方が便利なので、同じものを見ていることにしているのだと思います。 何故、便利かというと、同じものを見ていると仮定しても、何も矛盾が起こらないからです。何も矛盾が起こらないのに、わざわざ、私の見ている映像と相手が見ている映像が本当は違うのだと言ってもややこしくなるばかりだからです。 ただ、三角形や四角形の話は、数学的概念としての三角形と数学的概念としての四角形を対応させて考えざるをえないので、自分と相手とで異なったものを観る(見るではなく)と考えると矛盾が起こってしまいます。例えば、三角形の内角の和は180度という話が通じなくなってしまいます。従って、目で見ているものは、お互いに異なったいるとしても、数学的概念が結びつくようなものは、「その数学的性質」については、同じことを考えていると思います。
お礼
みなさんありがとうございました。 難しい命題ですよね。みなさんの御意見、楽しんで見させていただきました。