仏教の閉鎖性とキリスト教との比較

このQ&Aのポイント
  • 仏教とキリスト教の教えの違いと、その影響について比較した記事です。
  • キリスト教は誰にでも理解しやすい教えであり、他国にも広まっていますが、仏教は閉鎖的な教えとされています。
  • そのため、仏教は一部のエリートが理解できるような形にされているという指摘もあります。
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仏教の閉鎖性とキリスト教との比較

どのカテゴリで質問しようか迷いましたが哲学にさせて頂きます。 質問ですが、キリスト教は誰にでもわかるように絵画なども交えて、他国の人に伝わらなければ聖書も外国語に翻訳するなど非常な努力を重ねてきました。その教えの内容も、例えばキリスト教を全く知らない人であっても「汝の隣人を愛せ」と言われれば意味はちゃんと理解できます。 その一方で仏教は、キリスト教に比べるとひどく閉鎖的に見えて、ちゃんとその教えを学ばないと意味すら理解できない、日常の文化と乖離していますよね。キリスト教は日常の文化に根ざして日々の生活文化の基礎も担っていますが、なぜ仏教は大乗仏教のように多くの人の救いを説きながら、普通の人には理解できない、特別に勉強して奥義を極めて初めてその真意を会得するといったような閉鎖性を持つのでしょうか。 仏教の経典は日本には中国から伝わったとはいえ、日本人が日本語で理解しやすいように内容を翻訳しようという大々的な動きもなく、基本は漢文です。 例えば南無阿弥陀仏も、これって普通のお経が難しすぎて理解できない人たちに「これなら簡単だからやりやすいでしょ?」ってことで普及したわけですよね。とにかくこれを唱えればいいと。でも南無阿弥陀仏の意味ですら、ちゃんとその意味を教わらないと日本語として理解不能ですよね。 つまり仏教は多くの人の救いを説きながら、その実キリスト教と比べればずいぶん階層が二極化していて、なおかつ潜在的な権威主義も含まれていて、「内輪でしか理解できない思想体系を構築した閉鎖的なエリートたち(全体の一部)が、圧倒的多数の無知な人たち(下層階級)」を支配するという構造になっている気もします。 繰り返しになりますが、仏教とは一部のエリートがわざと内輪でしか理解できないように教えを組み立てて、わざと他の人にはわかりにくくして、自分たちに教えを求めなければ理解できないようにしているという点で、教えの裏に恣意的な傲慢さを感じており、本当に多くの人の救済を望んでいる宗教なのかという疑念が生まれました。 皆様の考えをお聞かせください。よろしくお願いします。

  • lugal
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • joshua01
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回答No.12

こんにちは。  私も質問者さんと同様の疑問を持っていました。(もっとも私も本当にご質問の趣旨を理解できているかどうか・・・笑)  いろいろ回答が出ていますので組み合わせると疑問が解けているかもしれませんが、質問の趣旨と回答がちょっとかみ合っていない感じもしていますので次のような回答ではいかがでしょう。  私からのポイントは、「結局は、多国語に翻訳する行為を早期に認めたかどうかの些細な分かれ道」 次のような点は質問者さんの認識に合っているでしょうか。 (宗教関係者や深く考察されている皆さんごめんなさい。また、知識にもうろ覚えが・・・) (1) 教義は複雑  どのような宗教であれ、教義は多岐、複雑ですね。聞いた後に直ちに納得できる単純な(といっても行動に移すのは単純ではない)ものもあれば、じっくりと長く考え、あるいは討議してやっと理解できる複雑なものもある。いずれにしてもある程度の数を知り、ある程度深く理解するためには説教・礼拝・修行などに長期に加わる必要もあり、容易ではないでしょう (2) 聖域・神秘性が必要  信仰には「尊厳」「神秘性」が必要であり、そのためにはどうしても「非日常」を演出するのが近道になります。きらびやかな像や寺院、複雑な儀式などとともに、経典を特殊な言語・文体に限るのはその手段のひとつです。 例を挙げると 仏教;経典は日常語に翻訳させない(サンスクリット語を基礎とし、一部は漢文まで)、複雑・豪華な寺院・仏像、複雑な儀式、難解な呪文 イスラム教;コーランは翻訳させない(解説書はあっても、コーランの翻訳ではない。)、大規模・豪華なモスク キリスト教(特にカトリック);複雑な儀式(一時期は、聖書のラテン語依存)、豪華な教会建築、荘厳な教会音楽  このような傾向は確かに指導者側の科学的根拠のない無駄な権威につながる事態と言えますが、他方で、少なくとも科学が発達していない段階においては、民衆にとってはやはり日常を超えた「神秘性」や「尊厳」は安心感や信頼感につながりますので、あながち悪とはいえないと思います。 (3) あまりにも理解しにくくなるので・・・  まあ上記の結果、これらを理解し、濃厚に接することができるのは一握りの集団(質問者さんはエリートという単語を使っておられますが)に限られ、どうしても一般民衆から離れてしまう。その対策(民衆にとっても充実感を与える)のために「信仰を象徴する単純な行為」を提示する必要があります。 例を挙げると イスラム教;信仰告白等「五行」 仏教;南無阿弥陀仏等(いわば呪文)の連唱、マニ車、写経 キリスト教;「主の祈り」の暗唱、聖歌・賛美歌 (なお、これらの「単純な象徴的行為の無我的な繰り返し」は、宗教による解決が最も期待される「死の恐怖」への対処法としても大変に有効です。)  さて、この中でやはりキリスト教に特記されるのは「翻訳」に対する寛大さですね。  基本的には最初はアラム語(ユダヤ語)で書かれたはずですが、ユダヤが多くの文化(ギリシャ・ローマ・エジプトなど異なる言語を持つ大国)の接点地域にあり、早期から弟子たちが広く周辺国へ布教を進めたことにより他国語への翻訳は美徳とされたようで、中世のカトリックにおいてラテン語(古ローマ語)が尊重されたことを除けば(ルターの宗教改革なども経て)どんどん翻訳され、日本語の現代語訳も繰り返し行われています。(確か、聖書の相当部分を書いた弟子の一人のルカはそもそもギリシャ人だったかと)  他方、仏教・イスラムの地域も多くの言語が接していた可能性はありますが、多くが少数民族言語や方言だったのでしょうし、布教活動が大国の言語を超える形で国際的になったのが相当に遅く、仏典については中国語などへの翻訳は一時は積極的に行われていますがいささか不調で、コーランに至っては、アラビア語の韻(リズム)まで尊重する形で確立してしまったために、他言語の公式訳は未だに存在しません(もしあるようならちょっと教えてください)。 ・・・ということで、多くの宗教にもある程度の共通性がありつつ、質問者さん(ほか多くのひと)の感じている「キリスト教の開放性」(比して他の宗教の閉鎖性)は、やはり聖典が日常語で書かれているかどうかの要素が大きく、結局それは大国にはさまれつつ早期に布教に回ったことの「偶然」がきっかけと思いますが、いかがでしょう。 (異国・異民族への寛容もありますが、キリスト教のユダヤ選民型の考えはとり方によれば他の宗教よりも異民族不寛容になったとしてもおかしくないので、もともとの本質が寛容だったとは思えなくて。)  もっとも、このような翻訳の寛大さにも欠点があります。(利欠点で論じる失礼はご容赦ください。)  キリスト教におけるルターの宗教改革は、いわば、「儀式・象徴的行為への依存を減らし、一般民衆でも教義のある程度深い意図に近づけるよう」という意味もあると言えるでしょうがそれをきっかけとしたラテン語からのさらなる翻訳の拡大は、「社会的な威厳」を低下させて政治等への影響力の低下や、さらに、その教義を自主的に深めようという意思や哲学的な探求意欲を減らしてしまったとも思われます。 (幸いなことにキリスト教における学問的な意義については「歴史・文化的意義」が高いので助かっていますが)  やはり、聖典は非日常言語で書かれた方が「ありがたみ」があるので・・・。  まあ、キリスト教でも現代語より古語が尊ばれるのは現在も同様でしょう。「あなたの敵でも愛しましょう」より「汝の敵を愛せよ」のほうが好まれるのは、短く覚えやすく、非日常の尊厳が感じられるほかに、脳の集中の効果もあるでしょう。(「昔のことを勉強すると将来の参考になります」の文章は”するっと抜けて”しまいますが、「温故知新」と言われると、それを理解・認識するのにいったん集中が必要なのでより味わえるという効果がありますね。) さてさて、ちょっと長くなってしまいましたがいかがでしょうか お役に立てば幸いです。

lugal
質問者

お礼

ご丁寧な回答ありがとうございます。頂いた回答は全て拝見しましたがお礼の順番が前後しており申し訳ないです。 No2の回答者様の御礼にも書いたのですが、以下コピーです。ちょっと長いです。 >>「「汝の隣人を愛せ」と言われれば意味はちゃんと理解できます>因果応報→悪いことをするとバチが当たるよって子供の頃言われなかった? 悪いことをすると地獄に落ちて良い行いをした人は天国に行けるとか 仏教の教えも子供にも理解できると思う」」 私が質問させてもらった意図もここにあるんですけど、因果応報は世間にも浸透している言葉なので多くの人が知っている言葉ですよね。意味は回答者様もおっしゃる通り「悪いことをするとバチがあたる」ということなんですが、私が言いたいのもここの部分なんです。 悪いことをするとバチがあたるというのを、なぜその通りに表現しないで「因果応報」なんていう書き方をするのか。 これはつまり因果応報の意味を知らない人は永遠にその言葉の意味を自分では理解できないですよね。 私が閉鎖的だと言ったのはこういうことです。その点キリスト教なら「汝の隣人を愛せ」は誰もが読んだままに意味を理解できるからわかりやすいですよね、ということで、あくまでその対比のためにキリスト教のこの一節を引用しただけで、誤解をしてほしくないのは、今他の回答者様の答えも見つつ書いているのですが、私は仏教とキリスト教どちらが優れているかなんて議論をしようとは思っていません。 上記のとおりですが、回答者様は私の質問の趣旨を読み取ってくれたようで、回答もとても参考になりました。 予想以上に多くの方々から色々な回答を頂いてどれも参考にさせてもらっていますが、私はキリスト教と仏教の優劣や、その歴史的な功罪を比較しようという意図はありません。おそらく私の書き方が悪かったのだろうと思いますが、すでにページ数も二つになってしまったので、ここでまとめの意味でも私の意図を書かせていただきました。

その他の回答 (17)

回答No.7

一部のエリートがわざと内輪でしか理解できないように教えを組み立てて、わざと他の人にはわかりにくくして、自分たちに教えを求めなければ理解できないようにしているという点では、キリスト教もユダヤ教もヒンディー教もジャイナ教も仏教も同じだと思います。 そうしない限り「その道のプロ」「職業宗教家」として食ってゆくことができないからです。

回答No.6

仏教から来た言葉 「ありがとう」「あいさつ」「行儀」「接待」「縁起」「四苦八苦」 質問者さんは意識してないでしょうが、もう日本人の日常の深いレベルまで 仏教が染みこんでいるんです。 「汝の隣人を愛せ」なんて、日本人の日常会話じゃまず出て来ませんよね。 もし出るとしたら「敵に塩を送る」ですよ。(もっともこれは戦国武将の話ですが) 質問者さんも、まず身近なところから仏教と日本の文化を学んでみてはいかがでしょうか。

回答No.5

何故、質問者の仏教は「南無阿弥陀仏」なの? 仏教は釈迦が説いたものだが、それだけ ではない。この時点で矛盾がグロス単位で存在します。まあ、ゆとりの極みみたいなもの ですね。「汝の隣人を愛せよ」というのは字面は理解できても真意までは理解できない。 また、キリスト教は中世ヨーロッパにおいて侵略するための政治ツールに過ぎなかったし、 一神教を標榜する者は現在もテロの応酬を繰り返している。キリスト教とイスラム教は 従姉妹同士みたいなモノですから。 質問者の言う傲慢さとは、普通のお勉強でも言えますね。結局、質問者に仏教の話を した者も含めて勉強不足なのです。しかし釈迦の説話には常不軽菩薩(不軽菩薩)が 登場しますが、根本を外さなければ大した理解をしなくてもいいのです。薬の服用と 同じですな。 「特別に勉強して奥義を極めて初めてその真意を会得する」 上述の薬の服用と同じで、そんなもんは必要ない。正しい薬を飲めば状況は改善するし、 誤用すれば結果も反対となる。ただ、それだけに過ぎない。

回答No.4

 こんにちは。  感想ですが。  おそらくゴータマ・ブッダは自分が得たという《さとりの智慧》が何であるかを明らかにして人びとに説明していない。  つまりここから 言わばボタンの掛け違いのごとく すべてのマ(間)の違いが起きているのではないでしょうか?  あとは そのさとりを得るには どうすればよいかや さとりにもいくつかの段階があるとしその段階ごとにひとはどういう状態になるかなどなどの外形的な説明はあります。  ▲(ヰキぺ:四諦) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6  § 四諦(したい、サンスクリット語 catvāri āryasatyāni चत्वारि आर्यसत्यानि、パーリ語:cattāri ariyasaccāni)とは、    仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つをいう。  § 諦とは   「真理」という意味であり、四聖諦とは「4つの聖なる真理」の意である。4つの真理とはそれぞれ、   苦諦:苦という真理   集諦:苦の原因という真理   滅諦:苦の滅という真理   道諦:苦の滅を実現する道という真理  § それぞれ「遍知」、「滅除」、「成就」、「修習」という課題が    付随している。すなわち、   苦は「知り尽くすべきもの」(遍知)   苦の原因は「滅するべきもの」(滅除)   苦の滅は「実現すべきもの」(成就)   苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」(修習)   ということである。   ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《苦》とは 《思うようにならない》といった内容をも言うそうですが そこから自由になること それがさとりだという説明はあるわけです。このような外形的な説明が延々と――星のかなたまで――つづきます。    あるいはそれは《体得するもの》であるから ことばでの説明はし得ないという弁明も聞かれます。  ということであれば さとりを得たかどうか 一般には分からないまま 受け継がれているということにもなるようです。  つまり 家を建てるときに足場を先に築きますが その足場を延々と組み立てることをおこなっているようです。  家つまりさとりの智慧本体は ついぞ説かれていません。  (決して言葉では説き得ないというのであれば それは 《ブッダのさとりを体験するわれらが同好会》というかたちなのだと認識しておけばよいようです。普遍宗教であるという自認は 捨ててもらいたいわけです)。  そのようであるところ さとりは成就しがたくまた成就した者も説明しがたいのであって 《仏と仏とのみよく知る》と言われれば 人びとはあぁ そうかいなと納得するまでになっている場合も見受けられるようです。  おそらくそれでも 疑問は払拭され得ないのも事実であってしかも偉大な普遍宗教であるという旗印は取り下げないようです。  ですからそのときには ゴータマ氏の得たさとりが ほんものであると言い続けるために――哲学的研究もやはり外からその智慧のすがたをとらえるようにして 一方でなされてはいます(*)が―― ひとつには結局ゴータマなる存在の神格化によって 疑いへの隙を与えないようにしたりしているということではないでしょうか。  (*) 哲学的研究としては  ブッダ‐ダートゥ(仏性)は ゴータマ氏は説いたことがありません。つまりは 後世においてゴータマ説をおぎなうようになったものです。  そしてこのブッダターとも言える仏性をまじえるブディズムは ゴータマ氏のアン‐アートマン(無我・非我)説とは矛盾するので 仏教にあらずという主張も出ています。  つまり分かっていることは     一切衆生 悉有仏性  というように誰もに仏性がやどるという思想は ゴータマ説にはなかったことです。        これもそれも さとりの智慧の中身が 説明されておらずどこまで行っても やぶの中ということのようです。    ちなみに《ブッダター》を持ち出すときには すでに《しんじる》という人間のあり方にまで分け入って行っています。先ほどの《四諦うんぬん》といった知解や修行とは関係なくひとにおとづれる言わば神の声を聞くことです。  そこのところの説明も ブディズム全般をつうじて――親鸞を例外として――あいまいであると見られます。  まことに  ★ 仏教とは一部のエリートがわざと内輪でしか理解できないように教えを組み立てて、わざと他の人にはわかりにくくして、自分たちに教えを求めなければ理解できないようにしているという点で、教えの裏に恣意的な傲慢さを感じており、本当に多くの人の救済を望んでいる宗教なのかという疑念が生まれました。  ☆ とおっしゃるとおりのことが いまだに引き続き言わば演じられて来ているとわたくしも思います。  秘密同好会の線で行くか それともさとりの智慧を人びとに分かるように言葉でも説明して普遍宗教でありうることを証明するか いづれかひとつの道しかないと思われます。  これに答えずほうっておくなら 明らかに人類史上まれにみるインチキでありマヤカシであり詐欺でありペテンであると考えます。  この問題をめぐる思考をあいまいにしておくのは たとえば臭いものには蓋といったことわざに見られるような対症療法しか成し得ないクセを われわれのあいだに 強固に築きあげている。(自然科学としてのモノの探究はとことんなされるようですが 人間や社会にかんする問い求めは ええ加減で止めておこうといったクセのことです)。こういう負の遺産さえあると言わねばならないと考えます。

  • alwen25
  • ベストアンサー率21% (272/1253)
回答No.3

>例えばキリスト教を全く知らない人であっても「汝の隣人を愛せ」と言われれば意味はちゃんと理解できます 「汝の敵を愛せ」は理解できますか。 >基本は漢文です。 他の回答者さんも書いていますが、中国語ではなくサンスクリット語です。 中国語としても意味の通らないものも多いと思います。 >例えば南無阿弥陀仏も、これって普通のお経が難しすぎて理解できない人たちに「これなら簡単だからやりやすいでしょ?」ってことで普及したわけですよね。 そういう訳ではないと思いますが。 >繰り返しになりますが、仏教とは一部のエリートがわざと内輪でしか理解できないように教えを組み立てて、わざと他の人にはわかりにくくして 宗教というより哲学なので、分かりにくいのは仕方が無いと思います。 また、日本には信教の自由があります。仏教を信仰するのもキリスト教を信仰するのも貴方の自由です。

  • m41
  • ベストアンサー率30% (346/1127)
回答No.2

仏教はちっとも分り難くなんかないよ 明治維新まで日本の幼児教育といえば寺小屋 江戸時代や戦後進駐軍が来た時でさえ日本の識字率の高さは世界有数だよ また檀家制度にも見られるように必ず住んでる地区の寺に入り戸籍の役目もしてた 確かに寺は古来日本の最高学府で今で言う大学的な要素も多分にあるから僧はエリートが多いし難しい研究もしているけど 門前の小僧習わぬ経を読むと言うほど 誰もが経を読み そして理解してた 絵文字の般若心経とかもいっぱい書かれたみたいだしw http://www.anyouji.or.jp/Tate1_Hannya.html 明治時代に神仏分離が進み 敗戦後天皇の人間宣言など 色んなことがあって お寺が庶民とは離れた格式張った物になってしまっただけで 今でもちゃんとキリスト教の日曜学校のように説法を毎週やってるお寺もいっぱいあるし 能や歌舞伎のように 本来庶民の楽しみでみんなが見ていたものが 現代人には予備知識がないのと 理解しがたいのと一緒で現代語訳の本や現代語で語ってくれる瀬戸内 寂聴さんのような方も大勢おられますよ^^ 聖書も外国語に翻訳する>小乗仏教はパーリ語、大乗仏教はサンスクリット語を 中国語に翻訳し日本には漢文で伝わったんだから翻訳されてるよ 漢文は日本語でも普通の文章だよ 朝鮮も日本も漢字文化圏は近年まで普通に漢文も読めてた  「汝の隣人を愛せ」と言われれば意味はちゃんと理解できます>因果応報→悪いことをするとバチが当たるよって子供の頃言われなかった? 悪いことをすると地獄に落ちて良い行いをした人は天国に行けるとか 仏教の教えも子供にも理解できると思う あとお経は言霊としての意味もあるので 中国でも日本でもサンスクリット語のまま 呪文として使ってることも多い般若心経の羯諦 (ぎゃてい)羯諦( ぎゃてい)波羅羯諦 (はらぎゃてい)波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)菩提薩婆訶(ぼじそわかー)は有名で子供は喜んでこのサンスクリット語の呪文を唱えてたらしいぞ^^ 教えの裏に恣意的な傲慢さを感じて>宗教にその裏面は否めないよね 世界中の殆んど宗教はヤクザよりきつい上納金があり上に行くほど裕福(?)な暮らしをしてる?確かに密教のように質素な生活をしている場合もあるけど 結局働いてないわけだし口先でありもしない来世とか霊界とか天国だ地獄だって言って寄付金を集めて生活してるんだから 見方によってはそうなってしまうけど その教えによって道徳心とかが生まれるなら嘘も方便でしょ^^

lugal
質問者

お礼

ご丁寧な回答ありがとうございます。 参考になる内容も多かったですが、一つこの部分について >>「「汝の隣人を愛せ」と言われれば意味はちゃんと理解できます>因果応報→悪いことをするとバチが当たるよって子供の頃言われなかった? 悪いことをすると地獄に落ちて良い行いをした人は天国に行けるとか 仏教の教えも子供にも理解できると思う」」 私が質問させてもらった意図もここにあるんですけど、因果応報は世間にも浸透している言葉なので多くの人が知っている言葉ですよね。意味は回答者様もおっしゃる通り「悪いことをするとバチがあたる」ということなんですが、私が言いたいのもここの部分なんです。 悪いことをするとバチがあたるというのを、なぜその通りに表現しないで「因果応報」なんていう書き方をするのか。 これはつまり因果応報の意味を知らない人は永遠にその言葉の意味を自分では理解できないですよね。 私が閉鎖的だと言ったのはこういうことです。その点キリスト教なら「汝の隣人を愛せ」は誰もが読んだままに意味を理解できるからわかりやすいですよね、ということで、あくまでその対比のためにキリスト教のこの一節を引用しただけで、誤解をしてほしくないのは、今他の回答者様の答えも見つつ書いているのですが、私は仏教とキリスト教どちらが優れているかなんて議論をしようとは思っていません。

  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.1

>>なぜ仏教は大乗仏教のように多くの人の救いを説きながら、普通の人には理解できない、特別に勉強して奥義を極めて初めてその真意を会得するといったような閉鎖性を持つのでしょうか。 仏教には、四弘誓願という菩薩の道があります。それは、上求菩提・下化衆生(上の如来に菩提を求め・下の衆生を化益する)の願いでもあります。 つまりは、自己の深い悟りを求めて勉強してゆくけれども、それだけでなく、大乗仏教のように、一般大衆をも救っていくという、逆の方向性を持ったこともやらないと菩薩にはなれないってことです。 この相反する2つの方向性を同時に満足するように修行していかないとダメってのが仏教本来の教えです。だから、「南無阿弥陀仏を唱えるだけでいいよ」っていう安易な方法論は、正当な仏教からすれば邪教的な面があります。それでは、ほんとうの悟りを得ることはできませんからね。 そして、その悟りを追求する部分は、「極意」「奥の院」的なものがあると思います。この部分は、あるレベルの悟りを開いた人でなければ、教えることが禁止されていると思います。 例えれば、核ミサイルのボタンを任される人は、それなりにしっかりした人でないとダメっていうのと同じではないでしょうか? でも、特別な勉強しないでも、瞑想修行を毎朝晩、3,4年続けると、けっこう悟りは進歩するみたいですよ。 >>仏教とは一部のエリートがわざと内輪でしか理解できないように教えを組み立てて、わざと他の人にはわかりにくくして、自分たちに教えを求めなければ理解できないようにしている 空海のように霊能力までも会得している、という意味では、「ごくごく少数のエリート」という言い方は正しいと思います。量子力学や相対性理論がほんとうに解る人って、極めて少数の人間になると思いますが、それと同様ではないかと思います。 仏陀が菩提樹の下で悟りを得たとき、「この教えは難しすぎて、人々に教えることは無理だ。自分の胸だけにしまって死んでいこう。」と思ったわけですが、そのとき、梵天が現れて、「ひろく教えを説いてほしい」というお願いをします(梵天勧請)。 仏陀が得た悟りは、物質の生成と消滅までの理論も含めたものであったと思われますから、内容としては、上記のような量子力学・相対論・宇宙論までも含まれていたと思います。ですから、それを当時の人々に教えることは、難しいし、今でも難しいと思えます。 また、キリスト教の教えにあった霊的な部分が、異端として排斥・皆殺しにあって失われていきました。 仏教では、そんな殺し合いはありませんでしたけど、上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教に分かれたり、南伝仏教と北伝仏教に分かれたしました。また、悟りが、頓悟と漸悟の2つの考え方があるように、そこからも分派が発生しました。その過程で、仏教の教えが解りにくくなっていったものと思います。 >>本当に多くの人の救済を望んでいる宗教なのかという疑念が生まれました。 その疑念は正しいですね。だから「葬式仏教」といわれたりするわけです。そして、今では、「魂は無い」「あの世は無い」なんてことを信じている、唯物論者のような坊さんも多いようです。 その結果として、あの3.11の津波で多数の人々が亡くなった場所に、幽霊が頻繁に出るといっても、霊界や霊の存在を信じていない仏教の坊さんでは、対処する方法がわかりません。 お茶をふるまったり、話を聞くだけです。 残念だけど、死んだあと、行き先が判らなくなって迷っている霊を、教え導いて成仏させることができていません。 最後に、キリスト教がなぜ判りやすいかというと、それは小学校の教科書が簡単なのと同じことです。つまりは、悟り、霊界、転生輪廻などについての教えが無いからです。(初期キリストには、グノーシス派のような霊的教えがあったと思えるけど、それは、抹殺されてしまいました。)

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    最近チベットに行き、チベット仏教に触れてきました。日本でもそうだと思いますが、現地では僧も一般の人も仏像や寺に向かって、お祈りをしていました。 それを見て不思議に思ったのですが、仏教はキリスト教やヒンズー教と違って、仏様は神ではないですよね?キリスト教みたいに神がいたら、お祈りをして救いや答えを求めたり出来ますが、仏様は仏教徒にとって、煩悩を克服し悟りを開いて目指す存在なのに、仏教徒は仏様に対してどんな思いをこめて祈ってるのでしょうか?チベット仏教も日本の仏教も大乗仏教なので、祈りの意味の理由は似ていると思いますが、だれかご存知の方、お教え下さい。

  • キリスト教とドストエフスキーについて専門家の方教えて下さい。

    質問があります。できれば専門家・研究者の方にお聞きしたいのでよろしくお願い致します。 (1)キリスト教にある「隣人を愛する」という教えがあるそうですが、それはどういう意味での「隣人」なのでしょうか?宗教の違う相手も理解するという意味ですか?それとも、広い意味での人間としての意味ですか?同じ宗教間の中での人間という意味ですか? (2)仏教にも似たような教えがあると思いますが、それと「隣人を愛する」とは違う意味なのでしょうか?(漠然とした質問でごめんなさい。) (3)ドストエフスキーの言う「神がいなければ全てゆるされる」という言葉の意味が理解できません。「神がいない」という考え方の方が、「神がいるから何でも許してもらえる」と思えてなりません。「何でもあり」という感じに受け取れます。違うのでしょうか?「いなければ」という日本語も少し怪しいですが…「神がいるから許されない」という意味ですか? とても知りたいのでぜひご回答の程よろしくお願い致します。

  • キリスト教 仏教

    キリスト教→価値あるもののみを望む真理と愛の宗教 仏教   →慈悲、共生を望む我慢の宗教 どちらがよいですか? 関西である二つの学校があります。 神戸女学院(キリスト教)→数々のボランティア活動を通して西宮市の文化と教育の元と作ったという事で、西宮市の市民文化賞に選ばれている学校。学校には日本最古のキリスト教の礼拝堂があり、日本で最も美しいと言われるキャンパスを持つ。日本に「最高の女子教育を」という世界中の願いの元募金のバックアップがあって経営している学校。西宮市にはそこらじゅうに教育施設がありふれている。経済指数も良好で、極めて犯罪も少なく治安が非常によい都市になった。その変わりレベルの低い人種が淘汰される傾向にある。 四天王寺(仏教)→聖徳太子が作ったと言われる寺(学校)。いまだ四天王寺の境内の中に学校がある。学校訓は聖徳太子の17条憲法を元に作られ「和を以って尊としとなす。」といわれる。ボランティア活動等は一切行わない。どちかと言うとひたすらガリベン、体育会系。大阪の行政側も聖徳太子の17条憲法をフューチャリングしている。お寺の境内には浮浪者がいる。至る所に怪しげなインチキ施設、不品行を思わす店空間がある。学校の校風も足の引っ張り合いの面が強い。 どちらの学校(財団)もその土地の文化を作っているとは思いますが、どちらが好きですか?

  • 仏教の極楽浄土とキリスト教の天国の違い

    仏教の極楽浄土とキリスト教の天国の違いは何でしょうか? 日本では主に天国を用いますよね。 どちらも対義語は地獄ですよね。