shift-2007 の回答履歴

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  • 分子と三角形の存在の種類は同じか違うか?

    一般に、目の前のリンゴは実際に「存在」していると考えられますが、三角形は実際に「存在」しているのではなく、概念として「存在」していると考えられていると思います。 では、分子は実際に「存在」しているのでしょうか、それとも、概念として「存在」しているのでしょうか? もし、分子が実際に「存在」していると考えるとすると、その根拠は何でしょうか? 三角形との違いは何なんでしょうか?

  • 分子と三角形の存在の種類は同じか違うか?

    一般に、目の前のリンゴは実際に「存在」していると考えられますが、三角形は実際に「存在」しているのではなく、概念として「存在」していると考えられていると思います。 では、分子は実際に「存在」しているのでしょうか、それとも、概念として「存在」しているのでしょうか? もし、分子が実際に「存在」していると考えるとすると、その根拠は何でしょうか? 三角形との違いは何なんでしょうか?

  • 分子と三角形の存在の種類は同じか違うか?

    一般に、目の前のリンゴは実際に「存在」していると考えられますが、三角形は実際に「存在」しているのではなく、概念として「存在」していると考えられていると思います。 では、分子は実際に「存在」しているのでしょうか、それとも、概念として「存在」しているのでしょうか? もし、分子が実際に「存在」していると考えるとすると、その根拠は何でしょうか? 三角形との違いは何なんでしょうか?

  • 予言の自己成就の例

    予言の自己成就の例を今まで起きたニュース等を利用して説明しなさい。といわれたのですが、全く見当たりません。 例として、オイルショックが挙げられましたが、それ以外とのことです。 何かありませんか? どうしてもない場合は、そういった事例を自分で作ってもいいそうなので、何かないでしょうか? お手数ですが、よろしくお願いします。

  • カウンセラーの限界とは?

    先日カウンセラーの所に行った時にカウンセラーから言われました。 僕にも限界がある。このまま面接を継続するのは難しい。 カウンセラーがこういう言葉を言うときってどんな気持ちの時でしょうか? 私としては、私のカウンセリングをこのまま継続したくない?と言う意味だと取り、今日のカウンセリングには行きませんでした。 あらかじめ、1ヶ月間のカウンセリングの予約はすでにとってありますが、来週も行かないほうが良いのでしょうか? 先週この言葉を言われたときに来週は来ない方がいいですね。と言って退室しました。その時、カウンセラーは何も言いませんでした。 今日はキャンセルの電話をしようか?それともかかってくるのか?と1日中落ち着かず、カウンセラーの顔が浮かんでばかりいました。 今迄何年もお世話になっておりましたが、こういう言葉は始めてききました。私としてはカウンセラーからなんらかの電話がある事を内心待っていましたが・・・・・

  • 悪い思考を止めるには…因果応報に囚われる

    些細なことで例えますと、職場で挨拶をしても返してくれない人に対して、すれ違った後に…「地獄に落ちればいいのに」「どうせ、こんな人間はろくな人生歩まない」「帰り道で事故にでも遭えばいいのに」など、とても酷いことを考えてしまいます。 もちろん顔や、言葉には出しません…いえ、顔には出ているかもしれませんが。 最近、自己啓発関連のもので、悪い思考は自分に返ってくる…という内容のものを知ってしまい、とても苦しくなります。 かといって、良いほうへ良いほうへ考えようとしても苦しいです。 「悪い思考=人を許せないこと」はそんなに悪いことですか?

  • 負の連鎖正の連鎖を絶つか循環形式にできないか

    世の中や自信の事をちょっと顧みると、どうも親の光というか影というか、そういうものが子供に投げかけられるという印象がどうしてもぬぐえないものがあります。心理学でいう「不幸な親は子供にも幸せを与えられにくい」ということも残念ながらある程度いえるようです。 もっと一般的にいうと、世代間はもちろん、固体内でも「正は正を生み負は負を生み」という連鎖が起こっているようです。もちろん塞翁が馬とかありますが、大きな流れとしてどうしてもある。 これはなんと大きな矛盾であり、醜いことなんだろうと思わざるを得ません。世の中が醜いならば、まず真っ先に思いつく理由なのです。 なぜこんな連鎖をほうっておく、あるいは問題にしないということがまかり通っているのかよく理解できません。なぜ多くの人は憤りを感じないのでしょうか? また、この宇宙のどこかには、「正が正を生み」でなく「正が負を生み」という循環形式になっている生物がいるのでしょうか?仮に循環形式ならなんと哲学的に納得できる事だと思いますね。それは民主主義、公平主義の思想に沿うものでしょう。

  • 人の評価がとても気になるのはなぜ?

    こんばんは。30代女性です。既婚、2歳の子供が一人います。 物思いついた頃から、自分がどう思うか、ではなく、他人や周りの人がどう思うか、という事に重点をおいて生きてきました。 今、私の行動のほぼ全てが、自分と子供と旦那以外の人、の目を気にしながら行うものです。 具体的に言うと、育児・主婦業(家事)・近所やママ友付き合い、などにおいてです。 周りから、ダメな主婦・母親だと思われないように必死です。 また、楽しい育児生活を送っていることをアピールしたいが為に、いかにも楽しいような写真を撮り、ブログを書いていますが、ふと、なぜこんなに必死にアピールする必要があるのかと空しくなります。 しかし、アピールせずにはいられません。 ママ友付き合いにおいても、さぞ頻繁にママや子供達と楽しい行事を催しているようにアピールしてしまいます。実際楽しい行事が沢山あるのですが、自分の中だけで収めてはおけません。 旦那とはごく普通に?上手くいっていて話もしています。 が、今は旦那ではなく、ママ友や友人の評価が欲しくてしょうがないのです。 これは、昔から強い傾向でしたが、子供ができてから極端に強くなりました。今ではコントロールできない程です。 子供のためではありません。自分の為にやっています。 自分が満足したいからです。子供より自分を優先しています。 子供にはとても悪いと反省しますが、誰かに評価されないと空しくてやり切れません。 私の父が、とても見栄っぱりで、事実を大げさに話し、評価が高いと非常に喜び、満足を感じる人です。 これは、父ゆずりの性格なのでしょうか??DNAの問題ですか? それとも、私の育ち方によるんでしょうか? 母は、父とは真逆で他人の評価など聞きもしない人です。 ぼけてる・・・といいましょうか。 その母自体、あまり愛情深くは育っていない為か、私に対してもとてもドライというか、干渉もアドバイスも心配も愛情も薄い、というのが私の感想です。 昔から、どこか心の奥が寒いような満足感が無いような、でした。 それをずっと一人で耐えて来ましたが、産後は爆発したようです。 誰かに思い切り、認めてもらいたい。すごいね、頑張りやさんだね、魅力的な性格だね、なんでも良いのですが、認めて欲しい。 これは、父のDNAなのか、はたまた母の愛情を未だ欲しがっているのか、自分が分かりません。 いい加減、子供一筋で行きたいのですが、自分が満足というか、自分の心が満たされないと育児に専念できない。でもそれで良いはずがない。 父のDNAによるものならば、根本の性格を直す方向で、自分の評価を得ることは金輪際、中止しようと思います。そのように努力します。 性格を直すしか方法が無いと思うからです。 しかし、母の愛情を欲しているとすれば、もう少し、今のアピールを続けて、自分が満足がいくところまで、とことん続けてみようと思います。そして、満足がいけば、自然と人の評価よりも育児に力を入れられると思うのです。 人の評価が気になる方、ならない方、原因はDNA?育った環境?どちらだと思いますか? また、今後、どうすれば直るでしょうか? アピールを中止する、又はとことん満足いくまでアピールを続ける。 私はどうすればいいでしょう。アドバイスお願いします。

  • ヒトの事を否定する人

    私の彼のことで教えてください。 私は彼によく 「お前はお人よしだから、いいように人に使われているだけ」 「仕事を任されているんじゃなくて、押し付けられているだけ」 というふうに言われます。 私自身はある程度責任のあることを任されることによって やる気が出る人間です。 だから彼にそういうふうに言われると はっきり言っていらだちます。 そんな彼が先日 「俺って頼りやすい人間なのかな。みんな俺ばかり頼るけど、もうそろそろ俺を頼らなくてもいいんじゃないかと思うのだけれど」 といった愚痴とも取れるようなことを言いました。 確かに彼だけを頼りにしなくてはならない状況のようには思えず 私からしたら彼は“いいように使われている”だけなのです・・・ 私の彼には多々こういった点が見られます。 私にはやってはいけないといいながら自分ではやってしまう・・・ この彼の行動(私にはやってはいけないといいながら自分ではやってしまう)はただ自分勝手なだけでしょうか? それとも客観的に見ているから私には彼がいいように使われていることがわかるだけであって、彼にはそれがわからないのでしょうか? 他人を否定する人の心理にはどういったものが根にあるのでしょうか? どなたか教えてください。

  • 事なかれ主義はなぜはびこる

    「事あれ」主義と言うものがあるならば(実際少ないのでこういう言い方もないのでしょう)なぜ、「事なかれ主義」に圧倒されるのでしょうか? よくある例では、自分にあまり好意的でない(様に思える)し、自分もあまり交換をもてないような人との人間関係について誰かに相談すると、よく「それは悪意じゃないんじゃないか」とか「お前の思い込みじゃないのか」とか、つまり「お前の考え方がおかしいし被害妄想だ」というようなことを言う人がよくおります。これは考えようによっては相談者にとって失礼なことです。またこの事なかれ主義で本当に相談者が「そうかたぶん自分の思いすごしだったな」などと納得することはめったになく、「なんだ、まじめに聞いてくれないのか」という不満不信感を抱くことも多いのではないでしょうか? もしそうならば、実効性も礼儀にも失するこのような「事なかれ主義」はどうして「事あれ主義」を圧倒するのでしょうか? ちなみに「事あれ主義」とは「そうか、あいつはとんでもないやつだから、お前の悪口をそこらじゅうでしているかもしれないぞ」とかいう類の、相談者の訴えを認めるだけでなくさらに追い討ちをかけるように拡大させる姿勢です。

  • 事なかれ主義はなぜはびこる

    「事あれ」主義と言うものがあるならば(実際少ないのでこういう言い方もないのでしょう)なぜ、「事なかれ主義」に圧倒されるのでしょうか? よくある例では、自分にあまり好意的でない(様に思える)し、自分もあまり交換をもてないような人との人間関係について誰かに相談すると、よく「それは悪意じゃないんじゃないか」とか「お前の思い込みじゃないのか」とか、つまり「お前の考え方がおかしいし被害妄想だ」というようなことを言う人がよくおります。これは考えようによっては相談者にとって失礼なことです。またこの事なかれ主義で本当に相談者が「そうかたぶん自分の思いすごしだったな」などと納得することはめったになく、「なんだ、まじめに聞いてくれないのか」という不満不信感を抱くことも多いのではないでしょうか? もしそうならば、実効性も礼儀にも失するこのような「事なかれ主義」はどうして「事あれ主義」を圧倒するのでしょうか? ちなみに「事あれ主義」とは「そうか、あいつはとんでもないやつだから、お前の悪口をそこらじゅうでしているかもしれないぞ」とかいう類の、相談者の訴えを認めるだけでなくさらに追い討ちをかけるように拡大させる姿勢です。

  • 人の欲について

    仏教で「欲」は諸悪の根源にされてるけど、私はあまりそう思いません。 禁欲の先にはストレスがあり、爆発したり潰れてしまったら意味が無いからです。 それで、二つの社会的欲求に対する質問と言うか、アンケートに近いんですが、 他人の行動やあり方に感銘し真似る「模倣」欲と、 他人の影響、支配に抵抗して独立する「自律」欲とでは皆さんどちら派ですか? また、どんな時に「模倣」になりどんなとき「自律」しますか? 私はどちらも経験がありますが、それは歳を重ねるごとに考えが変わってきました。 まずは「模倣」そして二十歳を過ぎ、「自律」となりました。 しかし、人に反発しすぎて周りから誰もいなくなりました。 なので今はバランスを大事にしています。 みなさんはどうですか?

  • 集団催眠の認知

    学校でのある刺激を1を加えるとそれに対して2→3→と永久化していった後クラスの雰囲気がA的なものになったと捉えるしかし世間的に見てAはおかしいという風潮があったとするではこのクラスのA的雰囲気はおかしいとクラスの人間は気づいているかどうか?という質問ですよろしくお願いします。

  • 集団催眠の認知

    学校でのある刺激を1を加えるとそれに対して2→3→と永久化していった後クラスの雰囲気がA的なものになったと捉えるしかし世間的に見てAはおかしいという風潮があったとするではこのクラスのA的雰囲気はおかしいとクラスの人間は気づいているかどうか?という質問ですよろしくお願いします。

  • 哲学は「克服」されるのか?

    私は大学の哲学科で主に実存主義哲学を勉強しているのですが、以前ポストモダンを中心に勉強している友人に、「実存主義って構造主義によって克服されたんじゃないの? そんなの勉強してどうなるの? というか近代以前の哲学って結局全部言葉遊びでしょ?」と言われました。 そのときは、「理性でもって行動する主体性を持った『人間』が構造主義によって解体されたとしても、人格を持った責任主体としての人間は依然残るのだから、キルケゴールやサルトルを勉強することが全くの無意味になった訳ではない云々」といったような教科書的な返答をしたのですが、自分でも少し心もとない返し方だったなぁと思います。 そこでみなさんに質問です。 1、そもそも哲学は歴史の中で「克服」されるものなのか? 2、それを踏まえた上で、実存主義だけでなく、プラトンやカントなども含めた古典を「現代」において勉強する意義はあるのか? また、あるとしたらどのような形でしょうか? よろしくお願いします。

  • 集団催眠の認知

    学校でのある刺激を1を加えるとそれに対して2→3→と永久化していった後クラスの雰囲気がA的なものになったと捉えるしかし世間的に見てAはおかしいという風潮があったとするではこのクラスのA的雰囲気はおかしいとクラスの人間は気づいているかどうか?という質問ですよろしくお願いします。

  • 正直さの重荷

    時として、何でも赤裸々に言ってしまえば楽になるのではないかと期待して、思い切って自分の恥ずかしい一面や嗜好経験立場などを告白することがあります。そういう時、なにか相手を硬直させてしまうとか、後から自分に重荷になるとかで、結局正直さが有効でなく、方便を使っておいたほうがよかったなんていう思いにとらわれることがあります。 これはどういうメカニズムかと考えると 相手が自分と同じ土俵にあがることや心の開放度を広げるということをしないという、相対的な不一致によることが大きいように思います。行ってみれば、社会のほうがついてこない。社会一般は奇麗事の衣や、当たり障りのない衣をかぶって、それと雰囲気の違う赤裸々さとか率直さを排除しようという力学があるように思います。 もちろんすべての例が当てはまるわけではないのですが、こういうことが多いです。 結局「正直さの美徳」なるものがあるとしたら、それはそれを生かすべきところでおこなわないと、かえってお互いにとって迷惑になるということなんでしょうか?そんなものがはたして「美徳」といえるものなのかどうか疑問になりました。 どう考えたらいいのでしょうか?

  • 日本の農業について

    日本の農業について、一つ質問があります。 私は、今の日本の農業の問題点の一つとして農業就業者の高齢化や後継者不足が挙げられると思うのですが....。 その問題を改善していくためには、これから、どのような取り組みや対策が必要なのでしょうか?? 調べてみたのですが、現状などは文献にのっているものの、解決策に関することがあまりのっていませんでした。 ぜひ、教えていただきたいです!!

  • 極端を避ける方法

    信じようとしたら、疑うのをすべてやらないようにして苦になり、そのような苦をなくそうとして疑おうとしたら、信じることをすべてやめようとして苦になってしまいました。こういう極端な行動をやめるにはどうすればいいのでしょうか?

  • 極端を避ける方法

    信じようとしたら、疑うのをすべてやらないようにして苦になり、そのような苦をなくそうとして疑おうとしたら、信じることをすべてやめようとして苦になってしまいました。こういう極端な行動をやめるにはどうすればいいのでしょうか?