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乃木将軍は愚将でしたか?
司馬遼太郎の「殉死」には乃木将軍は愚将だと書かれています。 その根拠は203高地での軍事作戦にあったようです。 ところで他の文献で乃木将軍が愚将だったというような話は見たことがありません。 実際のところどうだったのでしょうか? よろしくお願いします。
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司馬遼太郎は嫌いな人を悪く書く癖があります。それも人が信じるような書き方をします。作家としてのモラル(自分の執筆物の影響性など)がないのだと思うのですが… さて、旅順要塞攻撃に関しては何度か書いているのですが、別の方も書いていますが、元々は陸軍の攻撃計画にはありませんでした。海軍が自ら攻略するということで、陸軍はこの問題に触れることはできませんでした。ですがいざ戦争になると、海軍では攻略できないことが判明しまして、急遽第三軍を旅順に派遣することになったのです。 第三軍司令部は、旅順を逃げ出した中国人労働者などを捕らえ、要塞の全貌を掴みました。その結果、正攻法以外の攻撃方法はなく、要塞線の盲点はニ龍山から松樹山に至るラインであることを掴んでいたようです。そこで、この方面に向けて重砲隊が配置されました。この作戦は攻略に1年ほど必要とする方法なのですが、総司令部及び海軍は早急なる攻略を要求し、決済された攻撃方法を破棄させられ、要塞としては手薄な盤龍山への強襲攻撃を行うという戦術に切り替えさせられたのです。この作戦には2個師団が投入され、第一師団のみは当初の計画通り攻撃を行いました。 第一次総攻撃では、初日に山頂の制圧に成功します。しかし、ロシア側の必死の反撃と支援野砲部隊の弾薬枯渇により山頂の制圧が困難になったため後退を余儀なくされます。ですが、第一師団は予定通りの進出に成功します。 9月、重砲陣地の設置場所確保のため松樹山とニ龍山の砲台に対して集中砲火を浴びせ、高崎山(これは高崎の連隊が山を攻略したため付いた名前)を制圧します。 10月、総司令部の要求に従い、正攻法と強襲攻撃の併用による総攻撃を行います。これにより望台の制圧に成功します。一方、二百三高地への攻撃ルートを確保します。 11月、第一師団が西に動いたため穴埋めとして各師団より志願選抜された中村支隊が編成され、第一師団と第九師団の間に配備されます。また、第七師団の増援が決定します。11月、再度総攻撃が開始され、中村支隊は2キロの敵陣地制圧に成功しますが、敵の対歩兵防御陣地としては最も強固な場所を攻めたため壊滅状態になります。一方二百三高地方面に進んだ第一師団は、急勾配な高地地帯のため進撃が思うように進みませんでした。そこで第七師団を投入します。二百三高地を巡る争奪戦は過酷を極めましたが、ロシア側の戦力が底を尽きまして遂に制圧に成功します。その時点で第7師団は7割の被害を被っていました。 防衛線の縮小を余儀なくされたロシア側は要塞線の放棄を余儀なくされ、更に名将コンドラチェンコも戦死してしまいます。明治38年正月、遂に降伏となりました。 まず勘違いしてはいけないのが、強襲攻撃は銃剣による突撃ではありません。強襲攻撃がその方式になるのは明治43年以降です。日露戦争では銃剣突撃の命令は記録上一度も発動されていません。当時の日本は砲兵と機関砲の支援の下で攻めるが基本であったのに歩兵のみの力で敵陣地を攻略するのが強襲攻撃です。 もし、日露戦争においてもっとも愚劣な日本軍指揮官を挙げろと言われたら児玉源太郎と思われます。旅順での強襲攻撃、攻略が困難な二百三高地への攻撃要求など、現場を知らずに無理難題を第三軍に押し付けたのです。沙河及び黒溝台でも第八師団及び秋山支隊の機転が無ければ日本軍側のラインは崩壊していました。奉天会戦でも第三軍が間に合ったから良かったもののもし間に合わなかったら日本は敗北していました。
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あの戦いはもともと海軍の失敗によるもので予定にはなく情報がまったくない状態で戦なくてはならず苦戦はしかたのないものだった しかも陸軍は戦いの前に旅順の情報を集めようとしたが海軍の横槍で(俺たちが負けると思ってんのかと怒鳴り込んできた)情報収集を中断させられたともいわれている
- fukkatsu-biz
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少なくとも名将ではなかったでしょう。それまでの戦争では少々の流血を恐れなければ勇敢な突撃で強固な陣地も陥落可能、というのが常識だったのである意味常識人だったともいえます。当時の軍事常識にのっとっての攻撃を繰り返したところ、セメントで固めた要塞と機関銃(それまでも同種の兵器はあったがロシア軍の機関銃は性能が格段の向上)の前に兵士の屍の山を築きました。 これは10年後の第一次大戦で欧州の名将とされた軍人たちも同様の戦術をとってているので乃木一人を愚将と決め付けるのは酷かもしれません。 乃木の場合は 1)突撃失敗が一度でなく、数度同じパターンを繰り返し、結局自分ではどうしようもなくなったこと(若年期の経験を生涯抱え込む→新しい技術についていけない日本型マジメ人間が晩年失敗する典型) 2)指揮を事実上交代した児玉源太郎が天才的な武人であったため指揮官交代後は容易に旅順が陥落した(ように思われた)こと で愚将のイメージが強まったのではないでしょうか。
- sgi1962
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倒幕家 尊王家としては立派だったようですが 軍人としては、あまりにも戦死者を出しすぎましたね。 国内召還の話もあったほどですから
- bougainvillea
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軍事的に見れば愚将ですが、人柄は良かったというのが相場だと思います
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