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怒りの哲学

例えば、プロレスの場合「お前らには”怒り”が足りないんだよ!」と言ってビンタを張ります。 怒り=意欲=闘争心=燃える闘魂 ・・とでも解釈できるのでしょうか。 「俺がぶち壊してやるんだ」 「俺が変えてみせるんだ」 「俺が引っ張っていくんだ」 ・・と、これらの原動力になっているのが、 憎悪では無くて、”怒り”なんだと想うんですが、 格闘家は、どのようにしてこの”怒り”を維持しているのでしょうか? 格闘家における怒りとは、「怒りの哲学」を教えてください。

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回答No.1

怒りは格闘技で本当に必要なんでしょうか? プロレスで怒りの要素がないと盛り上がらないでしょうが、それ以外の格闘技の場合怒りの要素はコントロールする必要があると思います。 怒るとアドレナリンが分泌されて痛みが感じにくくなります。ただ冷静さを失っているのでミスを犯しやすく、負けにつながりやすくなります。 私の場合は試合前は精神を集中して、気合を入れてテンションを高めながら、頭は冷静になるようにつとめていました。集中力を高めて一種の興奮状態になることで、打撃に対しての痛みが減ります。殴られても蹴られても、それほど痛くない状態になるわけです。この状態は形容しがたいですが、多分、「怒り」の状態と同じくアドレナリンなどのホルモン(脳内麻薬)がでているんではないかと思います。格闘技の経験者、特に打撃格闘技の経験者の場合は実感できると思いますが、怒りとはだいぶ違う特殊な選手状態のような気がします。ある程度、頭は冷静になっているのが決定的に違うのではないかと思います。  冷静さを失ってしまうと試合運びがきちんとできなくなって自滅してしまうので、頭は冷静にしておく必要があります。このバランス、コントロールの仕方が重要なんではないでしょうか。  相手を怒らせることでミスを誘うということも高等戦術だと思います。

Syo-ya
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 実際にやっているかたの意見は、やはり重みが違いますね。 打撃に対する痛みが軽減するのは脳内ホルモンの「セロトニン」が関係あるかも知れませんね、このホルモンが心頭滅却すれば・・状態を演出しているという説を読んだことがあります。 別名「平常心ホルモン」とも呼ばれていて、気持ちは醒めているのに、熱いと言った感じで、まさに回答者さまの仰る精神状態を演出しているホルモンだと想われます。 私のイメージする”怒り”なんですが、例えば、横綱の「曙」のインタビューで、「ボクは人を殴れないんだ」とありました。 打撃の格闘技に対する慣れがないというのもあるようですが、どうしてもたじろいでしまう。精神的なものだと本人も認めていました。 明らかにダウンした相手にそれでもまだサッカーボール・キックをするほどの攻撃性を演出しているのは、単に試合に集中しているだけではなく、明らかな”怒り”だと想うんです。 そのへんの攻撃性?についてのお考えがありましたら、是非、お聞かせ願いたいと想います。 闘魂について考えたいんです(苦笑)

その他の回答 (2)

回答No.3

 格闘技をやっている人間て、多分、いくら練習しても自己犠牲とかって考えないんじゃないかと思います。  あなたのおっしゃている自己犠牲って何でしょうか?  格闘技でいえば、食事も含めて節制して、苦しいトレーニングやら、スパーリングやらをやっているのを見ると周囲の人は自己犠牲と思うかもしれません。なんであんな苦しいをことをとかって、思うでしょう。勝つための自己犠牲だと思うのも無理は無いです。  ただ、格闘技をやっている当の本人はたぶん「やりたいから」やっているという感覚だと思います。強くなりたい、勝ちたい、もしくはもっと強くなるにはどうしたらいいだろうという探究心、もしくは闘争心が練習に駆り立てるわけです。あるいは試合で負ける恐怖心・不安感も逆に闘争心に自分の中で昇華させます。だから自己犠牲という感覚はあまりないと思います。少なくとも私の場合は。そうやっていい感じで仕上がっていくと自分自身が納得した感じはします。ただ、「自信」というのは、行き過ぎないように自分ではしていました。明らかに相手が強い場合は過剰なまでの自信が必要です。相手が強いほど、メンタルな部分で負けないように自信をもたせるわけです。ただ、通常、実力が伯仲しているような場合や、やや下の相手であれば過剰な自信は「油断」につながるので、自信という要素はコントロールしていました。つまり簡単に言うと相手が強ければ自信が必要だし、相手が弱ければ自信が行き過ぎて油断しないように自分を抑えることが必要だと思います。ですから自信があるとかないとかという問題ではなくて、いかに自分の能力を最大限に引き出せる精神状態に自分をコントロールできるかということが問題なのだと思います。従って自己犠牲がどうこうという余計な感情は入り込む余地はないような気がします。余計な感情が入ると集中力が切れますので、余計な感情は排斥して、戦いに集中するわけです。 ところで猪木の闘魂の話に戻りますが、猪木は「バカヤロー」とかいいながら相手に怒っているわけではない。バカヤローっていいながら、マイナスをバネにして闘う魂、闘魂をもやして、それを自分のパワーにしているような気がします。だから、猪木がバカヤローっていってもなんとなく気持ちいいでしょ。普通、自分に言われてなくてもバカヤローなんて聞いたらいい気持ちはしないのに、猪木が言うと気持ちいい。それは猪木がマイナスの状況をプラスに、不平やら不満やら怒りやらを闘争心、闘魂に昇華させているからじゃないかと思います。その精神構造は格闘技の試合前の精神のコントロールに通じるものがあると思います。 Syo-ya!バカヤローーッ、いろいろとあると思うけどお前も頑張れ!!イチ・ニ・サン・ダーッ!! なんちゃって。

Syo-ya
質問者

お礼

再投稿ありがとうございました。 それが好きな人がそれを自己犠牲だと想わないのは当然のことですね。 今回の質問は哲学ということで、もっと広義でお伺いしたかったんです。 あと、言葉の定義に認識のズレがあるような気もしますが、質問文にも、怒り=意欲=闘争心=燃える闘魂・・・と、「=」で結んでいますので、今回の質問では同義という前提をさせていただいてます。 熱いご意見ありがとうございました。

回答No.2

 おそらく私の回答はいかに精神をコントロールするかという「怒りの技術」であって「怒りの哲学」ではなかったようです。やや的外れだったかもしれません。  曙選手について言えば、倒れた相手を攻撃したというのは、おそらくフラストレーションがたまりすぎて精神状態をコントロールできていなかったんでしょう。怒りというかファイターとして未熟だった、それだけだと思います。曙選手はちょっとみていてツラいものがあります。選手としての資質というより、鬱屈した感情の部分が。おそらく曙なりに社会や業界に対してなんらか怒りがあるんでしょうが、あまりプラスに作用していないようです。  質問に書いてあるよな闘魂についていえば、以外に魔裟斗なんか実はそういう闘魂を持っていると思います。本人はそういうクールじゃない言い方はしないでしょうが。  彼の場合はミドル級はヘビー級より常に低い扱いだった。これをミドル級というものは世間に認めさせてやろう、っていう気持ちを彼のインタビューなんかを聞くと感じます。これなんかは、怒りの感情がうまく闘魂というか闘争心に昇華しているような気がします。ただし、これがただの「怒り」になってしまうとアケボノ選手になってしまうわけです。 怒りという格闘家にとってマイナスな言葉が適切かどうかは別として、闘争心や反発心、闘魂という要素を持っている格闘家はいるんではないでしょうか。   私にとって言えば、怒りはマイナスの感情、闘争心はプラスの感情だと思います。不満を闘争心に変えれば強くなるし、怒りでわれを失ってしまうと弱くなるんじゃないかと思います。 たとえば猪木って怒ってますかね?怒っているというより、「デカイことをやってやるぞ!」という闘争心を私は感じます。それが闘魂なんじゃないでしょうか。

Syo-ya
質問者

お礼

再投稿、ありがとうございます。 私の予期しなかった回答でしたが、怒りの位置付けが判ったような気がします。 確かに、今の世の中、闘魂はなくて、怒りはありますよね。 それは環境を乗り越えられないことから起こるフラストレーションなんでしょう。 確かに、これは無心になって実力を出し切る闘魂とは違いますよね。 闘魂が野生的に発生するものだとしたら、怒りはあくまでも人間的なのかも知れませんね。 むしろ「憎悪」といったほうが判りいいかも知れませんね。 こういう意味での怒りは世間に蔓延してますよね。 愚痴、泣き言、逆恨み、自滅、悪循環・・・・これじゃいけない。 今回の私の質問も、むしろ生きるための闘魂について考えたかったのです。 「怒りが昇華したのが闘争心」ですか。 納得できる一言ですね。 この差はいったい何処から生まれるんでしょうね? やはり「自信の差」ということになるんでしょうか。 自信をつけるには、当然、それ相当の自己犠牲を払わないといけませんね。 自己犠牲が自信に繋がれば闘魂になり 自己犠牲が報われなかったら、怒りになってしまうんでしょうか。 すくなくとも、世間では、そんな風潮があるように思えます。 でも、それじゃいけないですよね。 みんな闘魂を持たないといけない。 (猪木さんに聞いてみたい!) また、何かご意見がありましたら、よろしくお願いします。

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