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似非坊主?

adelaideの回答

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  • adelaide
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回答No.4

はい、ごめんなさいよ!お邪魔しますね。 「今日の質問」のページをめくっていたら、気になるご質問。ご質問文を拝見してみればmasatoshi-mさんではありませんか? あたいにも感想を書かせて下さい。 masatoshi-mさん、「釈迦に説法」だったはずが、どうもご質問文を拝見するに、「馬の耳に念仏」になってしまったような気がするのはわたしだけでしょうか? >「…いえ、もう修行は充分積みました」 彼、もう既に「終わっている」という感じですね。「だみだ、こりゃ」というのが感想です。もしかしたら、映画「ファンシィ・ダンス」(面白いので観て下さい。モッくんが主役です。)のような一定の「研修期間」が終わった経験からそう主張するのではないでしょうか? 人生は一生が修行のようなものだという事は、みーんな感じていると思うのですが。 確か瀬戸内寂聴さんは、仏教は、世襲制になったから駄目になったというような事をおっしゃっています。結婚して子供をもうけ、その子供を僧侶にするから駄目なのだと。でも、わたしの家は、浄土真宗ですが、我が家のお寺さんは初代から現在の三代目の方まで、良い形で受け継がれています。お経もしっかりしていらっしゃるし上手で、法話も上手。そして決して金品を要求しません。実に質素です。 ですから、世襲制を100%否定することは出来ないんですね。 わたしは、キリスト教に対して、歴史上の背景から最近否定的気味でした。けれど、マザー・テレサに関するドキュメンタリーなどを見ると、やはり否定もできないなぁと思います。 masatoshi-mさんのお住まいの地域では、「お仏壇の○せがわ」のCMやっていますか?小さな女の子が、「お手手のしわとしわを合わせてしあわせ。な~むぅ~」というかなり何年も前からやっているCMです。わたしは、本当に良いCMだなぁと思っています。人間は誰しも仏性をもっていて(仏性という言葉は他宗教で該当する言葉をそれぞれあてはめますね)、合掌はその表れなのではないかと最近思うのです。人間としての自然な動きなのではないかと。だって、例えばキリスト教徒だって、指を組まず、「合掌」していることがありますよね。 以前、曹洞宗のお坊さんが書いた本を読んだ時、食事の前にする合掌は、動物だったり、植物だったりの命を食べさせて頂く為のものだとありました。 まあ、それぞれの宗教の教義があるのでしょうが、実はわたしは個人的にお付合いをさせて頂いている方に、真言密教のお坊さんと、曹洞宗のお坊さんがいらっしゃいます。特に、真言密教のお坊さんは、今この世で苦しんでいらっしゃる方々のご相談にのるという事をなさっています。でも、未だかつて教義ではどうのこうのといったお説教を聞いた事はありません。お説教なさる際は、現実に即した表現で、時には怒鳴りつけられる位叱られます。でも、そちらの方がよほど堪えるんですね。 密教は、仏教の中でも修行が厳しいと聞きます。山岳信仰でもありますから、そのお坊さんも例えば奈良の吉野の方の山を駆け登り、駆け下るという事を昼も夜も無く繰り返すという修行があるそうです。夜になれば真の闇の中を駆けます。でも、それをくりかえしていて、途中休憩をしていて、自分は今下る途中なのか登る途中なのかわからなくなるそうです。他の方に聞くと、テレビで紹介されるコースは本当の修験の子供用のコースだそうです。 一般の人でしたら、闇とか急峻な道のりなどで、気がおかしくなるのではないかとわたしは思います。 これは密教の場合で、それを一例にさせて頂きましたが、現在、仏教の中でこういった厳しい修行をするケースは非常に少なく、冷暖房の行き届いた部屋で読んだ仏教書の教義をもっともらしく説教する僧侶が増えていることは否めないでしょう。 週末のリラックスした昼下がり、玄関のチャイムがなるので出てみると、独特の微笑を浮かべ、断っても断っても勧誘に来るセールスマンもどきの○のみの塔の人々や、未だ入信しようとする人にボッタクッテいる○ウム真理教の信者の人々のかたくなさと、masatoshi-mさんの後輩の方の「あまり軽々しく合掌をするものではありませんので」というセリフはダブるものを感じます。 人間が、純粋に心の平安を求めて信仰する宗教の中で、歴史上宗教戦争があったり、派閥争いがあったりしたのは、こういう風に教義をふりかざし、相手を理屈でねじ伏せようとする宗教家達の、人間らしき愚かな心があったらかなのではないかと思うのですが。 なんか、わたしのアドバイスもピンぼけですね。すみません。

masatoshi-m
質問者

お礼

 こんばんは、adelaideさん。あはは、「馬の耳に念仏」か。うまいことを言うなあ、adelaideさんは。これ「馬耳東風」とも言いますよね。でもまぁ、「釈迦に説法」という気は初めからありませんでしたよ、今回は。後輩があまりに慇懃無礼な態度だったものですから・・・ね。フフ…。 >確か瀬戸内寂聴さんは、仏教は、世襲制になったから駄目になったというような事をおっしゃっています。  なるほどね~。ある種の「親方日の丸」ですね。「親の七光り」かな? 世襲制であっても優れた僧侶は大勢いらっしゃるようなのですがね…。映画「ファンシィ・ダンス」は是非観てみます。 >masatoshi-mさんのお住まいの地域では~  はいはい、やってますよ~、その宣伝。、「お手手のしわとしわを合わせてしあわせ」という言葉を初めて聞いた時には「うまいこというなぁ」と感心したものです(根がダジャレ好きなものですから)。 >でも、未だかつて教義ではどうのこうのといったお説教を聞いた事はありません。お説教なさる際は、現実に即した表現で~    教義なんかどうでもいいとは全く思いません。しかしその教義の字面を後生大事に抱え込んで、現実社会に即した処方箋を変幻自在に出すことができないならば、それは生きた宗教ではなく、死んだ宗教だろうと思うのです。「合掌」を批判されたのは生まれてこの方初めての経験だったものですから、少々慌てました(笑)。  それともうひとつ。私の後輩の坊主はあまりに「他力本願」なのですよ。親鸞聖人の「他力本願」はまことに見事天晴れなのですが、「末法の世にあっては人間の教育だけではどうにもならないものがある」って、まるで人間の力を信頼していないかのような言いぐさなのです。本来の「他力本願」はそういう文脈で語られるものではない、と私は思っていたのですが…。 >例えば奈良の吉野の方の山を駆け登り、駆け下るという事を昼も夜も無く繰り返すという修行が~  へぇ、それは凄い。後輩の坊主はひょっとしたら子供用のコースで修行をしたのかも(笑)。 >断っても断っても勧誘に来るセールスマンもどきの○のみの塔の人々や~  そうですねえ、私も自分の後輩ですからあまり悪くは言いたくないのですが、「かたくな」という一点においては共通するものがありそうです。「かたくなな心」って宗教心からは程遠いと思っているのですが、もし「かたくな」でなければ信仰心は持てない」というのであれば、私は今後もずっと無信仰のままでしょうね(笑)。 >人間が、純粋に心の平安を求めて信仰する宗教の中で、歴史上宗教戦争があったり、派閥争いがあったりしたのは~  adelaideさんご分析のとおりでしょうね。「ここからしか真理へ到達する道はない」と言い合っているだけです。まったくバカバカしいとしか言いようがありません。「真理へ到達する道」はいくらでもあります。宗教家は迷える凡愚の徒が百人いたら百通りの方法で、千人いたら千通りの方法(これが《方便》でしょう)で、真理へ至る道を教示すべきなのです。それすらできないくせに「宗教家」を名乗ったりするからおかしなことになる。また俗界の一般人から敬して遠ざけられることになる。ここらあたりを若い宗教家には是非知っておいていただきたいのですが…。 >なんか、わたしのアドバイスもピンぼけですね。すみません。  いえいえ、とんでもない。程々にピンぼけしているのが一番かもしれません。ご回答、有難うございました。合掌。

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