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落語の名跡の襲名について

落語の名跡を襲名する場合 やはり血統が重視されるのでしょうか 単純に芸の良し悪しではなく 故立川談志師が 私が小さん 円楽が円生 志ん朝が志ん生になるべきと言っておられました

noname#250543
noname#250543
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回答No.2

この場合 「血統」という言葉は使いません 「血統」というのは 血がつながった人のことを言い 志ん朝だけが志ん生と親子ですから使えますね やはり芸の良し悪しです ただし 師匠の流れとあっているかどうかですね 談志の小さんはにつかわしくないですね どちらかというと小三治ですね 小さんの前の名前も小三治でしたし・・・ 談志も若い頃は欲しかったんでしょうね この名前 志ん朝は志ん生でもいいし なんだったら文楽でもいいほどの 実力の持ち主でした 円楽に円生は無理です 亡くなったので当然ですが 円窓がやや近いですが ダイナミックさに欠けますね もう少し時間がかかりそうですね 質問者さまのいう談志の話は ずいぶん若い頃の発言ではないですか?

noname#250543
質問者

お礼

有難うございます 血統 親子でも実力や独自の芸風を確立すれば 上手く行った例もありますね 志ん生 馬生 馬生師は父と弟の間で苦悩した結果あの芸風を確立させたそうです 先々代正蔵 先代三平三平師も純粋に落語をすると下手と云われたが小咄を連発しギャグを確立し人気が出たそうです でもこの方達は父の名を継がなかったですね 談志師の発言は当代小さん師の襲名の時に発言されたと記憶しております

その他の回答 (1)

noname#184314
noname#184314
回答No.1

たしかに、そのとおりです。 ただ、師匠となる人がいて、弟子がいて、その中で 最も師匠について英才教育を受けられるのは、やっぱり その子が一番多いのではないでしょうか。 それゆえ、一門の芸を一番濃く受け継げる人になるので はないでしょうか。 ただ、6代目三遊亭円楽師匠の例もあることですので、 必ずしもということでしょう。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 返信遅れて申し訳ありませんでした。 》たしかに、そのとおりです。 ただ、師匠となる人がいて、弟子がいて、その中で 最も師匠について英才教育を受けられるのは、やっぱり その子が一番多いのではないでしょうか。 それゆえ、一門の芸を一番濃く受け継げる人になるので はないでしょうか。 それは云い得ているかと思います。 》ただ、6代目三遊亭円楽師匠の例もあることですので、 必ずしもということでしょう。 テレビなどによく出ている人が継ぐ→興行的に儲かる マスコミにアピールできる(芸の継承と云う点では批判もある) マスコミの露出は少ないが実力はある人が継ぐ→ それで世間に定着させる(芸の継承としてはこれが妥当) この辺りが難しい処かと思います。

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