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プラトンらは 哲学を分かりやすく書いたか?

noname#214841の回答

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noname#214841
noname#214841
回答No.3

『パンセ』の日本語訳は、bragelonneさんのものですか。文脈に合はない表現を一点。プラトン『国家』、アリストテレス『政治学』は、遊びで書かれた、とパスカルは見てゐますから、「むずかしいことを語っているように書いた」といふのは奇妙です。 「重大なことのようにそれについて語った」 (前田陽一・由木康訳 中公文庫 218ページ) 「重要事についてでも語るような」 (津田穣訳 新潮文庫 上212ページ) フランス語では「une grande chose」ですから、この2冊の翻訳が適切に思へます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  翻訳の問題についてですね。  ▲ (お) 政治について書いたというのは ちょうど気ちがいの病院に規律をあたえようとしてであり ≫むずかしいことを語っているように書いた≪ のは その気ちがいの人たちというのが 自分たちを王であり皇帝であると思い込んでいるそのことを知っていてなのである。  △ (前田陽一訳) (お) 彼らが政治論を書いたのは 気違いの病院を規整するためのようなものであった。  そして 彼らが ≫いかにも重大なことのようにそれについて語った≪ のは 彼らの話し相手の気違いどもが 自分たちは王や皇帝であると思い込んでいるのを知っていたからである。  ☆ 意図を説明します。  《気違いの病院を規整するためのようなもの》としての政治論の語り口が 《いかにも重大なことのようにそれについて語った》というのは 奇妙ではないでしょうか?  もし《話の対象としてねらわれた人物たちが 精神錯乱に落ち入っている》としたら 《「重要事についてでも語るような」》語り口では 合わない。まさに《重要事として語っている》のでしょうし しかもそれは《(う) 気が向いて[・・・]わざわざ そう楽しんだのである》と知られます。    だとすれば 《むずかしいことを語っているように書いた》という読み方は ひとつの可能性としてあり得る。と思ったのです。  ――これが 意図です。  どうでしょう。

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