• 締切済み

おんな城主直虎~関口瀬名姫(築山殿)母が井伊の女?

10月29日も,大河ドラマ『おんな城主 直虎』を拝見しておりますと,岡崎城に行った小姓の,井伊直政(万千代)氏に,築山殿(関口瀬名(姫),徳川家康氏の正室で,今川氏の親戚の女性(奈々緒さん演))が,『自分の母親は 井伊氏出身』と言っていましたが,私は,初耳です..関口氏は,今川義元氏の親戚筋の方ですが,妻は,井伊氏の娘,女性だったのでしょうか‥‥‥??戦国時代の井伊氏は,遠江の国の,小領主で,小さな豪族や,国衆ですよね‥‥‥今川氏の家臣だった,小野氏の方が,井伊氏の家老に送り込まれたようですが,確かに,井伊氏の女性が,今川氏の人質に,行っているようですが,関口瀬名(築山殿)の母親なのでしょうか‥‥‥?一応,関口氏は,今川義元氏の親戚の領主ですから,井伊氏とは,ちょっと,身分違いのような気もします..築山殿は,かなり,プライドの高い姫君だったようですし,井伊直虎のことって,知ってたのでしょうか‥‥‥???大河ドラマでは,マブダチですが‥‥‥‥ちょっと疑問に思ったので 質問しました m(__)m 。

  • 歴史
  • 回答数5
  • ありがとう数5

みんなの回答

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (807/3025)
回答No.5

築山殿の母親が井伊家の出たとする説はあるのですが、その資料はすべて井伊家から出ていますので井伊家の一方的な主張となります。あまり信憑性はありません。 正確な時期はわかりませんが関口親永の年齢と義元の年齢、そのときの義元の状況からすると、おそらく義元は花倉の乱を制して今川家全体の掌握に励んでるころ、そして関口家は今川家臣団の中で朝比奈岡部庵原と並ぶ有力な家柄です。歳もちょうど同年代ですし、当然縁戚を組んででも関係強化したいところでしょう。関口家とでは外様もいいところの弱小国衆の井伊家では格が違いすぎます、通説どおり今川義元の妹であるほうがよっぽど筋が通るでしょう。 家臣の娘を幼女にし縁戚を組むといった話では小松姫が一番有名かと思います、あれだって小松姫の出自は家康の四天王の一人です。真田の子せがれ相手でも縁戚を組むためには家老の娘です。家康における真田信之より当時の義元における関口家のほうがはるかに重要性が高いのは明らかでしょう、となると井伊の娘はいくらなんでも無理筋でしょう。

kitsunetoneko
質問者

お礼

ご回答下さり ありがとうございます m(__)m 私も,ご回答者様のご意見に近い考えなのですが,Web上の情報を拝見しますと,『井伊直平一代記』という資料などに,『井伊直平氏の娘が 築山殿(築山御前)‥‥』という記述があるようですが,井伊直平氏は,八十五歳まで生きたようですが,これも,年代的に,怪しいですし,井伊直政氏の,急激な出世や,昇進などを説明する為の,こじつけや,理由付けに,井伊直政氏の,小姓時代の徳川家康氏の寵童イメージや,説,築山殿(関口瀬名姫)との関係,縁者説(徳川家康氏が,井伊氏の縁者の,築山殿や,息子の岡崎信康氏を,殺害・処分したことへの,罪滅ぼしなどで,井伊直政氏(幼名;虎松)を,引き立てた説)などなどが,巷で,流布しているようで,大河ドラマ『おんな城主直虎』でも,井伊直平氏の娘が,今川義元氏の愛妾となり,後に,今川氏の分家筋の,関口氏に嫁いだ設定です..確かに,井伊氏は,古代や,南北朝時代などまで,遠江国の,有力な豪族などとして,活躍していたようですが,戦国時代の,今川氏と斯波氏との戦いでは,斯波氏側に荷担した井伊氏は,井伊谷城の支城に籠るも,落城し,それ以降,井伊氏は,没落したとかですし(渋川井伊氏?),確かに,井伊直平氏には,娘が居ましたが,名前も,よくわかりませんし,どうなんでしょうね‥‥ちょっと,築山殿と,井伊氏の関係性や,縁者説は,眉唾物のように思います..井伊直政氏の場合は,肖像画を拝見しても,かなり,イケメンで,眉目秀麗,聡明な感じの武将にも,思えますし,寵童説が出るのも,もっともかもしれませんが,やはり,幼少期に,小野但馬守からの追撃を避ける為,お寺に預けられ,勉学などに励んでいた,高い教養などが,徳川家康氏の目に留まったのかもしれませんし,豊臣秀吉氏にも,気に入られ,出世しており,やはり,井伊直政氏自身の魅力が,彼の出世などに,繋がったのだと思われます..関ヶ原の戦いの後は,奇しくも,豊臣秀吉氏の小姓だった,石田三成氏の旧領,近江に,領地を,得ていますしね‥‥

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1959/9572)
回答No.4

kitsunetoneko さん、こんにちは。 一説によると今川義元と井伊さんとこの娘との間に生まれた娘らしいです。側室ですね。つまり、義元の娘ですから気が強いんですよ。関口さんの娘というのはちょっと嘘らしいですね。「三河物語」では、真実性に乏しい。確かに竹千代を人質に出したけど、いじめていたというのはうそです。

kitsunetoneko
質問者

お礼

ご回答下さり ありがとうございます m(__)m なかなか面白い説ですね‥‥Web上の,私小説サイトやブログなどには,人質として,今川氏のもとに居たらしい,井伊直平氏の娘は,大河ドラマ『おんな城主直虎』では,佐名(竜潭寺の和尚の妹)が,今川義元氏の愛妾となり,分家筋の家老,関口氏に嫁いだとなっていますが,井伊直平氏の娘の美貌に惚れ込んだ,今川氏の兄弟(寿桂尼の息子達)というような設定で,今川義元氏が,年上の,井伊直平氏の娘を愛したとかで,築山殿(関口瀬名姫)は,実は,今川義元氏の娘という感じです..年齢的なことを考えると,どうなんだろぅとも思いますが,築山殿は,かなり嫉妬深い,プライドの高い女性だったようですので,もしかすると,今川義元氏の隠し子かもしれませんね‥‥‥?徳川家康氏は,そんな築山殿に,嫌気が,さしていたのかもしれませんが,桶狭間の合戦以降は,側室も多く,ほとんど,別居状態でした..

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4504/8060)
回答No.3

> 戦国時代の井伊氏は,遠江の国の,小領主で,小さな豪族や,国衆ですよね > ちょっと,身分違いのような気も  ですが、井伊直政(万千代)が何度も「井伊のはちすけ」と連呼していたのをご記憶でしょうか?  槍の手入れができるか、潰れた家なので知らないかと思った、などと侮辱されたときに叫んでいました。  「はちすけ」 というのは「八介」で、武家の8人の「介」の事です。  そして「介」は、律令制度下では、長官の補佐をする「次官」です。  秋田城介、三浦介、千葉介、「上総介」、狩野介、富樫介、大内介、「井伊介」の8家です。  「上総介」は、説明不要、超有名ですよね。  井伊介は、遠江の介です。つまり、「ここ20年くらいはダメだったが」もとを正せば「遠江の介だぞ」というわけです。  だから、家の格式としては、今川家といえども、決して侮ってよい立場ではないわけです。

kitsunetoneko
質問者

お礼

ご回答下さり ありがとうございます m(__)m う~ん 大河ドラマ『おんな城主直虎』上の,井伊直政(万千代,虎松)氏のセリフにあった,『井伊の八介』については,私も,知らなかったので,少し Web上で調べますと,かなり昔の話,古代~中世にかけてのことなどのようですね‥‥‥上総介は,平将門ですか‥‥?織田信長氏も,一時,上総介を名乗ってましたね‥‥井伊氏(渋川井伊氏?)の発祥については,諸説有り,本姓なども,あまり,はっきりしないようですが,南北朝時代などは,南朝の後醍醐天皇側についていたとかで,戦国時代は,遠江の守護職などをめぐって,守護大名の今川氏と,斯波氏との間の戦で,斯波氏側につき,最終的に,今川氏に敗れ,その後,没落したとかですし,今川氏は,足利将軍家の,足利氏の分家筋の家柄ですから,井伊直政氏も,幼少時に,父親が亡くなり(殺害され),寺に預けられていたので,先祖の,『井伊の八介』とかについては,多少は,知っていたのかもしれませんが,かなり昔のことですし,今川氏は,知っていたのでしょうか‥‥?今回の,大河ドラマのような,井伊直政(万千代,虎松)氏の,浜松城の草履番とかのエピソードなどは,フィクションだと思いますが,やはり,戦国時代の井伊氏と,今川氏や,今川氏の分家筋の関口氏との,つながりなどが,私には,あまり,見えて来ないのですが‥‥‥

回答No.2

no1の回答を訂正します。 「築山殿の母は井伊の系図によると井伊直平の孫娘で」 は、「井伊直平の娘で」に訂正いたします。 もうしわけありません。

kitsunetoneko
質問者

お礼

ご回答下さり ありがとうございます m(__)m 『井伊直平一代記』などの資料の記述が,正しいのかは,疑問ですが,今回の大河ドラマの設定では,井伊直平氏の娘が,築山殿の母親ということでした..ちょっと初耳だったので,びっくりしました..

回答No.1

母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、諸説あるようですね。築山殿の母は井伊の系図によると井伊直平の孫娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したということのようです。 大河ドラマではこのような設定ですね。

kitsunetoneko
質問者

お礼

ご回答下さり ありがとうございます m(__)m 。

関連するQ&A

  • 女性が出家した場合、尼寺に行くのでは?

    こんばんは。 大河ドラマ『おんな城主 直虎』をちらっと見た時のことなのですが、 主役の井伊直虎が出家していました。 ドラマでは井伊直虎は女性でしたので、尼僧の姿でした。 でも、いた場所は尼寺ではなく、男性の僧がいる寺だったと思うのです。 女性が出家する場合は尼寺に行くものではないのでしょうか? 男女は関係ないのでしょうか? それとも宗派の違いなのでしょうか? 分かる方がいましたら、教えてください。

  • 大河ドラマにならない人って?

    有名な歴史上の人物なのに、大河ドラマにならない人って 誰がいるでしょうか? 自分は聖徳太子と今川義元だと思います。 ・聖徳太子:皇族同士が争う話になりそうだから。       (大化の改新直前で終われば大丈夫?) ・今川義元:有名だけど偉人じゃないから。

  •  五徳姫 

    織田信長の娘で、政略結婚で徳川信康と婚姻した五徳姫について、質問です。 大河ドラマ「どうする家康」の五徳姫と徳川信康の間には、二人の娘がいましがたが、これは史実ですか? 織田信長の逆鱗に触れた徳川信康と母親の築山御前が死んだあと、五徳姫は織田家に戻りますが、その後同じように婚家から戻った信長の妹お市の方のように、五徳姫もどこかに嫁いだのですか?(お市の方と順番が違っても) 五徳姫の娘は誰が育てたのですか?

  • 還俗って気軽にできるんですか

    こんにちは。 質問:還俗は気軽にできるものなのですか。簡単に還俗している時代、逆に還俗などほとんど考えられない時代はいつですか。 質問をした理由:昨日、大河ドラマの「風林火山」を見ました。今川義元が出家していたなんて知らなかったのですごく驚きました。今川義元の兄役の人が坊主頭のままぶんぶん刀を振り回していたのも面白かったです。 一方で、漫画の大奥(よしながふみさん作)を見ていたら還俗することはとても珍しいことであるかのように描写されていました。 そこで還俗する時のハードルの高さの変遷に興味を持ち、上記のような質問をさせていただきました。

  • 今川義元の軍師「雪斎」の死因

     今川義元の軍師であった雪斎の死因は、何だったのでしょうか? NHK大河ドラマでは、 第二次川中島の戦いを仲裁した後、思わせぶりな死に方をしています。 武田信虎がすすめた酒か、松平元信(元康?)に注がせた酒に毒が入っていたのか、 それとも、酒好きがたたって体を壊したのか、 ということが考えられます。 ご存じの方、よろしくお願いします。

  • NHK大河ドラマ「風林火山」 晴信の子供

    いつもお世話になっています。 NHK大河ドラマ「風林火山」毎週楽しみに観ているのですが、タイトルの件で少々疑問があります。 9/16放送分で、晴信の嫡男、太郎に今川家からお嫁さんがくるお話がありました。そのお話の関連で、晴信のおんなのこの子供、姫様を今川の嫡男にお嫁へ出す、というようなお話もあったと思います。 そこで疑問なのですが、現在晴信の子供は誰との間に何人いるのでしょうか? わたしは 三条夫人との間  太郎  次郎(目が不自由)  三郎…?  姫様…? 由布姫との間  四郎 於琴姫との間  姫様(生まれたばかり) だと思っています。 三条夫人との間に"三郎"というおとこのこがいるかどうかは分かりませんが、由布姫との間の子が"四郎"ならいるのかな、と。 それから、確か三条夫人との間にも姫様がいたような気がするのですが、どうなのでしょう? ストーリーとはあまり関係ありませんが、なんとなく気になっています。 ご存知の方、何卒ご教授ください。よろしくお願いします。

  • 男子の本懐

    浜口雄幸 そして 井上準之助 を描いた同名の小説がありますがそれはともかく、 井伊 をそして一人の女を守る為に、逆臣の汚名を着たまま刑死の道を選んだ 小野但馬 ( 幼名 鶴 ) ・・、 NHK大河 『 女城主 直虎 』 での一幕です、相当グッときました。 当時の 井伊家 は恐らく 1 ~ 2 万石程度の小領主、少しでも家政の舵取りを誤れば恐らく消える運命にあった、それが後年徳川譜代の筆頭格として幕閣に於いて権勢を振るう事となる、つまり類稀なる極悪人 = 小野但馬 という正史に抗うかの如き本作のストーリーが仮に事実であったとするならば、彼こそが 井伊家 最大の忠臣であったという事です。 他に目を転じれば、例えば 石川数正 の出奔そして忠臣蔵に於ける 大野九郎兵衛 の逐電・・、それもまた世上伝えられているものではなかったとするならばどうでしょう、主君の面前で華々しい討死を遂げるのとはまた違った種類の忠義、ただそれは歴史の闇に葬られ決して報われる事は無い、これも男子の本懐というのでしょうかねぇ。 さて来月 井伊谷 に行って参ります、その折 小野但馬 = 鶴 の墓があれば是非手を合わせて来たい、そう考えている私に、男子の本懐とは?、またそれと思える歴史・業績をお教え下さい。

  • 昔の人が歴史上の人物を呼ぶときの名前

    歴史好きです。いろいろ勉強して、明治になるまでは昔の人は諱と名乗りとか号とかがあることを知りました。当時は諱は使わなかったらしいです。今の時代劇では便宜上、諱を使っていますが、あれは正確ではない。30年前の大河ドラマなら治部(石田三成)とか出羽(柳沢吉保)とか、ちゃんと名乗りを使ってましたが。。。。 そこで質問です。 江戸時代以前の人が歴史を語るとき、歴史上の人物を呼ぶときはなにを使いますか。 諱? 院号? 号? 名乗り? 武田晴信、上杉景虎あたりなら信玄、不識庵という呼び方があります。今川義元は? 織田信長は「しんちょう公」ですか。 北条時宗とか若く死んだので出家名とかなさそうです。 頼朝は右大将で通じるとしても、頼家、実朝あたりはなんと呼ばれていたのか

  • 歴史上の人物のお名前

    こんにちは。pokapokatenkiです。 今、NHKでは大河ドラマで「江 ~姫たちの戦国」が放映されていますが、江の姉には「茶々」と「初」がいますよね? 人の名前の事をあれこれ言うのも何なんですが、凄く斬新な名前だと思うんです。特に「茶々」と「江」は。女性で「江」と書いて「ごう」と読ませるのも凄いと思います。そして何で「初」だけ普通なのかな?という印象を受けます。 そこで質問ですが、皆さんの知ってる歴史上の人物で、これは珍名だ、斬新だ、等、お名前に関して凄く印象に残っている方を教えてください。できれば、そう思った理由も書き添えていただくと嬉しいです。 何気に「江」が、よく考えてみたら凄い名前だなと思ったもので・・・・。

  • 後に糧となった若い頃の苦労・挫折

    先の連休を利用して、 『 おんな城主 直虎 』 の舞台 井伊谷 に行って参りました。 先ずは 龍潭寺 ・ 大河ドラマ館 他を回り、浜名湖 の北部が見渡せる宿にて旅装を解きましたが、平安末期から続く名門 井伊 一族がかつて盤踞したこの一帯は、現住所ですと 浜松市 北区 引佐町 との事。 一方昼は 蒸らしがない関西風の鰻をかき込んで済ませたのですが、地元では有名らしいこの鰻屋さんの直ぐそばに、高名な 三方ヶ原古戦場 跡地という石碑が建っておりまして、何か懐かしいものに出会った気がしました、ああここかぁ・・と。 俗に 「 若い頃の苦労は金を出してでも買え 」 と言いますが、後の天下人 徳川家康 にとってこの 三方ヶ原の戦い はそれに当るのではないでしょうか。 浜名湖と北方山岳地帯に挟まれた狭隘な土地を通過し西進するであろう、当時天下無敵を誇った武田勢3万の精鋭・・、但し城に籠っていさえすれば通り過ぎるはずの嵐でした。 ところが 元亀 3年のあの日、若き家康は ほぼ勝算の無い博奕に打って出る事となる、即ち僅か1万足らずの軍勢を率いて浜松城を北上し、 三方ヶ原 に 鶴翼の陣 を敷いて敢然と決戦を挑んだ、勿論散々に蹴散らされ 家康 自身命からがら逃げたほどの大惨敗でありましたが、この経歴が後に大きな勲章となり財産となる、極論すればその遥か延長線上にこそ彼の 関ヶ原 があると申し上げても、さほど言い過ぎではなかろうと思います。 個人的にはどうでしょう、若い頃喰らった大きな失恋の痛手が、その後の恋愛観を劇的に変えた気がします、1人の女性に執着する事は何の実にもならない、実は滑稽でしかないと・・。 さて表題件に関し、御意見を賜りたいと存じます。