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似非坊主?

amida3の回答

  • amida3
  • ベストアンサー率58% (448/771)
回答No.5

「末法」について多少解説します。 正・像・末(正法・像法・末法)三時の思想というのがあります。仏教の時代観としてのものです。 お釈迦様が亡った後  ●最初の千年間は正法(しょうぼう)の時代。   教えや修行が正しく伝わってよく残っている時代。  ●次の千年間は像法(ぞうぼう)の時代。   教えや修行が像(かたち)だけ残って本質が乱れていく時代。  ●次の1万年は末法(まっぽう)の時代。   ただ教えだけが残っている時代。 余談ですが、そしてお釈迦様が亡くなった日から数えて56億7千万年後、弥勒菩薩がこの世に現れ、乱れた世から私たちを救って下さると伝えられています。 お釈迦様が亡ったのは紀元前383年とされています。計算では2000-383=1617 1618年からは末法の世となります。その意味で今は末法の時代であります。 もちろん、末法だからとあきらめたりするのではなく、どんなに良いことでも、つねに努力していないと、時間とともに慣れてしまい形骸化するという警鐘と受け止めます。

masatoshi-m
質問者

お礼

 amida3さん、ご回答有難うございます。    えっと、次の一万年…ではなく、千年…ですよね?   >余談ですが、そしてお釈迦様が亡くなった日から数えて56億7千万年後、弥勒菩薩がこの世に現れ、乱れた世から私たちを救って下さると伝えられています。  その時にはもう地球は太陽と共に跡形もなく滅んでしまっていると思うのですが…。これは真面目にお伺いしたいのですが、amida3さんはどれくらい真剣にこうした話を信じていらっしゃるのでしょうか。それとも単なる「長い歳月」を表す比喩として語っていらっしゃるだけなのでしょうか。在家の我々としてはその辺りがどうにも戸惑ってしまいます。「弥勒菩薩がこの世に現れ、乱れた世から私たちを救ってくださる」・・・この話も僧侶の皆さんがどこまでそう信じて話されているのか分からないのです。そしてもしそれを信じて話されているとするなら「やはり思考経路が違うのかな」と思いますし、信じていずに話されているとすれば「人の心をかどわかす妄言の徒」と、まことに失礼ながら思ってしまうのです。いえ、誤解なさらないで下さい。私はいたずらに宗教そのものを排斥しようという思想は持っておりません。むしろ「信仰心を持つことで人生はより豊かなものになるのではないか」と、宗教というものに深く期待し、愛着を感じている者です。 >もちろん、末法だからとあきらめたりするのではなく、どんなに良いことでも、つねに努力していないと、時間とともに慣れてしまい形骸化するという警鐘と受け止めます。  とお書きになっていらっしゃるところをみると、恐らくamida3さんはそうした話をひとつの「比喩」として語っておられるのではないかと推察致しますが、そういう理解で構わないでしょうか? 仏教や宗教を専門的に学んだことのない、私などのような門外漢には本当に理解に苦しむことが少なくありません。ご教示頂ければ幸甚です。

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