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欲望(意志の信仰) (I)

codotjtpの回答

  • codotjtp
  • ベストアンサー率26% (40/149)
回答No.3

自己を客体視する認識の主体は其の客体の外部に佇んでいますので、 其の外部の主体を『再起的に』客体視して貰う為には、 別の主体が登場してくれないといけなくなります。 但し、そもそも、再起的な自己認識には、 default対策向けの初期値が準備されていますでしょうか? (上記の内容は『逆説』です。)

yy8yy8az
質問者

お礼

自己を客観視するということは、“内観”と言うことだと思います。 回答文で言っていることが、自分の心をその心から離れて見る、と言うことならば、それは不可能だとおもうので、回答文の様な疑問は起きません。 その様に考えてみても無意味かと思います。 内観と言っても心を二つにするわけではなく、例えれば池に張った水を自分の心とするならば、その心の働く意識は水(心)の中にあってその“水”を観る、という作業だと思うので。 ありがとうございました。

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    一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対的批判 0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 存在を想定してなお模索する。ご検証を。 0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規定することはできる。⇒7‐B。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に基本的に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒(#0) 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。  経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)   可知(認識しうるものごと)     既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)     未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)   不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得るが)  非経験の場(絶対性)   非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド:(*ヒラメキ・**良心) --------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応・恥ぢ) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)       / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神と個別なるわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前がひとによって異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. (12-1)に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。         * 15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2.シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。

  • 宗教批判:一般および個別絶対性理論&特殊絶対性仮説

    0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが むしろ 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 経験的な思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0] 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)     可知(認識しうるものごと)       既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得る)   非経験の場(絶対性)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ        incomprehensible incomprehensibility ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心) ----------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/ヤマシサ反応) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊性なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか・どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。〔ダ・カーポ〕。          15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《経験思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として人知なる思想なのだ。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。(オシへだけなら 中立)。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。  ☆ 添削をどうぞ。

  • 《わたし》なる理論は 哲学プロパーではないか?

     次のような理論は 人生哲学であっても 哲学プロパーなる哲学ではない。という見方が 提出されました。  果たして いかがお考えになりましょう? おしえてください。          *  《わたし》なる理論  1. 《わたし》は 生まれながらにおのが身と心に《アートマン(霊我)もしくはブッダター(仏性)》ないしは《プネウマ(神の霊)》をやどす。《非知》としてのナゾなる神が 霊としてこの世界にあまねく満ちているという想定のもとに。  2. そのわたしは 物心がついてから 初めてのウソをつきイツハリをおこなったとき ふとわれに還る。ウソをウソだと知ることは たましい(感性)がよこしまを嫌い あたま(理性)がそのマチガイをみづから認めることをとおしてである。しかも われに立ち還ったわれは 感性と理性とを含み包む境地としてのわれである。  3. われに立ち還るというのは 自己還帰また自己到来と呼ばれるが 立ち還ったわれは 数として《一》なる存在だとすれば:    (α) わたしは わたしである。 1=1  4. そして立ち還るときの姿としては:   (β) わたしは《わたしがわたしである》わたしに立ち還る。 1x1=1  5. 人はおのれのついたウソからわれに還り 他人(ひと)のイツハリにあざむかれたと知ってやはりわれに還るとき この(β)の言わば自己のさらに二乗を繰り返し 《わたし》を生きる:   (γ) 《わたしがわたしである》わたしは わたしする。        1x1x1x・・・x1=1 すなわち 1^n=1  6. ところで 上の(α)の姿は 人間の意志や思考を超えている。超えた部分をも持つ。存在そのものは 思考した結果得るというものではなく 同じく意志によって得たというものでもない。つまり人間なる存在にとって 生来の所与としての人間の条件である。  6-1. この人間の条件を無条件に受け容れることが 自己の内なるアートマンもしくはブッダターないしルーアハ(神の霊)にめざめることである。  6-2. そのときわたしは アートマンにつうじているブラフマン神もしくはダルマ・カーヤ(法身)のブッダないし普遍の神に向かうなら それについて きよらかなおそれをいだく。ここでわが心なる《非思考の庭》が成る。  7.  非思考の庭 これが 《信仰》のことであるが ふつうはそれは (β)および(γ)における意志行為一般に道をゆづって 背後にしりぞいている。  7-1. 意志行為が 生きることの基本であり 記憶行為や知解行為との連携において中軸を成す。  7-2. 言いかえると 現実に生きる過程において芽を出し花を咲かせ実が成るという場合 中軸の意志のほかに じつは中核として あまり顔を出さないところの・(α)の《わたしはわたしである》その動態がはたらいている。  8. あとは 実際問題としてこの世の中には シガラミがすでにあり よく言えばそれは伝統にかかわって飾りや誉れであったりしつつ よくもわるくも自己の心の・正負の充足にかかわる。これは 空(シューニャ)であるが 仮りのものごととして確かに現象している。  9. 《さとる》とは――つまりすでに生まれつきブッダである者がそのブッダであることを成就するというのは―― シガラミやら栄光の関係やらそれらの縁起(因果関係)から 自由となることである。栄誉からも自由でなくては シューニャター(空性)は捉えられない。  9-1. 生身のまま完全に自由となることは出来なくとも その視点としては 自由を実現することである。生きる過程の問題であってよい。  10. 言いかえると この《自由の視点 ないしそれとしての人間の境地》は 人は社会的動物として関係性において生きているからには つねに他者とともにあって 《〈わたし〉たち》が互いにコミュニケーション過程をとおして 実現しようとするものである。  10-1. ここに(α)の《わたし》にそなわるアートマンは 思考の緑野へと翻訳され 《慈悲――ともだちであること――》もしくは《愛――互いに隣人であること――》という言葉で説明される。  11. ・・・・・・

  •  続きです・・・如来の超絶と内在。

     前回の質問では、求めたい回答が得られず、不発に終わったような感じですが、その回答がここで取り上げる文で得られそうで、でもやっぱり難しい。  +++++  如来の超絶と内在  華厳、宇宙本来十佛の自境界なれば、如来の自中存在の宇宙現象なれば、即ち内在的汎神論なり。それと共に如来自中存在なる宇宙の中に、因分可説、果分不可説とて、如来の内在なれども、世界は意志によりて実現したる客観界なれば、現象即ち如来自性の本質なりと云う可からず。有為転変の世界即ち如来の本質と同一視すべきものに非ざればなり。  神と世界とは、質に於いても量に於いても、世界は有限神は無限、絶対と相対、規定と無規の如く、自然は神の中に没入すとも、神は自然の中に没入するを得ず。本質より云うも吾人の認むる萬物の本質は全く神の本質と同じからず。絶対なると、萬有は相対なると即ち広延と思考を有す。神は万有に超絶的なりと云うべし。  神の本質は絶対的に真善美を以ってす。世界は然らず。華厳には超絶界を十佛自境界とす。即ち如来の自性本質なり。十身とは、衆生身、国土身、業報身、声聞身、独覚身、菩薩身、如来身、智身、法身、虚空身、之を融三世間の十身とす。衆生と国土とは正覚世間となり、中に就いて衆生と国土と業報とを染分とし、声聞縁覚菩薩如来智法の六を浄分、第十の虚空身を圓融無碍とす。一切萬法佛体に非ざるなし。萬徳荘厳、包攝無窮、主伴無盡なり。  如来身を更に十種に分かちて十佛とす。即ち菩提、願、力持、化、意生、威勢、相好、福徳、智、法身なり。此の十身は相互に圓融無碍の徳用を有し十佛は一体のビルシャナなり。ビルの本体は絶対無限なれば、現象界即実在にして一体なれども、甚深不思議の真面目は、釈迦牟尼が所證の境、華厳三昧海十佛の自境界なれば、其の圓満なる本質内容は、吾人の認むる本質を以って全然同一なりと云うべからず。吾人は甚深なる三昧の中に於いて唯其の本質と契合することありと信ずるのみ。  自境界は自ら證入して自知するのみ。何ぞ言説を以って之を説くことを得ん。故に果分不可説と云う。宇宙全一のビルを、一方には表徳として、現象即実在として、色心不二の大日とし、他面には法身如来の本質内容は一切に超絶し、甚深難思、證入のみあって相応するものとし、超絶たる神霊界なりとす。同一のアミダの法身なり。  衆生ビル体内に在って自ら覚知せず、妄に境界を見る。ビル即ちミダの法体。時間空間の形式を超絶したる心霊体。此れを無限光寿と云う。此れ宇宙の本体にして萬物の所依たり。十方三世法報応及び衆生国土の本体。故に楞(?)伽に十方一切法報応及び菩薩及び化身、悉く無量寿極楽国より生ずと。十方三世一切諸佛諸尊の本地とす。  +++++  まず、自境界、が判らない。因分可説・果分不可説、が判らない。規定と無規、広延と思考、などなど判らない用語ばかりで、それでもなんとなくわかったような気になって・・・いや、やっぱり判らないのでどなたか、感想なり解説なりしていただけないでしょうか。  過去の仏典を勉強しなければいけないのかなぁ・・・・・  よろしくお願いいたします。