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アホvs哲学者
- 愚か者にとっては屁でもないのですが、哲学者たちは異を唱えています。
- 痴愚に囚われ、過ちを犯し、幻想を抱き、無知の闇に沈んでいることこそが、悲惨そのものであると主張しています。
- アホと哲学者、どちらが幸福なのかについての論争が繰り広げられています。
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何も考えないアホは幸せですね。
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モラルの反自然性。そして芸術による融合。ですね、ではニーチェ風に書いておきます。 アホVS哲学者、それは人間性を排除した、機能主義的な新しい秩序のようである。だがはたして我々は、そのようなものを欲したというのだろうか。否!否!四の五の言わず、何度でも否!である。 アホと哲学者とは、それはまさに異音の同義語であり、悦ばしき和音であり、さながら大ディオニュシア祭における、リハーサルを想わせる風景である。漆黒の垂れ幕の切れ間からは、緻密な企みが、その背後には、虎とライオンを従えた生への大いなる肯定が、歓喜に満ちたフィナーレを待ち焦がれているかのような、それでいて今にも観客を飲み込んでしまうかのような、大地が欲するところの、怒号と弁明と雄叫びと、そして狂気が入り混じった合唱とを呼び覚まさんとする、我々がまさに今、作品そのものになろうとする大掛かりな芸術であろう。我々の魂は、これを欲していたのではあるまいか。 Plapota さん こんにちは。エラスムス『痴愚神礼賛』ってそんなに面白いのなら私も読んでみたいですね。Amazon見たら、岩波からも安いのが出てるようですから、宵越しの銭ができたら買ってみようと思います。やっぱりつまらない哲学書よりも笑えるほうが好きです私は。だからyuniko さんには長生きして下さいとお願いしています。下手な鉄砲もかずうちゃ当たるっていいますからね。 そういうことで、私の回答は、アホと哲学者はすべての人を幸せにする、です。
お礼
先日にひきつづき、すばらしい御回答をありがたございます。ニーチェのパロディですね。うまいものです。 >モラルの反自然性。そして芸術による融合。 さうですね。道徳的に分離するのは好ましくありません。融合こそが世界への理解です。みなさんの回答を拝見してゐて、アホと哲学者とは分離するものではないことが、よくわかりました。「異音の同義語であり、悦ばしき和音であり」、御指摘のとほりと存じます。ニーチェもアッティカ悲劇の融合性について語つてゐました。 >エラスムス『痴愚神礼讃』ってそんなに面白いのなら おもしろいかどうかは、人それぞれだと思ひます。いまのところ、エラスムスについて記述してくださつたのは、回答番号9の方だけです。確実におもしろいといへるのは、現代の土屋賢二ではないでせうか。 「他人に笑われるような人間になるな」と言われることがよくある。わたしとしては、その逆に「他人に笑われるような人間になれ」、あるいはむしろ、「自分自身に笑われるような人間になれ」と言いたい。 (土屋賢二『われ笑う、ゆえにわれあり』文春文庫120ページ) 今後とも御指導よろしくお願ひいたします。
補足
ひとつコメントを忘れてゐました。 >yuniko さんには長生きして下さいとお願いしています。 最近のゆにこさんは、「人まね」でないところに好感が持てます。ある意味、正統派なのかもしれません。哲学とは、自分で考へることであつて、ウケウリ、パクリは私ひとりで充分です。 ハイデガーなんかは、哲学の問題はひとつしかない、それは「存在とは何か」という問題だ、と言うくらいなんですよね。でもその答えは観察可能な事実の中にはない。 (土屋賢二『ツチヤ教授の哲学講義』文春文庫44ページ) garizo-cojpさんの御投稿も個性があつて、楽しく拝見してをります。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10007/12518)
>アホと哲学者は、どちらが幸福ですか。 ⇒plapotaさん、お久しぶりです。 この面白いテーマに引かれて、私もちょっと加えていただきたくなりました(私もエラスムス大好きです)。といっても、ご回答としては、No.3さんの「バカボン」に尽されていると思いますので、全面支持とお任せの心境です。 ということで、不肖私は、例によって「気まぐれゴコロは、遊びのココロ」気分で書かせていただきます。 ン十年前、某「低脳未熟大学阿呆学部」なるところで、「何とか特論」なる科目を担当させてもらっていたときのことです。クラスに「○松」君なる学生がいました。 あるとき彼に質問をしたところ、どうしようもない答が返ってきたので、ほとんど無意識に「そりゃないだろ、おそ松クン!」とのたまってしまったのです! すると、彼は間髪を入れず、両手を頭上と胸のあたりに平行にかざして、大声で「シェーッ!」ときたものですから、教室中に大爆笑の渦が起こったのでした。 いやあ、アホってホントに、アホですね! 因みに、このアホとはいまだにつきあっています。たまに、居酒屋などで一献酌み交わしながら「おい、アホのおそ松クン!」と呼びかけると、「何ですか、大アホのセンパイ!」などと返ってきます。 いやあ、アホってホントに、アホだけどいとおしいです。
お礼
いつも楽しい御投稿をありがたうございます。イエス・キリストのOKWave利用規約違反への御回答以来でせうか。エラスムスは新約聖書の校訂者として有名で、ひとむかし前のウエストコット・ホート、現代のネストレ・アラントとともに、はづせないテキストですが、『痴愚神礼讃』を読んでからは見方が変りました。主著は『対話集』らしいのですが、少し読んだだけでやめました。 >No.3さんの「バカボン」に尽されている バカボンのパパは、バカ田大学の哲学科を首席で卒業したさうです。 >「気まぐれゴコロは、遊びのココロ」 はい、承知してをります。以前パリについての質問のときにうかがひました。 >「何とか特論」なる科目を担当させてもらっていたときのことです。 大学の先生をなさつてゐたのですか。 >「シェーッ!」ときたものですから、教室中に大爆笑の渦が起こったのでした。 この人は大物ですね。「場」を的確にとらへてゐます。アホと哲学との間には境界がありません。 エラスムスはアホの効能として、こんなことも書いてゐます。 「公然と王侯方を罵りながらも喜んでお耳を傾けていただき、同じことばを智者たちが口にしたなら死刑になりそうなことでも、阿呆の口を衝いて出ますと、信じがたいほど喜んでいただけるのです。」 (第36章93ページ)
こんにちはプラポタさん。 哲学も面白いですね。 自分は偉い馬鹿な奴らに教えてやる。 でも相手は馬鹿だから教えたい声が届かないのでは?
お礼
ふたたび御回答をありがたうございます。 >相手は馬鹿だから教えたい声が届かないのでは? たしかにさうですね。それで喧嘩腰になつてゐる場面を見かけます。頭の良い人は、自分のすばらしい考へを他の人にも知つてもらひたいのだと思ひます。どちらが、幸せなのかは、私ではわかりませんけれど。 エラスムスはこんなことも書いてゐます。 「民衆という巨大で強い力を持つ獣は、こういった愚にもつかぬ話によってあやつられ、動かされるものなのです。これに反して、プラトンやアリストテレスの法律だの、ソクラテスの説く教説だのを採用した国が、かつて一つたりともあったでしょうか?」 (第26章67ページ)
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
プラポタさん今晩は。僕はアホですが中くらいに幸福です。哲学者は下記を見ると大部分が深刻な考え事をしているようですが、稀には幸福な人もいるようですね。 https://www.google.com/search?q=philosopher&sa=N&biw=1920&bih=888&tbm=isch&tbo=u&source=univ&ei=FdJSVefFMMmeyASQkIDgCg&ved=0CBwQsAQ4Cg
お礼
こんばんは。こちらは昼間です。SPS700さんの名回答はしばしば拝見してをります。 画像集を眺めてみました。いろいろな人がゐるものです。最終的には、各人の感じ方なのでせう。 タレスが星を観測してゐたら、溝に落ちてしまつて、 「タレスさま、あなたは足下にあるものさえ見ることがおできにならないのに、天上にあるものを知ることができるとお考えになっているのですか」 と笑はれたさうです。 (ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第1巻第1章34 加来彰俊訳 岩波文庫(上)37ページ) 人間みんな役者なのかもしれません。 今後とも、御指導くださいませ。
- 雪中庵(@psytex)
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自販機がお礼を言っても、決して喜んではいません。 認識の深まりに比例して、幸福も不幸も大きくなります。 ただし、不幸を回避し、人生を通算して幸福を最大に なるように舵取りできるのも、認識の深まりによって 可能になるものです。
お礼
御回答ありがたうございます。 >自販機がお礼を言っても、決して喜んではいません。 おつしやるとほりです。自販機はお礼を言ふよりも、現金を返却すべきです。さうすれば、少なくとも、私は喜びます。自販機は、ひとの笑顔を見るのを喜びとすべきです。 >認識の深まりに比例して、幸福も不幸も大きくなります。 エラスムスも 「それにしてもあなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」というのは、「お前たち知恵ある者は不幸だ」と言うのと、なんの変わりがありましょう? (第65章208ページ) と同様の指摘をしてゐます。 >不幸を回避し、人生を通算して幸福を最大に 何が幸福かは、人それぞれなのだと思ひます。これまでの回答からもそのやうな見方がよみとれます。通算といひましても、たつた一度のできごとで失意の底に沈んでしまつて、人生おしまひ、といふこともありますので、それもさまざまなのかと存じます。人生を振りかへつてどう感じるかは、そのときの状況が大きく影響するのではないでせうか。 今後とも御指導よろしくお願ひいたします。
- kohichiro
- ベストアンサー率21% (306/1447)
>アホと哲学者は、どちらが幸福ですか。 一般的にいえば、幸福はその人自身がきめるというか感じることですので、どちらでもないし、どちらでもありうるだろうというしかないでしょう。 私自身のこととして言わせてもらえれば、私は自尊心からアホにもなりきれないし、もちろん能力的に哲学者といわれたこともありません。で、やはりご多分にもれず他人の目を気にする人間ですので、他人からアホといわれて幸せな気分にはなれません。もちろん過去にそういわれていなかったとはいえません(おそらく何度も言われたことはあるでしょう)し、現在そういわれていないかどうかも確信を持って否定することは出来ません。なので現状として私は幸福ではないのですが、これからの問題として、自分がアホになりたいか、哲学者になりたいか、その選択肢のどちら側で真の幸福に出会えるか(それが方向性を選ぶ動機のひとつになるでしょう)と聞かれたら、やはり哲学者だろうと答えます。日本国民が世界の中で名誉ある地位を占めたいと願っているように、私は「アホ」と呼ばれるよりは「哲学者」とよばれることで(名誉ある)一人の人格者たることを社会に認めてもらいたいと思っているものです。それが「アホな哲学者」という呼ばれ方であるとしても「哲学者」の範疇であることは確かですし。
お礼
御回答ありがたうございます。 >どちらでもないし、どちらでもありうるだろうというしかないでしょう 回答番号2の方も同様の指摘をなさつてゐます。一般論として決めることはできないのでせう。ぶらげろさんとは、仲がよろしいやうですね。 >やはりご多分にもれず他人の目を気にする人間ですので 私も他人の評価がすこぶる気になります。Q&Aサイトで私の回答がごくたまにベストアンサーに選ばれてゐることがあるのですが、質問者のこれからの人生は大丈夫なのだらうか、と心配になります。 >自尊心からアホにもなりきれない 回答番号が3の倍数と、3がつくときだけアホになる、といふ人が以前テレビに出てゐましたが、最近見かけません。 >哲学者といわれたこともありません。 kohichiroさんの回答は、ほかのカテゴリでも拝見してをります。哲学者といつてよろしいのではありませんか。 >日本国民が世界の中で名誉ある地位を占めたい 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成しなければなりません。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.2です。 ★ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~ >うわべにおける満身創痍と同じようになって(コリント前書 9:19f. ) パウロの文意は、相手に合せるといふことでせうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 少し違います。 1. 心の状態として相手と同じようになることです。 2. しかもそこからは しばしば相手とは別の見方考え方を打ち出します。 3. そしてその目的が はっきりとしています。相手の人を得るためにおこなうということです。 このように わたくしめは 世界一すなおです。
お礼
追加回答ありがたうございます。 >心の状態として相手と同じようになることです。 共通点を見出すといふことではないのですね。 >相手の人を得るためにおこなう はい、そのやうに書かれてゐます。 エラスムスは「アジア、ヨーロッパ、アフリカの神々に、知られざる異国の神々に」と皮肉つてゐます。(第64章200ページ) >このように わたくしめは 世界一すなおです。 『広辞苑』の定義のはじめには「飾り気なくありのままなこと」と書かれてゐます。さうなのかもしれません。 「ヒツジの性格は愚直で低能といわれている。」 (アリストテレス『動物誌』第9巻第3章610b 島崎三郎訳 岩波文庫(下)121ページ) を引用して、エラスムスは新約聖書で使用される「羊」「神の子羊」はまさしくアホのことだ、と指摘してゐます。(第65章209ページ)そのため、一方ではカトリック側に激怒されて発禁処分になり、他方ではルターの宗教改革に利用されたりします。どちらもエラスムスの意図とは違ふやうに読めます。素直に読むのがいちばんです。
- trytobe
- ベストアンサー率36% (3457/9591)
赤塚不二夫先生の『天才バカボン』 は、まさに、主人公に「これでいいのだ」と語らせるとともに、 その過程に論理では説明しきれない倫理や不条理があることを、作品を通じて市井の者たちに「早く気づけよ」と突きつけておられたのです。
お礼
回答をいただくのは、久しぶりのやうな気がします。いつも的確な内容をありがたうございます。 御指摘のとほりと存じます。複雑な世界のなかで、一面的、一義的な解釈に固執することは危険なことです。このサイトのやうに、ひとつの命題に対して、さまざまな意見が出てくることが、健全な証なのだと思ひます。短期的狭義的には誤つた見方でも、いづれどんなことに役立つかは、わかりません。 教えて!gooでは、投稿するときに、「自信あり」「参考程度に」などのアイコン表示ができるのですが、私は怪答者なので「これでいいのだ」アイコンがほしいと考へてゐます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 これは 一般論ですか。それともご自身のことで 自分はアホであるが それがどうした? という趣旨の問いかけなのでしょうか。 ★ アホvs哲学者 ☆ を一般論としてうんぬんしても何も始まりません。どんぐりの背比べなり五十歩百歩なりの程度問題を一般的にはまづ議論できません。必要がないでしょうね。 ご自身のことだとしますと 問題は 〔けっきょく誰にも当てはまるものと思われますがその〕アホの自覚と自認のあと どう考えどう振る舞うかになりましょうね。端的に言えば みとめたあと なお素直な心でいるか。それとも この問いかけのごとくに難癖をつけるかです。 なぜなら それによって――《アホの効能》についてはまだしも各論として有益でもあるでしょうから 放っておきますが―― ★ どちらが幸福ですか。 ☆ をめぐっては もろに決まって来ると考えられるからです。アホであろうと哲学者であろうと わたしのように素直であること――さらにつけ加えるには能天気であること――がいちばんです。 《痴愚神》をことさら持ち出すところに 負けくささが出ます。 〔どんな神にせよ神に頼ってはいけません。頼らず自分の足で立つところに ひょっとすると神による裁定がくだされることがあります〕。 うわべにおける満身創痍と同じようになって(コリント前書 9:19f. )回答しています。 なお けっきょく目くそ鼻くそを笑うという結果になり内容もそうであるかも知れないたぐいの―― 一般論ではなく――各論のひとつとしては 次があります。 【Q:われわれは阿呆を甘やかしていてよいか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8854773.html 明らかに問うておられる筋とは別ですので 参考になりますかどうか。つまりそれは 五十歩と百歩との差にも それなりの有意な違いがあるという見方に立っての問い求めです。
お礼
御回答ありがたうございます。『痴愚神礼讃』には、聖書の、特にパウロの「愚か者のごとく語る」についての詳細な解説があつて、大笑ひします。 >一般論ですか。それともご自身のことで 自分はアホであるが それがどうした? 何でもかまひません。エラスムスについて聞きたかつただけです。ニーチェ以上におもしろい人です。 >どんぐりの背比べなり五十歩百歩なりの程度問題を一般的にはまづ議論できません。 所詮はそんなものです。だからこそ、なにごとにも議論が必要なのでせう。 >わたしのように素直であること この点につきましては、きはめて大多数の閲覧者が異をとなへてゐるのではないでせうか。 >うわべにおける満身創痍と同じようになって(コリント前書 9:19f. ) パウロの文意は、相手に合せるといふことでせうか。 >【Q:われわれは阿呆を甘やかしていてよいか】 リンク先は、アリストテレスなのですか。 「事物のアルケーというは、まず、当の事物が第一にそこから運動し始めるところのその部分を意味する。」 (アリストテレス『形而上学』第5巻第1章1012b34 出隆訳 岩波文庫(上)153ページ) 最近見かけないので心配してゐます。STAP細胞騒動にいちはやく結論を提示し、ひとのみちを示した姿勢はもつと評価されてしかるべきです。
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お礼
はじめまして。アホのplapotaと申します。質問文の書物は、学生時代からの愛読書です。 >何も考えないアホは幸せですね。 アホは、アホ呼ばはりされても、「はいアホです。」と返事をすればよいので、幸せです。では、自分は偉いのだ、おれさまが馬鹿な奴らに教へてやるのだ、といふ態度をとることは幸福なのでせうか。少なくとも、このQ&Aサイトにおいては、後者の姿勢のほうが多く見られます。 御回答ありがたうございました。
補足
デルポイにてアポロンの神託がありましたので、回答番号1をベストアンサーにします。