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実践理性批判について2

今月の初めから、毎日30分から一時間ぐらい時間を工面して文庫本と格闘しています。本来、読み終わってから質問するべきでしょうが、このままでは年内に終わりそうも有りません(いまだに三分の1ぐらい)。他に読み直したい本や、新しく読んでみたい本もたくさん有ります。恥をしのんで質問させていただくことにしました。 カントに関する質問は沢山有りますので、逆説的に私の困っている原因を説明してみますので宜しくお願いします。 (1)この本では、いわゆる「本能」についての概念が表れていませんが、別の言葉で表現されているのですか。 (2)同時期の道徳哲学では間主観(複数の主観間の事ではなく、単一の主観の中での間主観・たとえばアダムスミスの心の中の裁判官)の考えが有りますが、この本にはまったく見られないのはなぜですか。 他にも疑問点はありますが、基本的には上記2点が原因のような気がします。 外は雨、テレビでは、日本人が死んだと、だれかが深刻な顔をして話しています。 私の傘はどこにあるのでしょうか?

noname#15238
noname#15238

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noname#195872
noname#195872
回答No.1

私は哲学は英語でしか学んでませんので、ご質問者との日本語での議論には参加できませんが、倫理分野での著作家として、カントの本の読み方という面でお役にたてればと考え投稿します。 最初でつまずいても、巻末へいくにつれて分かり易くなりますので、ガンバッテ読みすすめられる事をお奨めします。但し、「実践理性批判」では、他の2著において既に確立されている概念との重複を避けるため、ご質問にある2点が明示されていないのだろうと解釈できるでしょう。「純粋理性批判」や「判断力批判」と並行して読まれるか、先にどなたかの解説書をもう一度読まれては如何でしょう。 1)実践理性批判に本能についての概念が表れていない点 カントの「実践理性批判(1788)」においては、形而上学的な先験的論理(a priori principles)については既に「純粋理性批判(1787)」から学べるため、ここでの理性は、本能のレベル(mataphysicalな範疇)から一段形而下へさがり(例: morality の原則レベルから ethics の規範レベルに降りる様に)、自己の内なる道徳観を信念(faith)以外の理論理屈(reason)として理解認識し実践する努力を訴えており、そのために実践可能な行動規範のフレームワークが解説されています。 2)実践理性批判に道徳哲学上での間主観の概念が見られない点 「純粋理性批判」や「判断力批判(1790)」で確立された様に、主観的判断(悟性というのですか?)の根拠はa priori principles に置かれ、また神の存在等を証明する事は理性(reason)をこえた信念(faith)の範疇にあるために主観による判断の対象となりえない、と理解できる通り、判断を行う主観は常に自然や神学的な秩序を対照しているため、組織的或いは社会的(対人上)の共有できる主観を自己の主観として取り込む事とは枠組が異なると考えて良いでしょう。 +++++ カントの著作をインターネットで日本語でざあーっと目を通してみました。日本語訳は哲学用語満載で無茶苦茶難解で厄介ですね。英語訳の方が普段使う言葉そのままなので格段に読み易いです。 以上

noname#15238
質問者

お礼

やっと解りました。 私は、無意識のうちに理性を「本能・諸感覚・諸感情等の(やじろべぇ)のようなものを想像して」調整機能そのもののように考えていたのかもしれません。 その結果、カントの言う「道徳法則と自由」「意志と自由」のように「理性と本能」が不可分なものと考えていたようです。 確かに、「理性は理性自体で意志を規定できる」とどこかに書いて有りました。ほとんどのページを2度以上読み返しながら、理解していいなかったことを大いに反省しています。 理性を単独で分析するのがこの本の目的ならば(1)も(2)当然の事ですね。 最後までガンバレそうな気がしてきましたが、探し物がこの本の中にない心配が出てしまいました。 大変有難うございました。 御礼の内容の中に訂正を必要とする誤解かあるといけませんので、後日締め切らせていただきます。

その他の回答 (1)

回答No.2

横レス失礼します。 この質問、以前から気になっていたのですが、質問の意味がよくわからなくて、回答できずにいました。 簡潔明瞭な説明を#1さんがすでになさっていらっしゃるので、いまさら何を言う、という観は免れ得ませんが、読んでいただけたらうれしく思います。 カントは『純粋理性批判』で、純粋理性とは何であるか、その源と限界をあきらかにします。 この中で、感性、悟性、理性といった言葉、アプリオリな(先験的)認識とアポステリオリな(経験的)認識、分析判断、総合判断の違い、といった、以降の哲学の土台となる用語の定義づけがおこなわれています。 ですから『実践理性批判』を読む時は、『純粋理性批判』についてのカント自身の著した要約である『プロレゴーメナ』を読んで、『人倫の形而上学の基礎づけ』を読んで、それから『実践……』に進む、というルートをたどるとよいかと思います(実際に私はそう勧められ、その順番で読んでいきました)。 そうした文献を実際にお読みになるのが一番かと思いますが、まずは、いまお読みになっていらっしゃる『実践』をやっつけてしまいましょう。その上でのなんらかの参考になれば。 まず『実践』の目的です。 『純粋』では、先にもいったように、純粋理性とは何かがあきらかにされています。 もし良かったら、 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=651035 の#5で、プロレゴーメナの荒っぽい要約をやっていますのでお読みください。 そこでは省略したのですが、カントは人間の認識能力をまず三つに分けています。 感性、悟性、理性です。 まず人間は感覚を通して、世界を認識する。しかし、そのままでは世界は無秩序で混乱したものにすぎません。 それを秩序ある整然としたものと認識できるのは、人間に直観の形式(時間と空間)が備わっているからである。この直観の能力をカントは「感性」と呼びます。 さらに、人間には直観のほかに、思考の形式も備わっている。そうでなければものごとが単一か多数であるか、あるいは相互の因果性などが理解できないから。こうした質、量、因果を理解する思考の形式を「悟性」と呼びます。 要は「感性」が情報を集めてきて、「悟性」がそれをカテゴライズし、判断する、ということですね。 この感性と悟性が合わさることによって、人間の認識というものができあがっている。 また、こうした「感性」と「悟性」が認識したものごとをカントは「現象」と呼びます。 さらに、もうひとつ。人間には「理性」という能力が備わっている。 それは概念を統合し、類推し、推論する能力です。この能力によって、人間は経験だけでは認識し得ない世界を推理しようとする。 ただ、こうした推論をどこまでも押し進めていくことを、カントは戒めるのです。 人間が認識できるのは、こうした現象界にとどまったもので、世界そのもの(カントはこれを物自体と呼んでいます)の認識は不可能である、と。 こうやって、理性の限界をあきらかにした上で、カントはつぎに進んでいきます。 つぎなる目的は、人間の道徳は、理性に規準づけられたものでなければならないことを証明しよう、ということです。 で、本能、自由、義務について http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=671187 でごく簡単に説明しています。ごくごく単純化して書いているので、『人倫の形而上学の基礎づけ』、どうぞお読みください。 以前苦労してノートを取りながら読んで得た知識の棚卸をさせていただいてます。 そうでなくてもむずかしいんだから、“恥を忍ぶ”ことも“反省”も必要ないです。 それと、お読みになって私の理解が間違ってるところがあったら、どうか指摘してください。 (いつの間に参考URLに自分の回答を載せられるほどエラくなったんだ、というつっこみは、ナシね♪)

noname#15238
質問者

お礼

ご回答有難うございます、お礼の前に質問を締め切ることは初めての事ですが、カント流に言えば、法則とまでは言えなくとも格律に従ったということで、お許し願います。 ご質問の意味が解らなかったとの事ですが、私の目的が、カントの「実理」の内容ではなく、経済学が哲学から独立した当時の事情について、ただ単に、考えるだけだからのような気がします。哲学には無縁の人間にとって、アダムスミスを始め、経済学の始まりの学者にの、ある意味での哲学が残っていた本などと比べ、カントの哲学は違いがありすぎて、正直ビックリして、その違いが質問の動機だと考えています。 それにしても、直観や形式を経験と分離するのか、理性そのものが動機になるのかとか(表現が曖昧ですが)?先に進むことが楽しみになり、こうなれば案外早く読み終えるような気がします。もちろん、理解できたかどうかは別問題と言うことで(笑 質問の前に色々調べましたが、カントに関しては質問が多すぎて困っていました、参考URL助かります。 あらためて感謝いたします。

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