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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「吉良上野介」の立場について)

吉良上野介の立場とは?

このQ&Aのポイント
  • 「吉良上野介」は岡山や他の地域で複数の領地を所有していました。
  • 岡山では鴨方藩と岡山藩があり、その中で「吉良上野介」はどのような立場であったのか疑問です。
  • また、土佐藩や浦戸藩などの土地は治める必要があったのかも気になります。

質問者が選んだベストアンサー

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  • fujic-1990
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回答No.2

 1番回答者です。補足質問を拝見しました。  済みませんが、上野介の遥か昔、吉良家ができた当時はそうだった、とか、別な系統の吉良家だいう話ならともかく、「吉良上野介」の家が32000石ももらっていた大名だったという話は、信じがたい話です。  織田信長は、斯波家の家臣(家老)の織田家のそのまた家臣で、「上総介」を称していました。「介」は守になれない副官というような意味です。  大岡越前でさえ、「越前守」を名乗ることができました。大名なら当然に「守」名乗りです。守と名乗れず「介」で我慢しなければならなかった吉良家が、32000石なんてもらっていたはずがありません。  というのが私の回答の大前提です。  土佐や浦戸についてのべていらっしゃるところから推測して、ひょっとして戦国時代に長宗我部氏に滅ぼされた土佐吉良家や三河一向一揆に味方して出奔断絶した西条吉良家のことを言ってらっしゃるのなら、まあ同族ではありますが、上野介の家(東条吉良家の流れ)とはほとんど関係はありません。  ちなみに上野介が務めていた「高家」の役高は1500石、「高家肝煎」でも2000石の(大名ではなく)旗本職です(広辞苑)。  さて、やっと本題です。  江戸時代に「〇万石」とかいうのは、米をそれだけ「収獲できる土地」を領有した、という意味です。年貢率が五公五民の場合、1万石なら5000石(だいたい1石=1両)を殿様が受け取れるということになります。  万歩譲って吉良家が「岡山、横須賀、はじめ8箇所の村より32000石、上野国緑野郡の村、碓氷郡の村、中谷郡の村の3箇所1000石の4200石~」の殿様(ご領主様)なら、それだけの米を産する土地を領有していたことになります。  領地から年貢も取れますし、困ったときには農民(特に豪農)から借金もできましたし、殿様との関係が親密な場合は、村娘が礼儀を学ぶという名目で殿様のところへ下働きに行くこともありまし、季節の野菜や果物、特産物を持って挨拶に行くこともありました。  年貢を取る代わりに堤防を築いたり、道を良くしたり、泥棒を捕まえたり、産業を興したり、という現在の行政府と同じこともしていました(実際には労働したのは領地内の農民ですが)。  藩が行政の一端をになうか、という話なら、一端どころか「藩(領主)が全面的に仕事」をしていました。幕府は一揆や街道など特殊な場合、場所以外、藩政にたいして一切口だししませんでした。 > 城もカネもない、としたら吉良邸があるだけで城の中で業務や > 算用事はどこでやってたんでしょうか?  領地に置いた陣屋でやって、陣屋に出張している武士が年貢などを最終的に集めて大阪に送って換金して、それを江戸に送るとか、米のまま江戸に送るかしていましたので、吉良家でもそうだったでしょう。  それでも、吉良家の「高家」としての体裁を保つためにお金が必要で、高家では、さまざまな儀式における指南をして、御礼で食べていました。  ところが、浅野なんとかさんは、「教えることで禄を幕府からもらっているんだから俺からの御礼なんて不要だ」と考えたのか、礼金を一切持ってこない。ここのサイトの多くの質問者みたいに「御礼率0%」なのです。 (^_^;; 。「じゃ、教えてやんない」と吉良さんは黙りこんで、浅野さんが失敗するのを平然と眺めていたのです。「そりゃそうなるわな」とニヤニヤ。  怒ったのが浅野さん。「覚えたか!死ねぇ」と私も最近もらってしまったような過激な感謝の言葉(補足だったかな)を発して斬りかかってしまったのでした。 > 与えられるだけなら、家臣や重臣に領地を与える権限もなさそうだし、  自分が召し使っている家臣(徳川から見ると陪臣)には、自分が貰った領地から米やお金を渡すことになっています。  例えば、幕府から100万石の領地を貰っている越前の前田家では、家老に5万石、2万5千石などなどを与えています。御恩を与えて奉公してもらうのです。  勅使供応役は浅野家と伊達家ではなかったか、と思います。  吉良家は上述のように、「指導役・お手伝い」だったと思います。伊達家はお手伝いに対してのお礼金を持参したのですが、浅野さんは挨拶程度の物しか持って行かなかったはずです。  貧乏ならともかく、赤穂藩は赤穂塩の販売で潤沢なお金を持っている、と思われたのになにも持ってこない。「ワシの指導を不要と考えているのか!」というわけです。  高家は、徳川幕府が足利以来の名家を、「名家を絶やすのはもったいない」として召し抱えたものです。  大沢、武田、畠山、大友、吉良など26家が世襲した由です(広辞苑)。何か功績があったからではありません。敢えて言えば、源氏を名乗った徳川家の「本家」筋ですから。血がブランドだったのです。  定かではありませんが、室町時代、「足利に人がなければ、今川から、今川にも人がいなければ、吉良から将軍を出す」となっていたとの記述を読んだ記憶があります。それくらい吉良の名跡は高い。  歴史ある名家なので、朝廷の官位は高いです。 > 侍従や従四位は「幕府からの仕事」がなかったときはどこで > どうしてたんでしょうか?  「高家」というだけで、何もしなくても1500石(年貢を換金すると時代にもよりますが5公5民で750両)、肝煎ともなれば2000石(同1000両)の収入がある領地をもらえましたので、そこからの年貢で生きていました。  日頃は、江戸城内の控えの間で雑談するか、ボンヤリしていたものと思います。多忙な江戸町奉行でさえも、将軍や老中から呼ばれた時のために、午前中は控え室に出勤しボンヤリしていた(構想を練っていた?)由ですから。 > 高知にはそれぞれ藩主がいて、岡山城・岡山藩主は「山内家」が > 納めてたってことか。   f(-_-;; … 高知県に「岡山城」とかあったのですか?  一応、藩史総覧によると、備前(ほぼ岡山県)にしか「岡山藩」はないことになっていますが、岡山城なら、土佐藩領(高知県)内のどこぞの丘にありそうなので言い訳しておきますが、私はその岡山城は知りませんので、なぜ岡山城などという言葉が出て来るのは不思議です。  ちなみに、江戸時代に浦戸藩というのもありません。  土佐藩はずっと山内家が領主です。後年「薩長土肥」が倒幕の中心勢力となりました。土は土佐のことで、その時代の殿様として山内容堂が有名です。

noname#246748
質問者

お礼

ありがとうございます。ツタナイ文章と、未熟な知識でアベコベなこと言ってるかとは思いますが、とても勉強になりました。 重ねてありがとうございます

その他の回答 (1)

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.1

 吉良上野介と言えば、「高家の吉良」でしょ? 高家と言えば、足利などの流れを汲む特殊な「旗本」だと記憶しています。  官位は、ふつうの大名(従五位下)より上の四位・少将(老中並)だったりしましたが、禄高は少ない(2000~3000石程度で、大名ではない。当然、城もカネもない)と理解していましたので、前半の記載には異議があります。  土佐は山内一豊を祖とする山内家の支配地です(江戸に参勤している間は不在でしたけど国家老がいて、明治維新まで土佐に城主がいないなんてことはありませんでした)し、浦戸も(家に帰って藩史総覧でも見てみないとわかりませんが、たぶん吉良家とは関係ナイと思います。なんで「城のお膝元」なんでしょう?  というわけで、どういう意味のご質問でしょう?  ちなみに大名でも、領地がまとまっているとは限りません。例えば、新潟県(越後)の北側に「村上藩」がありました。鮭の回帰に日本で初めて気づいた藩です。  この藩の飛び地が新潟市の近く(合併して新潟市になった?)の味方村でした。「笹川家」という豪農兼大庄屋が村上藩の事務(年貢徴収等)を担当していました。笹川様は、今も大邸宅が残っていますが、甲斐源氏「武田」家の流れを汲む一族です。  グルリと囲んでいるのは、たぶん全部長岡藩(牧野家)領ですが、牧野様は味方村にはまったく無関係です。  言わんやただの旗本だと、あっちこっちに少しずつ領地を与えられて、「合計○○○石」でした。ちょっと広いと「陣屋」を置いて家臣が行っていましたが城は持てませんでしたし、小さな領地は大きな農家などが事務を代行していました。  隣接地の殿様はまったく無関係です。一揆の兆候でもないかぎりは口だしナシです。  吉良家は高家(旗本)なので、大名以上に領地があっちこっちに飛んでいた可能性が高いと思います。不在でも政治(年貢集め)は順調に進むシステムになっていたわけです。

noname#246748
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございます ちなみに私の質問も含みますが「岡山、横須賀、はじめ8箇所の村より32000石、上野国緑野郡の村、碓氷郡の村、中谷郡の村の3箇所1000石の4200石~」についてですがそしたら、各藩がその村の一反を担ってたとしてその「年貢の徴収」等が主な仕事なんでしょうか? 城もカネもない、としたら吉良邸があるだけで城の中で業務や算用事はどこでやってたんでしょうか? 与えられるだけなら、家臣や重臣に領地を与える権限もなさそうだし、調べたところでは立場上今の国家公務員で、幕府の「手伝い」(勅使役も幕府から命ぜられたものと聞いている)そもそもは、吉良上野介は「従四位」であり「侍従」。その立場も「足利家」の潮流を組むからとも言われていて逆に足利家以外には何か戦勝がよかったとかそう言うわけでもなさそう。 ということは高知にはそれぞれ藩主がいて、岡山城・岡山藩主は「山内家」が納めてたってことか。特に年貢の取り立てより他「特に仕事はなかった」訳なんですね。 そもそも侍従や従四位は「幕府からの仕事」がなかったときはどこでどうしてたんでしょうか?城の中で私兵や家臣を召し使えてたとも考えづらいし、そのもらった「領地」は戦勝がよくてもらったとか? それとも、足利家のブランドにおいてもらってたとかですか? あちこちにもらうのはどういうわけか。 もちろん「ここがほしい」といってもらえるわけでもなさそうだし

noname#246748
質問者

補足

すみませんあと「官位は、ふつうの大名(従五位下)より上の四位・少将(老中並)だったりしました」 とありますが、私が従四位とか言ったのはとあるQ&Aサイトの情報をもとにしたものです。誤りもあるのかもしれません。

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