• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:織田信長はなぜ本能寺で滅ぼされてのか)

織田信長が本能寺で滅ぼされる理由と光秀の策略について

60818の回答

  • ベストアンサー
  • 60818
  • ベストアンサー率26% (11/41)
回答No.5

すばらしい質問です。 仰るとおり、おかしいですよね。 歴史物語は必ず、信長を最後までかっこよく、覇王として描きますが、晩年の信長は家臣達になめれれ、天下布武の飾り。傀儡で何の実力も無く、最後は足利将軍並みの扱いだったのでは無いでしょうか? 晩年の信長は、松永や荒木に謀反を起こされています。 相当なめられていた証拠です。 秀吉に人質を差し出し、中国に来いと言われて従っています。 http://okwave.jp/qa/q8596335.html 結局、わずかな手勢で親子揃って討たれました。 これが紛れも無い、晩年の信長の実力です。 フィクションが、最後まで信長を実力者として描くイメージに騙されていますが、冷静に分析すれば、あなたの質問が的を射ており、晩年の信長は力が無かった証拠です。

oka123
質問者

お礼

回答 ありがとうございます なるほど 信長の権威が弱ってきていたので 光秀の急襲も成功したのでしょうね そういえば 本能寺の直前の行動として ・伊賀の里の焼き討ち ・佐久間盛信の追放 がありましたね これを見た人々は「信長は最近おかしい」 と思って 距離をとりはじめたのでしょうね 特に 情報面での警護をする伊賀者たちは 「こんなんじゃ 信長の警護なんぞ やっておれんわ」 そして 幹部将校たちは 「こんどはおれが追放されるのか」 と思ってしまい 光秀の行動に気がついて人でも 「信長なんぞ 死んでもかまわん」 ということで あえて通報しなかっただろうと 推測もできますね 話は別ですが 「忠臣蔵」でも 普通に考えたら 吉良を打てる可能性は 0 なのに なぜか 易々と成功してしまった (たぶん幕閣も 上杉家も 吉良の隣家も 江戸の木戸番も 箱根の関所も 襲撃時に集合した家の主人も みんながみんな 見て見ぬ振りしたので 襲撃が成功) ということは まわりの人たちの心理 ひいては 時代の流れによって 成功・不成功が 決まると 言えるかも しれませんね

関連するQ&A

  • 【織田信長の首はどこいった?】豊臣秀吉が本能寺の変

    【織田信長の首はどこいった?】豊臣秀吉が本能寺の変で裏切りった明智光秀を追って殺したあとに天下人に豊臣秀吉がなった際に領地がなかったのに急に大きな領地を貰えた人物は誰ですか? 織田信長の刀を豊臣秀吉は手に入れたが豊臣秀吉にその私刀を献上した人物が織田信長の首を埋めた人物と一致してその人物の本能寺の変のときに本能寺からの軌跡を見れば埋めた場所はある程度推測できるのではないでしょうか? 付き人の織田信長が同席させていた黒人侍は本能寺の変のあとにどういう軌跡を辿ったのでしょう?

  • 新々説 本能寺の変

    秀吉は信長を恨んでいた。登用への感謝はあるが、やはりブランド志向の信長が確固たる政権樹立後、農民出の秀吉よりも光秀を筆頭頭とすることを知っていたからだ。光秀は秀吉の怨恨を露知らず、心酔する信長様に中国出陣前の閲覧の為、京都に向かっていた。京都に到着する直前、山手から京都の本能寺辺りが炎上しているのを見て驚愕した。一万の軍勢をもって慌てて駆けつけると信長はすでに横死し、身に覚えのない水色桔梗の旗があたりに散乱していた。そして信長救援に駆け付けた織田信忠の軍勢とも混乱の最中、意味も分からず衝突した。秀吉が画策したわずか200名程度の「偽」光秀部隊が本能寺を急襲し、信長殺害後に逃走したのだ。もちろん京都の人は光秀が信長を打ったと思い込んで(勘違い)いた。どのように弁解しても通らない。細川も離れていった。そのうち秀吉が計画通り山崎まで進軍し、秀吉の策を見抜き、「勝利しか弁明の余地なし」と考えた光秀とその首脳陣は秀吉と衝突し敗れ去った。そして秀吉により、すべての事実が封印されたのだ。 京都辺りには信長の乱破が多数おり、予定通りの光秀閲覧の進軍を上機嫌の信長に進言していたが、先回りした秀吉の「偽部隊」までは看破できなかった。真に光秀反乱なら、部隊の異常は察知出来たはず・・・ なんてのはどうですかね 考えすぎですよね(笑) でも真に光秀謀反なら異常行動は普通に察知できたと思うのですが。。。 逃げる間もあるでしょうし・・・

  • 織田信長の遺体は豊臣秀吉が墓荒らしに合わないように

    織田信長の遺体は豊臣秀吉が墓荒らしに合わないように極秘で埋葬した? 織田信長が普段から肌身離さず持ち歩いていた義元左文字を豊臣秀吉は織田信長の死後に引き継いで持ち歩いていた。 義元左文字は桶狭間の戦いの際に、今川義元を打ち破った織田信長が自身の戦後時代の最初の勝利で験担ぎで以後は持っていた。 織田信長は明智光秀に本能寺で殺されたがなぜ本能寺の織田信長のそばにあったはずの義元左文字が豊臣秀吉が持っているのか。 遺体と義元左文字は明智光秀が手にしていたら見せびらかしていたはず。 なぜ豊臣秀吉は織田信長の遺品の義元左文字を持っていたのか。 あと不思議なのが織田信長は義元左文字は使わずに槍と弓で本能寺を戦ったという。 義元左文字は本能寺になかった? どういうことでしょう。 義元左文字は織田信長は本能寺のときには身につけてなかった?

  • 信長は本能寺を脱出できる可能性はあったか?

    質問させていただきます。 本能寺が明智光秀に襲撃された状況を整理しますと、襲撃された時の信長の軽武装の供回り役100前後、信忠と手勢約500人が近場の妙覚寺に入っていた。  あとは、信長の京都の警護兵約数百程度が京都に散在していた。 対する光秀側は兵数13000人(別動隊もあったようなので実際の包囲は全てではないらしい)が早朝、本能寺を包囲した。  本能寺の砦としての能力はいかほどかはわかりませんが、多少は戦を意識した屋敷程度だったと思います。  信長さんは本能寺を脱出できる可能性は絶対不可能だったのでしょうか?脱出にこだわらず生存できた可能性はゼロなのでしょうか。  まず、形勢的には準備のできた1万対不意打ちされた軽武装の100人では仮にこの100人が全員ボブサップでもおそらく勝ち目は無いと思いますが、本能寺の戦いが終わる1-2時間の間に知恵を絞ってなにかいい方法は出なかったのでしょうか。    私が側近なら、倒した敵兵の甲冑を剥ぎ取り、信長に着せて明智家の紋である桔梗を付けさせて負傷兵を装わせ信長さんを一人だけ逃がすことも可能性はゼロではなかったと思いますので試したとおもいます。(そんなことするなら自害すると言っていたら別ですが)

  • 信長は本能寺で死んだのか?

    本能寺の変では、明智光秀の軍勢は織田信長の遺体を確保できませんでした。それゆえ私は、信長は本能寺を脱出して生き延びたと思います。みなさんのお考えは?

  • 織田信長が自害したと何故わかる?

    光秀が本能寺を焼いたときに織田信長が自害したと言われていますが,「燃えている寺の中で自害した」ことをどうやって知ったのでしょうか. 介錯人だけ助けてもらって,信長が自害したことを光秀側に教え,それが今に伝わっているとかでしょうか. 燃えてしまった本能寺の中で,信長が自害したことを知ることができたプロセスについて教えてください.

  • 織田信長は優秀だった?

    織田信長は結構人気ありますが政治家として人として本当に優秀だったんでしょうか。 確かに領土を拡大したり楽市楽座をしたり政治家として一定の功績は残していますが、信長包囲網を成立させたこと、義昭の傀儡化に失敗していること、外交を知らず?皆殺ししか頭になかったことなど政治家として問題点がいくつかありそうです。 DNAてきに優秀であればその子孫があまり活躍していないこととは矛盾していますので、DNA的にもそれほど優秀ではなかったのかもしれません。 得意の鉄砲三段ですが、ヨーロッパでまったく同じ戦術がとられていたと聞いています。鉄砲伝播の順番からしても信長が発案したとは考えにくいです。信長の戦術がヨーロッパに伝わったという話は聞いたことがありません。 本能寺の変の後は秀吉にあっさり織田家をのっとられており織田家はやはりまとまっておらず、本能寺がなくても内部から崩壊した可能性すらあります。その後ナポレオンのような運命? 人としてどうであったかといえばやはりもっとも自己中心的な問題児で当時としても残虐で有名であったことから少なくとも尊敬の対象にはならないと思います。 まとめると質問は二点です。信長は優秀であったか、本能寺がなくても織田家は崩壊したり弱体化していたかです。よろしくお願いします。

  • 織田信長に消火器を持っていったら・・・

    かの戦国武将の織田信長は、明智光秀率いる軍勢によって本能寺を襲われ、火を放たれてその渦中で亡くなったと言われますね。(本能寺の変) さてそこで、火を放たれても何とか生き延びる助けとなるように、皆さんは織田信長が襲われている最中に消火器を持っていくことになりました。 本能寺の中、信長がいる場所に無事にたどりつきました。 消火器を持ってきた皆さんを見て、織田信長は何と言うと思いますか?

  • 本能寺の変の謎

    本能寺の変にまつわる議論といえば、光秀が謀反に至った動機、また光秀の独断なのか背後に黒幕が いたのかどうか、といった事件の背景を問うものがほとんどだと思います。 しかし何故かあまり指摘されないのですが、この事件それ自体が良く考えればかなり不自然ではないでしょうか? 光秀は何故二万もの膨大な軍勢で警備手薄な信長を襲撃しようと考えたのか?古今東西、反乱を起こすのならともかく油断している相手を狙って暗殺するのに、 こんな軍勢で襲撃したなどという例は他に知りません。 手勢が多ければそれだけ察知されやすくなるし、途中で抜け駆けして信長にご注進に及ぶものが出ればそれでアウトです。 もちろん光秀は秀吉の援護を命じられて中国へいく途中に謀反を行った状況ですが、それにしても何か理由を付けて少数の 手勢だけ連れて京へ向かう方が理にかなっているでしょう。 500人もいれば十分すぎるはずです。 そもそもいくら夜陰に乗じてとはいえこんな大軍が京まで進軍してくるのに、どうして誰にも気づかれなかったのでしょうか? 本能寺自体にはわずかな近習しかいなかったですが、治安維持のため市内各所にはそれなりの兵が駐屯していたはずです。 彼らは本能寺が完全包囲されて信長が討ち取られるまで何をしていたのでしょうか? しかもこれだけの軍勢となれば先頭の部隊が京に入っても、まだ最後尾はかなり後方という状況でしょう。 間には加茂川等の河川もあり、全軍が京に入るまでには何時間もかかるはずです。 それなのにどうして全軍が集結して十重二十重に包囲するまでのん気に待っていたのでしょうか? 信長に察知されて逃げられるのは何より避けるべきなのですから、到着次第打ちかかってもいいはずです。 何より疑問は光秀ほどの知将がなんでこんな無理のある計画を実行したのか。そしてどう考えても無理のある計画が何で成功してしまったのかです。

  • 敵は本能寺にありって誰が

    '敵は本能寺にあり!'って言葉は誰が話したんですか。 明知光秀が本能寺への奇襲の前で話すって人もいますが、羽柴秀吉が織田信長の殺害を分かる時で話すって人もいますから どちらが事実かなんか確かに知ってません。