後に糧となった若い頃の苦労・挫折

このQ&Aのポイント
  • 若い頃の苦労・挫折を糧にして成長してきた経験を紹介します。
  • 直虎の舞台井伊谷を訪れた際に感じた思いや名所を紹介します。
  • 家康の若き日の勇敢さが後の成功につながったエピソードを紹介します。
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後に糧となった若い頃の苦労・挫折

先の連休を利用して、 『 おんな城主 直虎 』 の舞台 井伊谷 に行って参りました。 先ずは 龍潭寺 ・ 大河ドラマ館 他を回り、浜名湖 の北部が見渡せる宿にて旅装を解きましたが、平安末期から続く名門 井伊 一族がかつて盤踞したこの一帯は、現住所ですと 浜松市 北区 引佐町 との事。 一方昼は 蒸らしがない関西風の鰻をかき込んで済ませたのですが、地元では有名らしいこの鰻屋さんの直ぐそばに、高名な 三方ヶ原古戦場 跡地という石碑が建っておりまして、何か懐かしいものに出会った気がしました、ああここかぁ・・と。 俗に 「 若い頃の苦労は金を出してでも買え 」 と言いますが、後の天下人 徳川家康 にとってこの 三方ヶ原の戦い はそれに当るのではないでしょうか。 浜名湖と北方山岳地帯に挟まれた狭隘な土地を通過し西進するであろう、当時天下無敵を誇った武田勢3万の精鋭・・、但し城に籠っていさえすれば通り過ぎるはずの嵐でした。 ところが 元亀 3年のあの日、若き家康は ほぼ勝算の無い博奕に打って出る事となる、即ち僅か1万足らずの軍勢を率いて浜松城を北上し、 三方ヶ原 に 鶴翼の陣 を敷いて敢然と決戦を挑んだ、勿論散々に蹴散らされ 家康 自身命からがら逃げたほどの大惨敗でありましたが、この経歴が後に大きな勲章となり財産となる、極論すればその遥か延長線上にこそ彼の 関ヶ原 があると申し上げても、さほど言い過ぎではなかろうと思います。 個人的にはどうでしょう、若い頃喰らった大きな失恋の痛手が、その後の恋愛観を劇的に変えた気がします、1人の女性に執着する事は何の実にもならない、実は滑稽でしかないと・・。 さて表題件に関し、御意見を賜りたいと存じます。

  • isoken
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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.7

イソケンさんこんばんは、若い頃の失敗をまったく糧にしてないmikasaです・・・ 恋愛の話ですと、21の時に別れたT子。今まで何度も書いてますけど、今の妻との婚姻届を市役所に提出しに行ったら受け付けたのがT子でした。それまで自分の中ではT子とは自然消滅したつもりだったのが、「ああ、T子がプライドが高くて引き留められないのをいい事に、自分で勝手に黙って去ったんだった」って一気に罪悪感が押し寄せました。飽きっぽい私は濃密な時間がある程度続くと一人になりたくなって、他に好きな女性が出来たわけでもなく、その恋が超どーでもよくなっちゃう悪い癖があるのです。しかしその「婚姻届の一人勝手に修羅場事件」がトラウマとなり、理由も言わず黙って去る事の罪深さを思い知りました。 話は変わって、実は今度中学の同窓会があります。30年ぶりの同級生との再会です。最近こもりきりの私、ちょうどダイエットもしたし、お洒落して出掛けてみんなとの再会するのが楽しみです。しかし、同窓会が近づくにつれてひとつの懸念がじわじわ大きくなっていきます・・・ これも何度か書いてますが、18才の頃付き合ったM子、小中一緒で優等生で小学校の頃好きだったもんで、高校卒業したあと再会して付き合ったのですが、すぐ遠距離恋愛になり、例によって(前述の話より前の話ですが)どうでもよくなり、電話も手紙も無視して自然消滅を狙っていました。するとある日突然M子が両親を連れて私のバイト先に攻め込んできました。私の方が一瞬早くそれに気付いてトイレに籠城、バイト先を一通り探して私がトイレにいると踏んだM子はトイレをドンドン叩き、「mikasa!何で会ってくれないの!好きな女でもできたの!」と怒り狂い、私はトイレの中で震え上がってました。諦めて帰るまで20分くらい堪え忍んだでしょうか。我ながら非道い別れ方でした・・・ その数年後、地元でM子とはニアミスしているので、おそらく地元に居ると思われ、同窓会に来る可能性も高いです。自分の城にこもって籠城してれば良いものを、同窓会という名の三方ヶ原にのこのこ出掛けて修羅場となるか!私の運命やいかに!・・・脱糞くらいするかもしれません・・・汗

isoken
質問者

お礼

mikasa さん、こんばんは。 そもそも恋愛・結婚というカテゴリーは、恐らく最も学習効果が発揮され難い分野ではないのでしょうか、同じような過ちを繰り返す知人の姿を、随分と見て来た気がします。 その女性は3度結婚していますが、くっ付く相手というのが甲斐性無しのダメ男ばかり、その度に相談に乗って来ましたが、お陰で ヒモ という商売が成り立つメカニズムの解析に、大いに役立ちました。 結局選ぶ側の嗜好の問題なんですね、生活力はゼロだが女性にマメ且つ成就しない夢を持つ男に対するニーズが、いつの世にも或る一定量あるんでしょう、そこで互いに傷を舐め合ってしまう、つまり ショーウィンドウ に飾られた必要悪という事です。 >その数年後、地元でM子とはニアミスしているので、おそらく地元に居ると思われ、同窓会に来る可能性も高いです。自分の城にこもって籠城してれば良いものを、同窓会という名の三方ヶ原にのこのこ出掛けて修羅場となるか!私の運命やいかに!・・・脱糞くらいするかもしれません・・・汗 籠城戦は得策ではありません、 同窓会会場に 鶴翼の陣 を敷き、天下無敵の騎馬軍団に決戦挑んだ家康を見習って、男らしく討死して来て下さい、無論香典ははずみます。 まあ分かるんですよ、ちゃんとした別れの手順を踏むのが面倒臭いって事と、それほど惚れていない相手との愁嘆場は勘弁して欲しいという気持ちは・・、自然消滅が一番楽ですしね。 それにしても姿をくらませたり・友人に押し付けたり・・、世間を狭くする酷い別れ方は、私としても随分して来たつもりですが、 mikasa さんは私以上の悪魔ですね・・確実に、お見逸れしました。 回答ありがとうございます。

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  • 00000000aa
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回答No.15

ご丁寧なお礼を頂きありがとうございました! 本題から逸れて申し訳ありませんが…東急プラザと東急文化会館がなくなってしまったと初めて知りました。2つ共に「渋谷」のシンボルでしたのに。おまけに戸塚にできたのが東急プラザと知りませんでした。 渋谷駅周辺は元々分かりづらく、JR、東急、井の頭線、地下鉄銀座線等が入り交じり、待ち合わせには、忠犬ハチ公でした。2つのビルは方向を見定める為の指標でしたが。 2年位前に渋谷から銀座線に乗ろうとしましたら、何がなんだか分からなくなりました。 今話題のスクランブル交差点ですが、渡るのが必死で怖くてたまりません。 暴走車とパトカーが来たら私は必ずどちらかに轢かれます。人の流れが恐ろしいです。 考えたら日本は平和ですね。スクランブル交差点で銃襲撃がありましたら、大惨事です。みんなが皆練習したかのように歩いている。不思議でたまりません。

isoken
質問者

お礼

aa さん、おはようございます。 お礼が遅くなりまして、申し訳ありません。 >本題から逸れて申し訳ありませんが…東急プラザと東急文化会館がなくなってしまったと初めて知りました。2つ共に「渋谷」のシンボルでしたのに。 新宿に比べると遥かにコンパクトで、渋谷未経験の方々が想像する以上に小さな繁華街、ただイチゴにレモンそしてハッカ等々・・、その狭いエリアにサクマ・ドロップのようにあれこれ詰まっている、それが渋谷なんだろうと思います。 仰る通り、 東急プラザ と 東急文化会館 は私にとっても 「 ザ・渋谷 」 的存在でした、後に出来た 西武デパート や パルコ に較べれば、或る種のレトロ感は否めませんでしたが・・。 今は唯一 東急東横店 が規模縮小されてその古びた裸体を晒した格好ですが、名物であった 「 東横のれん街 」 は マークシティ に移設されました、 4 ~ 5 年前だったろうと思います。 >渋谷駅周辺は元々分かりづらく、JR、東急、井の頭線、地下鉄銀座線等が入り交じり、待ち合わせには、忠犬ハチ公でした。2つのビルは方向を見定める為の指標でしたが。 慣れちゃえばそうでもないのでしょうが、確かにハチ公というのはそういう存在でしたねぇ、ただまあ余りに人が多過ぎて、銅像の直ぐそばとか交番の横とか、注釈をつけて約束しなければ大変だった気がします。 ところで私の実家は渋谷にほど近い地下鉄沿線にありましてね、中学 ~ 大学までの10年間ずっと渋谷・・、他方 大学から最も近い 表参道 までの定期代を親にもらうのですが、実際には渋谷まで ( その先は営団でしたから別料金 ) しか買わなかった、渋谷駅から10分以上歩き、その差額を浮かして小遣いに回す姑息なガキでした。 結構井の頭線沿線の女の子と付き合いましてね、中3で初めて出来た彼女もそうだった、空が暗くなりデートの終わりを告げると、JR横の横断歩道を渡り階段を上って、彼女を井の頭線の改札前まで送って行くのです、汗ばむほど互いに手を握り締めて・・。 >2年位前に渋谷から銀座線に乗ろうとしましたら、何がなんだか分からなくなりました。 あれって5Fに移動したんでしたっけ?、普段直通乗り入れを利用している私にはよく分からないのです、ただあの乗り場は何年後かにまた変更になるらしいですよ。 >今話題のスクランブル交差点ですが、渡るのが必死で怖くてたまりません。 >暴走車とパトカーが来たら私は必ずどちらかに轢かれます。人の流れが恐ろしいです。 朝夕の混雑時、あの交差点は一度に Max 3000人程度が渡るらしいですよ、そんな中ちんたら歩いていては確実に信号が変わっちゃう、恐ろしいほどの人混みです。 ただまあ自分の身は自分で守らなきゃならない・・これが鉄則、都会で生きて行くには余計にそうでしょう、・・と言う事で余りお勧めは出来ませんが、私自身はどの交差点を渡る時もそうでありまして、横にいる赤の他人を盾にする事を常に心掛けています、万が一の事が起きた時の用心の為に・・。 いざ車が突っ込んでくれば、ケガはするでしょうが死ぬリスクはぐんと下がる、一方駅のホームでも絶対に線路から離れた場所には立たないし歩かない、結局自己防衛とはそういう事の積み重ねではないでしょうか。 回答ありがとうございました。

noname#229162
noname#229162
回答No.14

あ、あっ ダメだーっ。我慢できない。 自分のお礼が終わらないうちに、他の回答を書く・・これは人の道に反すると知りつつ冥府魔道を歩んでしまう私であった。 あれは、19歳の誕生日を迎えた頃の大学一年生の秋。近所の短大の女子学生とともに私はフォークダンスサークルですごしました。 N子ちゃんというやや間隔の離れた双眸、黒目勝ちの瞳の彼女はちょっとエキゾチックで、田舎育ちの私には仙台のミッシェルファイファーに見えました。 昔、図書室で読んだ湯川秀樹の伝記にあった奥さんとのなれそめのシーンを思い出し、私はひたすらナオコちゃんに将来の夢を語りました。湯川秀樹の奥さんは私の理想の夫人像でした。https://plaza.rakuten.co.jp/masatoshiohara/diary/200605150000/ 湯川秀樹の中間子理論よりわかりやすい口調で丁寧に自分が建築学会賞を目指していること、代々木の体育館、桜台コートヴィレッジが夕陽に映える光景について熱っぽく語りました。 彼女があくびを我慢しきれなくなったころに一通の手紙が届きました。 「ごめんなさい。私好きな人がいます。その人とはまだおつきあいをしていませんが・・」 40年たった今も私の心の友である不良同級生のHが 「お前、女は頃合いを見て押し倒さなくちゃだめなんだぞ」 と教えてくれて、その後私は、部屋をキレイに片づけ、サイホンで珈琲をいれてサイモンとガーファンクルを流して、失敗の末にあんまり好きでない女の子をやっと押したおすに至りました。 その後も、どうしたら簡単に意中の子を彼女にできるかということに腐心した私は、失恋した女性を慰める才能が自分にあることに気が付きました。isoken師匠に言わせたらそういう二流の技は使ってはいけないということなのでしょうが、手負いの獲物のほうが私には楽でした。 20歳前後の恋愛で、場数を踏んで辛酸をなめた経験が、厚顔無恥な精神と、ナンパの恥はかき捨てという鉄則を感得するにいたりました。その後も、美人とブサイクなら美人のほうが落としやすいとかいろいろわかってきたのですが、それはまたの機会に。 45歳で離婚した私にとって20代前半の苦労は、大きな糧になっていました。 すでに、自分はどういうタイプの女性にウケ、どういうタイプから疎んじられるかわかっていました。再婚までの4年間は、私の人生の中で最も華やいだ時間となりました。 あれ?学生時代モテなかったチビが急にモテるようになるなんて変だぞ。とおっしゃらないで、都会の水で顔をあらってお洒落とバーやレストランという舞台装置があれば女心を酔わせることはさほど難しいことではありませんでした。 青春時代の苦悩があったればこそ、花の独身中年時代があったのだと思います。遅く来た青春ですが実に楽しかったです。

isoken
質問者

お礼

ex さん おはようございます、朝晩めっきりと寒くなりましたが、どうお過ごしでしょうか? お礼が遅くなりまして申し訳ありません。 >あれは、19歳の誕生日を迎えた頃の大学一年生の秋。近所の短大の女子学生とともに私はフォークダンスサークルですごしました。 10代の頃の記憶というものは鮮烈です、加速度を増して感激というものが失われて行き、且つ昨晩食べたものを忘れる年齢になっても、その種の思い出は記憶の襞に焼き付いて離れない、特に女の子が絡むと余計にそうですね。 若い頃の思い出というものは多ければ多いほどいい、それが失恋であれ何であれそうでしょう、・・そう達観出来るようになった頃にはもう遅いのですが、妙に白け背中を向けないで、青春の渦中には身を置いておくべきだろうと思うのです、私のように先に行って後悔しない為にも・・。 フォークダンスは中学時代が最後ですが、秘かに好きだったあの子が近付いて来た時のときめきは、そして1つ前で音楽が鳴り止んだ時の落胆と怒りも含めて、今も忘れられません。 >N子ちゃんというやや間隔の離れた双眸、黒目勝ちの瞳の彼女はちょっとエキゾチックで、田舎育ちの私には仙台のミッシェルファイファーに見えました。 『 スカー・フェイス 』 での ミッシェル・ファイファー は強烈でしたねぇ、トッポくていい女というのは実に魅力的です、但し火傷をする事を考えればちょっと手を出し難いのもそうでしょう。 さて伊達62万石のお膝元 仙台は無論そうですが、他にも九州に於ける福岡・博多、北海道に於ける札幌を例に挙げるまでもなく、地方の中心都市というものは、その地方 数県の エッセンス を吸引しミキサーにかけて、実に個性的な文化圏を作り上げているように思えるのです。 他方大学ともなれば、日本国中から若者が集う事となる、それにしても女の子のお国訛りとは何ていいものだろう・・、テレビから流れて来るイントネーションを聞くのみの環境に育った私には、長らくそう思えてなりませんでした。 >彼女があくびを我慢しきれなくなったころに一通の手紙が届きました。 >「ごめんなさい。私好きな人がいます。その人とはまだおつきあいをしていませんが・・」 これが怖い・・、ストリート・ナンパは屁とも思わなかった私ですが、反面・・居住区周辺での恋愛には極端に憶病でした、石橋を叩いて尚渡らない・・そんな感じ。 依って或る一定の年齢以降、恋愛相手の殆ど全ては外部から調達する事となる、きっと破綻後の住み心地の悪さを恐れていたんでしょう、極端な話私の場合、周囲の女の子を口説くより外人をナンパする方がよっぽど楽なんです、緊張感ゼロ。 因みに大学の時、クラスで唯一仲が良かった女の子がいました、私共の 2 ~ 3 年先輩に当り ミス・キャンパス だった 名取裕子 さんに決して劣らない美形で、俗に言う 秋田美人 の存在を、世に担保させるかのような コーカサス系の美人でありまして、クラスコンパで意気投合して以降、講義はいつも隣の席、二人でお茶を・お酒を・・そんな仲でした。 噂とはいつの時代もいい加減なもので、周辺では二人は付き合っている事になっていたようです、ところがその実 指一本触れた事が無い、正直言うとその時の幸福感が壊れてしまう可能性が怖かったのでしょう、ただまあ恋愛とSEXのお相手がいないのは困る、だから外では派手なナンパを繰り返す・・とまあこうなってしまう訳です。 しょうもない事を覚えているものですが、当時彼女は杉並区 方南町のアパートに住んでおりましてね、何度か行った事があるのです、その時押し倒せばその後の関係は一体どうなったか、もっとも神のみぞ知る・・でしょうが。 自然界に生息する小動物のような用心深さを以ってしても、また如何なる ペシミスト が彼女の挙動を悲観的に検証しても、私からのアプローチを待っているように思えました、口に出かけた事は何度もある、それでも遂に付き合ってくれとは言えなかった4年間・・、きっと縁が無かったのでしょう、無論それっきりです。 >40年たった今も私の心の友である不良同級生のHが 「お前、女は頃合いを見て押し倒さなくちゃだめなんだぞ」 と教えてくれて、その後私は、部屋をキレイに片づけ、サイホンで珈琲をいれてサイモンとガーファンクルを流して、失敗の末にあんまり好きでない女の子をやっと押したおすに至りました。 目に見えるようですが、そういう小細工を弄するのはオスに共通する繊細さでしょうかねぇ、この一文を読んで うんうん ・・と頷く男性は少なくないと思います、バック・ミュージックに気を遣ったのはその通りですし。 >その後も、どうしたら簡単に意中の子を彼女にできるかということに腐心した私は、失恋した女性を慰める才能が自分にあることに気が付きました。 待ちの恋愛というのは簡単です・・言うなれば女性型でしょうかね、振られた経験が無いと公言するのはこういうタイプ、傷付くリスクも少ないでしょう、きっと。 ただどうなんだろう、得た成果への喜びというものが、仮に苦労に比例するものだとすれば、穴を掘り獲物を待つ迂遠さよりも、ハンティングで仕留めた快感の方が数倍するのではないでしょうか。 それはともかくとして、杜の都の名門大学を出て一流企業に身を置かれた ex さんならば、言い寄って来る相手のパンチを待ってカウンターを放つのが恐らく正攻法、ところがその実 自分から仕掛ける、それも手数の多いファイターであられる、私が ex さん に敬意を表する所以は、大変僭越ながらきっとそんなところなんだろうと思うのです。 >isoken師匠に言わせたらそういう二流の技は使ってはいけないということなのでしょうが、手負いの獲物のほうが私には楽でした。 買い被りもいいところ・・胸を張って断言しますが、そんな崇高なポリシーを持つ私ではありません、手負いの小ウサギちゃんを頂いた経験もありです、基本・・目的を達する為には手段を選ばない、勿論手負いだって瀕死だって構やしないのです。 ただですね、私の場合マメさと根気が決定的に欠如しているのでしょう、言い換えれば、いい雰囲気になりあと一歩押せば何とかなりそうな女の子をフォローし続ける粘着力が無い、・・と言う事でその場限り・その日限りの恋愛を繰り返す事となる、大いなる反省材料でありまして。 >20歳前後の恋愛で、場数を踏んで辛酸をなめた経験が、厚顔無恥な精神と、ナンパの恥はかき捨てという鉄則を感得するにいたりました。その後も、美人とブサイクなら美人のほうが落としやすいとかいろいろわかってきたのですが、それはまたの機会に。 苦心惨憺の末に辿り着く摂理というものがあります、美人の方が妙な手練手管が少なく感情の発露がストレート故に落としやすい、・・というのはまさしくその通りでしょう。 反面 美人とのお付き合いには常に緊張感が伴う気はします、今尚秘かに天然物のフグの肝を召し上がる方々に共通した、死と隣り合わせの或る種の快感、この緊張感が堪らないというのは確かにそうなのですが、言い換えれば美人を占有し続ける為に擦り減らす神経は並じゃない、何せ選択肢とライバルが多いですから。 流行やトレンドに全く不勉強では、いつ何時寝首を掻かれるかも知れませんし、お洒落にも気を遣わねばならない、「 女心と秋の空 」 という格言は美人に限定されるべきでしょう。 その点一度そうなっちゃえばおブスちゃんは結構楽 ( 別れたい時は大変ですが ) です、一度喰らい付いたらスッポンのように離れませんし。 飴と鞭に鋭く且つ従順に反応して、甲斐性無しに貢いじゃうのがその手のタイプ、ヒモと仰る人達は敢えておブスちゃんを狙うそうですよ。 回答ありがとうございました。

  • sqqrcxvx
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回答No.13

isokenさんこんにちは。 質問がまだ継続中なのでおじゃまします。 >個人的にはどうでしょう、若い頃喰らった大きな失恋の痛手が、その後の恋愛観を劇的に変えた気がします、1人の女性に執着する事は何の実にもならない、実は滑稽でしかないと・・。 あの女性のことでしょうか。 余程想い出に残る女性だったのでしょうね。 あの時代あの職業は本当にレベルが高かった。分かりますisokenさんのお気持ち。 それに比べ今日あの仕事に従事する人達の凋落ぶり、如何ともし難い。しかし今年春でしたが国内線でJALの伝統を受け継ぐ子に奇跡的に出会いました。20代半ばで170位、半世紀前の客室乗務員が時空を超えて現れたかと(おおげさです)。 予約が直前だったので後ろから3列目しか空席が無く通路後方まで歩いたのですが、途中その彼女が会釈してくれ素直に嬉しい。なに向こうは商売でそうしてるだけなんですけれどね。 夜は誰に弄ばれてるのかなとか考えながら飛んでいました。 客室乗務員は若手3名+50過ぎのチーパー。若手は膝が隠れるスカート丈で慎ましやかなのに、チーパーのみ膝上10cm位。どうなってるのこれ? その便より数えて2か月程前に搭乗したJAL(国内線)がすごかった。客室乗務員数人が全員50代。皆チーパーに見えてしまい誰がチーフかも分からない。いやぁぁもう何も言いません。 >1人の女性に執着する事は何の実にもならない、実は滑稽でしかないと・・。 この部分は正直分かりません。彼女に対しマイナス評価だけではなかった筈。いまだに心の中に生き続けているのが一つの証拠かと。 これが真実の恋だというものを経験すると、以降の人生において登場する魅力的な女性達にも「可愛いね、だから何?」になってしまいます。本気にのめり込んで行けない、よいことか良くないことなのか・・?無論よくない事なんでしょうが。 >浜名湖と北方山岳地帯に挟まれた狭隘な土地を通過し西進するであろう、当時天下無敵を誇った武田勢3万の精鋭・・、但し城に籠っていさえすれば通り過ぎるはずの嵐でした。 家康の本拠地は西三河、遠江には云わば進駐軍として来た訳で。父祖伝来の地を侵食されるのは許容できない。逆に読めば信玄は、浜松を素通りし西へ向かえば家康は城を出て挑んでくるとの計算があった?だから待ち構えていたのですが。 まぁ今となってはその辺の事情はよく分からないというのが本音です。

isoken
質問者

お礼

sq さん、こんばんは。 sq さんがお好きな選挙の季節になりました、ただ今回は読み難いですねぇ、全く見当が付かない。 唯一予想らしきものが可能な点は、保守票を食い合う構図という事だけでしょう、並みいる小政党の増減は全て微々たるもので、許容誤差の範囲内でしょうから。 結局解散前の 自民 280 強と旧 民進 ( 希望 ・ 立憲 ・ 無所属 を含めた ) の 100 前後をプラスし、若干 立憲 に流れる分を差し引いた 350 議席前後を 自民 と 希望 が食い合うという選挙でしょう。 つまり 希望 が案外健闘して 100 取れば 自民 は 250 程度で 30 議席のマイナス、仮に 130 以上取るような事態になれば、 自民 が単独過半数割れして安倍内閣は崩壊、・・とまあそんな風に読みます。 その場合 公明党 の存在感が増し、外交防衛政策の軸が右から中道に移動して、改憲論が立ち消えとなるのは恐らく間違いないでしょう、イメージ的な面から当然 石破さんの出番も吹っ飛びます、・・となると首班は 岸田 さんかな?、私個人は 麻生 さんのショート・リリーフも有り得るとは思いますが。 もっとも 小池さんも苦しいですよね、彼女の性格からして4分6で出馬するのではないか?、実は今でも私はそう思っているのですが、そうなれば恐らく小池神話の終わりの始まり・・、どちらにしても痛し痒しでしょう。 思うに小池さんは現代版 藤堂高虎 みたいな人ですね、頭がいい・感もいい・度胸もある・・つまり極めて有能な政治家なのですが、その一方で主だっただけでも 細川さん・ 小沢さん・ 小泉さん等々、主を次々と変えて今に至る、上に立つにはどうだろうと思ってしまうのです。 >あの女性のことでしょうか。 >余程想い出に残る女性だったのでしょうね。 >あの時代あの職業は本当にレベルが高かった。分かりますisokenさんのお気持ち。 御指摘の通りです、ただ実はその後一度だけ会った、いやすれ違ったと言った方が正確なのですが・・。 まだ独身だった頃の話です、当時付き合っていた誰か ( それが誰だったか全く思い出せないのです、失礼な話なのですが ) と渋谷デートの後、道玄坂のホテルに向かっていたとある雨の夜でした。 右に行けば東急本店という 109 手前の交差点で、道玄坂方面から1組のカップルがこちらに歩いて来るのが見えました、夜の10時という時間を考えれば、ホテルで熱い一戦を終えた恋人同士というのは、妥当な推論だったろうと思います。 当然のエチケットとして、互いに素知らぬ顔をして通り過ぎるはずでした、ところが至近距離に迫ったその瞬間、カップルの女性の方が不自然に下を向いたのです、そんなのを見過ごす私じゃない、・・と言う事でチラ見したその女性こそ驚く事なかれ例の彼女。 この大都会でこんな悲惨な偶然があっていいものなのか、正直そう思いましたね、思いっ切りテンションが下がりまして、その日はそれでお開きです。 >しかし今年春でしたが国内線でJALの伝統を受け継ぐ子に奇跡的に出会いました。20代半ばで170位、半世紀前の客室乗務員が時空を超えて現れたかと(おおげさです)。 まあいるにはいるんでしょう、そもそも平均値は高い業界ですから・・、 sq さんと私の過度な期待が、その実態よりも遥かに低く見せている面は否めないと思います。 さて私も先月の事ですが、所用で中国地方のさる都市に向かうべく、国内線に乗り込みました、もっとも ANA ではありましたが・・。 全くのプライベートでありまして、マイレージで取れなかったんです、それで早割にしたのですが、早割ってネットで座席指定が出来ないんですね、初めて知りました。 それ以上に久し振りで国内線に乗って驚いたのが座席の狭さ、昔の新幹線じゃあるまいし、今時これは有り得んだろうと・・、もっとも1時間半程度の旅程ですから、我慢は出来るのですが・・。 一方 CA さんのお顔は全く記憶にありません、・・という事はそれなり程度だったんだろうと思います、少なくとも驚くほどの美形嬢はいなかったという事。 >その便より数えて2か月程前に搭乗したJAL(国内線)がすごかった。客室乗務員数人が全員50代。皆チーパーに見えてしまい誰がチーフかも分からない。いやぁぁもう何も言いません。 それこそ有り得ないでしょう、「 客を舐めてんのか、テーブル・チャージを返せ! 責任者を出せ ! 」、私だったらそう言ったかも知れません、有料老人ホームのスタッフじゃあるまいし・・。 >これが真実の恋だというものを経験すると、以降の人生において登場する魅力的な女性達にも「可愛いね、だから何?」になってしまいます。本気にのめり込んで行けない、よいことか良くないことなのか・・?無論よくない事なんでしょうが。 美人とも随分付き合ったはずです、ただ私にとってそんな問題じゃないんですね、魅力的な美形だったら誰でもいいって訳では・・、ただまあ感謝こそすれ含むところは全くありません、出会えて良かったと今でも思っておりますから。 >家康の本拠地は西三河、遠江には云わば進駐軍として来た訳で。父祖伝来の地を侵食されるのは許容できない。逆に読めば信玄は、浜松を素通りし西へ向かえば家康は城を出て挑んでくるとの計算があった?だから待ち構えていたのですが。 >まぁ今となってはその辺の事情はよく分からないというのが本音です。 迂闊と言えば迂闊ですが、その点を全く失念しておりました、三河こそが徳川家の聖地であるのはその通り。 まあ3万という軍勢は大軍ではあるが決して十分という訳ではない、仰る通り信玄としては、城攻めに依る消耗戦だけは避けたかったのでしょう、 大垣城 に籠った 石田三成 を無視して、一路近江へ更には大阪へと馬を向けた後年の家康と同じく・・。 回答ありがとうございました。

回答No.12

お礼ありがとうございました。そういえばおんな城主直虎、菅田将暉くん登場しましたね。彼の演技ほぼ初めて見るんですが、売れっ子になる理由がわかりますね。見る者を惹き付ける力があります♪ >籠城戦は得策ではありません、 同窓会会場に 鶴翼の陣 を敷き、天下無敵の騎馬軍団に決戦挑んだ家康を見習って、男らしく討死して来て下さい、無論香典ははずみます。 あははは!そうですね。またトイレに籠城したら、ドアをドンドン叩かれるキツツキ戦法によって今度こそ脱糞してしまうかもしれません笑 再びお邪魔させてもらったのは、ちょっと面白い事書き忘れたんです。遠距離恋愛のM子、山梨県甲府市だったんですよ。あの攻め込んで来た時の勢いは、武田信玄が憑依してたのかもしれません(笑) >まあ分かるんですよ、ちゃんとした別れの手順を踏むのが面倒臭いって事と、それほど惚れていない相手との愁嘆場は勘弁して欲しいという気持ちは・・、自然消滅が一番楽ですしね。 そうなんですよね~・・・別に好きな女性が出来たんなら理由になりますけど、私の場合「なんか一人になりたくて」ですから言えるわけがない!しかし黙って去られた相手にとっては、気持ちの区切りも付けられないしひどい話です。 >それにしても姿をくらませたり・友人に押し付けたり・・、世間を狭くする酷い別れ方は、私としても随分して来たつもりですが、 mikasa さんは私以上の悪魔ですね・・確実に、お見逸れしました。 私も姿をくらませようとしただけですよ。友人に押しつけたりなんてしてません!悪魔だなんて心外な!笑 イソケンさんは次から次へと、恋愛サーフィンを楽しんでこられたのでしょうけれど、私の恋愛観は、やった事はいちいちしっぺ返しとなって自分に返って来るんだなと反省しています。そうゆう星の下なんでしょうね。 さて同窓会どうしたものか。真田幸村のように老いぼれた変装で入城するか、はたまた伊達政宗のように白装束で参陣して決死の覚悟でひたすら謝るか・・・策士策におぼれるですね(笑)失礼いたしました♪

isoken
質問者

お礼

mikasa さん、こんばんは。 >そういえばおんな城主直虎、菅田将暉くん登場しましたね。彼の演技ほぼ初めて見るんですが、売れっ子になる理由がわかりますね。見る者を惹き付ける力があります♪ 家内が御贔屓らしいのです、何でもいい役者さんだとか・・。 私ですか?、勿論顔は知ってましたが、基本的に男には興味がありませんから。 >再びお邪魔させてもらったのは、ちょっと面白い事書き忘れたんです。遠距離恋愛のM子、山梨県甲府市だったんですよ。あの攻め込んで来た時の勢いは、武田信玄が憑依してたのかもしれません(笑) 今度は甲州名物 石礫 が飛んでくるかも知れませんね、それも20年の恨み辛みがこもった強力なやつが・・。 >私も姿をくらませようとしただけですよ。友人に押しつけたりなんてしてません!悪魔だなんて心外な! つい自分の事を書いちゃいました、てっきり mikasa さんも同じ事をやってるだろうと思いまして。 そもそも常に綺麗な娘や可愛い娘と付き合えるほど、人生は甘くないですよねぇ、時には口説きたいターゲットすら周囲にいないそんな時もある、ただ独りは何となく寂しいんです。 そんな時つい魔が差して、餌を付けなくても喰い付いて来るウツボに手を出し、敗戦処理というか空しく ローテーション の谷間を埋めたりするのが、悲しい男のサガ。 勿論 「 二人だけの秘密だよ! 」 ・・と念を押す事は忘れちゃおりません、周囲にばれたらカッコ悪いし、好きな子が出来たら邪魔になるしねぇ、ただ往々にしてこう ( ↓ ) なるのです。 「 あのさ~、いや・・何でもない 」 「 何よ~、言いなさいよ! 」 「 絶対に絶対 誰にも言わないでよ、実はあたしさ~、mikasa 君と付き合ってんの 」 「 えっ、mikasa 君て、逃亡者のあの mikasa 君 ? 」 「 うん、でも内緒よ !」 って感じで、会う友達全部に喋っちゃって、結局スッポン並みに喰い付いたら離れない、そんな時頼りになるのが、万年女日照りの友人だったりするのです、ありがたい事に・・。 >さて同窓会どうしたものか。真田幸村のように老いぼれた変装で入城するか、はたまた伊達政宗のように白装束で参陣して決死の覚悟でひたすら謝るか・・・策士策におぼれるですね(笑)失礼いたしました♪ 10年前に同窓会を引退したこの私がアドバイスしましょう、何せ40代がビジュアル的に何とか楽しめるラスト・チャンスです、颯爽とカッコつけて参加して下さい。 回答ありがとうございました。

  • kamejrou
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回答No.11

こんにちはisoken さん 再度お邪魔するつもりもありませんでしたが 私おかしくてアハハハ それはそうでしょう❗司馬遼太郎さん怒って出てくるかも知れない? 営業妨害?アハハハ 歴史は検証不能な部分が実に多いのです その隙間に小説が入る余地がある訳で 「信長公記」にしても「徳川実記」にしても殆ど当てにならない 歴史とはその時の勝者に依って書かれる そんな事はisoken さんにしても私にしても百も承知している 我々は司馬遼太郎と言う人間の歴史を見る眼を信用するしかない 今更あの「関ヶ原」は実は違うと言われても ではその場所にいたのか?と言う話しにもなりますし Isoken さん言われるように歴史の前提が揺らいでしまう 歴史を語るのは自由ですが 我々は所詮一介の歴史好きに過ぎない歴史学者、歴史作家には到底及ばない 私の回答は質問の意図するところとは違ったようです 私の転機はやはり会社の倒産でしたでしょうね あれがなければ定年退職と言う普通の人生を送っていたでしょうし 私の人生も少し違ったものになっていたかも知れません 家康の三方ケ原ではありませんがisoken さん言われる人には勝負と言う時がある 今は難しい時代でしょうが 若い人にはこんな場所で油を売ってないで頑張ってほしいと思いますねえ そう言えば伯母様、落ち着かれた? Isoken さんの事ですから心配しておりませんが どうかたまにでも墓参りをして話してあげてほしい 最後に干物の店「伴助」、 お店は銀座にあるらしいのですがご存知? 通販もあるらしく登録はしたのですが干物が美味しいのですと❗ ただ高い❗ 縞ホッケが2000円ですとキンキに至っては5000円、目がつぶれる❗ Isoken さんももうサッパリしたものが好きでしょう? 検索してほしい

isoken
質問者

お礼

kamejrou さん、こんにちは。 歴史とは実に面白いものです、とりわけ戦国時代・・中でも私にとって 関ヶ原 は別格中の別格、そもそも付き合いの濃密さもここまで来ると、登場人物の誰にだって感情移入出来るんですよね、 三成 という男は実によくやったし、250万石の身代を賭けて天下取りに臨んだ 家康 だってそうでしょう。 当時の50代後半といえば、平均年齢を遥かに超え隠居していてもおかしくない爺さんです、彼にとっても楽な戦ではなかったはず。 他方あの 金吾 だって、少しばかり出来の悪い甥っ子に思えて来ちゃうのです、子供を授からなかった 太閤 と 北政所 のエゴイズムの犠牲者だったんだろうなぁ・・と。 さて 『 坂の上の雲 』 や 『 竜馬がゆく 』 その他の大作に囲まれてさほど目立ちませんが、 司馬遼太郎 氏著 『 関ヶ原 』 は実に優れた作品ではないでしょうか、その エンターテイメント 性も抜群でありまして・・。 関ヶ原の戦い 自体は、本邦歴史上最大の エポック・メイキング 的事件でありますから、この戦いに触れた歴史小説は実に多い、読み応えがある作品も少なくはないのですが、個人的には 司馬 さんの 『 関ヶ原 』 を NO1 に挙げたい。 何故なら本書での司馬さんは、 サイド・ストーリー に実に多くの記述を割いておられる、例えば当時取るに足らなかった小大名の動向とそうせねばならなかった背景等々、故に 私にとっては 関ヶ原 に関する総仕上げ的な作品でありまして、この作品がほぼ全ての知識の骨格になっている点は否めないのです。 何にせよ その読み易さ故に本格的な歴史に触れる年齢層を可能な限り押し下げた点1つ取りましても、歴史小説家 司馬遼太郎 が齎せた功績は実に大きい、小学生はともかく中学生ともなれば充分に堪能出来ますから・・。 国民栄誉賞に関してあれこれ言うつもりは全くありませんが、本音は 司馬 さんのような方にこそ差し上げて欲しかった、それはともかく 故 小渕恵三さんが総理在任中のインタビューで、司馬さんに先生という敬称を付けて呼んでくれたのは少し嬉しかったのです。 >今は難しい時代でしょうが >若い人にはこんな場所で油を売ってないで頑張ってほしいと思いますねえ 昨今の若い世代が気の毒なのは分かり過ぎるほど分かるんです、 kamejrouさんや私などは、企業人としていい時代も知っておりますからまだしも幸せなかも知れない。 反面人間というものは、与えられた環境なりに生きて行かねばならない宿命を持つのもその通りでしょう。 >そう言えば伯母様、落ち着かれた? >Isoken さんの事ですから心配しておりませんが >どうかたまにでも墓参りをして話してあげてほしい ありがとうございます、ただ母が力を落としましてね、まあ当たり前と言えばそうなのでしょう、血を分けた姉妹ですし特に仲が良かったですからねぇ。 母は3人姉妹の末っ子で、先般亡くなった伯母は長女でした、それとその昔この手の話は珍しくもないのでしょうが、妹2人を上の学校にやる為に自身の進学を諦めた人でした、あの厳しい時代に女の身で大学まで出してもらった事を母は終生恩に感じていたようです。 >最後に干物の店「伴助」、 >お店は銀座にあるらしいのですがご存知? うちは安物専門ですから、初耳でした。 今検索してみましたが銀座3丁目にあるんですねぇ、 中央通り を挟んで 松屋 の斜向かいの一本裏手みたいですよ、レストランも併設しているとか・・。 それにしても5000円のキンキですか、12000円の エクセレントコース に至っては、恐れ多くて手が出ません。 それとですね、ホッケは我が家では鬼門でありまして、随分前夕食に出て来たホッケの干物を巡って大喧嘩した事があるのです。 一匹幾らしたかは分かりませんが、猫も跨いじゃうような代物で余りの不味さに一口食べて吐き出し、2日間口をききませんでした、こんな不味い物を亭主に出すその料簡に腹が立ちまして。 今は少し反省して、何でもありがたく頂いておりますが。 回答ありがとうございました。

  • oya_zico
  • ベストアンサー率19% (398/2007)
回答No.10

isokenさん、こんばんは。 女城主直虎ですが、ついに、虎松(万千代⇒直政)青春篇に入ったみたいですね。 今までの大河ドラマは主人公が一人だけって感じでしたが、後半は、虎松の成長が大河のメインになりそうです。 ところで、最初が、草履取りならぬ草履係ですか(苦笑) 将来は徳川四天王と呼ばれるわけですから、まさに、若い時の苦労・挫折が後に糧となるってことですね!!! 私自身の一番の苦労は、やはり受験勉強でしょう。 もう、貧乏で田舎に住んでいたので、塾もないし、家庭教師も居ない。こつこつこつ、自分で勉強のやり方を工夫するしかない。効率の良い勉強方法を求めて、夜型にしてみたり朝型にしてみたり、ひたすらノートに書いてみたり、音読してみたり。 参考書を読んでも全く頭に入らなくて、結局、問題集にシフトチェンジ。赤本を買ってきて過去問を解いたりしながら、やっとのことで合格するものの、基本が全くできてないので、知識が全く身についてない(汗) あの苦労はなんだったんだろうな?と思い、今、こうして考えてみると、「自分で色々工夫をしてみる」ことが身についたような気がします。 あっ、サッカーの練習もキツイことはキツかったけど、受験勉強に比べれば楽しかった。 大失恋の痛手も、受験勉強に比べれば楽、何とか立ち直れるものですね。 ただ、恋愛だけは、懲りずにまた同じ失敗を繰り返してしまうのかもしれませんが(苦笑)

isoken
質問者

お礼

zico さん、こんばんは。 >女城主直虎ですが、ついに、虎松(万千代⇒直政)青春篇に入ったみたいですね。 >今までの大河ドラマは主人公が一人だけって感じでしたが、後半は、虎松の成長が大河のメインになりそうです。 恐らくそういう展開になると思います、そしてストーリーの メイン・ストリーム は 長篠の戦い ~ 築山事件 ~ 武田崩れ ~ 本能寺の変 そして 直虎 の死・・ とまあそんな具合に流れて行くのでしょう。 >将来は徳川四天王と呼ばれるわけですから、まさに、若い時の苦労・挫折が後に糧となるってことですね!!! ところで以前から、 井伊万千代 に対する 家康 の寵愛が尋常ではないと感じておりました、女性を凌ぐほどの容色であった為に 家康 唯一の寵童であったとか、家康の名家好きに由来するのだろうかとか、あれこれと考えてはいたのです。 ところが 徳川と 井伊 の家系図を眺めておりますと、 井伊直平 の息女が 今川一族の 関口某に嫁ぎ、生まれた娘が 瀬奈姫 ( 築山御前 ) ですから、 徳川家 と 井伊家 は元々縁続き、更には切腹した 家康 の長男・・ 信康 と 直政 は系図上の又従弟に当るのです、後年 井伊家 が譜代大名の筆頭格として幕政に君臨する所以は、ひょっとするとその辺りが真相なのかも知れませんね。 >私自身の一番の苦労は、やはり受験勉強でしょう。 皆さんやはり苦労されているみたいですねぇ、ところで当の私と言えば全く苦労しませんでした、これは何度も書いておりますがそもそも勉強しませんでしたから。 >参考書を読んでも全く頭に入らなくて、結局、問題集にシフトチェンジ。 >赤本を買ってきて過去問を解いたりしながら、やっとのことで合格するものの、基本が全くできてないので、知識が全く身についてない(汗) 実は赤本はたくさん買ったのです、それでモチベーションだけは維持し続けました、全く勉強はしないくせにです。 正直言うと、全部落ちたら翌年は硬派に路線変更して、早稲田 の政経・法・商学部を受験するつもりでした、 早稲田予備校 と 早稲田学院 のパンフも早々に取り寄せてあったのです、やっぱり 早慶 ・・特に 早稲田 のエンジ・ユニフォームにはえも言えぬ魅力があったんでしょう。 ただ当時は 早稲田 の受験問題には癖があって、浪人が圧倒的に有利と言われておりましたから、現役で受かる事はまずないだろうと・・。 >あの苦労はなんだったんだろうな?と思い、今、こうして考えてみると、「自分で色々工夫をしてみる」ことが身についたような気がします。 全く zico さんが仰る通りでしょう、さてこれは以前 ex さんにも申し上げたのですが、受験の中身はともかく、若い身で試行錯誤し合理的思考法に至る訓練の場としての受験にこそ、或る一定の存在意義があると思うのです。 一人であれこれやってみる・・、これほど仕事面を含めた後の人生にプラスに作用する事は無い、他方よくよく考えれば、受験の方法論も女を口説くテクニックも大して違いはないはず、よっぽどのブサ面でない限り、あの受験を突破出来た連中に GFの一人や二人ゲット出来ない訳がない、大袈裟に考え過ぎなんでしょう、きっと。 回答ありがとうございました。

  • 00000000aa
  • ベストアンサー率26% (385/1478)
回答No.9

こんにちは。 浜松でのお話興味深く拝見しました。 徳川家康は三方ケ原の戦いで惨敗したから天下取りに成功したのですか? 鰻…浜松で9.000円!!東京はもっと高い?一度も食べた事はないです。 「若い時にした苦労」? 初就職先で全く知らない分野の仕事を任されて、上司のいうままに何とかやっていました。ですが、人生経験もほとんどありませんし、利用者の方には相当迷惑をかけました。その部署を希望する人は皆無でした。ある時に私の対応がまずかったらしく、相手の女性が怒って襟首を掴まれました。怪我する訳でもなかったけれど頭が真っ白になりました。よく覚えていないのですが、誰かが来て助けてくれた(代わりに対応してくれた)と思います。 そういう事はその時だけでしたが、訪問先で痴話喧嘩?みたいな事に巻き込まれて、「ぶっ殺してやる」と包丁をふりまわされた事もありました。 そういう事に数回遭遇した為、騒然とした場面でも意外に冷静な態度でいられるようになりました。 ですが、それが必ずしも良い事でもないのです。 困った事があっても外から自分を見つめているような…さめている感じがします。 きっと目の前で大事な人が倒れていても、多分慌てふためかない気がします。 身の回りに若い時に苦労したであろう人でも自分が偉くなると初心者の苦労を全く考慮しない人が何人かいて、自分ができたのに何でできないんだ、という態度でいるのを見ると、嫌になります。

isoken
質問者

お礼

aa さん、こんばんは。 >浜松でのお話興味深く拝見しました。 >徳川家康は三方ケ原の戦いで惨敗したから天下取りに成功したのですか? >鰻…浜松で9.000円!!東京はもっと高い?一度も食べた事はないです。 まるで旅行記のような拙文を御覧頂いて恐縮です、それとこれは誤解させてしまったようなのですが、9000円近くしたのは東京の方で、浜松の鰻重はその半値程度、それにしてもあの小っちゃなお重に、お新香やその他の小鉢が少しばかりついた程度でそのお値段ですから、決して安い物ではありませんね。 さて歴代幕府の創始者、例えば 源頼朝 には関東の平氏方に散々に敗れ去った 石橋山の戦い がある、他方 足利尊氏 は 新田義貞 ・ 北畠顕家 連合軍と 豊島河原 で戦って敗れ、遥か九州にまで落ち延びましたが、 徳川家康 に於ける 三方ヶ原 の惨敗とはまあそういった意味なのです。 それともう一点、 三方ヶ原 の頃の 家康は東海に盤踞する小勢力でしかない、動員能力にしても1万がやっとでした。 対する 武田勢は、あの 織田信長 ですら恐れ戦う事を避けて来た常勝軍団でありまして、動員した兵もざっと3万、ところが 家康 はこれに敢然と立ち向かいます。 そもそも戦国時代に生きた人々は、その後の江戸時代とは相当に異なり、或る種の合理性で動いておりますから、ほぼ 100 % 負ける戦は避けるのが常識で、当時の パラダイム と 兵法の常道 からして無茶という他ない戦いでしたし、無論木っ端微塵に敗れる事とはなります。 ただ 「 徳川というのは、小勢力でも侮れないぞ 」 ・・という周囲の評価が、弱肉強食のあの時代に 関ヶ原 まで綿々と続く大きな財産となった点は、恐らく紛れも無い事実でしょう。 その証左の一つとして、武田が滅亡し 本能寺 に於いて 信長 も倒れた直後、空き家となった 甲信 2ヵ国の領有を巡って、 徳川 と 北条 が睨み合った事がありました、 徳川 は1万弱対する 北条 は数万の大軍、ところが先に兵を引いたのは 北条側 でした。 大軍を背景に恫喝しても、 徳川方は屈服せず必ず合戦になるだろう、そうなれば勝敗は分からない・・、彼等北条首脳の念頭には、当然 三方ヶ原 があったろうと思うのです。 >初就職先で全く知らない分野の仕事を任されて、上司のいうままに何とかやっていました。ですが、人生経験もほとんどありませんし、利用者の方には相当迷惑をかけました。 皆が皆そうでしょう、最初から上手くやれる人はおりません、 aa さんを助けてくれた上司なり先輩も、そのまた上司や先輩に助けられて来た、つまりこの世の中は順繰りという事です、試行錯誤する内に何とかなって行くのが、仕事であり人生というものではないでしょうか。 >身の回りに若い時に苦労したであろう人でも自分が偉くなると初心者の苦労を全く考慮しない人が何人かいて、自分ができたのに何でできないんだ、という態度でいるのを見ると、嫌になります。 評価する側も、実は評価されているその点を失念してはならない、そういうタイプの上司は、彼の勤務評定を作成する更にその上司からの評価が芳しくないかも知れません。 表面上は飽く迄も穏やか且つクールに、その実ドライにバッサリと・・、少し冷たいかも知れませんが、それが上司として今も変わらぬ私の基本スタンスです。 回答ありがとうございました。

回答No.8

今晩は。 入社したての頃は、金を出して買わなくても、苦労は手ぐすね引いて待ってました。 若い時は苦労するのが当たり前で、そのつもりで「とにかく5年は頑張ろう」と日々働いていました。 将来に希望が有った時代で、物価も上がるが給料も上がり、仕事は辛いが女性には恵まれてたので、楽しい青春時代でした。 楽しい苦労といえば、当時皆が凝っていたオーディオですね。 安い給料で、コンポステレオを買って、6畳の部屋でいかに良い音を出すか、四苦八苦してました。 お気に入りの曲を少し大きい音で聴いてると、廊下を通りかかった同じ寮生が、ドアを開けて「いい曲だな」と言ったことも有りました。 残念ながら涙を流すような恋愛はしてません。 その代わり、何人かの女性を悲しませたことはあります。 今にして思えば、別れることもなかったなとか、良い子だったのに悪いことをしたと反省しきりです。 今ではもう、謝ることも優しくすることもできません。 その分を、妻に優しく接しようと思ってるのですが、これが後の糧になるのでしょうか。

isoken
質問者

お礼

5minutes さん、こんばんは。 5 さんは kamejrou さんと変わらぬ年齢であられるとか、・・とすれば私より随分先輩、今後もお付き合い宜しくお願い致します。 >入社したての頃は、金を出して買わなくても、苦労は手ぐすね引いて待ってました。 >若い時は苦労するのが当たり前で、そのつもりで「とにかく5年は頑張ろう」と日々働いていました。 丸の内の斜向かいのビルから、チー・ポンのメンバーを探して毎夕双眼鏡で覗いているという噂すらあった麻雀狂のお相手や、接待での男芸者はともかく、ゴルフ場の予約から引っ越し要員、果ては通夜・葬儀のお手伝いまで、「 ふざけるな、こき使いやがって !! 」 ・・と、入社何年かは辞める事ばかり考えておりました、正直なところ。 そんな風向きが聊か変わって来たのが、入社4年目にとある海外支店勤務の辞令を受けてからです。 時代も良かった、 1985 年のプラザ合意が、多少の タイムラグ を経た後実体経済に反映され出して所謂バブル突入、毎年年収が100万円ずつ上がって行く数年間という、今思えば夢のような時代でもありました。 >将来に希望が有った時代で、物価も上がるが給料も上がり、仕事は辛いが女性には恵まれてたので、楽しい青春時代でした。 その辺りとの比較に於いて、今の若い世代が可哀想なのは、我慢してればその内何とかなるという展望が無いからなんでしょう、つまり目の前にぶら下がった人参が無い為走りたくても走れない、故に堪え性が無く目先の僅かな利益に飛び付いて、直ぐに会社を辞めてしまう。 加えて経営サイドとしても、ドラフトで海の物とも山の物とも分からぬルーキーを指名して、一人前の選手に育てると言った風な、長期的な展望に立った戦略が無い・・いや正確には出来ないのでしょうね、リスクその他を考えれば、 ローテーション の一角を担える即戦力をトレードで獲得した方が余程安価ですから。 故に有為な人材の流動性と アウトソーシング 化は、今後益々加速するものと思われます。 >楽しい苦労といえば、当時皆が凝っていたオーディオですね。 >安い給料で、コンポステレオを買って、6畳の部屋でいかに良い音を出すか、四苦八苦してました。 私は詳しくはないのですが、周囲に大勢おりました、サンスイ や トリオで コンポ を組む オーディオマニア が・・。 >残念ながら涙を流すような恋愛はしてません。 >その代わり、何人かの女性を悲しませたことはあります。 >今にして思えば、別れることもなかったなとか、良い子だったのに悪いことをしたと反省しきりです。 >今ではもう、謝ることも優しくすることもできません。 覆水が盆に返る事は決してありませんが、私が失恋を経験していて良かったと思うのは、思い出として永遠に残る点です、無論ハッピーだった恋愛の何倍も記憶の襞に刻み込まれて・・。 >その分を、妻に優しく接しようと思ってるのですが、これが後の糧になるのでしょうか。 5 さんは御旅行が好きだそうで、先日も ロンドン に行かれたとか・・、奥様も喜ばれたでしょうねぇ。 右に倣えで、私もカミさんとの思い出作りの旅行に励まねばと思ってはいるのです、それなりの努力をしている認識もあるのですが、敵さんの要求は聳え立つ アイガーの北壁 の如く遥かに高い、いや女はいつまで経っても元気且つ貪欲です。 回答ありがとうございました。

  • 2012tth
  • ベストアンサー率20% (1889/9435)
回答No.6

50代♂大阪在住 昔、20歳の頃に北海道に仕事で住んでました。 真冬に零下-27度の山で二泊していますが?非常に有意義な体験 でした。 因みに昔の TV.CM の… バナナで釘が打てますやら?豆腐や牛乳が凍るのを実際に見ました。 バラの花もポロポロ…真冬の朝のダイモンドダスト (空気中の水分凍結) も 見ました。非常に綺麗でした。 いやぁ…見事に車の不凍液やエンジンオイルが凍ってましたね。 市バスは、凍結路面のカーブでドリフトしていた。そのバスに乗車したが 景色がさ左右に90度周りますよ~。

isoken
質問者

お礼

2012tth さん、こんばんは。 >昔、20歳の頃に北海道に仕事で住んでました。 >真冬に零下-27度の山で二泊していますが?非常に有意義な体験 でした。 殆ど 八甲田山 の世界ですねぇ、首都圏の たった 2 ~ 3度で震える私にはとても無理です。 私が体験した全然大した事ない最低気温は、蓼科の別荘での -10度だったろうと思います、風呂場のシャンプー & リンスが凍っておりましたものね、因みに別荘は大変残念ながら友人の所有でしたが。 >いやぁ…見事に車の不凍液やエンジンオイルが凍ってましたね。 >市バスは、凍結路面のカーブでドリフトしていた。そのバスに乗車したが 景色がさ左右に90度周りますよ~。 ダイモンドダストは綺麗でも、命懸けですねぇ、そもそもその状態って、エンジンが掛かるのでしょうか? 何れにしても貴重な体験談、ありがとうございました。

noname#244657
noname#244657
回答No.5

isoken様、こんにちは^^ どうなのでしょうね? isoken様のご質問ですので、ない頭をしぼって考えましたけれど、、なにも思い浮かばないのです。困りました。 恋愛はね、私は失恋したことはありません。 一度目の結婚は私から切り出しての離婚。 二度目の結婚は最愛の夫を突然に亡くすという不幸。 そして今は三度目ですので、先の二度は苦労や挫折と言えなくもありませんね。 ただ、それらが糧となっているかといいますと、徒労に終わったとしか思えないのです。何の役にも立たない、無駄でしかない経験です。

isoken
質問者

お礼

MJ さん、こんばんは。 >恋愛はね、私は失恋したことはありません。 たまにいるんですよね、無敗のまま引退するチャンピオンが・・。 ただ私の歳になりますとね、失恋ってのも悪いものじゃなかったと感じるのです、恋愛に纏わる記憶は須らく甘美でありまして。 私を袖にして去って行った彼女は、一体今どうしてるんだろうと考えるだけで得した気分になれる・・、敗者に許された唯一の法楽でしょう。 さて結婚の回数は関係ないのだろうと思います、リセット不可能な人生などありませんから、結局今現在に於ける本人の満足度の問題でありまして、御不満があれば何度でもやり直せばいいと私は思う、ただまあ MJ さんも言う事が結構厳しいなぁ、かかあ天下ですか? 回答ありがとうございました。

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    「進学も就職先も結婚相手も、全て第一志望を手に入れて来たから、私は一切挫折を知らない。」 って言うと 「それだと今後の人生苦労しそう。若いうちに挫折の経験しておかないときついよ。」 って言ってくるおせっかいババアやジジイが出てくる。 でも、そいつらに 「お前は自分の力量を見誤って高望みして勝手に落ちただけじゃん。それの何がよかったの?若いうちに挫折して何か得あったか?」 と聞いても特に何も挫折したことが利になっていません。 若いうちに挫折しておけという考えの人に質問です。 挫折して何か得があったんですか? そんなもんせずに自分の力量に合わせた所に注力して達成感を積み重ねる方が何倍もいいと思いますけど。 何をそんなに挫折経験を後生大事にしてるのかサッパリわかりませんね

  • 若い頃に苦労すれば

    若い頃に苦労すれば後々楽になるみたいな意見ってありますよね。 私も過去、バイトを始めた頃に40代くらいの店長から「ふざけるな!若者は働け!」と怒鳴られたことがあります。 ただ、実際そういう経験が今に活きているのかと思うとよくわかりません。