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靖国は宗教ではなく国事犠牲者を尊ぶ
- 日本人一般にとっては神仏は自然なものであり、国事と宗教は関わってはならない。
- 靖国神社は《神勅》によって設立された宗教であり、アイヌはこれに関与していない。
- 帝国主義的な神勅が認められれば、どこでも支配権を主張する思想が有効となる危険がある。
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1~5 、8は常識ですね。 問題は 6 です。 中韓にも日本のA級戦犯を尊べとおっしゃっているように見えます。 つまり伊藤博文を暗殺したあんじゅうこんも日本で尊べということになりましょうか。 日本には死者は皆仏になるという教えが普及していますが、これは現状ではローカルなものですね。他国にも広げるべきだと? >その行為は もしあやまちがあればそれとして批判すると同時に その人間としての存在については どこまでもとうとぶべきである ここは哲学として、倫理観として見過ごせないものがありますが、現状では飛躍ですね。 7 については東京裁判の否定ということでよろしいか?
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私はあなたの身内に軍属がいるのかをまず知りたいなあ。私自身はいないので、尊ぶ気にならないや。「臭いものに蓋」でいいと思ってますよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 わたしの身内に軍属はいません。 それとかかわった場合にのみ 靖国問題が自分自身に関係して来るとは思えないのですが どうでしょう? ★ 「臭いものに蓋」でいいと思ってますよ。 ☆ 問題がある・問題となっている。という状態のままにしておくのがよい。――こういうご見解でしょうか? とくに現状以上の問題にはもうならないであろう――こういう意味でしょうか。ならないのであれば それはそうであるかも分かりません。 ううーん。どうなんですかねぇ。
- kkanrei
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「靖国神社で国事犠牲者を尊ぶ」ということ自体が宗教であって、政府がそれに関与してはならないと考えます。憲法でうたわてている政教分離の原則に反します。どうしても国事犠牲者を尊ぶ必要があるなら、広島のように、別途、神社・仏閣とは関係ない施設を造って、そこに犠牲者を尊ぶメニュメントをつくるといいと思います。 A級戦犯を国事犠牲者としてはならないと考える。日本は敗戦国である。敗戦の責任はだれかがとらなくてはならない。確かにA級戦犯が悪いわけではない。彼らは敗戦時に指導者であったというに過ぎない。しかし、彼らを尊ぶことは近隣職の反発を招く。ドイツがヒットラーを尊べないのと同じように。けんか両成敗ではない。負けた方が悪い。勝てば官軍、負ければ賊軍。
お礼
kかんれいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ どうしても国事犠牲者を尊ぶ必要があるなら、広島のように、別途、神社・仏閣とは関係ない施設を造って、そこに犠牲者を尊ぶメニュメントをつくるといいと思います。 ☆ そういう意味です。 表題では たとえば《靖国》というふうにカッコつきにしようかと思ったのですが 字数制限で出来ませんでした。 趣旨説明欄での説明では 伝わらなかったでしょうか。たとえば (8)などです。 ★ A級戦犯を国事犠牲者としてはならないと考える。 ☆ これにつきましては 言わば二重の捉え方をしているという意味になります。 すなわち その戦犯と見なされた行為――平和に対する罪でしょうか――については きちんと批判をしつづける。と同時に その人間という存在については どうしても排除するわけには行かない。排除したぶん 将来にも同じような犯罪行為がなされ続けるのではないかとおそれられるからです。 ★ 日本は敗戦国である。敗戦の責任はだれかがとらなくてはならない。確かにA級戦犯が悪いわけではない。彼らは敗戦時に指導者であったというに過ぎない。 ☆ いえ。責任は 権限に応じて負うものと考えられます。天皇にもあると考えます。(と言うより ご自身がマッカーサーには その旨を伝えたとかそうではないとか。日本国民に対してそれを言わないのは おかしい。また そのことを指摘してはいけないといったクウキは おかしい)。 ★ しかし、彼らを尊ぶことは近隣職の反発を招く。 ☆ ここでも 二重の見方です。いわゆる罪を憎んで人を憎まずといったことわざにもとづくようなことですが その行為は どこまでも認識し批判しつづける。と同時に その人間というわれらと同じ存在については これをとうとぶ。排除しない。 この考え方を 近隣諸国にも伝えて行くことになります。説得して行くことになります。 ★ ドイツがヒットラーを尊べないのと同じように。 ☆ たぶん これは 大きな議論になると考えます。 煮詰めた課題としては こうです。ヒトラーは 人間として出来損ないか? いや 生まれてきたその存在としては ほかの人びとと同じ人間である。か? です。 存在を排除し得ないとすれば 同じ人間として とうとぶべきです。排除したままでは とうとぶことを怠っていることになります。 ★ けんか両成敗ではない。負けた方が悪い。勝てば官軍、負ければ賊軍。 ☆ どちらの考え方もあるのではないでしょうか。 ですが 勝者の言い分や論理がただしいとは限らないのではないでしょうか? 戦争を避けられなくなった事態というのは どちらの側にも責任がある。のではないでしょうか。
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お礼
こまあす88さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 1~5 、8は常識ですね。 ☆ はい。 ★ 問題は 6 です。 ☆ 話が早いです。 ★ 中韓にも日本のA級戦犯を尊べとおっしゃっているように見えます。 ☆ これが No.2のやり取りで 二重性の見方をするとのべたところです。 ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~ ★ A級戦犯を国事犠牲者としてはならないと考える。 ☆ これにつきましては 言わば二重の捉え方をしているという意味になります。 すなわち その戦犯と見なされた行為――平和に対する罪でしょうか――については きちんと批判をしつづける。と同時に その人間という存在については どうしても排除するわけには行かない。排除したぶん 将来にも同じような犯罪行為がなされ続けるのではないかとおそれられるからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 中韓にも同じ行き方を取るように話を持ち込みますが むろん どうするかは 相手の判断です。 ★ つまり伊藤博文を暗殺したあんじゅうこんも日本で尊べということになりましょうか。 ☆ そうです。人間という存在は とうとぶべきだと考えます。言わば韓民族の独立という国事に従事したという意味においてです。内外の国々が その暗殺という手段を取った行為の非人道性を批難しつつ 存在じたいはとうとぶのがよいと考えます。 国の統治および防衛 そして国際関係としての共同自治 これらの行為にかかわって逝った人について もしその行為が戦勝にみちびいたものだとしても 人殺しをという手段を取っているからには その行為の非人道性を批難しつつ 同時に存在については 排除することなくとうとぶ。という方針です。 ★ 日本には死者は皆仏になるという教えが普及していますが、これは現状ではローカルなものですね。他国にも広げるべきだと? ☆ 日本人は そのような中身として持ち続けてもよいと思います。そのローカル性を開くためには 《人という存在の共生性》を基本的な共有すべき思想とすればよいのではないでしょうか? ひとは その生まれつきの自然本性なる存在においてすでに 家族としての生活や社会一般の生活としての共同自治を その欠かすべからざる性質として持つと考えられます。社会的動物であります。 つまり 《存在》としては――その思想や行動がいかにあやまちを露呈していても―― 互いにとうとび合うものと考えられます。誰かを例外としてはいけないでしょうし 排除することはならないと考えます。 もしどうしてもというような場合 その人を――たとえば ヒトラーでしょうか――例外とするその理由をきちんと明らかにして 排除するのがのぞましいでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >その行為は もしあやまちがあればそれとして批判すると同時に その人間としての存在については どこまでもとうとぶべきである ここは哲学として、倫理観として見過ごせないものがありますが、現状では飛躍ですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そういう意味での《飛躍》と見なされるのであれば 御の字のつくありがたいことです。 方向性ないし志向するところが 明らかになるという役割りがあります。 ★ 7 については東京裁判の否定ということでよろしいか? ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~ 7. 戦争に到ったことについては けんか両成敗である。どちらも 人殺しをして結着をつけるまでに成ったことに 責任を負い どちらの戦死者をも互いにその存在としてとうとぶべきである。排除することは出来ないし してはならない。これが あたらしい姿勢である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 国際政治という現実の実際の場で はっきりとそう言うかとなると 妥協を必要とするそういった場裏では足踏みをしつつ――ということは いましばらくは議論の段階にとどまってという意味なのですが―― けっきょくのところは おっしゃるとおり はっきりと勝者による裁判というその考え方を否定するべきだと考えます。 勝者の一方的な裁判にあっても その敗戦国への批判の中で 一般に学問的にも肯定すべき内容のものは それとして有効でありつづけるわけでしょうし。まちがった判定内容については あらためて考え直してもよいと考えます。 基本的には 考え方についての修正主義的な思想です。その後の歴史の経過や現状についての修正をもくろむものではありませんが。 たとえば自衛の戦争であったという部分的な見方が 受け容れられてもよいのではないでしょうか。 戦争は相手があることですので オアイコである部分が多いと思われます。