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哲学のことで
「通常の思考・知識」と「哲学の思考・知識」の相違点を教えてください。どうかよろしくお願いいたします。
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1つの考え方ですが。 通常の思考・知識 これはは常識です。 哲学の思考・知識 これは常識の中の、間違いを見つけ正しい考え方を身につけることです。 常識とは、大多数の人間が支持するものを常識といいます。 ですが大多数が支持すれば、それが正しいわけではないですよね。 例えば、昔や外国では宗教主体が盛んでした。 それは大多数の人間が支持したからです。 しかし常識を疑えば神も仏もいませんよね。 いない者を信仰する、という常識を疑うのが哲学者です。 忠宗教が、必ずしも間違っているわけではありません。 宗教のおかげで救われる人もいます。 虚実でも人を幸せにするというのが一つの哲学的考えかもしれません。 今上げたのは、分かりやすい例です。 他にすぐ例を上げるのなら、男が男らしくあるべき(女は女らしくあるべき)、とい常識を持つかたもいますが、これもおかしいですよね。 ここからはさらに私個人の考えになりますが。 確かに哲学的考えは、人を理性的で論理的にしますし、より物事を正確に見ることができるようになるかもしれませんが、必ずしもそれが幸せだとは言えません。 真実や正しい思考を持つ事は、人に生きる上での足かせや咎を見つけることになります。 常識が誤っていることを認識した時、世の中に常識を疑わない人が大多数であることが分かると孤独を覚えることもあります。 この思考自体が哲学的な考えですが。 要は馬鹿にならないために哲学的思考をした結果、哲学的思考がその人を不幸にすることが分かった・・・馬鹿の方が幸せであることが分かった・・・という、皮肉めいたことになるので、興味があるのなら注意した方が良いです。 私は哲学が嫌いです。
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- Nakay702
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No.1さんの回答でほとんど尽されていると思いますが、ここでは、もう1つ別の観点からの要約・敷衍を試みます。 我々は日々物事を判断し選択しながら生きていますが、その際の「判断基準」は大別して2種類あると思います。 (1)生活局面で、おもに「いかに生きるか」について判断するための基準で、これを「要・不要の基準」と呼ぶことにします。簡単に言えば、「自分にとって何が必要か」を考える時に準拠する基準のことです。 (2)多少なりと思索的な局面で、おもに「何が正しいか・真理とは何か」について考えるための基準で、これを「正・不正の基準」と呼んでおきます。個人を離れ、大局的な見地から見て「何が正しいか」を考える時に準拠する基準のことです。 そこで、veilsidefto様がお尋ねの 「通常の思考・知識」は、主として前者「要・不要の基準」に関する認識を深め、「哲学の思考・知識」は、主として後者「正・不正の基準」に関わる認識を深めるものと思います。ただし、区分は必ずしも明確ではありません。特に、「哲学の思考・知識」は、広く「いかに生きるか」の問題にもかなり深く関わりますね。ちなみに、すでによくご存知かも知れませんが、哲学(philosophy)の語源は、philo「愛」+sophy「智」、すなわち「智を愛すること」であると言われます。 ごく大雑把に図式化しますが、我々は上の「2つの判断基準のうちのどちらをどの程度重視するか」によって、個々人の価値意識なども変わってくるのだと思います。
- 雪中庵(@psytex)
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どちらも「認識の深まり」という共通点はあります。 ただ、通常は日常生活や必要に迫られた生産行為の中で 必要とされる実用的知識としての、現象的多様性や直接的 に作用する原理性に関わる認識の深まりであるのに対し、 「哲学的」という場合は、そうした日常的営為に対具体的な 因果関係を伴わなずとも、未知への好奇心や長期的将来 に対する不安などにより、認識自体の深まりを目的とした ものだと言えます。 (もちろん心の安寧や生き方の確信といったものを具体的な 利益というなら、哲学も具体的な得をもたらすものですが)
お礼
回答ありがとうございました。大変わかりやすかったです。