• ベストアンサー

前田利家と前田慶次郎

どちらも槍の名手ですが どちらが槍使いに長けていたのでしょうか? 義理の叔父と甥の関係で血縁関係は無かったので両者の槍の上手さはたまたま偶然だったと思いますが 利家は 槍の又佐とか 堤の上の槍 と呼ばれたほどの名手だし 慶次郎もそのかぶき者ぶりと槍裁きに秀吉が惚れて100万石で家臣にしようとした程です 甲乙つけがたいとは思いますが どちらがすぐれていたのか教えてください

  • 歴史
  • 回答数11
  • ありがとう数11

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.8

前田利家は赤母衣衆として働き実際に槍により武功をあげたわけですが、慶次郎利益の武功は関ヶ原時であり60前後ですよね?それ以前も前田家の一員として当然戦場に出たわけですが、ほとんど個人としての記録はないわけで、戦場で実際に槍を振るって強かったと我々が判断するのは無理があります。 おそらく歌舞伎者として、演武のごとく人前で槍を振り回すのは強かったが戦場でとなると人並みだったのではないでしょうか? ただし武将としては没落後の上杉家でも厚遇で召し抱えられたのですから、かなりのものだったのでしょう。

azuki-7
質問者

お礼

慶次郎が上杉家に召抱えられたのは 利久が上杉景勝の接待役をしたときのエピソードがあったからです 信長に斬られそうになった利久を景勝が救ったことに慶次郎は恩を感じていたみたいです  それから直江兼続とは親友どうしの付き合いでしたね

その他の回答 (10)

noname#177763
noname#177763
回答No.11

本多平八郎は忠勝の事ですか?

azuki-7
質問者

お礼

はい 平八郎は忠勝ですよ かれの槍が蜻蛉切ですから

noname#177763
noname#177763
回答No.10

あれ? 間違っていました? すみません_(._.)_

azuki-7
質問者

お礼

noname#177763
noname#177763
回答No.9

こんにちは。 juntsuboiでございます。 私の記憶が確かなら前田利家は『蜻蛉切』という 朱色の名槍を信長から受領しているはずです。 前田慶次郎の槍は全てが金属製で、突く・切るだけでなく 殴り殺す事が出来たそうです。 身長六尺三寸の慶次郎ではないと扱えないでしょうね。

azuki-7
質問者

お礼

蜻蛉切は本多平八郎の槍ではないですか?

noname#177763
noname#177763
回答No.7

度々juntsuboiでございます。 確かに滝川一益の甥っ子です。 滝川一益は織田信長が安土城を拠点とし、家督も岐阜城にいる 信忠に譲っていて、信長は一益の事を 「父と思え」と言ったそうですが、 滝川一族の資料は残っているのに、滝川一族出身の なぜ前田慶次郎の資料は少ないのでしょう? 不思議ですね。 前田家から出奔したのがいけなかったのですかね?

azuki-7
質問者

お礼

出奔も何も母が再婚したとき慶次郎は まだがきんちょでしたからね 前田家の人間として扱われているので滝川家に資料が少ないのでは?

noname#177763
noname#177763
回答No.6

再びjuntsuboiでございます。 前田慶次郎の身長は六尺三寸(190cm)と高く、 忍者には不向きだったのでしょう。 ですから前田利久の養子になった可能性は高いですね。

azuki-7
質問者

お礼

前田利久が再婚したので養子になりました 妻の連れ子ですから ちなみに慶次郎は滝川一益の甥です

noname#177763
noname#177763
回答No.5

追伸です。 豊臣秀吉が家臣にしたがったのは、秀吉が 「歌舞伎者を見たい」と所望し、慶次郎が髷を斜めに結い、 お辞儀をする時は顔を横に背けていて、 『髷は正面だけど本当はそっぽ向いているんだよ』という意味でした。 そして秀吉は「大義であった(帰ってよしという意味)」と言い、 慶次郎は帰ります。 秀吉は慶次郎に褒美を与える事を忘れてもう一度呼びます。 その時に慶次郎は正装し「歌舞伎者には用が無いと仰ったので」と 言い、その言動に秀吉は惚れ慶次郎を家臣にしたくなったのです。 槍さばきに惚れ込むのはその後です。 しかしこれも眉唾。 実際に戦っている慶次郎を秀吉は目にしていません。 上杉家の佐渡島出兵と朝鮮出兵も秀吉は現地に行っていません。

azuki-7
質問者

お礼

派手好きな秀吉らしい考えですね

noname#177763
noname#177763
回答No.4

おはようございます。 慶次郎は火縄銃を得意とする滝川一族の忍の出身ですから 資料が少なくて苦労されていらっしゃるのでは? 残っている資料は上杉家が越後から米沢に移されて、 直江兼続に付いていって隠生したので、 米沢に残っている資料くらいしかないでしょう。

azuki-7
質問者

お礼

そうです 元は忍者という説もあります

noname#177763
noname#177763
回答No.3

訂正と追加です。 前田利家は赤母衣衆筆頭。 前田慶次は許可なく勝手に朱槍を持っていました。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

azuki-7
質問者

補足

勝手に持っていたんですか?

noname#177763
noname#177763
回答No.2

こんばんは。 前田利家の方が上だと思います。 前田利家は赤袰隊筆頭でした。 前田慶次の頃は時代的に戦の少ない時代で、比較が難しいです。 朝鮮出兵や上杉家の佐渡島の出兵したそうですが、 それだけでは判断に困ります。 前田慶次の身長は六尺三寸(190cm)といわれているので、 槍の名手といわれても不思議ではありませんね。

azuki-7
質問者

お礼

慶次郎は槍を使えば天下無双と評されていたので 個人的には慶次郎だったのかなと 色々調べるうちに思うようになりました…

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.1

漫画や小説の世界ではなく、あくまでも史料にもとづいた意見として回答します。 前田利家については、前線で戦って武功をあげたことは史料でも裏付けられます。信長の親衛隊の赤母衣衆であったことからも武功が評価されていたことは間違いないでしょう。 では前田慶次はというと、信頼できる史料に書かれた個人の武功と言うものはほとんどありません。史料に書かれているのはどちらかというと軍勢を率いての軍功のようですから、指揮官として優れていたようですが、実際に槍働きが巧みだったかどうかは不明です。優れていたという逸話の典拠を確認すれば、信用できる本かどうかは一目瞭然です。まあ、たかが個人の武功が優れているだけで秀吉が100万石も与えようとするわけがない(有名な賤ヶ岳の七本槍ですら数千石。それも軍勢を率いての武功)ですから、信憑性がないことは典拠を調べるまでもなく明らかですが。 というわけで、実際の槍働きであえて甲乙つけるならば、史料で確認できる利家のほうが優れていたではないでしょうか。

azuki-7
質問者

お礼

そうですね 慶次郎はファッション感覚で槍を持っていたのかも知れないです

関連するQ&A

  • 大河ドラマ「真田丸」に前田慶次は

    大河ドラマ「真田丸」を毎週見ていますが、まだ前田慶次は出てきていません。 前田慶次と言えば前田利家と叔父甥の中で、京都に出奔してからは豊臣秀吉に 気に入られ、上杉景勝に仕官するまで波乱万丈の一生を送った人です。 しかも、上杉家家来の直江兼次や石田三成の家臣、島左近とも友人だったと 言われています。 たしか、「利家とまつ」に前田慶次は出ていたと思いますが、それ以降はでて いません。どうしてでしょうか。 皆さんどう思われますか。

  • 戦国武将の異名

    色々思い出せたのを書いていきます 武田信玄 甲斐の虎 上杉謙信 越後の竜 斉藤道三 美濃の蝮  竜造寺隆信 肥前の熊 伊達政宗 奥州の独眼竜 前田利家 槍の又佐 長曽我部元親 土佐の出来人 高坂昌信 逃げ弾正 柴田勝家 甕割り柴田 丹羽長秀 米五郎佐 九鬼善隆 海賊大名 真田昌幸 表裏比興の者 羽柴秀吉 戦国一の出世頭 前田慶次郎 戦国一の傾奇者 山内一豊 堤の上の槍 今川義元 海道一の弓取り 可児長吉 笹の才蔵 堀尾吉晴 仏の茂助 等々 他にも知ってたらお願いします 思い出したら追加します 

  • 前田利家について語って下さい。

    今年の大河ドラマにもなって注目されている「前田利家」ですが、ファンの方、利家の魅力を語って下さい。アンチファンの方、嫌いな所語って下さい。 ちなみに私の「利家」のイメージですが「信長・秀吉・家康」といった「時の権力者」の傍らにいつもいて、NO.2的立場を得る「世渡り上手」な武将、って感じです。(ファンの方ごめんなさい(^^;

  • 前田利家の死因は?

    前田利家の死因は何でしょうか? 感染症とかでしょうか? 前田利家の死因が感染症とか毒とかだったら、徳川家康に、忍者等(昔の、今で言うCIAやKGBやモサドの暗殺部隊みたいなもの)を使って、何かをかけられたり、入れられたりして、暗殺された可能性があると思います。 前田利家の死因は、感染症とかでしょうか? それとも、毒が疑われたりするのでしょうか? 前田利家の死因は何がもっとも疑われるのかを教えてください。

  • 前田利家の兜について

    大河ドラマ「利家とまつ」をいつも楽しく観ています。 そこでずっと疑問だったのですが、唐沢さん演じる利家が合戦の時にかぶっている兜には、「とんぼ」が逆さまについています。なんで「とんぼ」なのでしょうか?また、的場さん演じる又兵衛の兜には、「むかで」がついているように思うのですが、気のせいでしょうか? 利家は兜だけでなく、とんぼの柄の着物を着ていたりします。 詳しい方、教えてください。

  • 前田利家の名前

    前田利家は、犬千代とか又佐衛門(←漢字違うかも)とか呼ばれてますが、 どういうときにこの名前で呼ぶとか決まってるんでしょうか? あと、利家は前田(又佐衛門)利家で、前田利家ですよね? なぜ前田慶次は、前田(慶次郎)利ます?(なんですよね?)なのに、 一般的に前田慶次って呼ばれてるんでしょうか・・・。 どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてください。

  • 江戸時代に武田家の重臣だった家はひどい目にあったか

    江戸時代に、武田信玄の武田家に仕えていた人達の家は、ひどい目にあわされたのでしょうか? 江戸幕府にとって、徳川家康というのは神様です。 その徳川家康が最も恨みを抱いていたのは、武田信玄の武田家だと思います。 なぜなら、武田信玄の武田家は、徳川家康が今川家の人質だった時代は、徳川家康を一切助けませんでした。 また、徳川家康は、武田信玄に三方ヶ原の戦いで、家臣を多く殺され、自身もひどい目にあわされ、家臣の前で大恥をかかされました。 更に、武田信玄の息子の勝頼の時代、徳川家康は、武田家とのもめごとのせいで、嫡男の信康を切腹させなければならなくなりました。 武田家は、徳川家康と領地を接していて、武田家と徳川家康の間には、いつも争いが絶えませんでした。 武田家は、家康が今川家の人質だった時代には、一切家康を助けませんでした。 この様に考えると、江戸幕府にとっての神様である徳川家康が最も恨みを抱いていた相手は、武田信玄の武田家だったと思います。 毛利家や島津家が、徳川家康と敵になったのは、少なくとも、豊臣秀吉が死んだ後、さらに言えば、前田利家が死んだ後です。 徳川家康は、織田信長のように最初から、天下統一をもくろんでいませんでした。 だから、豊臣秀吉と前田利家が死んで、徳川家康が天下取りを本気で狙いに行くまでは、毛利や島津が家康と敵対することはあり得ないと思います。 一方、武田は家康と初めから敵対関係にありました。 その、江戸幕府の神様・徳川家康と初めから敵対関係にあり、家康が最も恨んでいた武田家の、その重臣とか、仕えていた上のほうの家は、江戸時代に、江戸幕府にひどい目にあわされたような気がするのですが、 どうでしょうか? どうかを教えてください。

  • 秀吉 対家康プラン

     豊臣政権は秀吉死後、家康に簒奪されてしまいますが、 秀吉も生前、家康を潜在的な仮想敵、かなり上位な敵として、 認識していたはずです。それで、晩年までに、 秀吉なりに家康封じ込めの対応策を練り、実施していたはずです。 が、実際には簒奪されてしまいました。何がまずくて、 何が足りなかったのでしょうか?何が誤算だったのでしょうか?  かなり長いので暇な人向けです。お暇なときに読んでお暇なときに 回答どうぞ。  対家康プランとして、 三河から関東に移封し、領内統治に手間暇をかけさせる。 東北仕置きの後の葛西一揆のようなものがおこれば、 それを理由に減封・改易。 実際には難癖をつける隙がなく、逆に土地から一度切り離された 三河家臣団に対して、家康の影響力アップ。  徳川領の周りに徳川とはあまり仲が良くない、または、 徳川を見張る役目の大名を配置。会津には初め大の徳川嫌いの 蒲生、次に、反徳川の石田三成と親しい上杉を移封。水戸には やはり三成と親しい佐竹をそのままに。東海道には豊臣子飼いの 山内、堀尾、中村を配置、尾張には七本槍の福島正則。中山道には 五奉行の浅野長政を配置。岐阜には織田秀信を配置。 蒲生は秀吉より先に病死、上杉は見込みどうり徳川とぶつかり、 逃げませんでしたが、徳川本軍が東海道に行ったのに関東平野に 攻め入らず。いろいろと事情があったかもしれませんが。 佐竹は三成、生前の秀吉からしたらまさかの中立。東海道組は 秀次関連の恨みと時勢を読んだか雪崩を打って徳川へ。おまけに、 武功派の福島正則まで徳川方についてしまい、織田秀信の岐阜城は あっさり落城して降伏。浅野長政はもとより親徳川だったらしいですが。  婚姻政策では秀忠にお江を嫁がせ正室にし、秀頼と家光を従兄弟、 秀頼と秀忠を義理の叔父甥の関係に。豊臣家と縁戚とすることで、 飴を与えると同時に母親同士が姉妹ということでいざという時の 外交ルート、また、衝突防止策になれば、と。実際、そういう動きに なりかけたけど、あまり、役に立たず。お江が正室として秀忠に 働きかけて姉のいる豊臣家への攻撃をやめさせようとしても、 家康・秀忠二重権力のため、効果が薄かった。史実ではあまり 聞かない話だけど、お江の腰回りに豊臣家のモノを紛れ込ませて、 徳川家の情報収集という計画があったかもしれないけど、お江が いる江戸ではなく、家康がいる駿府で政治が決まっていたので、 あまり意味がなし。お江の子が徳川家の家督を継げば、 母親つながりで親豊臣なってくれるかもと思いきや、その世代が 家督を継ぐ前に豊臣家滅亡、というか、正室お江の影響力が 強かったといわれる秀忠が継ぐ前に滅亡。さらに、お江の 影響力が強かった忠長でなく、お江があまり眼をかけなかった、 家康が直々につけた多分あまり豊臣家を好きでない春日の局が 乳母の家光が将軍候補になり、将軍に。  豊臣家中の地位において、秀次死後ではあるけど、五大老の 一人に任命。重要ポジションではあるけど、五人のうちの一人で 集団合議制でさらに五奉行という集団もあり、そもそも、五大老筆頭は 前田利家。枠組みの中にはめ込んでやろうと思っていたのかもしれませんが、 家康より先に利家が死去。前田家が親徳川に。上杉家は立ちふさがってくれたけど、 敗退、減封。毛利家は関ヶ原では本軍が参戦せず、参加した家中の一部が勝手に徳川に寝返って徳川を勝たせてしまう。 さらに空約束で大阪城を退去してしまって後に大規模減封。宇喜多は ガチで徳川と戦ってくれたけど、果たせず、お取りつぶし。五奉行筆頭の 浅野長政は最初から親徳川。石田三成は利家死後に謹慎、上杉討伐の裏をかいて、反徳川を結集させて徳川を滅ぼうとするも、逆に、反徳川をほぼ一掃の結果に。そのほかの奉行も それほど。中には徳川に内通していた者も。     秀吉の病床の本当に最後のほうの時に、家康に豊臣に弓を引かないとの 誓紙を書かせ、「秀頼のこと、お頼み申す、秀頼のこと、お頼み申す」 と涙ながらの哀願をしたそうです。もしかしたら、歳で本気で 哀願したかもしれませんが、あの秀吉の性格と経験上、そんのものはあの 家康には何の意味もないとわかっていたはずですし、誓紙も意味などないとも わかっていたはずです。加藤清正、福島正則等の豊臣恩顧で最後のほうまで 家康より秀頼を優先しようとした大名たちは家康が秀頼忠義の振りを している限り、家康につきしたがっていましたが、そういう意味で 二重三重に家康を縛ろうとしたのでしょうか?実際は秀頼忠義の 振りをして、清正、正則等を反徳川の戦いに利用し、利用価値が なくなれば、時間をかけて削り潰していました。清正たちも内心 ウソ臭さを感じていただろうけど、時勢を読んだのと、三成憎しと、 武功派を中心として自分たちが家康に対しても結束していれば、 秀頼さまを含めて無碍にはできまいと予想して、従っていたのかもしれません。  質問にもどりますが、秀吉が対家康プランとして考え実施しただろう ものを書いてみましたが、間違えているところ、足りないところ、 少しは効果はあったものがあれば、お願いします。  また、多分、こうすれば、もっと家康を封じ込めれた、というものが あれば、お願いします。    多分、予想より利家が早く、家康が長かった。三成の辛抱が足りなかった。 清正、正則は家康を甘く見すぎていたけど、秀吉は清正・正則は家康について きちんと判断できると思っていた。秀吉の予想以上に唐入りの負担が 諸大名にとって重く、その恨みが三成に向かうだけでなく、豊臣家、秀頼にも むかってしまった。秀次粛清で秀次家臣、秀次関連の大名たちの恨みが 予想以上に深く、いくら恨んでいても、豊臣家より徳川家を優先しないだろう 思っていたけど、実際は、ということでしょうか。    

  • 前田利家が後15年生きていたら?

    NHKドラマで利家が諸大名より大きな人望があるように描かれていますが、秀吉末期の家康との位置づけはどうだったのでしょうか?又、仮に後15年前田利家が生きていたら、関が原、夏の陣など世の中が  どう変わっていたと思いますか?ご意見をお聞かせください。

  • 前田利家を「初代藩主」と言うのは何故ですか?

    ほとんどどの表記を見ても前田利家については「加賀藩の初代藩主」と書かれています。 しかし利家の時代は当然「藩」というものは成立していません なので利家が藩主と言う事はありえないと思います。 「加賀前田家初代当主」なら分かりますが。 何故利家を藩主と呼ぶのでしょう?