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エホバの証人の輸血拒否を非難する人の矛盾点
エホバの証人の輸血拒否問題について、私は以下のような見解を持っています。 要するに、医学界がエホバの証人の患者の「命と信仰の両方を救う」医療技術を一般的に提供できるようになれば、完全解決するという見解です。 よければ、お読みいただき、ご指摘・感想等をいただければと思います。 尚、Okwaveから議論を禁止されています。でければ、回答者お一人につき一回答で完結という形でご投稿願います。 ----------------- (要点): ●人はそれぞれ「命よりも大事なもの」を持っており、時にそのためには命をさえ懸けることがあるという事実。 ●結局、あなたが気に懸けているのは何? 患者の命? それとも、信者に信仰を捨てさせること? ●エホバの証人の信仰を変えさせるのは困難。それよりも、「命と信仰の両方を救う」医療技術を提供する方がはるかに近道。 ●医学界があまり真剣に動かなかった原因の一つは世論にもある。「信仰より命を選ぶべき」という非難的な世論は、「命と信仰の両方を救う」医療技術の促進を妨げている。 ●それは矛盾していないか? ----------------- (最後のまとめから引用) もう一度、尋ねます。あなたの動機は? 患者の命? それとも彼らの棄教? そして、もう一つ、患者が命と信仰の両方をとってはいけませんか? さらに、そのような医療技術を医学界は提供する能力がないのですか? ----------------- (本文): <人には命よりも大事なものがある> よくある考え方だと思いますが、「命が何よりも一番大事。だから何があっても助けなければならない」という正義感、使命感のようなものが根底にあるのかと思います。それはそのとおり。しかし、「命が一番大事」というのは正確には事実ではありません。 逆に「命以上に大事なものが何かありますか?」と聞かれたらどうでしょうか。家族とか特に子供のためなら、あるいは自分の仕事や研究のためなら命を懸けてもいいという人もいるかもしれません。確かに、時として自分の命を投げ出してでも守りたいもの、成し遂げたい目標などがあるものです。 一方、「自分の命さえ救われれば、何をしてもいいんだ(仕方がないので)」という考え方は上の考え方と比較し時、どう評価しますか? 例えば、飢きんの状況で、餓死寸前、食べる物は何もない状況、しかし、ある人が、先に死んだ人の肉を食べよう、と言い出した。そういう状況で、「いや、どんなに苦しくとも道義に反することはできない、さもなくば潔く死のう」という人と、「やむを得ない。こういう状況だから、食べたくはないが食べよう」という別の人。両者をどう評価しますか? (あなたにも「たとえ何があってもしてはいけないと思っているもの」があるでしょう?という意味) 時として、人は道徳・正義・主義・思想を守るために命を懸けることがあります。例えば、昔、強姦されそうになった女性が辱められて生き恥をさらすよりは、と舌を噛み切って死ぬこともあったかもしれません。そのような道徳観念は十人十色ですが、エホバの証人にとっては他人の血液を自分の体に入れるという行為を本気で受け入れられないと考えており、強制された場合、それは強姦されたも等しいとさえ考えているほどです。 このように、ぞれぞれ人は命よりも大事なものを持っているものです。それは各自で異なりますが、エホバの証人の場合はそれが神への「信仰」であるということです。したがって、「命<信仰」と考える彼らの命を救うには、彼らの命だけでなく、信仰をも考慮しなければならない、ということになります。 <あなたの動機は?> しかし、あなたは本当に信者である彼らやその子供たちの命を気遣っているのでしょうか? それとも、ただ、信者に信仰を捨てさせようとしているのでしょうか? 恐らく、ほとんどが前者でしょう。では、なぜ、「命<信仰」と真剣に考えている彼らに「命か?信仰か?」と二者択一を迫るのでしょうか? その両方をとることは許されないのでしょうか? <完全解決策は、「命の信仰の両方を救う」医療技術にある> 信仰は当人にとっては時に命よりも重要視されるという事実を認めるなら、それらをも同時に救い得る方法を検討していくべきではないでしょうか。あの大ちゃん事件から27年。日本の医学界がエホバの証人のような信者の「命と信仰の両方を救う」医療技術をすでに提示していてもよいはずではないでしょうか? それまで何をしていたのか? それともそれだけの技術がないから? それとも、そもそも、そのような努力をしなかった? エホバの証人の輸血問題を非難しても、患者である信者、また子どもたちの命は救われません。どんなに非難しても、彼らの考えは変わらないでしょう。 それよりも、本当に彼ら、また彼らの子どもたちの命のことを気遣っているのであれば、繰り返し言っているように、「命と信仰の両方を救う」医療技術を提供できるように医学界が努めることが最も近道です。日本の医学界にはそれを成し得る能力があります。一部そのような技術を提供しているところもあります。もし、その技術がごく一般的な標準医療となれば、このような輸血拒否問題などはなくなり、完全解決するでしょう。 <非難は矛盾していないか> もう一度、尋ねます。あなたの動機は? 患者の命? それとも彼らの棄教? そして、もう一つ、患者が命と信仰の両方をとってはいけませんか? さらに、そのような医療技術を医学界は提供する能力がないのですか? 「信仰よりも命を選ぶべき」という非難的な世論は、医学界が真剣にそのような新たな医療技術を導入する妨げとしかなっていません。それは非難している人々の思惑とは矛盾していませんか? 患者の命を気遣いながら、その命を救う(信仰ごと)方法の普及を妨げているのです。 むしろ、「命と信仰の両方を救う」べき、との世論が強まるなら、医学界もそれに応じて、真剣に新しい医療技術を導入することになるでしょう。
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- aokisika
- ベストアンサー率57% (1042/1811)
質問の意図がわからない。 >要するに、医学界がエホバの証人の患者の「命と信仰の両方を救う」医療技術を一般的に提供できるようになれば、完全解決するという見解です。 そのような技術はすでに存在し、実用化されています。 >よければ、お読みいただき、ご指摘・感想等をいただければと思います。 何かを知りたいわけではなく、単に感想を聞きたいだけなのですか? >人はそれぞれ「命よりも大事なもの」を持っており、時にそのためには命をさえ懸けることがあるという事実。 全く同感です。 ガンにかかった医師がいました。彼は、自身のガンの治療に時間を費やすことで、自分の患者の治療をできなくなることを嫌って、自分のガンの治療を拒否し、死ぬまでの時間を患者の治療をすることに費やし、死にました。 彼は、「患者の命を救いたい」という使命感から自身の治療を拒否したのです。 質問者さんは、エホバの証人の信仰と比べて、この医師の使命感のほうが程度が低いのだ、と主張したいのでしょうか? この医師は、他人の生命と他人の生活を守り、他人を幸せにするために自分の生命を捨てました。エホバの証人が自分個人の信仰を守ると誰が幸せになるのでしょうか? 結局信者が気にかけているのは何?自分以外の誰かの幸せ?それとも自分自身の信仰? 医学界は、信者の命を守るために、自家血輸血や出血を最小限度に抑える手術方法などを開発しました。しかし信者は何をしましたか?信者が自分の個人的な信仰を守ることで誰かを幸せにしましたか? 誤解のないように言っておきます。わたしはエホバの証人のこの生き方を否定しません。しかし、この自分個人の信仰を優先する生き方が、他人の生命を優先する医師の信念よりも程度が高いものであって、他者の生命のために自分の命を捨てる行為がレベルの低いものだという意見に反対しているのです。 >医学界があまり真剣に動かなかった原因の一つは世論にもある。 それは少しはあったかもしれませんが、医学界が真剣に動かなかった最大の理由は、 「自分個人のための信仰よりも、多くの他人を救うという信念の方がより程度の高いものだ」と医学界が考えていたからです。 もう一度尋ねます。信者の動機は?個人の信仰?誰か他者の幸福?それとも神様の方が他人より大事なのですか?だから、自分個人の信仰を守ることよりも、患者の命を助けるために自分の命を犠牲にする行為の方が低レベルだと主張しているのですか? >患者が命と信仰の両方をとってはいけませんか? かまいませんよ。それを私は否定しません。私が反対しているのは、信仰が大事なのだから、自分の命を捨てて患者の命を助けることは程度の低いことだ、という主張です。 >さらに、そのような医療技術を医学界は提供する能力がないのですか? もうすでに実用化されています。現状では緊急の場合はまだ難しいのですが、緊急の場合にも使える方法を研究中です。そして、「信仰が大事だから医療技術を開発しろ」というのは、「患者の命が大事だから自分の命を犠牲にする」医師の使命感を、信者の信仰よりも低いものだと主張している以外の何物でもありません。医学界は輸血をしないで済む方法を研究していますが、エホバの信者は信仰を守ることによって誰を幸福にしようとしているのですか? 結局のところ、自分の幸福のために他人の信念をないがしろにしているようにしか見えません。 もう一度尋ねます。エホバの信者は、輸血を拒否することによって誰を幸福にしようとしているのですか?
- tamoht
- ベストアンサー率43% (60/137)
医学と宗教とをいっしょこたにしないでください。あなたの質問を読んでいると一見理論的に見えますが結論的には自分の考え(もちろん信仰から来ているのでしょうが)を強引に医学に押し付けて、医学を否定しながら医学に甘えているのではないでしょうか。医学は、あなたの信じる宗教のいうことなどかまっている暇はないのです。純粋な学問と最先端の技術によって最適な治療方法を即座に判断して人の命を救わねばならないのです。命と信仰の両方を救うことなど緊急の事態に考えていられますか。それを要求するなら、医学を頼らずに自分たちの宗教で、命と信仰の両方を救うことのできるエホバの神父様を養成すればいいのでは。結局あなたの信仰する宗教は、全面的に医学に頼らざるを得ない状況にありながら、一方では医学の邪魔をして甘えているにすぎません。早くエホバ医科大学でもつくればどうですか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに、その点で、他者に頼らず、エホバの証人自身が病院を建て、独自で医療技術を開発すべきとの意見もありますが、それも一理あるかとます。 また、よければ、他の回答者さんへのお礼もご参照ください。
>むしろ、「命と信仰の両方を救う」べき、との世論が強まるなら、医学界もそれに応じて、 >真剣に新しい医療技術を導入することになるでしょう。 医学はそんなに暇じゃない。医療技術を開発するのなら、もっと優先順位の高いことがいっぱいあると思います。 敢えて過激な意見を書きます。 「命と信仰の矛盾」を解決したいのなら、何も医者に矛盾を押し付ける必要はない。輸血が必要なほどの大けがを負ったら、助けなど呼ばず、その場で自殺しなさい。そうすれば医者も悩まなくて済む。 だいたい、「命は惜しいけど、信仰は曲げたくない」と言う根性が気に食わない。知らない間に輸血されて、助かった患者が、医者を訴えたなんていうのは論外。訴える前に、大けがをしてしまったと言う自らのミスを神様に謝罪して、ビルの屋上から飛び降りなさい。それだったらまだ筋が通る。 人の命を助けるために、自らの命を賭ける人だっているのだ。そこまでいかなくとも、普通の人だって、命がかかっていると言う話になったら、自分のことは置いておいても救命のために努力を惜しみませんよ。ところが、そのあげくに「輸血はいやだ。輸血するのなら助けてくれるな。」なんて言われたら、私だったら腹が立ちます。そんなことを言うのなら、最初にとっとと死んでくれ。人騒がせもいいとこだ。 血液の代替がほしいなんて、馬鹿言うんじゃねえ。世の中には、本当にどんな手段を尽くしても助からない病気の人がいるんだ。その人たちを救う方が先決でしょう。命より信仰が大切なのなら、どうぞお好きにすればよい。人の迷惑にならないように、助けが来る前にさっさと死んでください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに少々過激かも。しかし、やはり、それは反対側の立場に立って考えると、医師としては命を救うという使命があるのに、それをむざむざ見殺しにしなければならない、うーん、確かにそれも酷ですね。「そうすれば、医者も悩まなくて済む」とこと。そうですよね。 「君が(宗教的な)信念を貫くというのなら、私も(医学的な)信念を貫くよ」と医師がたとえ言っても、その対象が患者の命・生き様なので、本人の意思が尊重されるというのが現実。でも、医師にもストレス・・・。 ですから、よければ、輸血なしでもできる先進的な治療法を導入することが両者の益となるのではないでしょうか? 「輸血しない」、「いやすべき」の論争は平行線のまま。それより、医学的な解決を! しかし、医学にはそういう余裕はない、とも。その点で、他者に頼らず、エホバの証人自身が病院を建て、独自で医療技術を開発すべきとの意見もありますが、それも一理あるかとます。 また、よければ、他の回答者さんへのお礼もご参照ください。
yangmaskさん、こんばんは >>それともそれだけの技術がないから? それとも、そもそも、そのような努力をしなかった? 以前TVで赤血球の代わりになるものを人間の体内に入れてというのをやっていました。 多分研究を進めれば人工血液を作ることは可能なんじゃないかと思います。 もう出来てるのかわかりませんが。 ただ残念なことに世界的にお金が全てーお金が神様みたいになってますので、人工血液が出来ると自分たちの利益が脅かされる人たちが反発して作らせないとかあるのかもしれませんね。 私の個人的考えでは信仰ー信じて仰ぎ見ると言う事から、真実を知り理解すると言うことがどうしても必要な気がします。 人間は死んだらどうなるのか? あの世はあるのか? 世の終わりーイエスは来るのか? 宇宙の果ては? 人類の起源は? 神とは本当はどんな存在か? 等分からないことだらけですので、こういった事を人類が本当に理解しない限り、あらゆる物事は解決しないような気がします。 ただ上記のようなことを理解するには、あと何百年か何千年かかる分かりませんので >>「命と信仰の両方を救う」医療技術を提供できるように医学界が努めることが最も近道です おっしゃるとおり命を救いたいという気持ちが医学界にあるなら(ないかもしれませんがー以前保険証を止められていた時、病院に電話をして保険証が止められてるが、検査は幾らかかるかと問い合わせてから病院にいったら、医師と看護師が話をしていて 看護師ー先生先ほどの電話の患者さんどうしますか?来たんですけど 医師ーなんだよ来ちゃったのーしょうがねえな 看護師ーどうしますか? 医師ー来ちゃったら見なきゃしょうがないじゃん 私が入って行くと 医師ー苦虫を潰したような顔でー何だ、どうした、どこが悪いんだ その後の検査も超適当 こんな感じですので、医者も利益第一で人の命なんかどうでもいいと言うのもいると思います。 なのでやはりお金儲けにならないことはやらないといいますか、そんな感じで何時まで経っても何も解決しないんだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに、新しい先進的な医療技術が浸透しない理由の一つはそういうことにあるのでしょうね。しかし、病院も経営が必死で、別途に新しい技術導入のための研修・機器のコスト・そしてリスクなどを抱える余裕がないということなのでしょうね。 その点で、他者に頼らず、エホバの証人自身が病院を建て、独自で医療技術を開発すべきとの意見もありますが、それも一理あるかとます。 また、よければ、他の回答者さんへのお礼もご参照ください。
- osujiji
- ベストアンサー率55% (82/147)
●人はそれぞれ「命よりも大事なもの」を持っており、時にそのためには命をさえ懸けることがあるという事実。 否定はしません。その結果、命を失うことになろうと、それはすべて自己責任。 ●結局、あなたが気に懸けているのは何? 患者の命? それとも、信者に信仰を捨てさせること? 日本ではほとんどの人が命と答えるでしょう。 もちろん、私も命と答えます。 ただ、本人の意思(信仰)で輸血を拒否するならば、信仰を捨てさせる必要はないと思います。それで助からなかった場合も自己責任。 ●エホバの証人の信仰を変えさせるのは困難。それよりも、「命と信仰の両方を救う」医療技術を提供する方がはるかに近道。 近道でしょうか? いくら医学が発達しても、怪我をすれば出血するわけですし、出血量が多ければ死ぬのですから、輸血が全く必要なくなることはないと思います。 つまり、いくら医療技術が発達したとしても、すべてのエホバの証人の命と信仰の両方を救うことは不可能ということです。 ●医学界があまり真剣に動かなかった原因の一つは世論にもある。「信仰より命を選ぶべき」という非難的な世論は、「命と信仰の両方を救う」医療技術の促進を妨げている。 医療技術の進歩を妨げているとは思いません。 なぜなら、輸血なしで手術できるならそれに越したことはなく、どうすれば、出血を少なく出来るか、傷を小さく出来るか、早く回復できるかを考えて、医学は進歩しています。 その結果、輸血を必要とする場面は、以前に比べ減っています。 ●それは矛盾していないか? 矛盾していません。 エホバの証人のことを考えているわけではありませんが、医学は進歩しています。 繰り返しますが、信仰より命を選ぶべきという世論があったとしても、医学は進歩しています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私も医学の進歩を願います。そして、医学が万能ではなく、すべての状況において救いとはならない点も承知しています。 しかし、現段階で無輸血での治療法は存在しており、それが普及・一般化するならこの問題の発生件数は完全になくなることはないとしても、減少はするでしょう。 すべての症例に、とは言いません。しかし、もっと積極的に先進的な医療技術の普及が浸透することで、できるだけその件数を減らし、結果、幾人かの命と健康が救われればと思っています。 また、子供の命については、他の回答者さんへのお礼をご参照ください。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1962/11743)
所詮キリストの教えなんてそんなもん
お礼
ご回答ありがとうございます。よければ、他の回答者さんへのお礼もご参照ください。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
●人はそれぞれ「命よりも大事なもの」を持っており、時にそのためには 命をさえ懸けることがあるという事実。 ↑ 現代日本は生命至上主義をとっています。 私は前からこれを苦々しく感じていました。 なによりも生命が大切だ、というのでは 他の動物と同じです。 生命よりも大切なモノがある、という考え方 には賛同します。 ●結局、あなたが気に懸けているのは何? 患者の命? それとも、信者に信仰を捨てさせること? ↑ 正直にいいます。信者の命など何とも思っていません。 ただ、子供は独立した人格ですから、己の信仰を理由に 子供の命を損なうようなことは許されないと考えます。 子供を食べても良い、という宗教があったら、それも肯定 するのですか? 子供を興味本位で生体解剖してよい、という宗教があったら それも肯定するのでしょうか? ●エホバの証人の信仰を変えさせるのは困難。それよりも、 「命と信仰の両方を救う」医療技術を提供する方がはるかに近道。 ↑ 近道かどうかは判りませんが、それが最善なのは議論する までも無いでしょう。 ●医学界があまり真剣に動かなかった原因の一つは世論にもある。 「信仰より命を選ぶべき」という非難的な世論は、「命と信仰の両方を救う」 医療技術の促進を妨げている。 ↑ そういう医療技術が確立されるまでの間はどう評価するのでしょう? 本人は勝手ですが、子供の命はどうなるのですか。 やはり非難はすべきだと思います。 ●それは矛盾していないか? ↑ 子供の命、という点からは矛盾していません。
お礼
まったく、私も痛ましいことだと感じています。 しかし、親が「自分は死んでも絶対に受け入れない」と信じている行為を、子供にならさせてもかまわない、とは普通考えられないでしょう。 それに、一番泣いているのは信者である親自身であることは明白です。親としては、自分が死ぬよりも自分の子供が死ぬのを見ることの方がはるかに苦しいかと思います。それでも、彼らは信仰を曲げない。これは本物の信仰か、それとも異常なのか? いずれにしても、このようにして、子供がむざむざ死ぬのを手をこまねいて見ている必要があるでしょうか? 医学的に救えるのであれば、是非救ってあげるべきではないでしょうか? その点で、他者に頼らず、エホバの証人自身が病院を建て、独自で医療技術を開発すべきとの意見もありますが、それも一理あるかとます。
- sinran1q43
- ベストアンサー率0% (0/6)
医療機関は人命を救う事を最優先信仰は二の次です、信仰に反するなら受信せずに天国で救いを求めるしか道は無い、人間今の処何時かは死ぬのだからエホバの証人が信じると通りにさせましょう。 だが信仰の何かも分別が付かない自身で判断できない者にまで拒否させるのは絶対に!!!アキマヘン!!!
お礼
まったく、私も痛ましいことだと感じています。 しかし、親が「自分は死んでも絶対に受け入れない」と信じている行為を、子供にならさせてもかまわない、とは普通考えられないでしょう。 それに、一番泣いているのは信者である親自身であることは明白です。親としては、自分が死ぬよりも自分の子供が死ぬのを見ることの方がはるかに苦しいかと思います。それでも、彼らは信仰を曲げない。これは本物の信仰か、それとも異常なのか? いずれにしても、このようにして、子供がむざむざ死ぬのを手をこまねいて見ている必要があるでしょうか? 医学的に救えるのであれば、是非救ってあげるべきではないでしょうか? その点で、他者に頼らず、エホバの証人自身が病院を建て、独自で医療技術を開発すべきとの意見もありますが、それも一理あるかとます。
- zipang_style
- ベストアンサー率20% (425/2050)
長文なので本文の拝読は割愛しています。 成人が治療の際の輸血を拒否することは構わないでしょう。 信仰と関係無しにウイルス感染を怖がる人でも拒否をするでしょうし。 ただ、未成年者とりわけ幼児や新生児に至っては、 本人の意思というか本能的には「存命」を選択するハズなので 親の信仰の関係無しに、倫理を優先した治療を行うべきかと思います。 入院したことがあれば判るかと思いますが、 代議士、大企業の経営者、高級官僚もホームレスや犯罪者だって 医者は、ただの「一患者」として同レベルで見て治療しているんですよ。 なので、「親公認の子どもの見殺し」状態を放っておくのは異常な対応(措置)に過ぎません。 医師が精神的に病んでしまいます。 医師は、親(保護責任者)の承諾無くして、勝手に手術や輸血は出来ないからそうしているまでであって 書類が必要な措置をする際にサインを求めているだけです。 日本の医療現場に信仰なんて関係ありませんので、余計なものは持ち込まないことが大切です。
お礼
まったく、私も痛ましいことだと感じています。 しかし、親が「自分は死んでも絶対に受け入れない」と信じている行為を、子供にならさせてもかまわない、とは普通考えられないでしょう。 それに、一番泣いているのは信者である親自身であることは明白です。親としては、自分が死ぬよりも自分の子供が死ぬのを見ることの方がはるかに苦しいかと思います。それでも、彼らは信仰を曲げない。これは本物の信仰か、それとも異常なのか? いずれにしても、このようにして、子供がむざむざ死ぬのを手をこまねいて見ている必要があるでしょうか? 医学的に救えるのであれば、是非救ってあげるべきではないでしょうか? その点で、他者に頼らず、エホバの証人自身が病院を建て、独自で医療技術を開発すべきとの意見もありますが、それも一理あるかとます。
- tsuyoshi2004
- ベストアンサー率25% (665/2600)
医療においては患者本人の希望で延命治療を行わないことも多々あるし、治療方法の選択権は一定の範囲でも患者本人にあると思います。 問題は、「エホバの証人」の信者でもない患者の家族(主に子供)が、信者である家族のエゴで適切な治療を受けられないということでしょう。 世の中のほとんどの宗教には、修行であったりその信仰の一部で、自らの肉体(命)を(その宗教の)神に捧げるということは行われていた(現在も行われている?)と思います。 このことについては(その宗教を信じない)他人がとやかく言えることではないと思います。 ただ、信者の家族であっても本人以外の肉体や命を犠牲にするのはやはり理解できません。
お礼
まったく、私も痛ましいことだと感じています。 しかし、親が「自分は死んでも絶対に受け入れない」と信じている行為を、子供にならさせてもかまわない、とは普通考えられないでしょう。 それに、一番泣いているのは信者である親自身であることは明白です。親としては、自分が死ぬよりも自分の子供が死ぬのを見ることの方がはるかに苦しいかと思います。それでも、彼らは信仰を曲げない。これは本物の信仰か、それとも異常なのか? いずれにしても、このようにして、子供がむざむざ死ぬのを手をこまねいて見ている必要があるでしょうか? 医学的に救えるのであれば、是非救ってあげるべきではないでしょうか? その点で、他者に頼らず、エホバの証人自身が病院を建て、独自で医療技術を開発すべきとの意見もありますが、それも一理あるかとます。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに核心に迫るご指摘です。まさしく。 しかし、自己の利益のことだけを考えている人が自分の命を懸けるということがあるでしょうか? あるいは彼らは狂信者? 確かに、信仰のために命をも懸けることに意義・大義はあると彼らは考えています。しかし、それがだれかを幸福にする? それは、イエス・キリストの犠牲の死が一体私たちに何の益をもたらしたのか?という議論とほぼ同じです。クリスチャンなら、それは全人類の救いとなったと言うでしょう。しかし、他者には「何それ?」としか思えないでしょう。 それでも、あえて言うなら、エホバの証人が信仰のために命をも懸けることで、「苦しい目に遭えばだれでも神を裏切る」との悪魔サタンの主張を覆し、神の正義の主権の立証に貢献できると考えています。そして、その神の主権の確立のあかつきには、宇宙全体、つまり天使たちと全人類に平和と秩序をもたらす、つまり永遠の幸福につながると考えています。 ところで、エホバの証人のだれも、命懸けで他者を助ける医師を見下すような人はいないでしょう。むしろ、そのような人は高く評価されてしかるべきでしょう。引き続き、医学が進歩し、彼らのような患者でも受け入れられる療法が普及・一般化することを願っています。 その点で、他者に頼らず、エホバの証人自身が病院を建て、独自で医療技術を開発すべきとの意見もありますが、それも一理あるかとます。 また、よければ、他の回答者さんへのお礼もご参照ください。