哲学で使われる言葉とは?

このQ&Aのポイント
  • 哲学で使われる言葉について疑問がある人に向けて解説します。
  • 哲学の本などの中には難解な言葉が多く使われていますが、それはどうしてなのか疑問に感じることもあるでしょう。
  • 難解な言葉を多用する哲学者もいれば、明確な表現をする哲学者もいます。どちらの表現方法が適切なのか、その意味について考えてみましょう。
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哲学で使われる言葉

最近この哲学カテゴリにきて感じた疑問です… 言葉をわざわざ難しくするのが哲学なのでしょうか? それとも難しい言葉や表現を使わなくても話し合ったり議論しつくしたり、そこでの結果を求めることが目的なのでしょうか? このことを検索をしていましたら、難しい言葉を多用する人の心理には、「知性化」が働いている、という記事を見つけました。 難解な言葉を多用する人は、実は「知性化」が働いている。この知性化というのは「逃げたい」「バカにされることを恐れている。とのことでした。 また難解な言葉で述べる人は頭が悪いそうです。 哲学書を開くと難解な言葉ばかりですので、哲学者の方々は「知性化」されているということになります。これも哲学者の動機なのでしょうか… このカテゴリでは短文また長文で明確な表現をする人、短文また長文でややこしい言葉を多用する人に分かれていると思いました。 哲学で使われる言語表現はどうあるべきでしょうか?

noname#206454
noname#206454

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回答No.3

明治に西欧から文化・文物が入ってきたときに、専門用語を新たに日常生活で使っている言葉とは区別して、漢語を使った翻訳用語を、西周とか、井上哲次郎とか、菊地源一郎とか、福沢諭吉などが作って行きました。 日本における哲学・思想の用語は日常から区別して、専門用語だということが分かるように、これまで誰もしゃべったことのない、言葉を作ったのでした。 その点、西欧の哲学・思想の用語が日常生活の延長で、誰もがふだん喋っていたのと比べるとひじょうに特異だということが分かります。 日常生活から断絶している方が良いのか、それとも西欧のように日常生活に密着し、その延長にある方が良いのかには一長一短があると思います。 もし日常生活で使っている言葉の延長だとすると、どうしても日常生活で使っている意味が紛れ込んできて、それが専門用語で、使用する範囲が狭いものだということが分からなくなる可能性があり、逆に日常生活からあまりにもかけ離れているとそれが専門用語だと簡単に分かる半面、日常生活とどのようにつながっているのか、それが分からなくなるという弊害もあります。 例えば「存在」というと私たちの日常生活ではめったにお目にかかりませんが、「ある」とか「いる」という言葉だったら、私たちはふだん当たり前のように使っています。 では「存在」という言葉をやめて、「ある」とか「いる」ですべて代用したらどうなるかと考えると、「存在論」は「ある論」「いる論」ということになり、たしかに分かりやすいですが、「ある」とか「いる」という言葉が多様な意味を持ちますので、不必要な意味がまとわりついてきます。 それに中国の漢字の造語能力は我が国の仮名よりもひじょうに優れているので、抽象的な事柄を翻訳する場合、日本語のように抽象的な表現に相応しくない言語では表現できない事柄でも翻訳できるという利点がありました。 最近は西欧の専門用語を片仮名でそのまま表記することが多くなりましたが、明治の学者・ジャーナリストはその用語をすべて漢語に翻訳したので、その造語能力は現代よりもはるかに優れていたというべきです。 質問者のいうとおり、哲学の専門用語には日常生活からかけ離れた難解な言葉が多いですが、それはわざと難しくしているというより、我が国の専門用語が日常生活から離れたものだったという宿命によるもので、その点は割り引いて考えなければならないと思います。 つまり、日本語がもともと感情表現の豊富な言語である半面、論理的な表現には貧弱だった、という宿命によるものでした。 ショーペンハウワーは文章というものは出来るだけ平易に書くのを勧めていて、難解な言葉を使いたがる人は事柄をよく知っていないことが多く、それを誤魔化すために難解な言葉を使うのだと言っていました。 私もその勧告にしたがい出来るだけ平易な言葉で、誰にでも分かるように回答するように努めいてますが、日本語には一つの言葉で多様な意味を持っている言葉が多く、どうしても西欧の翻訳語である専門用語を使わざるを得ないことが多くあります。 例えば「認識」という言葉などは、できるだけ「知る」という言葉で代用していますが、場合によっては「認識」という言葉を使わざるを得ないときもあります。 それを自己顕示欲とか衒学趣味で使っているのだろうと言われたりするとがっかりします。 専門用語を使わないと表現できない場合があるということを理解していないのです。 今では「カテゴリー」と言えば、簡単に分かりますが、明治の人びとはそれをすべて漢語で表現しようとしたので「範疇」なんて言葉で翻訳したので、難しくて私なんかは何を言っているのだろうと、首を傾げたものです。 その一方で、では西欧の用語をそのまま片仮名表記すればいいじゃないかと言われて、哲学・思想書が片仮名ばっかりになるのもどうかと思います。 それなら原書で読んだほうがましです。 昔は映画のタイトルでも、英語のもともとの意味とは別の漢語表現で表したものが多く、「慕情」だとか「旅愁」だとかタイトルに惹かれて映画をよく見たものです。 でも最近の映画は英語のタイトルをそのまま片仮名表記したものが多く、つまらないものが多くなりました。 漢語を使った造語能力が衰退してきた証拠なのでしょうか? 翻訳論を著している柳父章は新しい哲学・思想などの専門用語は日常生活からかけ離れていた方が良い、中身が空っぽの方が、新しい意味を詰め込むのに適している、と言っていますから、衒学趣味の「知性化」が働いているというより、むしろ「知性化」を働かせた方が良いのだと思います。 出来るだけ日常生活からかけ離れている難解な言葉の方が、むしろ新しい意味を込めるのにはふさわしい、ということになります。

noname#206454
質問者

お礼

映画に関してのタイトルのつまらなさには、まったく同感です。昔は心惹かれる粋なタイトルの映画がたくさんありました。 さて、中庸的な視点からの回答、たいへん興味深く読ませていただきました。 平易を勧めるシューペンハウアー、非日常性的であればよいという柳父章。平易すぎると分かりやすい「存在論」が「ある論」「いる論」となる。専門用語的すぎると知性化となるが、意味を込められるというわけですね。 これは「哲学の言葉」について書かれた論文の一部です。 <「分析哲学という哲学のスタイル、そして、その要とも言うべき哲学的言語分析の特徴は、抽象的な「哲学の言葉」が単に名指すだけの哲学的問題を、現実の言語使用に引き戻して考察することにあります。 「記憶」という言葉でくくられる哲学的問題があるとすれば、そうした問題を検討するために考察されるべきなのは、この「記憶」という言葉ではなく、「覚える」、「忘れる」、「思い出す」といった動詞とそのさまざまな変形「覚えている」、「忘れている」、「覚えられない」、「忘れられない」、「思い出せない」、「覚えていた」、「忘れた」、「思い出した」 の方です。 ここで重要なことは二つあります。第一に、これらの語をそれぞれ単独で考察するのではなく、これらの語を含む文にはどのようなものがあり、どのような使われ方をするのかといった具合に、必ず、その語が使われる文脈を念頭に置くことです(哲学の言葉の典型とされる漢字熟語の名詞は、独立性が高いために、つい、ひとり歩きしがちであるだけでなく、文脈における考察ということになじみません」> この筆者は文法の使い方や文脈についても追究しています。 <「哲学の言葉」が単に名指すだけの哲学的問題』といえば、抽象的なことばを提示して回答させる質問(やその回答)も多々見られます。 私も「現実の言語使用に引き戻して考察する」ことに激しく同意します。 筆者はまた 「題を考え始める最初の段階で絶対に避けるべきなのは、こうした言葉です。 実際、うえの議論で、こうした言葉は出てきたでしょうか。「意識」というのがちょっと怪しそうですが、実際に出てきたのは「意識的に」という副詞だけです。典型的な「哲学の言葉」とされる漢字熟語の名詞は、哲学的問題のありかを示すだけの見出し語(「存在」や「認識」や「行為」など)にすぎないか、あるいは、過去の哲学者たちによる複雑な概念操作の歴史をひきずる、それ単独では意味不明の語でしかありません。 哲学的議論というと、こうしたむずかしげな言葉が飛び交う場所だと考えるひとが多いのではないでしょうか。そうした印象は、哲学書から得られたのかもしれませんし、ひょっとすると、実際にそういう場所に居合わせたことから得られたのかもしれません。もしそうであれば、それは不幸なめぐりあわせというものです。> その不幸なめぐりあわせ、というのがこのカテゴリなどで随所にみられますが、あまりにも抽象的なことばや表現をしすぎる本人もはたしてその意味が分かっているのか…と思うこともありますが、そうなるともうロム側にとっても遠い世界の話、という感じになります。

その他の回答 (15)

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.6

いやぁ、耳が痛いですw 「難しい言葉を操る人間と、キチガイは同じだ。 共に訳の判らない事を言う。」ですw 「自分は此れだけ知っているんだぞ!」と自慢したいだけなのですよね。 対手に話が通じないのでは、知識も宝の持ち腐れなのですが。(何故だろう?胸が痛い・・w) 自己肥大ですね、気を付けたいと思います。

noname#206454
質問者

お礼

0fool0さんはよくここで回答されていますね。 0fool0さんの言葉は確かに難しいです。でもなんといえばよいのか…核心的な分かりやすさがあると思っていました。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.5

新たな視点を持ったり、思いがけない角度を見つけたり、と、 思考を深めるということは際限がないものだと思います。 ひとつ、地平を繋ぎ、視野を得るたびに、概念もまた豊かに肉付けされ、 他の概念との結びつきを広げていきます。 知りたいと思う人がちょうど腑に落ちる範囲や領域や高度で、話が展開したならば、 それが少し専門的であったとしても、また、脈絡が難解であったとしても、 すでに知っている事柄で補うことができます。 補おうとする意志もはたらくでしょう。 哲学は、教科としては日本の中学や高校にはありませんから、大人になりかけてから触れる人が多いと思いますが、 そんなふうに唐突に、古めかしい大部の著作を翻訳で読むとか、研究者の解説本を読むとか、 あまり導入もなく噛り付くことになる学問で、 しかも西欧の歴史を文脈に抱えていて、理解の地平を開拓しようということになればわたしたちにはかなりの知識が必要です。 概念が対応しなかったり、そもそもカテゴリさえ存在しなかったり、手持ちの駒で補うということがあまりスムーズにいきません。 そういうわけでほんとうは、先生や先輩の聲咳に接して、歴史背景や地理的要因から思想体系や周辺の議論も広く交えて、 知性の地図をよく広げたうえで、哲学の言葉の運用に臨んでいったほうがよいだろうし、面白いだろうと思うのです。 難解な言葉で述べる人の頭が悪いかどうかというのは、浅薄な議論にすぎないことで、 相手を見て伝わるように伝えよということの中に、 難解であるほかない事柄を述べ合って広げる地平もあれば、5-6歳の子にもわかる言葉で伝えられる風景もある。 何をどう切り取りたいか、というこころざしは、哲学そのものよりも言葉と論理の運用技術にかかわることで、 広告や報道などのマスコミ、そして政治の分野に近い問題提起であろうし、 哲学というのは包括的な真理へ向かって、むしろ切り取ることも削ることも慎重に避けようとしながら、難解かつ曖昧模糊としたところを大切にしなければならないのではないかなと思います。

noname#206454
質問者

お礼

「心理学のカテゴリ」からしたら難解な言葉で述べる人は心理的にそうらしいですからね。哲学者の心理としてはあたっているかもしれませんが、個人的には悪いとは思いません。 哲学が「これはああだ」「あれはこうだ」と結論をだしたがるのと同じ学説にすぎないかもしれませんね。 amaguappaさんの言われるように言葉と論理の運用技術の個人差が哲学を難しくしてしまうようでもありますが、哲学は万人に開かれているべきだと思います。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.4

お礼ありがとうございます。 難しい問題ですよね。 >専門用語は専門家同士の共通用語です。 できれば理解したい方からすると分かりたいですよね。 厳しいことに、専門用語は禁止事項では無いですからね~。 >このサイトでも学問カテゴリなどでは、専門用語を乱用している方についてはそれはどういう意味なのかということをわざわざ聞かなくてはならなくなります。 >でも専門用語をださずに、専門的家でしか分からない説明されている方もいます。 言葉の認識だけでなく、相手の視点や意図の範疇であると思いますので その人の個人差の認識追求になってしまいますよね。 >kanto-iさんの質問「意見に至るまでの、あなたの内的手順を教えてください」も参考にさせていただきました。 ありがとうございます。 あれは、他の方がどれぐらいの認識で言動に及ぶのか 理解したくての質問でした。 確かに言い方の問題もあります。 「その事」を話題にしているにもかかわらず「あなた自身」と言う 人批判に方向を変えたり、「考えたこと」と「考え方」を分けないで 話しの内容がまぜこぜ、ごった煮で焦点が合ってない話しも沢山出てます。 思考も整理されないで、明確性の無いやり方でやり取りすれば 泥試合になり、哲学にならないこともそれなりにあると思います。 そうならないために、自分をどれだけ観てるのかなって。 自分に対して認識を持って足元を固め、論理への認識を持って 事にあたることへ方向性を確認しながら進めていくのを 皆さんは、自己の中での展開をどのように認識できているか。 私もやり取りに疑問を持ったので、他の方の思考を理解できればと思いました。 できれば誰にでも分かることを意識して書くようにしていますが そうではない、私自身も様々な理由で書かない場合があります。 深い話しは、質問者が理解できる目線でしか書いてない場合もあります。 ものすごく外堀を埋める思考をしていないと、ポイントだけ話しても全く通じない。 そんな場合もあり、外堀を埋める思考の展開をここでと言われるとギブが出る場合もあります。 トータルでは、そういうこともありますので 求める側の千差万別に応えることは、無理だと理解して 個人として楽しくやって行くこと。 全ての相手の期待に応えようと思えば書けなくなります。 認識を問われると、それぞれの違いでしか無いので ツッコミは厳しいかなと。 この話しは掘り下げれば、人の認識と個人価値観の 話しになると思うのですよ。 それは、それぞれが自分に向けて問うものだと私は認識しています。 人を問いはじめると、結果はいつも厳しいものになると思います。 私が今分かるのは、これくらいまでです。

noname#206454
質問者

お礼

そうですよね、「その人の個人差の認識追求」に差があると、すれ違うわけです。 お互いの思い違いを指摘しあったり、指摘されても、一度答えればもう戻ってこなかったり、質問に対して多くの反論があったりしても何食わぬ人もいますし、ここぞとばかり議論に持って行く人もいます。 文は人なりとはいいますし性格といったらあれですけれど、そういうのが垣間見えることもままあって面白いです。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.2

哲学用語は、その意味合いを包括して単語として表していると思います。 専門用語は、長い長い意味合いを共通認識として一言でまとめるのに便利ではあります。 多用するのに良し悪しは、それなりにあるでしょうが コミュニケーションの場においては、相手が理解すればいいスタンスとか できる限り理解しやすいようにといった配慮とか その人それぞれの考え方であって、それぞれの違いだと思います。 言葉の使い方は知性化と同じように人の心理が現れます。 その人の心理や考え方で対応が変わるのを 哲学の括りで問うのは適切で無いように思えます。 専門用語の問題は、どこの領域でも問題になりますよね。 基礎が無いもしくは基礎が脆弱でしたら、深い話しに至る過程の話しで とんでも理論が展開されたり、学んでいればおよそ言わない話しが出ます。 知識が無いこと足りないことが悪いのでは無いですが 基礎から展開するには、長いくだりが必要となります。 そんな時、専門用語を出すことで本人が調べて深めることが やりやすいという使い方もできると思います。 ようは言葉はツールですから、使う側に一任されるかなと。 全てを噛み砕いて、複雑な過程まで全部全部分かるようにと 時々求められますが、哲学は言葉で構成されるため 説明されれば理解できるとか、理解できないのは説明不足や 説明下手だからだとか、そう言うことだけでは無いのが現実です。 その人にその発想が無いもの、その発想に触れたことが無いもの。 それに関しては、聞いたから即理解できるとはなりません。 そう言った基本的な事柄がスルーされて、やりとりをしていると 理解や違いに区別がつがずに、もめたり攻撃が人に向いたりするのだと思います。 専門用語は、数学の記号と同じく置き換えなのだ。 そんな感じで考えてみると、記号の意味合いを自分で調べる 楽しさも出たりするのかなと考えています。 >哲学で使われる言語表現はどうあるべきでしょうか? 難しい質問ですが、言いたい事を言いたいように言うのも 間違いだとは思っていません。 言う方も聴く方も、お互い理解し合おうとする姿勢が 互いの発展や深みにつながるので理想的ではあるかなと思います。 分かりにくい表現でも、本人は本人なりの配慮が無いとは言い切れないので 自分が分からないからといって、相手批判を一概に言えるものでは無いと思います。

noname#206454
質問者

お礼

専門用語は専門家同士の共通用語です。 このサイトでも学問カテゴリなどでは、専門用語を乱用している方についてはそれはどういう意味なのかということをわざわざ聞かなくてはならなくなります。 でも専門用語をださずに、専門的家でしか分からない説明されている方もいます。 kanto-iさんは、何かの専門家であったとしても、伝えることを重視した分かりやすい言葉で解説していだだける方という印象です。

noname#206454
質問者

補足

kanto-iさんの質問「意見に至るまでの、あなたの内的手順を教えてください」も参考にさせていただきました。 指南をしてやりたい、意見してやりたいと考える向きはどうしても反感をかうような言い方になっているんですよ。教えるというよりは議論をしたいのかなあと。議論になる前にもうその質問や回答にこない人もいますよね。それはその人の自由なわけで。 ただ意見を求めていると思う人もいるわけですよね。そういう場合にすれ違うがおきるのではないのかなと思いました。

回答No.1

いわゆる「やさしい言葉」は、日常的な生活の中で醸成 されたものであり、それによって展開される論理は、 常に日常的感覚の影響をまぬがれ得ません。 たとえば、私の文言の中で「不確定性」というのが 字面が黒くて分かりにくいというので、“分かり易く” するために「不確かさ」と言ってしまうと、日常に表れる 不確定性原理以外の、情報不足や思索の浅さによる 「不確かさ」も含まれがちだ。 そうした日常的な概念とは異なるものである事を明確 にするために、あまり日常的に使われない(物理用語 や別途独自に定義した)言葉を使わざるを得ない。 長く独自の思索を重ねていると、頭の中の概念体系 が一般の人と異なってきており、同じ言葉を介しても、 そのコミュニケーションの両側で同じイメージを想起 している確率は低くなる。 その場合、日常的な用語を用いて誤解を招くより、 専門用語を用いて理解されない方がましだ。 その気があれば、その専門用語を手掛かりに勉強 できるからだ。 知識はない、理解力はない、プライドばかり大きくて 努力する気もない、そんな人間に与える救いはない。

noname#206454
質問者

お礼

不確定性原理以外の、情報不足や思索の浅さによる 「不確かさ」も含まれるというのはpsytexさんの、読み手への気遣いなのでしょう。 ただ専門用語を使うとなると、相手が限られてくるのではないでしょうか。 psytexさんのお相手は大変です。最後の答えを読んで「知性偏重」という言葉を思い出しました。 「長く独自の思索」を続けるほど聞き手との距離が作られるのか?私はそうは思わないし思いたくありません。 ありがとうございました。

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