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鉄砲を利用した武将
1543年に鉄砲が伝来して以来、武将達の戦い方が変わったと思うのですが、その鉄砲を効率良く利用した武将に負け、その負けた武将が、逆に鉄砲を取り入れて強くなった武将て存在するでしょうか?
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負けて鉄砲を取り入れて 極端に強くなった人はいないかと思われます ご存知の通り火縄銃は連射が効きません 銃撃から銃撃の間まで少なくとも30秒はかかるようです なので、火縄銃の効率良い使用と言う事になると、織田信長が長篠設楽原の戦で用いたと言う三千丁の鉄砲での三段撃ち(事実ではないとの説有り) のように、かなりの数の鉄砲が必要だと思われます しかし、鉄砲はお値段がかなり高い 国人領主クラスや、半国ないし一国を領有する程度の大名クラスでは大量の鉄砲を揃えるだけの経済力がない 従って、彼らが鉄砲に負けて鉄砲を導入したいなと思っても、経済面で実現しないと言うケースがほとんどであったと思うのです そして、大大名になれば経済力もありますが 大大名なら鉄砲に敗れて、その後鉄砲を導入したと言う史実があれば、それは有名な事となっているはずです しかし、そういう話は聞いた記憶がありません これらのことから、鉄砲に敗れた後鉄砲で大幅に強くなった武将はいないと考えます 〜参考まで〜
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- pri_tama
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負けの条件次第なのですが、織田信長は石山本願寺との戦いで、雑賀衆の効果的な銃運用に手酷く撃退され、信長自身も狙撃で負傷しています。 銃を軽視した訳ではないでしょうが、以降の戦いでより重要視する様になりました。 長篠の戦いも、出兵しない武将に銃の拠出を命じており、三段打ちが真実ではなくとも、大量活用したのは事実かと思われます。 また、長篠の馬防柵や堀・土塁を作って戦う戦術は、石山本願寺で痛い目を受けた戦術をマンパワーを動員して野戦築城で野戦で活用したように思えます。 籠城戦で得た戦訓を野戦で活用する所がまさに信長の非凡さを示しているかと思います。
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- oska2
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>鉄砲を効率良く利用した武将に負け、その負けた武将が、逆に鉄砲を取り入れて強くなった武将て存在するでしょうか? 確か、存在しませんね。 日本では、火縄銃(鉄砲)を使うのは武士と見なされませんでした。 江戸時代でも、足軽です。 鉄砲!と言えば、信長の「長篠の戦・三弾撃ち」が有名ですよね。 が、実は実際には三弾撃ちはなかった!という説が有力なんです。 あれ程の銃弾を撃っていながら、広範囲での発掘調査では数発の弾丸しか見つかっていません。 また、武田軍の武将の戦死場所も三弾撃ちの柵から遠く離れた別々場所です。 本当に三弾撃ちがあれば、(鉄砲の威力を認識して)武田勝頼も火縄銃を集めて反撃しているでしよう。 が、残念ながら自刃。 余談ですが・・・。 武田勝頼は、土佐に逃れてきたとの伝承があります。 何と、伝勝頼のお墓もあります。 ※お墓の家紋は、武田菱。
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- eroero4649
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実は戦国時代の軍って、武装はすべて各々の自前なんですよ。それぞれの武士の格や収入に応じて「これだけの収入のやつはこういう人数を連れてくるように」と決められていて、それに応じて軍勢を連れて行ったのです。 そしてその費用も実は自腹です。だから当時の軍隊ってのは現代に例えると軍隊というより建設現場の職人さんに近い感じです。 だから当時の武士や武将がコロコロとあっちこっちに寝返るのは、そもそも戦争への参加が自腹で、勝てば見返りがあるけれどうっかり負ける側についたら経済的にも損失だわ、死傷者が出たら人的被害も出るわで割に合わないことこのうえないからです。 ゆえに武田軍や上杉(謙信)軍では略奪が公けに認められていました。武田軍は攻め込んだ村々で人々を誘拐して奴隷として売り飛ばして、その収入が「戦さに参加した報酬」となっていました。 上杉謙信は毎年のように冬になると関東に出兵していましたが、関東に行く目的のひとつが「関東地方で略奪行為をして将兵に報酬を与える」ことでした。 上杉軍に相対する北条軍はあんまり軍事行動を起こしていないのですが、当時の関東地方というのは実は不作や飢饉が相次いでいて、それに加えて冬になるとほぼゴジラといってもいい上杉謙信がやってきては荒らしまわるので、過度な軍事行動は農民への負担が大きすぎるのであまり合戦を起こしていなかったのです。 武田家は軍事行動を起こして、攻め込んだ先で略奪させないと軍隊が維持できないので逆に軍事行動がやめたくてもやめられない。それでも度重なる軍事行動は大きな負担で、武田領の税金は年々上がって他の戦国大名と比べてもトップクラスの重税です。 で、長々とそんな説明をしたわけですが、そうすると当然武装の内容も基本はそれぞれの武士(武将)の自腹負担です。鉄砲は自分で買わないといけない。 火縄銃って、私が思うに「消耗品」だったと思うのです。何発撃てるか分からないけど、発熱で壊れることは多かったでしょうし、熱で曲がることもあったでしょうしね。おまけに基本的に足軽の武器で、特に敗戦のときともなればあんな重いものは足軽は放り出して逃げてしまったことでしょう。だからすぐ壊れたり紛失するものだったと思います。 で、火縄銃は何で手に入れるかというと「お金」ですよね。当時のお金って中国の銭です。つまり「外貨」なんですね。野菜やお米じゃ銃は買えないので、多くの現金が必要です。 これが武田軍の「ネック」だったんですよ。武田軍は決して鉄砲を軽視していたわけではありません。だけど鉄砲にも、弾丸にも、火薬にも必要なのは「現金」です。武田経済圏は商業が盛んではなかったので、常に現金が不足していたのです。 そして織田信長が多くの鉄砲を確保できた理由もそれです。尾張も彼の領土も商業が盛んな地域だったので「現金」が確保できたのです。 とりわけ鉄砲には欠かせない「火薬」が重要だったと思います。火薬の原料である硝石は国内では出てこなかったので輸入に頼るしかありませんでした。 だから外国と接している薩摩や堺を持っている織田信長が有利だったのです。 私も昔よくプレイした「信長の野望」では商人から好きなだけの鉄砲を買うことができますけれど、現実はそういうわけにはいかなかったということですね。 ちなみに鉄砲が活躍したといわれる長篠の合戦でも、信長は各武将の鉄砲部隊だけを借りて集中運用していたようです。そもそも長篠の合戦では武田勝頼軍は最大でも2.5万、実際は1.5万程度の兵力でしたが、織田・徳川連合軍は最低でも約4万、実際はおそらく5万かそれ以上の兵力を用意していました。鉄砲があろうがなかろうが、騎馬軍団がどんなに強力でも、彼我の兵力差はいかんともしがたいものでした。信長は勝頼が兵力差に気づいて撤退しないように、息子の織田信忠の兵力は後方の山の向こうに隠しておいたほどです。
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