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徳川政府の最重要法度とは?
- 秀吉は大名を減らす必要性を理解していたが実行しなかった。
- 徳川は大名の抵抗力を認識し、独特な動きで欠点を埋めた。
- 徳川政府の最重要な法度は1615年に布告された武家諸法度である。
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以下のとおりお答えします。かなりよく訳されていると思います。 (「日本史特有の事柄を、英文でどう表現しているか」に興味を覚えます。) >Hideyoshi, it will be remembered, had appreciated the need to reduce the daimyo to a state of permanent submission to the central authority, but had not done very much in practice to bring this about. >皆の知る通り、秀吉は中央権力への永続的服従となる状態まで大名を減らす必要性を十分に理解してはいたが、実際にこれをもたらすよう力を注ぎはしなかった。 (doneは、「力を注ぐ」というより「実践する」とする方が近いでしょう。) ⇒周知のとおり、秀吉は中央権力に対する永続的服従の状態にまで大名を減らす必要性を よく認識していたが、実際にはこれを引き起こすほど十分な実践は行わなかった。 >The Tokugawa, with characteristic efficiency, made good this shortcoming at the first opportunity, aware that, unlike Buddhists or court, the domain lords were in a position to resists them with force. Consequently, the law for the military house (buke sho hatto), promulgated in 1615 on the morrow of Ieyasu’s culminating victory at Osaka castle, ranks as the most important single enactment of the regime. >徳川は仏教徒や朝廷とは違い、藩主達は武力で彼らに対抗する立場であることを認識していたので、独特の効果的な動きで、可及的速やかにこの欠点を埋め合わせた。その結果、徳川政府において、単体としては最も重要な法度と位置付けられている武士の家系の為の法律(武家諸法度)を大阪城での家康の最終的な勝利の直後、1615年に布告した (「武家諸法度の布告=1615年」とその「重要性の位置づけ=その後現在まで」の時系列上の配列順に従うこと、および原文でranksが主動詞となっていること、などに鑑み、語順を入れ替えた方がいいかも知れません。) ⇒徳川は、仏教徒や朝廷とは違い、藩主達が武力で彼ら徳川に対抗する立場であるということに気づいていたので、独特の効果的な手立てで、可及的速やかにこの欠点を埋め合わせた。その結果、大阪城での家康の最終的な勝利の直後1615年に布告した武士の家系の為の法律(武家諸法度)は、この政体の最も重要な単体条例として位置づけられている。 以上、ご回答まで。
お礼
回答有難うございました。