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中学歴史、ボストン茶会事件について

中三です。ボストン茶会事件のきっかけがよく分かりません。調べてみたところ、 「イギリスは、お茶をイギリスの東インド会社の独占販売にするという茶法を制定した。『日常で私たちが口にするお茶でもイギリスは儲けようとするのか』と急進派がボストン港の東インド会社の船を襲い、お茶の箱を海に放棄した」 みたいな感じに書いてあったのですが、よく分かりません。植民地の人々がお茶を買えなくなったということですか?

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  • chie65535
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回答No.2

「東インド会社だけが、お茶を販売する事ができます。他の人(イギリス人も含む)は、お茶を販売してはいけません」という法律です。 当時のイギリスで消費されていたお茶は、すべて「海外(植民地)からの輸入品」です。 東インド会社ではない誰かが、海外(植民地)でお茶を買って、イギリスに船で運んでも、販売が出来ないのです(運んだお茶は廃棄するか、東インド会社にタダ同然で買い取ってもらうしかありません) 例えば、今の日本で「ペットボトル飲料は国営の販売所ででしか売ってはいけません」と言う法律が出来たらどうなるでしょう? 民間が経営するコンビニやスーパーマーケットや商店は『日常で私たちが口にするペットボトル飲料で日本は儲けようとするのか』と猛反発するでしょう。 それと同じ事がボストンで起きたのです。

anheki
質問者

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  • Nakay702
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回答No.3

以下のとおりお答えします。 >ボストン茶会事件のきっかけがよく分かりません。 ⇒確かに分かりにくいですね。特に、「ボストン茶会事件」という名称と実際の出来事との関連が分かりにくいですね。例えば、この名称は、「茶会を催している間に起きた事件」と思わせますし、何のために「茶箱を海に放棄した」のかも分かりにくいです。 私なりの解釈: ①「ボストン茶会事件」という名称は、「茶会を催している間に起きた事件」を暗示しているように見えるが、実際はどうだったのか。 →事件の実行犯らがイギリス当局に詰問されて、「茶会をしていただけ」と言って、首謀者の特定をはぐらかしたことにこの呼び名が起因したらしい。しかし事実は、「茶会」などなかった。ただ、反対運動のための反対集会という「会」が開かれてはいた。 ②何のために「茶箱を海に放棄した」のかが分かりにくいが、この反抗の動機・真意は何だったか。 →おそらく、植民地人としては、「我々は、茶など要らない」とやせ我慢してまで、イギリス本国の課税などに反抗したかったのではないかと推測される。 事件の要約: イギリス本国の議会が「茶法」を制定し、イギリス東インド会社に茶の専売権を与えたことに対して、アメリカ植民地側は強く反発した。「代表なくして課税なし」がその標語であり、反発の骨子であった。1773年12月、集会場に集まっていた者数十人が、ボストン港に入港していた東インド会社の船に侵入して、積荷の茶箱をすべて海中に投棄し、夜陰に乗じて逃げた。イギリス当局は犯人を捕らえようとして詰問したが、当の植民地人は「ボストンで茶会を開いただけだ」と冗談を言ってごまかした(ただ、ホイッグ党員の呼びかけによってオールド・サウス集会場で反対集会が開かれていた)。それで、真犯人を検挙することはできなかった。ところで、植民地はなぜ怒ったか。本国のイギリスが課税法(特に茶税)をアメリカ植民地に押しつけたからである。植民地人はイギリス製品不買運動などで強く反発した。さらに彼らは茶を飲まない誓いを立て、代りにコーヒーを飲むようにした(アメリカ人のコーヒー好きはこうして始まったという)。それより何より、最も重要なことは、この一連の運動が「アメリカ独立戦争」へと繋がっていったことである。

anheki
質問者

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  • kon555
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回答No.1

 このあたりのページが簡単にまとまっていると思います。 https://www.y-history.net/appendix/wh1102-014.html https://america-info.site/boston-tea-party  要は元々植民地政策についての不満があり、それが紅茶の独占販売に関連してついに爆発した、という事です。

anheki
質問者

お礼

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