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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:こころは 果たして存在するか)

こころの存在と意味について

このQ&Aのポイント
  • こころの存在とは果たしてあるのか、そしてその意味は何なのかについて問いたいと思います。
  • 動物の感覚器官や行動にはこころが関与していると考えられますが、それが人間にも当てはまるのかについても考えます。
  • こころを表現する言葉や身の振る舞いには、実は身体の動きや変化を指し示している側面があります。こころの意味について考えましょう。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

アームストロングの分類によると、心の哲学には大別して、唯心論と唯物論があり、唯心論はヘーゲル・ライプニッツ・バークリなどが唱え、仏教もだいたい唯心論ですが、心が世界を作っている、という見解は今では誰もそれを正しいという人はおらず、論外で、唯物論が主流です。 その唯物論にもいろいろあって、デカルト・ロックの心身二元論があり、スピノザ・これにラッセルを含めてもいいと思いますが両面説(平行論)があり、さらに中立一元論があり、ヒューム・ハックスリの「束二元論」というものがあり、さらに同じ唯物論でも行動主義があり、これはワトソンやライル・それにウィトゲンシュタインも含まれる。行動主義のほかに中枢状態説あるいは心脳同一説があり、スマート・プレイス・パットナム・などが知られている。 そして現在最も有力な考えは行動主義から発展した機能主義が主流。 パットナムやアームストロング、あるいはこれにファイグルを含めても良いかもしれない。 機能主義によれば、心的状態とはあるシステムにおける機能的役割によって規定される内部状態のことです。 その機能的役割は入力・出力・他の内部状態、の三者に対する因果関係によって決まるものとされます。 だから入力・出力が、インプットがありアウトプットがあれば、その中間が何であろうと問わないから、今はやりの「人工知能」に哲学的基盤を提供するものとして歓迎されています。 つまり、ロボットだって入力・出力があれば心を持たせることは可能だということです。 ただ、機能主義にとって欠点・難問は、感覚質・クオリァの存在です。 心とか心的現象を論じる時に、機能と共に感覚質・クオリァの問題を避けて通るわけには行きません。 ○心はあるか? 心はあるものではなく、機能です。 つまり何らかの脳の活動に伴う随伴現象です。 ○<こころ>とは何ぞや? いろいろな説があって、どれが正しいか、分かりません。 しかし、少なくとも、デカルトのいうような実体ではありません。 また、唯心論のいうような観念でもありません。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。いろんな説が出されているわけですね。  ご回答をありがとうございます。  先に質問の趣旨に掲げたことは――と質問者の土俵に話を挙げますが――次のように確認します。:  1. 《心脳同一説》ではなく 脳(または身全体の知覚)から始まって心がかたちづくられる。と言っています。  2. 知覚内容について概念化やその認識〔およびさらには そこから感覚を離れた観念となった言葉を想像において駆使しつつ思考をつらねて行くおこない〕がありうる。  3. これは・つまり観念論は 心の内でおこなわれることであるが それが(つまり その想像力の発揮されて描かれた世界が) ふつうに心のことだと言えるかどうか? については 懐疑的に見ています。  4. 《心身二元論》は 存在がたとえば生命として現象しているからには・そしてそれがひとつの全体論として捉えられるからには しりぞけます。  5. 単純に身心の《両面説(平行論)》と言って言えなくはないのでしょうが 身とその感覚から出発しているからには せいぜい《中立一元論》に立ちます。つまりは 生命存在の一元です。そこに身のハタラキとそしてそこにかたちづくられる心とがあると。  6. 《唯心論》とか《唯物論》とかというふうに 《唯一》の第一原因にまでさかのぼるようにして持って行くことはないだろう。とも。  ★ そして現在最も有力な考えは行動主義から発展した機能主義が主流。  ★ 機能主義によれば、心的状態とはあるシステムにおける機能的役割によって規定される内部状態のことです。  ☆ 申し訳ないですが まだはっきりしません。  ★ その機能的役割は入力・出力・他の内部状態、の三者に対する因果関係によって決まるものとされます。  ☆ まだ分かりませんが ここで《因果関係》を持ち出す意図は よく分かりません。あらかじめながら むしろ《内部状態》であるなら 知解としての・いわゆる世界認識よりも 《わたし》の意志行為が中軸を成すもののように考えられます。それを 機能主義的にものごとの《因果関係》としてそれぞれの要素に還元して捉えるのでしょうか。  ★ だから入力・出力が、インプットがありアウトプットがあれば、その中間が何であろうと問わないから、今はやりの「人工知能」に哲学的基盤を提供するものとして歓迎されています。  ☆ それも 前もってのプラグラムということですよね? つまり 大きく背景を成すものが ひとりの人間の意志ということではないのですか?  ★ つまり、ロボットだって入力・出力があれば心を持たせることは可能だということです。  ☆ 過去の経験としての内容やあるいは それらを要素・要因ごとに分析してそれらを自由に想像力によって結びつけたその結果としての経験行為 これをここでは《心を持たせる》と言っているのですよね?  ★ ただ、機能主義にとって欠点・難問は、感覚質・クオリァの存在です。 / 心とか心的現象を論じる時に、機能と共に感覚質・クオリァの問題を避けて通るわけには行きません。  ☆ 先ほどのロボットの問題から ここへ来たのですか? 《機能主義》をかかげたときから 心をその機能に還元したのですよね? つまり もしクオリアがあるのならば その初めの時点で そのクオリアを棄てて来たのではないのですか?  かと言って クオリアが どれだけの内容を心にとって成すのか。これは わたしにはまだ分かりませんが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   ○ 心はあるか?  心はあるものではなく、機能です。  つまり何らかの脳の活動に伴う随伴現象です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これは 上に述べた(1)項などと同じ内容であると受け取りました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   ○ <こころ>とは何ぞや?  いろいろな説があって、どれが正しいか、分かりません。  しかし、少なくとも、デカルトのいうような実体ではありません。  また、唯心論のいうような観念でもありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (4)や(6)項などとして受け取りました。  ありがとうございます。  

bragelonne
質問者

補足

 この質問につきましては 各回答者からそれぞれの切り口で・つまりアプローチの仕方で 問題を見直す見方をも提起してもらっています。  中で哲学史と言いますか 研究史のあらましを明らかにしてくれたのが このご回答でした。

その他の回答 (20)

回答No.11

信じる事が出来なければ 心を問いても無駄・・ 神は 信じる者の心に宿るのだから・・ まっ 最終的には そう言う人も救われる様になってるから それまで頑張ってね(#^.^#)

bragelonne
質問者

お礼

 だからぁぁぁ。問いは 《心とは何ぞや?》ですよ。  そのような態度が あなたの神のみこころなのですか?  ご回答をありがとうございます。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.10

>決して《抽象的》ではありません。(あるいは つねに抽象的であるわけではありません) 3という数字が現実に存在してるわけではないじゃないですか 数は我々の頭の中にしか存在してないのですよ >《その脳の活動 またはその活動において得られた概念のまとまり(認識物)》 >と言ってみては どうでしょう? 心は存在しないという立場に立つので、心は脳の活動だとは言えません また、脳の活動で得られた概念というのはその通りなのですが それだと意味が曖昧になってしまいます 情動を理解するために仮定された概念という限定をつけてますので bragelonneさんの提案は受けられません >分かりにくいですが この《わたし》は 先ほどの知解(認識)や記憶および意志といった >精神行為をも含みますから それはまさしく《こころ(≒精神)》なのだと受け取りました たぶん理解されてないと思うので詳しく説明しますと 自己認識における「わたし」と似たような役割を持つのであって 「わたし」=「こころ」ではありません 例を出しますとわたしが誰かに顔を殴られたとしましょう 当然、顔が痛いです 今度は誰かに暴言を吐かれて情緒的な苦痛を感じたとしましょう この苦痛はいったいどこで感じてるのか 苦痛があるのだから、殴られた顔に相当するものがあるはずです このように情緒的な反応・行動を理解するのに仮定されたのが「こころ」だと 思うのです

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 3という数字が現実に存在してるわけではないじゃないですか / 数は我々の頭の中にしか存在してないのですよ  ☆ いえ。そうぢゃなくて:  ☆☆ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  《3》という数は・・・三つの個体に対応しているのではありませんか? 人が三人いるというのは 経験事実であり 身のハタラキとしての知覚で確認できます。   決して《抽象的》ではありません。(あるいは つねに抽象的であるわけではありません)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と言っています。  つまり 《人がいるという事実》と《〈人〉という言葉》とは 対応しています。《三人いる》なら《三という数》は やはりその事実と対応しています。決して抽象的な世界に浮遊しているのではない。――と言いたかったのですが?  言葉は それが頭の中にだけあるということは分かっています。文字にしたところで 一方で言葉と対応しつつ 他方ではその文字となったかたちは 言葉そのものではありませんから。  けれども実際のものごととの対応があるということは つねに《抽象的である》存在だけに終わってしまうものではない。はずですから。  ★ 情動を理解するために仮定された概念という限定をつけてます  ☆ この規定は おかしいのではありませんか?  なぜなら 心は 世界のあらゆるものごとを知解しそれを言葉にして記憶したりまたその倉庫から引っ張り出して来て意志行為の内容を表わすのに用いられたりします。決して《情動》にだけ限られるものではありません。  そういう意味では 脳の活動のすべてを言っているはずですから 提案してみました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  例を出しますとわたしが誰かに顔を殴られたとしましょう  当然、顔が痛いです  今度は誰かに暴言を吐かれて情緒的な苦痛を感じたとしましょう  この苦痛はいったいどこで感じてるのか  苦痛があるのだから、殴られた顔に相当するものがあるはずです  このように情緒的な反応・行動を理解するのに仮定されたのが「こころ」だと  思うのです  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このタトエは すみませんが マチガイだと思います。  《顔を殴られてその痛さを感じる》のは 直接には顔の殴られた部位ですが それは痛覚という感覚器官の問題であって じっさいにこの痛さを認識し言わば処理するのは やはり脳組織でしょう。(あるいは 身と心との全体 つまり その人・そのワタシだという見方もあるかも知れません)。  それと同じように 《暴言を吐かれて感じる苦痛》も やはり神経組織で集中して把握し管理します。  ですから 知覚が脳神経において情報としてワタシに与えられる。これをワタシは 認識し言葉の上でも保持しひとまづは記憶へと処理したりあるいはただちに どのように応答としての振る舞いをおこなうかを考えたりします。  つまり この《知覚および認識(知解)ならびに――記憶をつうじて――どうするかの意志》 これが わたしの捉えている《こころ》です。そしてそれは あたかも《わたし》の精神の作業とほとんど同じである。  このように言いました。  重ねて確認しますと:  ★ 情緒的な反応・行動を理解するのに仮定されたのが「こころ」だと / 思うのです  ☆ という《情緒》の領域だけに限られるのではなく 《単にそこに人がいるという視覚》であったり 《いまこうして入力した文字を見ているその視覚》であったりするときの感覚のすべては 言葉化して認識されて行きます。その処理行為は ワタシが・つまりワタシの心がおこなっています。(ワタシがわが心においておこなっています)。    では そのように重大なハタラキをしているのにその心が あるのかどうか などとどうして疑うのか?  それは けっきょく身としての感覚のハタラキをそのまま言葉に翻訳して成った世界であるに過ぎないのではないか? と考えられるかに見えるからです。  こういう趣旨になっているはずですが あらためましてどうでしょうか。

回答No.9

聖書を知ってるみたいだから丁度良い・・最初に天国に入る人の数は14万4千人と書かれてますよね・・  その数が揃うまで 天国の言葉が この世に浸透出来ないだけです もうすぐ 伝わる筈ですよ・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ううーむ。  ★ この世に浸透  ☆ していますよね? あなたには?  その内容をもって 《こころとは 何ぞや?》について答えてください。という質問になっています。  1914年に生きていた人間が一人もいなくなるときなのだから  ★ もうすぐ 伝わる筈ですよ・・  ☆ ですか。たぶん 神は そういうシナリオを書くのは嫌いなはずですよ。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.8

> 《こころ》とは 何ぞや? 扁桃体が関わる脳の活動を理解する際に用いられる主要な概念のことだと思います 自己認識において「私」という概念が用いられるように 情動的な反応・行動を理解するのに用いられてきた、認識の上で「私」と似たような 役割を持つ概念を「こころ」と言うのだと思います >こころは あるか?  ないと思います 「私」も「こころ」も抽象概念なので、この世に存在はしないと思います ただ、例えば数字には3という数がありますが、そういった意味での「ある」なら こころはあると言えると思います

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  問い求めの途上にありますが ご回答を受け取って持った反応をそのまま述べてまいります。  ★ 例えば数字には3という数がありますが、そういった意味での「ある」なら / こころはあると言えると思います  ☆ 申し訳ないですが ここにいちばん疑問を感じました。  すなわち 《3》という数は 明らかに何らかのものを同じ種類に属するひとつの個体として捉えられる限りで――つまり ひとりの人をひとつの個体として捉え得るかぎりで―― その三つの個体に対応しているのではありませんか? 人が三人いるというのは 経験事実であり 身のハタラキとしての知覚で確認できます。  決して《抽象的》ではありません。(あるいは つねに抽象的であるわけではありません)。  差し出がましいのですが:   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    > 《こころ》とは 何ぞや?  扁桃体が関わる脳の活動を理解する際に用いられる主要な概念のことだと思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここですが いっそのこと 《その脳の活動 またはその活動において得られた概念のまとまり(認識物)》と言ってみては どうでしょう?  ほかに 記憶や意志も 《心》に属するとは思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  自己認識において「私」という概念が用いられるように  情動的な反応・行動を理解するのに用いられてきた、認識の上で「私」と似たような  役割を持つ概念を「こころ」と言うのだと思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かりにくいですが この《わたし》は 先ほどの知解(認識)や記憶および意志といった精神行為をも含みますから それはまさしく《こころ(≒精神)》なのだと受け取りました。  むろんこの心は すでに見て来た脳細胞などをふくむ《身》とともにある。ともにあってハタラキを持つ。とつけ添えたいと思います。

回答No.7

あまりにももったいぶっていませんか←受け入れる人から順に受け入れないと難しくて出来ないでしょ・・ イエスキリストも 受け入れた囚人を先にパラダイスに一緒に行ったのだから・・十二使徒より囚人の方が先だったのですよ・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 受け入れる人から順に受け入れないと難しくて出来ないでしょ・・  ☆ そんなことはありません。もしその理論の内容がよいものであれば コトバは一度に同時に(あるいは異時であっても 同じ書物としての伝達手段をとおしていっぺんに)多くの人に伝えられ得ます。  順番にこだわる気持ちが分かりません。  ★ イエスキリストも 受け入れた囚人を先にパラダイスに一緒に行ったのだから・・十二使徒より囚人の方が先だったのですよ・・  ☆ その前に わたしはこの世にすでに勝利していると語っています。その言葉は いっぺんに多くの人びとが聞くことが出来るのです。

回答No.6

#1の者です。 >存在は素粒子によって成るそうですが では心は どのようになっていますか? 逆に言うと、あなたは最初に「存在」という概念を前提として、 「心は存在するか?」と問うていますが、その「存在」とは何ですか? 存在について探求した結果が、超弦=量子=仮想的時空に対する 無の射影に還元される時、同時に認識性も「無とは分からない事が有」 という形で、「何かあるんじゃないの?」という疑問(予測)として生じた 空間(そこにおける存在性)を、「本当は無いんだけどね」と無に還元 するプロセスが「心」なのです。 この相補分化による以外に、「その原因は何?」と問われる無限連鎖を 逃れるすべはない。 クオリアだの性質だの、本質的定義の明確でない(ゆえにオールマイティな) ものを導入して、言葉の上でだけ説明しようとするのは、科学を学ばずに 全知全能の神で全てを説明しようとするのと同レベルだ。 (疑問(必要)には答えられても、批判(十分)には答えられない)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ クオリアだの性質だの、本質的定義の明確でない(ゆえにオールマイティな) / ものを導入して、言葉の上でだけ説明しようとするのは  ☆ というそのような見解については 質問の趣旨に触れてはいますが 質問者の立ち場ではないものですから その点 おことわりして確認します。(というより よく分からないというのが 正直なところですが)。  ★ 逆に言うと、あなたは最初に「存在」という概念を前提として、 / 「心は存在するか?」と問うていますが、その「存在」とは何ですか?  ☆ 《わたし》です。つまりこのように問いを発して ほかの人たちとも対話を成しともに問い求めるというその行為をしている主体です。これが 《存在》です。  言いかえると 存在は 身と心とから成っています。(通常の議論として そうです)。  ここでは 心は ひとが身の知覚をつうじて その感覚内容の概念化を経て なにがしかの《思いや考え》を形成するときその身ないし存在に出来上がる現象であり動態である。と捉えていますが その心は 次のように説明されたやはり心と その輪郭や機能体であることにおいてそれほど違わないと思われるのですが どうでしょう?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  存在について探求した結果が、超弦=量子=仮想的時空に対する  無の射影に還元される時、同時に認識性も「無とは分からない事が有」  という形で、「何かあるんじゃないの?」という疑問(予測)として生じた  空間(そこにおける存在性)を、「本当は無いんだけどね」と無に還元  するプロセスが「心」なのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言いかえると その機能によって捉えている世界は わたしにはよく分かりませんし たぶん違っていることでしょう。  ということは 質問者は 人間の一人ひとりがワタシとして《身と心から成る》存在なのだと見るところから出発しているのですが そちらの《心》は どこから来ていますか?  《存在について探求する》のが その《心》なのですか?  存在より先に――あるいは同時に――心がはたらいている。のでしょうか?  その心は どこから来たのですか?  というより 話をどこから始めますか? とお尋ねするほうが合っていますよね?  

回答No.5

「わたしが受け容れて無いからうんぬんと言っても その説や実践を知らないからには 受け容れるも何もないわけですから」 ↑ 人類歴史 最初にして最後の出来事なのです・・順番があるのです・・ あなたは その順番を待ってれば良いだけ・・

bragelonne
質問者

お礼

 あまりにももったいぶっていませんか?  ご回答をありがとうございます。

回答No.3

だからぁ・・・・・ それを説いた人が居ないから 多くの宗教があり 思想も様々なのでしょ・・ あなたが先駆者になり 全ての人に納得させる事が出来れば良いだけ・・ ☆・・・もう 説いて それを実践し 広めてる人達が居るが それを あなたが受け入れて無いから こんな事を思うのだから・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・もう 説いて それを実践し 広めてる人達が居る  ☆ それにあなたは賛同しているのですか? だったらその説をみなさんにも おしめしください。  わたしが受け容れて無いからうんぬんと言っても その説や実践を知らないからには 受け容れるも何もないわけですから。

回答No.2

「お考えをどうぞ」←・・・・って簡単にまとめてるが それを説いた人が未だに居ないのだから難問な訳で・・ あなたが説いて先駆者になれば良いだけの事・・ そもそも 人間が善い行いを指示し悪い行いを嫌う事から 善良な心なるものがあるとしか言わざるを得ない事は明らか・・ 心が無いのなら善も悪も関係無い筈だからね・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 心が無いのなら善も悪も関係無い筈だからね・・  ☆ というときの善悪の判断は では どこから来るか?  あいつは 俺より速く走れるし 歌もうまい。気に食わん。よし亡き者にしてやろう。・・・と思いを浮かべた途端 胸は動悸がはげしくなり 顔は赤らみ 冷や汗が出る。こういったヤマシサ反応が現われます。ほとんど決してそのように顔を紅潮させようと意志してそうなったわけではないのに。  つまり このヤマシサ反応を例に取れば これは言わずもがなの《身のウゴキ》です。それが 一般に――ことばによる概念化をとおして――認識や気持ちとしての《こころ》をかたちづくります。  身が――その自然本性においてすでに自律神経のごとくはたらくことが――無いのなら ものごとの良し悪しを判断することもないはずだ。となりませんか?  それとも 心は心で言わば独自の思考や判断をおこなう。のでしょうか?  だから 心は無いのだと決めつけているのではなく 問い求めたいと言っています。ご見解をどうぞ。

回答No.1

「心は存在するか?」というより、存在は心によって生じている。 存在=全ての素粒子が、根源的に超弦=量子定常波の励起状態 として得られる時、量子=不確定性原理こそが存在の本質を成す ものである事が明らかとなった。 不確定性原理における、「位置(S)と運動量(St)、時点(T)と質量 (Ts)の2対において一方を確定しようとすると他方が無限不確定性 (=無)に発散する」という空間と時間の相補性は、宇宙の起源たる 自我仮説(時間の流れ=記憶=過去=超光速)と空間仮説(空間の 広がり=予測=未来=光速下)の相補分化に由来する。 「由来する」といっても具体的に生じる訳ではなく、根源的に超弦 (=光速)に還元されるものを、階層現象表面(仮想)的に捉える (いい加減に捉える)事で、相補的不確定性を無限発散させない 事によって有限的存在性は派生しているのだ。 無いとは分からない事が有(=存在)なのだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 存在=全ての素粒子  ☆ すでにここが出発点なのですね。わたしには 素粒子としての存在と人間としての存在とでは 話の仕方に違いが生じて来ると思われます。  ★ 存在の本質  ☆ と人間の存在とは 同じですか? 同じ話の仕方で述べてもかまわないのでしょうか?  ★ 自我仮説と空間仮説  ☆ とは わたしたちおのおのの存在についてそれぞれ どのように対応していましょうか? まさか そのまま人間の存在を論じることが出来るというわけではないでしょう。  ★ 根源的に超弦(=光速)に還元されるものを、階層現象表面(仮想)的に捉える(いい加減に捉える)事で  ☆ こころについては  ★ 「心は存在するか?」というより、存在は心によって生じている。  ☆ と帰結されるというお考えでしょうか?  だとすると そのとき《心》は どこから降って来たのですか? 存在は素粒子によって成るそうですが では心は どのようになっていますか?