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「宣戦布告」に関する質問についての要約
- 「宣戦布告」を必要とする根拠の国際法は何でしょう。
- 真珠湾攻撃が「宣戦布告なしの開戦」とされていますが、これは歴史的に珍しいことなのでしょうか。他の例は?
- 同時期の、ドイツによるオーストリアへの侵攻は、奇襲攻撃でしたが、「宣戦布告」は行われたのでしょうか。
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因みにですが、日露戦争当時のドイツの新聞に依れば、1700年~1870年の間に起こった120の戦争の内、宣戦を布告してから交戦に入ったのは10ほどであった、と日本の奇襲を支持してます。 ただ当事国のロシアはスターリン時代の教科書に 「1904年の初頭に、日本海軍は戦争宣言無しに旅順港のロシア艦隊に襲い掛かり、第一級の艦船数隻が戦線から脱落した」 と、真珠湾攻撃同様に卑怯な奇襲と教えていましたが、これはまあ当事国だからと・・・。
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スイマセン。 宣戦布告と開戦の説明をすると面倒になりますが、という意味で、この真珠湾の説明も長々としてしまおうか・・・しかし迷惑かなと・・・私自身のことで、決して3番の回答を指してる訳ではありません。 書き方が誤解を与える表現になり大変申し訳ありません。
話を面倒にするつもりはございませんでした。 もしそう思われたのなら非常に残念です。 困っている人を見かけたら放っておけないものですから、なんとか自分の知ってる範囲で役に立てたらと思って今まで投稿してきましたが、4番さんのように >3番の方の回答で話が面倒になりますが 等の発言をされては、もう回答する気力がなくなります。しかし、私の回答が間違っていたことも事実と紳士に受け止めたいとおもいます。どうも申し訳ございませんでした。
お礼
せっかくご回答いただいたのですから、お気を悪くされないようにお願いします。 私も間違った解答をして、ご指摘を受けたことがあります。 試験の解答ではないのですから、そんなに深刻に考えないでください。 またお気づきの点ありましたら、どんどん回答していただきたいです。 ありがとうございました。
3番の方の回答で話が面倒になりますが解説すれば 遅延したのは「第907号訓電 対米覚書/外交交渉打切通告」であって、「最後通牒」ではありません。 当時の東郷茂徳外相の見解は 「大東亜戦争は自衛戦争であるから1907年のハーグ第3条約による宣戦通告は必要としないが、国際道徳遵守の見地から通告の手続きをとった。その通告は対米外交交渉打切通告ではあるものの、充分に宣戦布告の要件を備えている] というものですが、これは参考URLを見れば分かるように国際法上説得力に欠けるものとされています。 軍としては奇襲作戦の成果を上げる為、日露戦争同様開戦の翌日に戦争布告を通告する考えもあったようですが、それに対し外務省側としては、国際法遵守の観点から少なくとも玉虫色の表現で「対米交渉打切通告」だけは事前に行おうと努力してみた、という事かと。 また「ハル・ノート」がアメリカ側の最後通牒とする意見もありますし、日本の艦船が真珠湾攻撃の1時間半前に公海上でアメリカの潜水艦の魚雷により撃沈されてますから、どちらが「だまし討ち」なのかも意見が分かれるところです。
お礼
「外交交渉打切通告」が、国交断絶宣告に相当するということでしょうね。 それも、間に合わなかったわけですが。 色々解説していただき、ありがとうございます。 もしご存知でしたら、ドイツの開戦はこの日本の「通告なき奇襲攻撃」と、どう違うのでしょうか、お教えいただきたいのですが。 あまり、国際的な非難の声が聞かれないのですが・・・
真珠湾攻撃についてですが、真珠湾攻撃は日本からの最後通告はありましたよ? ただ、大使館の人がたしかパーティーか何かにに出かけていたので受け取れなかったのです。 だから、結果的に奇襲攻撃になったのです。 でも軍部はそれを狙っていたのかもしれませんね。後々「卑怯だ」とか言われないように。
お礼
真珠湾攻撃について言えば、「通告」に類することを行う意図はあったと理解しています。 ただ、ご指摘のアメリカ側が「受け取れなかった」のではなく、攻撃開始までに、日本の大使館が「渡せなかった」のだと思います。 ご回答ありがとうございました。
宣戦布告に関しては既に日露戦争の時に諸説ありました。 日露が国交を断絶して、双方の公使が首都を離れた2日後の2月8日夜に、日本艦隊は旅順港のロシア海軍を攻撃しました。 これに対してフランスは 「日本の行動は国際法違反であり、交戦慣習を無視した奇襲である」と非難しました。 それに対してイギリスは 「開戦前に正式な宣戦布告が行なわれる例は稀である」 として、クリミア戦争のロシアの例を挙げて反論しました。 つまりこの時点では、一応相手国に宣戦を布告する慣習はあったものの、国際法では国交の断絶をもって開戦をするのが定着してました。 その後、宣戦の布告が必要とされるようになったのは1907年の「ハーグの国際条約」からになります。 因みに日本は日露戦争に先立つ2月6日に 「最良と思惟する独自の行動を取る権利を保留する」と 武力行使を行なう可能性を宣言しており、国際世論は日本の奇襲を正当なものと認めました。 宣戦布告は2月10日になりましたが、「ハワイ攻撃」のような問題にはなりませんでした。
お礼
ハーグ国際条約以前は国交の断絶、以降は宣戦の布告が要件とされていると言うわけですね。 近年では、国交の断絶を理由に開戦すれば、実際大変なことになりますね。 ご回答ありがとうございました。
お礼
やはり、実際は先手を取る方が重要で、慣習法的な手続きは、軽視されていたのですね。 それにしても、120の内10では、なかったに等しいのでは・・・ 再度のご回答、ありがとうございました。