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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「嫌われる勇気」「愛する勇気」がありますか?)

「嫌われる勇気」「愛する勇気」がありますか?

このQ&Aのポイント
  • 嫌われる勇気という本の内容とは関係なく、嫌われるということに興味がある。
  • 嫌われることは運命によってもたらされるものであり、自分自身の意志で選ぶこともある。
  • 嫌われる勇気は嫌われる人を愛する勇気であり、自分自身が嫌われることを恥じている。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#224992
noname#224992
回答No.5

こんばんは。 アルチンボルドさんは私が睨んだ以上に明晰な頭脳をお持ちの 方ですね。 そして、思考の傾向、流れが大変面白いです。 議論に発展しないように注意しながら申し述べさせていただくと 「愛される」ことの対語は「嫌われる」ではないこと。 言うまでもなく「無関心」という心の状態だと思います。 「忌避」という言葉は、嫌って避けることですが、自分との関わりを 意識の中で絶つというのが「無関心」。 青年期の過剰な自意識のなかで、私は周囲の全ての人が自分をどう 思っているのか気になって仕方がありませんでした。 その答えは「無関心」だということを知ってやっと安堵したことを よく覚えています。 イタリアのノーベル賞作家のモラビアに『軽蔑』という作品が あります。妻に愛されない男の苦悩を描いています。この妻の 態度は忌避。 >「差別」は「嫌うこと」と同義ではないでしょうか? 違います。 差別は「無関心」でいいものを「意識の表層に持ち上げる行為」です。 >「嫌う」ということに「排除・排斥」の意味は含まれてはいないでしょうか? それは、「嫌う」のでなく怖れているからです。非人間的なエゴイズムの 現れ。 >「自己の力ではどうすることもできない運命を背負った人たち」として同一視してしまいます。 ここが一番悩ましいところで、これは「不幸な生い立ち、ハンディキャップ を持って生まれた人」は、他の人を励まし勇気づけてくれているのだと 私は思うことにしたいます。 人間を個々のばらばらのものというのでなく、宗教的ですけど総体として ひとつのものととらえれば、人格の陶冶という人間本来の生きる目的の 中で、「不幸な生い立ち、ハンディキャップを持って生まれた人」が 伝えてくれているメッセージにただ耳を傾けるだけでいいのだと思います。 「運命」とは、敷かれた一本のレールではないです。一定の基調のなかで 本人がどんな音色を奏でるか。それが自由であり創造性だと思います。 最初に申し上げたように、私の弟は10歳でこの世を去りました。昨年 50回忌の法要をすませました。 まだ、物心ついて間もないころに小児癌で亡くなった。 これは、運命。両親は全力を尽くして救済しようとしたけど、病魔には 勝てなかった。この世には不条理なことが存在するのだと思いました。 ノヴァリスがゾフィーの死を通じて感得したものもおそらく同種の不条理。 しかし、生きている以上、自由度がある。 富も健康も愛も、運命が握っているわけではありません。 ・・・と私は弟の死から学んだつもりです。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 いつもながらわたしにも理解しやすいご意見を寄せていただきありがとうございます。 わたしもほとんどの日本人同様「感情的になることなく」ディベートする自信がありません。時には意図的にシニカルに切り返すこともあります(笑) 「手負いの獣」ですから(苦笑) ただ、基本的には、わからないことはわからない。そう思わないことはそう思わない、と正直に述べるつもりです。 「愛すること」の対義語が「憎むこと」ではなく、「無関心」であるということは、そうだとは思いますけれど、じゃあ純粋な「憎しみ」「憎悪」の感情というものは存在せず、愛憎は常にあざなえる縄のごとし、なのか? そうは思えないのです。しかしこれは友人や、恋人、家族のような間柄と、支配者ー被支配者との関係とではまるで様相が異なってくるので、ここでは深くは追求しません。 『軽蔑』はゴダールの映画で観ただけで、原作は読んだことはありません。 あの映画は、ゴダールの他の映画同様、色遣いがとてもきれいだったことが印象に残っています。夫役のミシェル・ピコリは、あそこまで嫌われるほどのことをしたかな、とも思います。男女の間は何処に地雷が埋まっているかわからないので大変疲れます。 >「差別」は「嫌うこと」と同義ではないでしょうか? 違います。 差別は「無関心」でいいものを「意識の表層に持ち上げる行為」です。 だとすれば、何のために「無関心」のままにしておくことをせず「意識の表層」にまで上らせる必要があるのでしょう。そこには「迫害したい」「嫌がらせをしたい」「恫喝・脅迫」したいという「悪意」が横たわってはいないでしょうか?つまり何らかのアクションを伴うことなく「意識の表層に持ち上げる」意味はないのではないか、と思います。 個人的には「差別」は、日本人による、韓国・朝鮮人差別にせよ、ナチによるユダヤ人差別にせよ、ユダヤ人によるアラブ人差別にせよ、アフリカン・アメリカン差別にせよ。やはり「忌避」の念があり、「排除・排斥」の意識があるように思います。 >「嫌う」ということに「排除・排斥」の意味は含まれてはいないでしょうか? それは、「嫌う」のでなく怖れているからです。非人間的なエゴイズムの 現れ。 ここはよくわかりません。つまり「同意できない」というのではなく、純粋に意味が摑めないということです。 「ユダヤ人として生まれること」「アメリカに、黒人=アフリカン・アメリカンとして生を得ること」「ハンセン氏病に罹ること」「被爆者になること」云々は、 >「不幸な生い立ち、ハンディキャップを持って生まれた人」 とは違いますよ。 不幸な生い立ちというのは、幼少期に虐待を受けたとか、孤児であるということでしょう。 また上記の彼らは「わたしたち」の「人格の向上」のためにこの世に生を受けたわけではありません。 彼らには「人権」があり、彼らの側に「憐れまれたり」いわんや「差別の対象にされる」理由などこれっぽっちもないのです。 例えば「ホームレス」の人々には当然ながら「生きさせろ!」「食わせろ!」と叫ぶ「権利」があります。もし彼らにそれがないのなら同様に「わたしたち」にもありません。 彼らは「人の子」であって「神の子」ではないのですから。 コメントの最後の部分は、ご自身の身内の死について思われたことを書かれているので、わたしは、そこに土足で入り込むようなことをしたくはないので、コメントはありません。 つまり「運命」や「人生の不条理」一般についてなら、反論もありますが、 representative2さん個人の経験から得られたことについて、わたしは何も言う資格も、つもりもありません。 以上、わたしの思うことを正直に述べたつもりですが、お気を悪くされましたら、お詫びいたします。 重ねてのお返事をありがとうございました。

その他の回答 (13)

  • manmanmann
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回答No.14

嫌われることを勇気にはしたくないなとおもいます。 お互い話し合って溝を埋めるための努力を最後まであきらめるべきじゃないんじゃないかなあ。 実際、じゃあそれが全ての人類にできるかといわれると、難しいんでしょうけどね。 心構えてきな意味で。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >嫌われることを勇気にはしたくないなとおもいます。 お互い話し合って溝を埋めるための努力を最後まであきらめるべきじゃないんじゃないかなあ。 その通りですね。 お返事をありがとうございました。

  • kyo-mogu
  • ベストアンサー率22% (3398/15358)
回答No.13

 すでにそんな感じです。嫌われることもあるのでブロックもされています。でも、ブロックした人を恨んだりも出来ません。ただ合わなかっただけ。  小さい時から嫌われ者に近かったけどね。最初はつらい。でも、客観的にみるように、その人達を観察するようになってから、人の心理分析みたいになって、逆に楽しくなりましたからね。  結構悪戯も好きなので、それも人の行動とか観察には良かったです。ただひどい悪戯はしません。これをすると自分自身が守れません。  変人、悪人という事を自称しています。その方がそんな人なんだなと思われて、それよりあまり悪い評価を頂きません。それは考え方は変人、悪人の物が有りますが、その逆をすれば普通の人、善人です。  で、普段の行動は逆をしている。  面倒な事も引き受けるのも嫌われる勇気かもしれません。でも、必ず助けてくれる人が居たりしますから、嫌う人、助けてくれる人などバランスが取れているのかなと。  それと愛する勇気としては、人の良いところ探しをしている事も多いです。問題が有る人でもその場の状況や環境などもあり、仕方なく悪い状態に成っているという相手の立場に成って考える事で許せる、愛せる感じも出てきます。  ただ、過去に数人、全く良いところが見つからない人が居ます。実際に喋ったりとかしているので、見つけやすいのですが。 見つけても、他が悪すぎる感じで帳消しというのもありますが。  それと、私は弱点を結構伝えて居ます。でも、それを恥とは思って居ないかな。次第に減ってきた感じですが。嘘も下手なことも多いですけどね。  

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 お答えを読むと、結構「嫌われても平気・・・でもないけど、平気」って感じの方、いらっしゃるんですね。 >小さい時から嫌われ者に近かったけどね。最初はつらい。でも、客観的にみるように、その人達を観察するようになってから、人の心理分析みたいになって、逆に楽しくなりましたからね。 そうですか。わたしは到底そういう境地には至れそうにありません。 うじうじと自己嫌悪に落ち込むでしょう。 >変人、悪人という事を自称しています。その方がそんな人なんだなと思われて、それよりあまり悪い評価を頂きません。 kyo-moguさんの回答はいくつか読みましたけれど、どこが「変人」なのでしょう? >ただ、過去に数人、全く良いところが見つからない人が居ます。実際に喋ったりとかしているので、見つけやすいのですが。 見つけても、他が悪すぎる感じで帳消しというのもありますが。 わたしもその口です(苦笑) 質問とはズレますが、みなさんの「強さ」また逆に、わたしの「弱さ」は何に起因するのか知りたいですね。 お返事をありがとうございました。

noname#226970
質問者

補足

kyo-moguさんや他の皆さん、「嫌われても平気」というのはひょっとして、 「すべての人に好かれるつもりもないし、そんなことは不可能だけれど、すべての人に嫌われているわけでもない」という意識或いは自信があるのではないか、と思ったりします。

  • izumi044
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回答No.12

嫌われる勇気より、嫌われる覚悟があるほうが大事じゃないでしょうか。 嫌われるために勇気は必要ありません。 ただ、自分の行動が相手に受け入れられないことを、自分が受け止められるかでしょう。 相手にどう思われるかよりも、ある種の信念なり、覚悟を持った行動ならば、それを貫けるかどうかも大切なはず。 (少なくとも、仕事の上ではそう考えています) 同じように、そういう一つの信念を元に動いている方ならば、周りに嫌われていようとも、何かしら尊敬できるところはあります。 そういう方を嫌う理由は、私にはありません。 周りに嫌われているからと、自分も同じように嫌う理由がありません。 逆に。 人間の中に存在する感情のみでしか判断しない「嫌い」と混同してしまうと、「嫌い」の意味が別の方向に歩き出してしまうような気がします。 何かを嫌うということは、程度の差はあれ、誰の心にも存在する感情です。 自分は何かを嫌うのに、人からの嫌悪は受け入れないというのは、ある意味アンフェアですよね。 そういう感情のみで突っ走るような「嫌い」ならば、嫌われる勇気すらいらないのではないでしょうか。 (むしろ、こちらから願い下げだという方も多いと思います) コミュニティに属するために、人とうまくやる必要はありますが、それは全ての人に受け入れられるということでも、全ての人に嫌われないようにするためとも違うはず。 多くの人に好かれる必要はないという気付きが「嫌われる勇気」という言葉を生んだだけで、本来は嫌われるということそのものに特別な意味はないように思います。 事実。 学生時代にまともに話したことすらない人に、にらまれたりムッとされたりしたことは何度もあります。 しかし、嫌われる理由すら浮かびません。(まともに交流すらしていないので) そんな人間に対して「嫌われる勇気」は必要ないでしょう? 実際に「嫌われてもいい」と考える場合は、その相手に対して自分なりの信念がある時だと思います。 そう考えると、やはり「勇気」よりも「覚悟」のほうが必要になるような気がします。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 はじめまして。(でしょうか?) >相手にどう思われるかよりも、ある種の信念なり、覚悟を持った行動ならば、それを貫けるかどうかも大切なはず。 そうですね。 今回の質問は、いずれの社会においても存在する、差別的扱いを受けている人たちを愛し得るか?つまりは社会的マイノリティーの「側」に立つことができるかという問いでした。それはとりもなおさずわたし自身がそういう「被差別」ではないにせよ、「マイノリティー」のひとりであると感じているからです。 >学生時代にまともに話したことすらない人に、にらまれたりムッとされたりしたことは何度もあります。 しかし、嫌われる理由すら浮かびません。(まともに交流すらしていないので) そんな人間に対して「嫌われる勇気」は必要ないでしょう? うーん。個人的にはそういうのってダメージ大きいですね。 そういうことって、「ああ、やっぱりわたしはキラワレモノなんだ!」という確信を裏付けたりしますから。 >実際に「嫌われてもいい」と考える場合は、その相手に対して自分なりの信念がある時だと思います。 そう考えると、やはり「勇気」よりも「覚悟」のほうが必要になるような気がします。 そうですね。 やはりわたしは「嫌われる勇気も」また覚悟もないようです。 参考になりました。 お返事をありがとうございました。

回答No.11

 「嫌われる勇気」この本を読んでいません。  理由はありますが、とりあえずおいて  私は結構「嫌われる人」でした。  小学校では誰とも遊ばない、一人行動。  中学校では あだな「すかしパン」「がり勉」  実際 すかしてもいないし、がり勉でもありませんでした。  仲の良かった人は小、中、高 で たった一人    仕事はどちらかというと嫌われる仕事でした。  そして・・・  現在の夫は 「嫌われる人」のようです。  その嫌われる人を愛して結婚しました。(25年前)  ですからそういう意味では「嫌われる勇気」もあり  「嫌われる人」を「愛する勇気」があったという事です。  周りが何と言おうと関係ありません。  自分が正しければよいのです。  法に触れることはしておりませんし  嫌われることを恐れていません。  陰口なんてなんのそのです。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 わたしも「嫌われる勇気」読んでいません。インターネット上で、この本について書かれたいくつかの記事を読みましたが、あまりよくわかりません(苦笑) >陰口なんてなんのそのです。 そうですか。お強いですね。わたしは結構気にしてしまいます。 いろいろと考えさせられました。 お返事をありがとうございました。

noname#224992
noname#224992
回答No.10

アルチンボルドさん。お礼ありがとうございます。いつもながら文中に垣間見られる 深い教養に、「この人は本当は何物なんだろう」という疑念が深まるばかりです。 >「愛すること」の対義語が「憎むこと」ではなく、「無関心」であるということは、そうだとは思いますけれど、じゃあ純粋な「憎しみ」「憎悪」の感情というものは存在せず、愛憎は常にあざなえる縄のごとし、なのか? 憎しみ、憎悪の感情について私の意見を述べます。 どんな出来事にも、ポジティブから見ることも、ネガティブから見ることも可能です。 出来事自体に意味があるのではなく、それを見る人によって見え方が変わるということす。 人を憎んでいたら、私の中に怒りが沸いてきます。怒りは私の人生から「幸福感」を奪い、さらに今後の幸福を受け止める機会も失います。 怒りは怒りを呼びそれが続く限り、自分が望む「幸福」から遠ざかっていきます。 他人が「憎しみ」「憎悪」の感情を持っていても、それと関わってはいけない。 憎しみを持っていても誰も得をしません。 大抵の憎しみは一つのことがらの思い過ごしから生じます。そのことの「見方をかえて 解釈を変えたら」怒りも憎しみも消えます。消えない場合は「許す」と決めて許せば いいのです。 ただ、自分以外の人の心の中にある怒りは、自分では変えようがないです。 それでも「和解する心」を持って、感謝の念を持って相対するなかで変わっていく こともあります。 >だとすれば、何のために「無関心」のままにしておくことをせず「意識の表層」にまで上らせる必要があるのでしょう。そこには「迫害したい」「嫌がらせをしたい」「恫喝・脅迫」したいという「悪意」が横たわってはいないでしょうか? この辺りは、「言霊、和、怨霊、穢れ」への無意識の信仰について書いた井沢元彦の 『逆説の日本史』に詳しいですが、死の恐怖、というものと差別は避けがたく結びついて います。異質だから、恐いから避ける。 国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としています。 「迫害したい」「嫌がらせをしたい」「恫喝・脅迫」したいという「悪意」にもとづく 積極的な差別は確かにあるだろうけれど それはすでに、「犯罪行為」であって人道問題の枠を超えてますよね。 >>「嫌う」ということに「排除・排斥」の意味は含まれてはいないでしょうか? それは、「嫌う」のでなく怖れているからです。非人間的なエゴイズムの 現れ。 >ここはよくわかりません。つまり「同意できない」というのではなく、純粋に意味が摑めないということです。 >また上記の彼らは「わたしたち」の「人格の向上」のためにこの世に生を受けたわけではありません。 >彼らには「人権」があり、彼らの側に「憐れまれたり」いわんや「差別の対象にされる」理由などこれっぽっちもないのです。 私の申し上げていることは、同じ人間として、「不幸・ハンディキャップを背負った人間 差別的属性を背負わされた人間を含めて」こういう人たちにどういう眼差しをむけたらいいのかという話です。 私はホームレスに金を恵んだりしません。生活保護なりなんなり対策が進んで実際 ホームレスの数は減っているのも知っています。 わかってもらえそうもないのでこれ以上申しませんが「他人の不幸は蜜の味」という 酷い話をするつもりはなくて「野口英世でなくても自分の逆境を乗り越えようと 頑張っている人はたくさんいる。」 これ、誤解を恐れずいえば私は身障者があんなに頑張って生きているのだから 健常者の自分は「もっと感謝して生きよう」。それが自分への励ましだと言って いるのです。私の心の中には、10歳で他界した弟の無念の心境がいつもあって 「兄ちゃんはまともなんだから、無駄に命をつかうなよ」 と言われているような気がするのです。 そして彼がいつも私に言っていることは 「もっと明るく考えなよ。どんな出来事にも、ポジティブから見ることも、 ネガティブから見ることも可能だから。 出来事自体に意味があるのではなく、それを見る人によって見え方が変わるんだよ。」 10歳の男の子が、そんな複雑なことを言えないだろうけど、彼の死の直後 中学・高校を通じて読んだ本の中にそういうことが書かれていました。 内省的な性格の私が、悩みながらもなんとか生きながらえてきたのはこの 「出来事自体に意味があるのではなく、それを見る人によって見え方が変わる」 の一言のおかげです。 このままでは破産かなと思って落ち込んでも明るく気分をかえたら状況が好転した などという「能天気」な経験があります。 なんだか、オカルト宗教家と正統派社会学者の論争のようになってしまいました。 すみません。学術論議は苦手で個人の見解しか話せません。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >すみません。学術論議は苦手で個人の見解しか話せません。 これはまったく同様です。 >なんだか、オカルト宗教家と正統派社会学者の論争のようになってしまいました。 え?どっちがどっちですか?わたしは強いて分類するなら「ラディカリスト」だと思いますよ(苦笑) 今日のお返事に関しては、人はそれぞれのバックボーンを持っていて、 それはお返事に書かれているような、個人的な体験、経験に深く根差しているもので、容易に変えることはできない。 わたしがrepresentative2さんの世界観に異論を唱える筋合いのものではないし、またrepresentative2さんのこのお返事が、先のわたしの返事への異論だとも感じていません。 わたし個人は基本的にはノンポリです。鬱陶しい政治のことにはできるだけかかわらずに・・・つまり「大状況」よりも「小状況」にこだわって生きていきたいと思います。 しかし「正当」という言葉ほどわたしに不似合いな形容詞はありません(苦笑)わたしはいつだって異端です。 今回もご意見をありがとうございました。

noname#236410
noname#236410
回答No.9

こんにちは。 私は、愛も憎しみも同じものじゃないかと常々思ってます。 こういうパターン、よく聞きますよねという例ですが、 恋人づきあいしていた異性は、 別れてしまった途端、顔を見たくない相手になるし、 「親切」な人は、差し出した好意に 相手が自分の思うように感謝しなければ 手のひらを返したように苛めるようになります。 慈愛と残酷が同じところから来ているとすると 人を愛することが出来る人は、人を激しく憎むことも 出来るのだと思います。 振り払われると激昂する程度の覚悟のない善行は、 奥底に常に自己愛があるのでしょう。 しかし、それを誰が責めることができるでしょう。 私はそれをすばらしいことだとは思っていませんが、 悪いこととも思ってはいません。 自分以外の誰かを無私の愛で愛せるのは、 仏様に近い愛情を持っているということだと思うのです。 淡白でキャパが小さい自分を振り返っての発言ですが、 私自身は、人生において無私の愛で人を愛したり この人のために悪者になってもいい、なんて、 思うことはありません。 まして、人からそのような感情を向けられるのは 一生に一度あるかないか位の出来事だと思っています。 自分はそこまで愛せないのに、 相手には仏の愛を求めるというのは無体な話ですから、 人はわがまま、それで私は満足するべきなのだと思います。 結論ですが、人なんて、お互いに違っていても良く、 違っていることがわかっていて仲良しだと更に良いです。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >「親切」な人は、差し出した好意に 相手が自分の思うように感謝しなければ 手のひらを返したように苛めるようになります。 慈愛と残酷が同じところから来ているとすると 人を愛することが出来る人は、人を激しく憎むことも 出来るのだと思います。 これは最初の行為が「親切」という点を除けば全く同感です。 「人を激しく憎むことができないひとは人を強く愛することはできない」 この点は100%同感です。 ただ、わたしはこれこそが「エゴ」「自我」の強さの証しだと思うのです。 そしてわたしはこのようなエゴを肯定します。 なぜってわたしのエゴは正にこのような形のものだからです。 「無私の愛」ってなんでしょう?そんなものあるのかな?と思います。 マザー・テレサでさえ、自分のやっていることが自己愛でしかないのではないのかという葛藤を抱えていました。 またわたしは「無私の愛」で愛されたいとも思いません。 自己犠牲だって、エゴの表出のひとつの形であると思います。 なんだか意見が合っているんだかそうでないのか?それはそちらの判断に委ねます。 >違っていることがわかっていて仲良しだと更に良いです。 これもその通りですね。 興味深いご意見を聞かせていただきました。

  • LOLIPON35
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回答No.8

こんにちは。また長文で失礼します。 ご質問と他の方々のご回答が興味深く、読むうちに いろいろなイメージが湧いてきてしまいます。 さて、どこから話したものか…。 まず、一人の人として、自分を守って生きていれば、 誰からも嫌われることはあったとしても、誰からも 好かれるなんてことは、まずありえません。 また、社会に生きる以上、多少なりともその恩恵に 与る身の上で、人を嫌い抜くこともできません。 最低限の信頼、信用がなければ、孤独と不安で 死んでしまうのではないでしょうか。 僕としては、その程度の意味で、「人から嫌われるのも、 人を愛するのも、(生きる上で)当然のこと」と思っています。 そして、人として嫌われることと、差別で嫌われることは、 まったく別ものだと思います。差別は、人が、優越感に浸るなど、 自分に都合のよい状態にするために作り出したものです。 人が、そういう差別の障壁を乗り越えてきた歴史も事実です。 差別は相対的なもので、いずれ解消されるものだと思っています。 そういう意味で、差別して嫌うことは幻想なのだと思います。 人として、あくまで水平な思考をしたいというのが、理想です。 敢えて言うなら、自他ともに、差別する心を嫌います。 たしかに、被差別者にとってはたまったものではありませんね。 でも、障害や差別を背負って生まれることが、運命なのでしょうか。 人に(差別ではなく)違いがあるとすれば、運命として背負っている 目に見えないものの重さや、その自覚なのではないでしょうか。 健常者、常識者を気取るつもりはありませんが、仮定として、 水平でニュートラルな立場で、ごく平凡な状態に生まれれば、 運命という言葉に無縁な一生というものもあるでしょう。 そういう人にとっては、いかなる選択にも勇気は要りません。 でも、人には、重い荷物を背負っている人がいます。 なにも、目に見えるものばかりではありません。 どんなところでどんな立場に生まれようと、どうしようもなく そうしなくては気が済まないという人がいます。 他の人に好かれようが嫌われようが、どう言われようと、 そうしなくては気が済まない、せずにいられない人が…。 または、そういう自分に急に気づくこともあるでしょう。 場合によっては反社会的で、場合によっては先駆者で、 犯罪者で、挑戦者で…、その他いろいろな評価がありますが、 それすら、本人にとってはどうでもいいことなわけです。 ただ、欲望の赴くままに生きている、それだけです。 今の、平凡な人が、目の前に並べられた選択肢から ボタン一つで何でも選べるというは、自由ではありません。 誰かが用意した自由でしかありません。そんなもので 迷ったり悩んだりしている人の選択には、運命はありません。 人に嫌われたくなくて八方美人になる、そんな選択が 許される時点で、その人は、とことん追求する自分を持たず、 なりふり構わない運命を背負ってもいないのです。 選択を許されていたとしても、自分自身には一択でしかない。 そんな自分こそが、運命というものなのではないでしょうか。 本当の自由は、とことんまで自分を極める自由です。 もちろん自己責任で、それこそが運命を背負った人の自由です。 まあ、大した重荷を背負っていない僕が言うのも、なんですが…。 少々話が違うかもしれませんが、差別をする人、あるいは いじめをする人にも、背負っているものがあります。 どうしようもなく、差別していじめなくてはいられない心です。 いじめをせずにいられないほど歪んだ醜い心に無自覚で、 どうしてそうなったのか理解できない人が、差別やいじめを 助長して、問題を大きくしてしまうのではないでしょうか。 また、人を嫌う、嫌で嫌で仕方ない、気になってどうしようもない。 そういう気持ちも、おそらく、人の背負っているものだと思います。 本当は好きで、憧れていて、あるいは、自分に似ていて、 よくわかってしまう、だからこそ嫌うのではないでしょうか。 実際、わからないものを恐れることはあっても、 嫌う理由は根本的にはないのではないかと思います。 最初に戻りますが、嫌われる勇気とは、自分を貫く勇気。 あるいは、そこまで強い動機や欲求がある、それだけのことです。 別に、すべてにおいて嫌われなくてはいけないわけでもないし、 嫌われるかどうかが問題ではないのだと思います。 強い動機や欲求がなくて、強い自分や個性もなければ、 平々凡々な人生に意味を見出すことも、またありだと思います。 自分を貫いて生きるのだから、ちゃんと法令遵守していても、 誰かに羨まれたり恨まれたり嫌われたりすることも、あるよね。 …そういう生きる覚悟。そこまで強くないにしても、そういう 意思なのではないでしょうか。最低限、生きる勇気なわけです。 あと、蛇足ですが、精神障害者とは、どのようなものを障害と 呼ぶのでしょう。精神こそは自由なはずですが、本人の意思で、 見たくない現実を見なかったり、記憶を改竄したりもできます。 自分をまともで普通と思っている人にでも、それはありえます。 表層的に普通であるだけで、とんでもない闇を抱えている人もいます。 心を理屈で理解したつもりでも、日常を基準として区別しているだけで、 実際には大事なことを見落としているのではないでしょうか。 少なくとも、思考実験の中には、かなり振り切れたものもあります。 常識の積み重ねだけでは見えないものがあって、極大値や極小値を 求めてから振り幅を狭めることも必要になります。 その極論だけで人を変人扱いするのも、おかしなものですね。 目立つ人が変わり者扱いされる、そんな今の風潮が嫌なだけで、 実際は、誰もみんな、ひとりひとり変わり者なのだと思います。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 >また長文で失礼します。(笑) >また、社会に生きる以上、多少なりともその恩恵に 与る身の上で、人を嫌い抜くこともできません。 最低限の信頼、信用がなければ、孤独と不安で 死んでしまうのではないでしょうか。 実際ここのところが、今の自分にはとても危ういところです。 つまりタイトロープの上を歩いている気がします。「孤独」によって、 現実のわたしの人格は既に相当「崩壊」しつつあります。 >人として嫌われることと、差別で嫌われることは、 まったく別もの であることは認めますが、 >人が、そういう差別の障壁を乗り越えてきた歴史も事実です。 差別は相対的なもので、いずれ解消されるものだと思っています。 そういう意味で、差別して嫌うことは幻想なのだと思います。 これはよくわかりません。 つまり現実に差別は行われています。中世や近世の差別が今なかったとしても、 「今ここにある」差別は明らかに存在しています。(近代の差別は現に継続されていますよね) 「差別は幻想」。無論そうです。理由ある、妥当な差別などあろうはずがありません。 >仮定として、 水平でニュートラルな立場で、ごく平凡な状態に生まれれば、 運命という言葉に無縁な一生というものもあるでしょう。 そういう人にとっては、いかなる選択にも勇気は要りません。 「運命」という言葉に無縁な一生ってあるでしょうか?それは「運命」に「無自覚」ということではないでしょうか。 >他の人に好かれようが嫌われようが、どう言われようと、 そうしなくては気が済まない、せずにいられない人が…。 または、そういう自分に急に気づくこともあるでしょう。 >場合によっては反社会的で、場合によっては先駆者で、 犯罪者で、挑戦者で…、その他いろいろな評価がありますが、 それすら、本人にとってはどうでもいいことなわけです。 ただ、欲望の赴くままに生きている、それだけです。 「欲望の赴くまま」は果たして主体的な選択行為と言えるでしょうか? 先駆者、犯罪者、挑戦者、というと、先ず革命家、あるいはレジスタンスなどを思い浮かべてしまいますが、 それは無論内なる欲求、そうせずにはいられない情動でしょう。それをどのようなアクションに結びつけるか? それが「運命を選択すること」と「欲望の赴くままに」の違いではないかと思います。 >本当の自由は、とことんまで自分を極める自由です。 けれども、社会は、或いは「世間」と呼ばれるものは、その自由を阻もうとする。 そこが「勇気」云々となるところでしょう。 そしてひとはときにその自由に耐えられなくなり、そこからの・・・「自由からの逃走」を目指し、群れよう、順応しようとするのでしょう。 >差別をする人、あるいは いじめをする人にも、背負っているものがあります。 どうしようもなく、差別していじめなくてはいられない心です。 >いじめをせずにいられないほど歪んだ醜い心に無自覚で、 どうしてそうなったのか理解できない人が、差別やいじめを 助長して、問題を大きくしてしまうのではないでしょうか。 そういう心がないとは言い切れません。 けれども多くの人たちは単に付和雷同的に、「AがBを差別、迫害する、その根拠」を深く検証することもなく、 自分たちの「彼ら」に向けられた「憎悪」の、どのような正当性かを問うこともなく、(正当化はしますが) ふわふわと世の大勢に「ノセられて」いるだけのように思います。 精神障害については、まぁ「通念としての社会的コンテキストからの逸脱」といってもいいかもしれません。 そしてこの社会は他に比べると社会的コンテキストのオルタナティヴ(多様性)が驚くほど少ないのも哀しい事実です・・・ >目立つ人が変わり者扱いされる、そんな今の風潮が嫌なだけで、 実際は、誰もみんな、ひとりひとり変わり者なのだと思います。 その考えはまっとうなだけに今日では少数派かもしれませんね。 いつもご意見をありがとうございます。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11125/34629)
回答No.7

質問者さんとは「嫌われる人」の定義が少し違いますね。 専門学校時代、生徒指導担当の教諭がいました。この人、とにかく厳しい。生徒がくわえタバコで歩いていると、容赦なくまずビンタが飛んできました・笑。身だしなみの乱れも発見されると容赦なく怒られるので、その教諭の前では私も含めてみんなビクビクしていましたし、怒られるのが怖いから怒られないように身だしなみなども気をつけていました。そんな人ですから、生徒からは蛇蝎のごとくという表現がピッタリなほどに嫌われていました。私は一度その教諭に何か日常的な話題で話しかけられたことがあったのですが、何か怒られるんじゃないかと最低限の返事をしてすぐその場を逃げた思い出があります。 そして大人になってつくづく思うのですが、組織にはそういう嫌われ役が必要だなと思います。あの課長がうるさいから、厳しいからちゃんとしよう。そういうのはどこの世界にでもあるんです。マキャベリの言葉で「君主は愛されるより恐れられよ」というのがありますが、つくづくそう思いますね。ゴーン社長があんなに眼光が鋭い人だから日産は復活したのだと思います。 だけどええかっこしいの私は、そんな嫌われ役になる勇気は持てません。嫌われ役は周囲からあら探しの目で見られるから、他ならぬその人自身が完璧でなければなりませんが、私はそういうタイプではないのでねー。 ただ昔、ある仕事でリーダーとなったのですが、そこでサブリーダーになってくれた人が小言をいって嫌われ役になってくれた人でした。彼が嫌われ役を引き受けてくれたおかげで、私はすごく仕事がやりやすかったのです。だからいろいろ文句はきたけれど、そのサブリーダーに対しては常に信頼しているという態度をしていましたね。お昼ご飯なんかもなるべく彼を誘ってちょっと奢ったりして「リーダー(私)はサブリーダーと仲がいい」と思わせておいたのです。まあ実際割と仲良かったですけどね。そうしないと今度はサブリーダーの人が孤立してしまいますからね。だけどあのときは彼とのコンビでいい仕事ができたと今でも思っています。

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 わたしはひとつの組織に長いこと属していたという経験がありませんので、お話を面白く伺っているしかないのですが、でもよくテレビや雑誌などの特集で「上司にしたい人ベスト5」などというのをやっているのを見ると、どうも優しくて面白そうなひとばかりに見えます。 確かに個人的には嫌われ役ができる人がいるのはバランスの面から言ってもいいのかなと曖昧に思います。 >だけどあのときは彼とのコンビでいい仕事ができたと今でも思っています。 そういう「思い出」があるってとても羨ましいです。 お返事をありがとうございました。

  • sqqrcxvx
  • ベストアンサー率9% (84/911)
回答No.6

こんにちは。 <あなたは「嫌われる勇気」がありますか「嫌われる人」を「愛する勇気がありますか」? 両方ありません。 >尚、わたしは精神障害者ですが、現実には、精神に障害を持っていることと、「変人」であることを比べると、「変人」であることは、より、「許されざる」ことのように感じます。 他の質問文中で再三それを、つまり自分は精神障害者だと言っておられますが・・ そうは思えないのですがね。現に精神障害は無いと言い切った医師もあったのでしょ? grさん(とさせて頂きます)にとっては上記の呼称は気分的にいごごちが良いのじゃありませんか?(失礼な事を言いすみません) >1950年代のアメリカ。マッカーシー時代、「レッドパージ」の時代に、共産主義のシンパであること。諮問委員会でリリアン・ヘルマンやダシール・ハメットのように振る舞うこと。 ただ、彼らは全くの孤独でもなかった。変名偽名で娯楽映画の脚本を書き日銭を得て50年代を生き延びた人もいます。という事は彼らを助ける何らかの勢力や友人が存在した。 これがgrさんが言われる >嫌われる人」を「愛する勇気がありますか」? という事ではないでしょうか?

noname#226970
質問者

お礼

こんにちは。 grでもアルチンボルドでもご自由に呼んでください。 >grさんにとっては上記の呼称は気分的にいごごちが良いのじゃありませんか?(失礼な事を言いすみません) うーん。これは難しいですね。つまりこれにお答えするには「正常」と「異常」はどう違うのか?「狂気」と「正気」の境界は?という問いに踏み込んでいくことになります。 現時点では、わたしは「精神障害者」であるということを言い張りはしませんし、また否定もしません。まぁ盛んに「精神障害者である」ということを表明しているのは事実ですが。 おそらくそこには、「正常」イコール「ともだちがいる」 「ともだちがひとりもいない」イコール「異常」「狂気」というイメージがわたしの中に強くあるのだと思います。 ただこんなことは考えています。誰の言葉か忘れましたが、日本人の哲学者の言葉です「まだ名前を持たないマイノリティーが常に存在する」と。 わたしもそんなひとりではないかと。 この質問をしたときから、「リリアン・ヘルマン」や「ダシール・ハメット」或は「ドルトン・トランボ」等の名前を挙げることに躊躇いがありました。 無論、いくら彼ら、彼女らが才能にあふれる人であっても、当時の実時間で、彼らを援助するということには勇気がいったでしょう。 しかしやはり彼ら彼女らは特別です。つまり「別格」の存在として扱うべきでしょう。例えればマーティン・ルーサー・キングと名もない黒人少年との違いのように。 つまり殺されても誰も泣いてくれない存在もあるのだということ。 わたしが言いたいと思うのは、「誰もに見放された人」を愛する勇気がありますか?ということだと思います。 おそらく真の愛とは全世界を敵に回す覚悟を持つことではないかと思います。 以前「絶望系映画」の質問で挙げた『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』。これは実話に基づいた映画ですが、この映画では主人公を愛する人は誰もいなかった。かれは完全に孤立し、その孤独と憎悪は或る一人の人物に収斂されていきます。わたしは何故か彼の孤独に惹かれるのです。無論ショーン・ペンならではの上手さもあるかもしれませんけれど・・・ いつもご意見を聞かせていただきありがとうございます。

  • nagate
  • ベストアンサー率12% (28/219)
回答No.4

嫌われる勇気も、そういう人を愛する勇気もないですね…

noname#226970
質問者

お礼

同じです。 お返事をありがとうございます。

noname#226970
質問者

補足

ただ、「嫌われる」側に立つことはあっても、 「嫌われている人」を「嫌う」側には絶対に立ちたくはないですね。無論「権力者」は別ですが。

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