われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

このQ&Aのポイント
  • われわれ一人ひとりがブッダであるという理論は存在し、「ブッダ」は釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を指すとされる。
  • ゴータマ・ブッダを含む過去の六人のブッダがいたことにより、さとりの程度やブッダの概念について考える必要がある。
  • また、唯我独尊の考え方に基づき、宇宙の根本原理であるブラフマンや人間の存在であるアートマンもブッダの概念に含まれることが考えられる。しかし、その理解は経験に基づくものであり、ブッダのさとりは無神論的なものであるとも言える。
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われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

 あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

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  • a_hona
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回答No.8

はっきり言って、自分が覚ったかどうかと、釈尊がモノホンかどうかはあまり関係無いですよ。各自の事柄ですよ。ブッダにへつらう必要なんてない。相手が本物か偽物かなんて増して関係ない。 余談になりますが、偽物語というアニメに、偽物の方が本物よりも優れていると言うペテン師が登場します。その理由は、偽物が本物になろうとすることこそが尊いから、と言うものでした。 仮にブッダと称する究極地点があるとして、だからといってそこに達した者が達してないものよりも優れていると言うのは、私には受け入れ難いのです。へらへらとブッダを仰ぎ見るなんてのはゴメンです。 だから私は、自分をブッダであるとは言いません。ブッダでないからといって、ブッダと対等ではないとはならないからです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まぁ この質問の姿勢は 政治的であり 多少ともかけ引きをおこなっているかも分かりません。と白状します。  ★ ブッダにへつらう必要なんてない。相手が本物か偽物かなんて増して関係ない。  ☆ ブッダにへつらったりはしていません。むしろ 歯牙にもかけないということを間接的に言っていますから やはりさげすみの心で臨んでいます。  ただし ブッダによって或る種ののぞみを持つに到った人びと――つまりは わたしは その状態をイカレポンチと言ってはばからないのですが―― これらの人びとに向き合って この質問ではそのメンツが保てるようにと 政治的世間的なおべんちゃらを言っているかたちになっています。  そんなに重要なオシエであると言うのなら しかしそれでも そのオシエによるさとりなら もうすでにわれわれが生まれつきの人間であるならば じゅうぶん成就していますよというかたちで 対話を挑んでいる。――こういう姿勢です。(ただし 議論の中身については その水準を落としてはいないつもりです)。  ★ はっきり言って、自分が覚ったかどうかと、釈尊がモノホンかどうかはあまり関係無いですよ。  ☆ ここでは ゴータマは 偽物であるという前提にすでに立っています。  ★ 各自の事柄ですよ。  ☆ ですから ゴータマの得たさとりくらいなら 人間なら誰でも得ているということを含むかたちでの《各自の事柄》になっているのですよ。と言って行く姿勢です。    ★ 偽物語というアニメに、偽物の方が本物よりも優れていると言うペテン師が登場します。その理由は、偽物が本物になろうとすることこそが尊いから、と言うものでした。  ☆ ゴータマの場合は 偽物のまま死んだと言っています。ついぞホンモノになろうとしたところもないと言っています。  ★ 仮にブッダと称する究極地点があるとして、だからといってそこに達した者が達してないものよりも優れていると言うのは、私には受け入れ難いのです。へらへらとブッダを仰ぎ見るなんてのはゴメンです。  ☆ 《ブッダを仰ぎ見る》人びとがいるので その人びとに向き合っての話し合いです。説得です。  多少は このブッダなる境地が 高いものであるという前提を共有したかたちで 話し合いに臨んでいるという意味です。    ★ だから私は、自分をブッダであるとは言いません。ブッダでないからといって、ブッダと対等ではないとはならないからです。  ☆ そこのところは あくまでブッダを仰ぎ見る人びとを前にしての政治的判断になっています。おもねりのような印象をあたえてしまうかも知れません。その第一印象を突き抜けて コテンパンにゴータマ批判をおこなっているという実質があると心得ているつもりです。    押してもダメなら 引いてみなと言うぢゃないですか。  この方法が不純だと言う場合には スルーしておいてください。  そして こんな方法を採ったわたしを あざわらってください。    

その他の回答 (29)

  • 0fool0
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回答No.20

>《相手》が まだ智慧のチカラを発揮できていない状態にあると見ているようにです。 あぁ、何の事は無い。 先に悟ったか、後に悟ったかと言う、レースの話をしていたのですか。 競争社会から抜け出なければ、そもそも悟れませんが。 仮に貴方一人しかこの世にいなかった場合には、後先の価値なんか無意味ですよ。 >主権が民衆にあるとうたわれるようになったこととは 別です。 主権が王にある時代に、王を裁いた民衆の例では、何処に主権があるのでしょう? 今の時代に「本当」に「完全」に主権が民衆に正しく「ある」とは言えません。 あくまで支配者と被支配者の間の綱引きの繰り返しです。 だから、何故世界を二色に塗り分けるのですか? >すでにアートマンをやどしているにしても 心が開けられていないならば そのチカラは出て来ません。心の明けを得るには 人によってあとさきがあります。 後先の意味は判りましたが、レースに出場している訳ではないので、どうでもいい話です。 それよりも「潜在力」と「アートマンを宿す」についてですが、どっち? 貴方は理解をするために手法(比較対象を作る)を講じていますが、それを見る目が色眼鏡のフィルターが掛かっているので、世界が色分けされてしまっています。 しかし人間、一度生まれたからには色眼鏡は外せませんので、それを「理解」する事が第一歩です。 この世は二色では在りませんし、貴方は貴方、私は私です。 誰と競ってもいいですが、自分という競争相手を忘れていては、自分に置いて行かれてしまいます。 競う事も議論をする事も結構ですが、それは競争や討論であって、それ以上でもそれ以下でもありません。(敢えて言うなら、「遊び」ですw) 遊びなのだから楽しくやらなければ「損」ですよw

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 先に悟ったか、後に悟ったかと言う、レースの話をしていたのですか。  ☆ レースと見るところが 心の明けにまだ遠い。  主権在民は 理論であり とりあえず理論であることで よいのです。  お二階さんとは 共生の関係であることが 基礎です。その上でわれわれはさとして行きます。  ★ 何故世界を二色に塗り分けるのですか?  ☆ 国の家は 二階建てだと言っているだけです。  ★ それよりも「潜在力」と「アートマンを宿す」についてですが、どっち?  ☆ 同じチカラです。《霊我》です。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ★ 世界が色分けされてしまっています。  ☆ 上の説明では 《梵我一如》なるひとつの類型にみなおさまります。形式は・名前は 《色分けされて》います。  勉強になったのなら すなおにそう言いなさい。

  • 0fool0
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回答No.19

>もしブッダであることが のぞましいという想定および前提で話をするならば まぁ、此処は突っ込む必要は無いのでしょうが・・、「貴方自身は仏陀ではない」という立場で発言していますよね? 何で貴方の世界は色が二色しか無いんでしょうね? >われわれは一人ひとりが すでに自然本性において そのことを成就している。これは言わば潜在力である。 その通りです。 >そのチカラが発揮されるのは そのときその場における相手や情況に応じて 必要な程度においてである。 違います。 現れ方は(見る者によって)変化しますが、本質は変わりませんし、発揮と言う単語をどのような意図で使用しているか判りませんが、出したり引っ込めたりする性質のものではないです。 >というように そのブッダターなるハタラキが発揮されるのは 先行する人がいるというかたちになります。 ?何が、「というように」なのかがさっぱり判りません? 「先行する」も仏陀の事を指しているのでしょうが、それがどうかしましたか? >言わば人間としての前史の母斑――アザやホクロのような跡――が残っている場合があるという意味です。刺さった矢は抜かれており 傷は癒えているが 跡は残っている。 すでにブッダであると言ってもよい。と同時に そのような或る種の傷跡が残っている。 見え方は人によって違います。 貴方には傷跡に見えただけです。 >このシミ・ソバカスのような跡が これまた 案外つよく大きくその人のブッダ状態の発現をさまたげることがある。その人の心理的な気持ちに影響して 心をふさぐようにしていることがある。   その通りです。 >そこで ブッダの実践をする人というのは 先行して現われる。 実際はけっきょくにおいては 先の者が後になり 後の者が先になるとも言われる。 ?????・・・・禅問答? >すでに人びとは じんるいの前史を突き抜けて 後史に入っている。たとえば 理論上は すでに民主制のもとにある。 過去の人類と現在の人類を比較して考えているのでしたら、思考がストップしています。 貴方の隣の人物と同じくらいの差しかありません。 民主制の言葉も今の政治制度の民主政治の社会の事を言っているのでしたら、それも本質は過去から何一つ変わっていません。 古代の王朝でも、民意を無視した挙句に民衆の手で葬り去られた例は幾つもあります。 どんな悪逆非道の王でも、そこに「統治」があれば民衆は受け入れ、無ければ民衆の手で壊されます。 古代から今まで民衆の力は厳然として存在し、また、支配者の都合で民衆の意思は押さえつけられて来ました。 最適解を民主制と呼んでいるのでしょうが、それとて「教育」の結果であって、生存環境での差でしかありませんよ。 >けれども その後史としてのブッダターあるいはアートマンのチカラは顕在して来るのには 人それぞれにあとさきがある。 この後先が何を言っているのか判らない。 悟りを得るまでの時間差の事を言っているのかな?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >というように そのブッダターなるハタラキが発揮されるのは 先行する人がいるというかたちになります。 ?何が、「というように」なのかがさっぱり判りません?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ その前の文において       >そのチカラが発揮されるのは そのときその場における    相手や情況に応じて 必要な程度においてである。  と言っているようにです。《相手》が まだ智慧のチカラを発揮できていない状態にあると見ているようにです。  ★ 古代から今まで民衆の力は厳然として存在し  ☆ ということと 主権が民衆にあるとうたわれるようになったこととは 別です。  ★ この後先が何を言っているのか判らない。  ☆ すでにアートマンをやどしているにしても 心が開けられていないならば そのチカラは出て来ません。心の明けを得るには 人によってあとさきがあります。  あとは もっとじっくり考えればすぐわかることです。

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回答No.18

>すでに智慧は成っている。あとは そこからのチカラの発現の問題に移る。これは 動態であって そのつど言わば必要なだけ 得られるものとなっている。 その解釈はそれでいいです。 つまり貴方の発言での「我々」は皆仏陀だと言う要点は同じですね。 >ただし この智慧の発揮は 智慧そのものの発現であるよりは 人びとの状態や社会の情況によって まづは この智慧の発揮をさまたげている問題をまづあつかうことになる場合が多い。智慧の発現にただちに移るというよりは 人びとのあいだに智慧の発現を妨げている要因を捉え これを揚棄する作業が先行するはずです。 さて?人々の社会も人々が作っている物なので、「我々」が作っていますよ。 貴方は唯一人、「違う」と思い込んでいるのは理解出来ますが。 >ホワイトホールは成っている。あとは そのつど相手や情況に応じて その具体的なチカラを発揮することである。 まぁ、いいのですが・・・。 あのですね。 私が訪ねているのは、貴方の言では「我々」が仏陀だと言っていますから、皆が同じに貴方の理想だか思想だかに達しているのですよね? だのに、何故に貴方は自分以外を(社会状況等で?)間違っていると言えるのですか? 貴方だけが真理を手にしたと言っているのですが、変じゃないですか? どっち?

bragelonne
質問者

お礼

 もしブッダであることが のぞましいという想定および前提で話をするならば  われわれは一人ひとりが すでに自然本性において そのことを成就している。これは言わば潜在力である。  そのチカラが発揮されるのは そのときその場における相手や情況に応じて 必要な程度においてである。  というように そのブッダターなるハタラキが発揮されるのは 先行する人がいるというかたちになります。  言わば人間としての前史の母斑――アザやホクロのような跡――が残っている場合があるという意味です。刺さった矢は抜かれており 傷は癒えているが 跡は残っている。  すでにブッダであると言ってもよい。と同時に そのような或る種の傷跡が残っている。  このシミ・ソバカスのような跡が これまた 案外つよく大きくその人のブッダ状態の発現をさまたげることがある。その人の心理的な気持ちに影響して 心をふさぐようにしていることがある。    そこで ブッダの実践をする人というのは 先行して現われる。  実際はけっきょくにおいては 先の者が後になり 後の者が先になるとも言われる。    すでに人びとは じんるいの前史を突き抜けて 後史に入っている。たとえば 理論上は すでに民主制のもとにある。けれども その後史としてのブッダターあるいはアートマンのチカラは 顕在して来るのには 人それぞれにあとさきがある。

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回答No.17

>《すでに成就している》を確認して そこには《動態におけるそのつどのさとりとしてのチカラの発揮》などは無いと捉えた。このことをどうして すっかり忘れていますか? ???ん~~~???? それは私の発言内容の意訳・要約ですよねぇ? 貴方の発言は次の様に「更なる発揮」ですよね。 >さらにより良い智慧を発揮することになりましょう それは別にいいのですが、貴方の話を総合すると、「我々」が皆仏陀で横並びな訳なのに、更なる智慧を求め続ける事を「良し」として、劣ると決めた者をこき下ろすと言う事です。 横並びがいいのですか? 階級を付けたいのですか? 別にどちらでも貴方の心の落ち着くようにすれば良いだけの話なのですが、他の存在で其処まで心に細波を立てている事が、貴方の望みなのですか? 智慧を積むのは結構です。 疑問を持つのも結構です。 しかし智慧や疑問が主人では、貴方の心の置き所が無いですね。 何時も智慧と疑問に振り回されていますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 更なる智慧を求め続ける事を「良し」として  ☆ ここがちがう。  すでに智慧は成っている。あとは そこからのチカラの発現の問題に移る。これは 動態であって そのつど言わば必要なだけ 得られるものとなっている。  ただし この智慧の発揮は 智慧そのものの発現であるよりは 人びとの状態や社会の情況によって まづは この智慧の発揮をさまたげている問題をまづあつかうことになる場合が多い。智慧の発現にただちに移るというよりは 人びとのあいだに智慧の発現を妨げている要因を捉え これを揚棄する作業が先行するはずです。  もう成就しているものについて  ★ 更なる智慧を求め続ける事  ☆ は 無い。ホワイトホールは成っている。あとは そのつど相手や情況に応じて その具体的なチカラを発揮することである。  何度言ったら 分かるんだ!

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回答No.16

>「★ 「万物」が例外無く、「発揮」している事になりますよ。  ☆ ぢゃあ 次のように《発揮する》についておかしいとは言うなかれ。  ★★(回答No.13) ~~~~~~~~~~~   >《いま・ここなる世界》においてこそ自然本性のチカラを発揮して生きるのだという考え方とは 開きがあります。 ??すでに成就しているのに、何をそれ以上発揮するのですか???」 大丈夫ですか? 貴方の発言に対して私が言った同内容の文を並べて、何になるのでしょう? 貴方が「我々が仏陀である」に即し「既に発揮している」という内容を私が確認をした後で、既に発揮している物を「更に何を発揮するの?」と問うているのですよ。 とっちらかって来てますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 「既に発揮している」という内容を私が確認をした後で、  ☆ ではなく 《すでに成就している》を確認して そこには《動態におけるそのつどのさとりとしてのチカラの発揮》などは無いと捉えた。このことをどうして すっかり忘れていますか?  ★ 既に発揮している物を「更に何を発揮するの?」と問うているのですよ。  ☆ さらにより良い智慧を発揮することになりましょう。  みっともない内容にお応えするのは 恥づかしくて出来なくなっています。

  • 0fool0
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回答No.15

>《成就している》のは 固定されたモノではなく 生きていることと同じく動態としてのコトである。ゆえに 《発揮する》というかたちになる。 ???私の言葉も「生きています」が? 「万物」が例外無く、「発揮」している事になりますよ。 >代替品は すでに例示しています。 B商品の説明ですね。 >“《真理がすべてにおいてすべてである状態》を ブッダであることとすれば よいでしょう。 そのとき・その場の人びとそれぞれの心について知っているならば その意志疎通はそれほど困難をきわめることもなく なめらかに進めることが出来るかも知れない。   ただしこのさとりは あくまで生身の人間にとっては 動態であり過程的なものにとどまります。そこまで分かっていて ことに処すれば 少しはこの世の中もすこやかになりましょう” ん~~~・・・・・ 貴方の言う真理はそういう真理なのですね。 それでいいんじゃないでしょうか。 但し、それを理解出来ない人間を相手にした場合、貴方はどうします? 幸せの押し売りをします? 理解できない方が悪いから、無理にでも仲間にしてあげた方が結局は幸せに出来る? 全ての人間に仏陀の詐欺を認めさせる如きの発言をしましたよね。 この世の在り方が間違っていると言う発想ですから、何処に行き着くのでしょう? まさか赤狩りはしないですよねw

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「万物」が例外無く、「発揮」している事になりますよ。  ☆ ぢゃあ 次のように《発揮する》についておかしいとは言うなかれ。  ★★(回答No.13) ~~~~~~~~~~~   >《いま・ここなる世界》においてこそ自然本性のチカラを発揮して生きるのだという考え方とは 開きがあります。 ??すでに成就しているのに、何をそれ以上発揮するのですか???  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あとは すでに説明したことばかりです。

  • 0fool0
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回答No.14

>さとりは 動態です 貴方の嫌いな、正体の無い言い分ですよ。 >ゴータマの思想がマチガイだと言わない主義のひとがいるかぎり そこから マチガイだと言うようになるところまでです Aという商品があります。 貴方はAの商品の悪口を陳列棚の前で声を枯らして訴え続けます。 しかしAに変わる「代替品」は何処にもありませんでした。 貴方は何をするべきだと思いますか? もちろん一生を仏陀の否定に捧げるのも、一つの生き方です。 それも「自己」の表現でしょう。 それが「行」だと判っていれば。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   ★ ??すでに成就しているのに、何をそれ以上発揮するのですか???   ☆ >さとりは 動態です  貴方の嫌いな、正体の無い言い分ですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《成就している》のは 固定されたモノではなく 生きていることと同じく動態としてのコトである。ゆえに 《発揮する》というかたちになる。  ★ しかしAに変わる「代替品」は何処にもありませんでした。  ☆ 代替品があろうがなかろうが その A なる商品について 中身が商品名やそこに記載された内容表示と異なっているということが 問題です。    代替品は すでに例示しています。  ☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~   ですから 真理ないしそのさとりということについて わたしは ひとつの例を出しました。次のようです。   ☆☆☆ (別の質問でのやり取りにおいてです)~~~~~~  《真理がすべてにおいてすべてである状態》を ブッダであることとすれば よいでしょう。   ▼ (正しい教えの白蓮・二 巧妙な手段) --------  〔如来こそあらゆる現象を正に知っているのだ〕。すなわち それらの現象が何であるか それらの現象がどのようなものであるか それらの現象がいかなるものであるか それらの現象がいかなる特徴をもっているのか それらの現象がいかなる本質を持つか ということである。・・・  ----------------------------------------------   ☆ というごとく そのとき・その場の人びとそれぞれの心について知っているならば その意志疎通はそれほど困難をきわめることもなく なめらかに進めることが出来るかも知れない。    あのとき・あの場で あいつは これこれと言ったが それは あれそれの事情があったんだと分かれば かなりの程度で 互いの理解は得られるし 深めて行くことができます。  過去のわだかまりや恨みについても 真理がすべてにおいてすべてであるなら そのシコリも溶けて行き わたしたち人間どうしの話し合いは よほど無理なく滞りなく推し進められて行きましょう。  ただしこのさとりは あくまで生身の人間にとっては 動態であり過程的なものにとどまります。そこまで分かっていて ことに処すれば 少しはこの世の中もすこやかになりましょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 0fool0
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回答No.13

>人びとが生まれつきそなわった自然本性においてすでに成就している。こう言えるから もう取り上げる必要はない。 その通りです。 >《いま・ここなる世界》においてこそ自然本性のチカラを発揮して生きるのだという考え方とは 開きがあります。 ??すでに成就しているのに、何をそれ以上発揮するのですか??? >そのとおりです。わたしとしましては 唾棄すべき詐欺行為です。 何故に其処まで、釈尊に拘らなければならないのでしょう。 唾棄すべきものであって、詐欺行為であるのもそれはそれとして、其処に固執する貴方の心を覗く事の方が余程楽しいと思いますよ。 何故ならば、其処まで否定するならば無視をすればいいし、でなければ貴方の得た新たな真理を尋ねるのではなく、ただ披露すれば良い。 尋ねるのであれば、未だ道暗し 否定するのであれば、未だ己有らず 貴方が真理に到達出来ていない事と、釈尊の無能な詐欺行為は関係無くないですか? だから私はずっと言っていますよね。 「どうでもいい」と

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ??すでに成就しているのに、何をそれ以上発揮するのですか???  ☆ さとりは 動態です。  ★ 何故に其処まで、釈尊に拘らなければならないのでしょう。  ☆ そのようにゴータマの思想がマチガイだと言わない主義のひとがいるかぎり そこから マチガイだと言うようになるところまでです。

  • 0fool0
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回答No.12

>共感をいだく内容も ほとんどなかったとお応えせざるを得ません。そういう率直な応答を述べています。 それでいいのです。 共感出来ない物は出来ません。 ただ、それだけです。 >情況証拠も 本人の主観の中にとどまってしまう。というふうに受け留めざるを得ない状態です。 全く、その通りです。 >《この「行」を一生積み続けた》ことの中身は いっさいうかがっていません。とお応えせざるを得ません。 「行」は特に形に決まりがある訳ではありません。 平たく言えば「生きる」事です。 敢えて言えば「良く生きる」でしょうか。 >決してそうは考えません。つまり 《目指すところ》についてです。 《山頂》は関係ないという意味です。 別に目指さなくていいんですよ。 皆が皆、出家などしたら、人間社会が崩壊してしまいますw 好きな人間だけがしていればいいのです。 >《目指すは山頂での永続的な生活です》とは 金輪際考えません。 比喩が不味かったようですね。 「目指す」と書きましたが、それが不可能な事とも書いておいたのですが。 あくまで身はいわゆる俗世からは、生きている限り離れる事は出来ません。 >ついぞその目指すところも中身も ない。まったく無い。というマジックショーが繰り広げられるのみという思想です。 別にそれに一々異論を唱えはしませんよ。 それでいいんですよ。 >われわれはすでに一人ひとりが ブッダであると言って行く手も これでお一人については くづれました。と理解しますまったく無い。というマジックショーが繰り広げられるのみという思想です。 さて、何が崩れたのでしょう? 私は何も指標も理屈も内容も提示はしていません。 つまり貴方の言うマジックショーを披露したのみです。 と言う事は、貴方の論に従えば、私は貴方の言う「我々」で、仏陀と言う事になりますので、始めから何も崩れていない事になりますが?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  「行」は特に形に決まりがある訳ではありません。  平たく言えば「生きる」事です。  敢えて言えば「良く生きる」でしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この質問にかんしては そういう問題ではありません。そういう問題は 通り過ぎて来ています。  何にも説明のなかったゴータマのさとりについて もしそれが多少とものぞみの湧くことであるなら それくらいのさとりは 人びとが生まれつきそなわった自然本性においてすでに成就している。こう言えるから もう取り上げる必要はない。――こういうかたちで ここでは問うています。  ★ あくまで身はいわゆる俗世からは、生きている限り離れる事は出来ません。  ☆ そのことと 《いま・ここなる世界》においてこそ自然本性のチカラを発揮して生きるのだという考え方とは 開きがあります。  ★ つまり貴方の言うマジックショーを披露したのみです。  ☆ そのとおりです。わたしとしましては 唾棄すべき詐欺行為です。

  • a_hona
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回答No.11

いえ、ブラジェロンヌさんは対話を重視されますから、色んな対話の道筋を模索されるのは当然と思います。笑ったりしませんよ。今回は、私も率直過ぎた意見を書いたかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 まぁ ひとつの手であるとは 思ったのでした。  手段は いくつかありましょう。それらを試みることはあり得ましょう。  低俗にならないように つづけてみます。  ええ。すべて《対話》の一本道です。    違った角度からのご見解をありがとうございました。

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • 梵我一如に仏教は密着したのでは?

     ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

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    【宗教・仏教・過去6仏】仏教の過去6仏とはどれを指しますか? 大昔の仏陀の時代の仏は釈迦と過去6体の仏しかいなかったそうです。 いっぱい他の仏が創造されたのは仏陀の死後の大分あとの話だそうですが、釈迦と過去6仏と他の仏が誕生したのは西暦何年くらいでどれくらいの時代の空きがあるのか知りたいです。よろしくお願いします。

  • 仏教の仏陀ブッダが悟りを開いたのはガジュマルの木の

    仏教の仏陀ブッダが悟りを開いたのはガジュマルの木の下だったのに、インドのヒンドゥー教はボダイジュ菩提樹の木を崇拝して仏様の木として信仰して菩提樹の木の伐採をインド政府は禁止して国民が勝手に菩提樹を伐採すると犯罪になる法律まで整備してガジュマルの木は保護していないのにブッダと何の関連も縁もゆかりもない菩提樹をなぜ大事にするのでしょう? インド政府はブッダが悟りを開いた木はガジュマルではなくボダイジュであったと今も思っているのでしょうか? それとも今更気付いたけど、菩提樹の数珠はインドの大事な外貨獲得の輸出品になっているので訂正してインド産菩提樹数珠が売れなくなるのが怖いので訂正していないのでしょうか? インド政府は国民に真実は黙ったままなのでしょうか?

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    buddha(ブッダ)という単語の複数形が経典に登場する そうですが、するとブッダは複数いたのでしょうか? それとも、ブッダは一人だけど弟子も含めた ブッダの複数形なのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パーリ語 アイウエ?オ(7) http://www.j-theravada.net/sakhi/pali-aiueo-2.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まずは、上のサイトで、ブッダに複数形があることを確認。 次に、検索してみたら ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところで、「仏教の開祖は釈尊」という辞書の解説は疑う余地がないのであろうか。  実は筆者は釈尊自身にはおそらくそういう認識はなかったものと考えている。釈尊は諸々の仏が通った古い道を自分も通って仏となり、諸々の仏が悟った真実を自分も悟り、諸々の仏が説いた教えを自分も説いたという自覚を持っておられたからである。それを最も象徴的に示すのが、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」という句である。「是諸仏教」という句のパーリ語の原語は‘etaM buddhAna sAsanaM’であって、‘buddhAna ’は‘buddha’の複数形所有格であって、「諸」は「教え」にかかるのではなく「仏」にかかるのである。そこでこれは「七仏通誡偈」とも「諸仏通誡偈」とも呼ばれる。諸々の仏は、それぞれ時代や環境や衆生の機根の異なる世界に生まれられたので、その教えはさまざまなものとなったが、この句だけは共通して説かれたという意味である。  確かに釈尊は無師独悟されたとされている。釈迦牟尼仏は誰かに教えられて仏になったのではないが、一方では諸々の仏が通った古い道を自分も通って仏となり、諸々の仏が悟った真実を自分も悟り、諸々の仏が説いた教えを自分も説いたにすぎないという自覚も持たれていたのである。  もっとも釈尊自身はそうであったとしても、仏弟子たちはやっぱり仏教は釈迦牟尼仏が説きだされた独創的な教えだと考えていたかも知れない。しかしながら仏弟子も『テーラガーター』という仏弟子たちの言葉を集めた経典の中で、「智慧ある者は諸々の仏の教え(buddhAna sAsanaM)に思いを凝らすべし」などと言っているから、やっぱり同じような見解をもっていたといってよいであろう。  その証拠に仏弟子たちが編集した原始仏教聖典にはブッダの複数形が無数に出てくるし、毘婆尸仏(ヴィパッシン仏)などの具体的な釈尊以前の仏たちの行状に関する伝承が記され、釈尊滅後100年か200年ほどしてインド半島を統一した護教の王として名高いアショーカは、過去の仏の1人であるコーナーガマナ仏の仏塔を修復したという碑銘を残している。 http://www14.plala.or.jp/hnya/tokubetukikou-.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上のサイトがヒットした。 >ブッダの複数形が無数に出てくる。 と書いてあるわけですが、 どう思いますか?