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鉄砲伝来(1543年)の影響

hawkwindの回答

  • hawkwind
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回答No.4

築城といっても砦のようなものだと思って下さい。 今風にいえばサマワの自衛隊のような野営地です。 とにも角にも戦場ですから、 寝たり飯食ったりという安心できる場所を確保する必要があります。 例えば鉄砲出現以前は闇に乗じて木を河で流し、 下流で受け取って柵を立ててしまえば、 朝には簡易式の陣地が完成します。 こういった作戦も鉄砲や投石機といったものの存在によって、 戦争自体にもっと中長期的な戦略眼が必要になってきました。 そういう意味で簡易式の砦では意味をなさず、 物資の補給や安定した防御となる拠点が必要になってきます。 これは全世界的にみても必然の流れなのですが、 もっとも日本の場合はすぐに江戸時代に入ってしまうので、 お城は防御というよりも地域の政治の中心の役割を果たしました。

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