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信徒は魂のステージが高いと誇らしいの?

俗な気持ちを消そうと修行に励んでいるのに、ここで誇らしくなってしまったら本末転倒な気がするのですが、よくこう言う人が見られるのは何故でしょうか?

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回答No.2

釈迦や空海 には、誇りの概念なかった、かもしれません。 現代の宗教界の指導者が、 "魂のステージ"を、地位の確保や、信者の洗脳に、 利用したんですね。 "魂のステージ" の概念は有効で、 精神や肉体を良い状態にすることができます。 余談 仏教は、托鉢で得た物だけで生きるべきです。 毒を盛られても。

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回答No.11

質問の回答で、増上慢という仏教用語などが出てきているようですし、また、宗教に関係する質問なので、ちょっと慢心について説明します。 仏教には、 《増上慢》(自分は他者より優れている、あるいは、実際以上に、自己を過大評価して誇る気持ち)の他に、 《卑下慢》(自分は他者より劣っている、あるいは、実際以上に、自己を過小評価する気持ち)というものもあります。 どちらも《慢心》の一つとして見なされます。 どちらも、否定されます。 《卑下慢》は《増上慢》の反対ですから、当然ですね。《裏天狗》とも言われます。  ───「天狗になる」の反対─── どちらも実際を見ていない、自分について正しい判断をしていないのですから、これはよくないとされるわけです。仏道の修行にとって妨げになる、と考えます。 大学生以上のレベルにあるのに、自分の能力を過小に評価して、小学生レベルの問題ばかりを解いていても成長はしない。 かと言って、小学生レベルの能力しかないのに、大学レベルの問題を解こうとしても解けないし、とんでもない勘違いや誤解をするのがオチ、関の山ですので。 ですから、自分の能力を正しく知らないといけない。あるいは、指導者や先輩達に正しく評価してもらわない。同時に、指導者には、弟子の能力を正しく評価できる、見極められる能力が必要とされます。 先の回答で触れなかったのですけれども、 組織宗教で、魂のステータスや、修行の階梯などを定めているのは、 馬にとってのニンジンみたいなものです。 ニンジン(魂のステータス)などを信者さんたちの目の前にぶら下げ信仰心や、寄付心、その競争意識を煽るんですよ。 どの宗教団体かは言いませんが、 「多数の信者さんたちの前で、○○さんは何人の信者を獲得しました。折伏し、教えの布教に励まれました。皆さんも、○○さんを見習って、布教、信者獲得に努力しましょう」 とか、 「○○さんは、教団に対して、△△の寄付をなさいました。この気持ちは、神or仏さまに届いています。」 などなど多数の信者さんの前で讃えたりする。 これらの手法は、人間の心理をたくみに利用していますわね~。

回答No.10

こんにちは。 他人(ひと)に認められたいという他者からの《承認願望》や《自尊心》のなせる業(わざ)ではないでしょうか。 人間は、他者の目を通してしか自己の存在意義を実感したり、自己の評価を下しにくい。ですから、安心感を得るために、他者に評価してもらおうと、色々なことをします。 小さな子供はわざとイタズラをしてお母さんの気、関心を引こうとしますし、 不良サンたちは、わざと悪びれたり、強がって見せたりします。 これと同じではないでしょうか。 そして、中身のない人ほど、他者からの評価や関心を引こうとして、過剰な自己演出をしたりする傾向がある。 内的、外的に充実している人は、そんなことをしないものですよ。基本的に他者の目を気にしたり、評価を気にする必要がないので。 《実るほど、頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな》でいきましょうよ。 謙虚さが一番ですよ。

回答No.9

 こんにちは。  この問いについては 用語とその概念をきちんと決めておかないと 話が進みません。  ★ 魂のステージが高い  ☆ 定義すべしと言いながら すでにこれを破りますが このことの内容は 一般的なイメージにしたがうこととします。何らかのかたちで人間の境地に高い低いという実態が見られるという想定のままに話をすすめます。  ★ 魂のステージが高いと誇らしいの?  ☆ これは《信徒》である無しにかかわらず とうぜん《ほこらしい》でしょうね。そこまで到ったということについては 自分ながら誇りを持ってさらに前へすすむということでしょうね。ほこらしいと思っても 特に問題はないと言うべきでしょう。  そうでなければ 境地の低い状態にある人間が やっかみ半分で何かといちゃもんをつけているだけになります。  ほこらしいことは ほこらしいのです。程度問題であると知ってさえいるからこそ それでも誇りとするはずです。かんたんに成れるものなら そういった後ろへの振り返りはしないはずです。脇見もせずにやって来たとき いちど後ろをふりかえってもバチは当たりません。ほこらしい人を祝福しましょう。(さもなければ マチガイをマチガイだと指摘して 自由な批判をおこないましょう)。  ★ 俗な気持ちを消そうと修行に励んでいる  ☆ これは そういう修行をするのも自由ですが 《魂のステージの高まること》としては まるっきり違うと知るべきでしょう。  たとえば 親鸞は 悪人正機の説を述べました。これは まだ善人悪人の違いにこだわって 何とか悪人でさえもその人間存在としては 理論的にすくいたいという心つもりから出た考えであるはずです。  ところが 《念仏は 非行非善なり》とか《はからひ無きを 自然という(自然法爾)》だとかの思想を経て 《義無きをもって義とす》の境地に到りました。まさに 善悪の彼岸にたどりついたわけです。魂のステージが そこまでは高まったということなはずです。  そうしますと 《俗な気持ちを消そう》とか抑えようとかそういった聖俗や浄穢の区別をすること自体が 高いところに揚げられてそこで棄てられて行きます。卑俗とか高潔といったこだわりが 現象としてはむろん認識しつつ すでになくなっています。  (ちなみに こういう境地に到るには けっきょく即身成仏なのであって・即得往生なのであって 一瞬のうちにそのような――そうとすればブッダターの発現する――境地に成る。ということでなくては いつまでも人間の理性で考え実行し続ける修行や思索でしかないことになります)。  ★ ・・・のに、ここで誇らしくなってしまったら  ☆ 《俗な気持ちを消した》からと言って どこが《ほこらしい》のでしょう? それなら 死ねばよいのです。死ねば達成できます。ニルワーナと言うぢゃないですか。  ★ 本末転倒な気がするのですが、  ☆ ニルワーナを目指す場合は 初めから精神錯乱です。そんなことは出来っこありません。呼吸法が会得出来たとしても それだけのことです。だからと言って 社会にとって――悪くは無くても――とびっきりよいとも思えません。  つまり ニルワーナの修行をしても しない場合と同じ境地だということです。わざわざやるのは それは 趣味です。《魂のステージを高める》ためには 《俗な気持ちを消そうとする修行》は 木に縁りて魚を求めるのたぐいでしょう。  俗な気持ちをもそしてもしそうだとしたら聖なる気持ちをも ともに用いる。ともに相手も自分も持ち前のチカラを よき目的に向けて 十二分に発揮することが出来るように 用いる。俗心を消すのではなく 善用する。これが 魂のステージの高い場合におこなうことです。  ★ ・・・よくこう言う人が見られるのは何故でしょうか?  ☆ それは《魂のステージが高められる》道を 初めにおいてあやまって認識したところに問題はあります。ゴータマ・ブッダとか呼ばれるペテン師とその亜流に引っかかったという意味です。

  • dropyork
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回答No.8

吹き込まれた理想を持って自己をそれに持っていこうとする。よくあることです。 その理想ではないのにその理想であると勘違いする。よくあることです。 賢い人はその勘違いを排除して努める。 その違いです。 人は間違えるもの。このことを知らないバカは知らないから問う。 違いますか。

回答No.7

ダニング・クルーガー効果というのが知られています。 ダニング・クルーガー効果 「知識の少ない人間が、もっと知識の多い人々より自分の方が物事をよく知っていると思い込む」現象 1. 無能な人々は、自分のスキルのレベルを過大評価する傾向がある。 2. 無能な人々は、他者が持っているスキルを正しく認識できない。 3. 無能な人々は、自分の無能さがどれほどのものかを認識できない。 4. こうした人々も、本質的にスキルが向上するような訓練を施されれば、  それまでのスキル不足に気づき、それを認めることができる。 http://ogasawara.cocolog-nifty.com/ogasawara_blog/2011/06/dunning-kruger-.html http://en.wikipedia.org/wiki/Dunning%E2%80%93Kruger_effect

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

よくこう言う人が見られるのは何故でしょうか? ○増上慢とか慢心といいますね。どの社会にもあるものですが上がれば上がる程、稲穂のように頭を垂れるようになるのが正しいことですね。宗教に限らず会社経営や学歴、地位などなども皆同じですね。慢心の怖さは経験してみないと分からないものですね。でもね。ちょっと先が見えると、見えないものへの警告もしないといけないのですね。 明日がない多くの者への注意喚起は少し先が見える修行者の義務ですから、その辺との兼ね合いはありますね。でも何を言っても来るものは来ますからいかんともしがたいものですね。警告をしては避難され、天罰と言っては避難され、何も言わないといっては避難され、まあ本当の修行者にはいいことはないんですよ。

回答No.5

No.2、omi3_ さんは素晴らしいですね。 このご解答で質問の意味がよくわかりますね。 ほとんどの人は、自分の来た道や他人との比較をしがちですね。 少し(30年や40年)精進などをすると、進歩したかの思いに駆られます。 そう思ううちはまぁ変わっていないですね。 只管打座、なんていうのもそうい戒めも説いているのでしょう。 孔子も楽しむものに過ぎるものはいないという。 その楽しむという中身が大事ですが。 なにをどう楽しむか、憂えるか。 確かにプロセスではありますが、終わって捨ててしまうプロセスでも用具でもないのですね。 だから一定の目的のための一定の期間のプロセスや用具ではない。 そこを誤解すると、進歩が大事になる。むろん進歩が大事だが、それにこだわっていると進歩しないし高くなったと思いたい。 ここらが難しいですね。 No.2、omi3_ さんの解答をもう一度読みに戻ります。

回答No.4

ヘロインか覚せい剤でラリっているから、こういうわけの分からんことを言いだす。

  • fuukakou
  • ベストアンサー率22% (200/870)
回答No.3

魂のステージなる目に見え無さそうなものをどうやって計ってるのか大変疑問なのですが・・・ とりあえず、なかなか俗っけを取り除くのは難しいんだろうなぁとは思いますよ。周りからどう扱われるか、立場によるものの認識の仕方とか 影響受けたりするものですし。 でも、近づけた、分かってきたっていう内なる喜び、幸せを感じられなければ 修行って辛そうですよねー。 内なる喜びを持ち、それを誉に思い、更なる修行に励む原動力になってるならいいと思いますよ。 でもそういうことを言ってるんじゃないですよ、ね? 俗の中で生きてくんなら俗っ気が抜けてたら上手く生きられなそうではありますけどね。なかなかどうしてもランク付けから離れられない悲しさですよねー。 自分がスペシャルであるって事はとんでもない魅力なんでしょうね。 始めっから自分にとっては自分はスペシャルな存在なのに~。これで自己完結出来りゃいいけど、他者に認められたい欲求が、自分をスペシャルだと他者にも認めさせたくなって、なんかしらでスペシャルだ!!と声高に言えることが手に入っちゃうと振り回しちゃってるとか? 聖も俗も邪も持ってるのが普通だとは思いますよー。どんなバランスで持ってるか、どれが突出してるかはその人のその時々で変わるもの~♪ どんだけ聖に近づいても、その後ドカンと俗に行っちゃう人もいると思うよ。邪に行くと大問題だけどねー。俗に行くぐらいは許してあげたら? 俗の世界で生きてるなら余計にねー。 誰かに認められたい欲求は普通持ってるものだから。 あと、パフォーマンスとしてそう振舞う事はあるでしょうね。 そして周りの期待に応えてそれなりに振舞う人がいて、それ見てこう振舞っていいんだと思い込んじゃってる人もいるかもね。 (大きな法要などで多くのお坊さんが集まってる時っていい袈裟着てますよね。誰が偉い人なのか素人にも分かりやすくなるし、法要なんでエライ人がたくさん集まってると思うとありがたみが増す。ついでに彩りも綺麗で目に楽しい。いつもそんな袈裟着てるわけあるわけないけどね。 多くの他の信者が集まる時に自分とこの坊さんが質素なのは信者が辛いからいいものを着て~って期待もあるだろうし(要するにお出かけ晴れ着が質素すぎるのはマナー違反的な?) 期待されてるから応えます~、目印付けます(←親切心)と行事等でそう振舞ってるとか、 普段寺で作務衣で作業してても 大きな法要しか知らないといいもの、贅沢なもの着てると大勘違いをされてしまうような事があって、自分もそれでいいんだと大勘違いを・・・・といった風な・・・ 前者はいいけど後者は問題) 学習とランク社会に生きてるのと、他者に認められたい欲求からかなぁ??? 想像だけどね。

  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.1

gaituさんはとても視野の広い人ですね。 ご指摘の通りだと思います。 でも宗教にのめり込む人というのはそういうものです。 そもそも視野が広く、自らの人生の悩みも自分で解決していける人は宗教には頼らず、のめり込むこともありませんね。

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