井沢元彦さんの考える『織田信長の大阪の名前』

このQ&Aのポイント
  • 井沢元彦さんの書籍を愛読しているが、『大坂』を名付けたのは信長ではなく秀吉だった
  • 井沢元彦さんの本を読んでも信長が名付けた大阪の名前はわからない
  • 別の機会に信長の名付けた大坂の名前を聞くことになるかもしれない
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井沢元彦さんの考える『織田信長の大阪の名前』

週刊ポストで『逆説の日本史』が連載されたころからの井沢元彦さんの書籍を愛読させていただいてほとんど(私の書籍購買金額の許す限り)読破しているつもりなのですがどうしてもわからないことがあります 1995年発行の廣済堂出版『歴史謎物語(隠された真相を推理する)』の85ページの11行目~16行目の ちなみに、この地を「大坂」と名付けたのは秀吉であるが、おそらく信長ならそういう名前はつけなかっただろう。 その名は? いや、それは別の機会に語りたいと思う。 と書かれたいるのですが『別の機会』として語られている(多分書籍でしょうか??)『信長の名付けたであろう大坂の名前』は一体何なのでしょうか?? 井沢元彦さんの本を数々読んでみたのですがいまだに私にはわかりません お手数ですがわかる人がいればその『別の機会』もしくは『信長の名付けたであろう大坂の名前』を教えていただけないでしょうか?? よろしくお願いいたします

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質問者が選んだベストアンサー

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  • Willyt
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回答No.1

『別の機会に譲ろう』という言い回しは『今はそのつもりがない』という意味です。だから、後にそれを書いたという保証にはなり得ません。全部読破されているならたぶん書かなかったのでしょう。ただ、信長は名門の生まれですから漢籍には詳しかった筈で、稲葉山城を奪取したとき、岐阜という難しい名前をつけました。この事から考えると大坂という平凡な漢字は使わなかっただろうということでしょう。 ちなみに岐阜 の岐は分かれるの意で、阜は高いところ、つまり丘を意味します。また孔子の生まれ故郷は曲阜で阜の字は中国では大変尊重されており、岐の字は岐山という中国の山があり、殷から周に政権が変わるとき、この山に鳳凰が舞い降りたとされるおめでたい字なのです。

その他の回答 (3)

  • toshineko
  • ベストアンサー率44% (258/575)
回答No.4

おっと、こっちはまだ未読でした。 前述の本の焼き直しかな。

参考URL:
http://books.google.com/books/about/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%8F%9B%E9%80%86%E8%80%85.html?id=_mK0AAAACAAJ
  • toshineko
  • ベストアンサー率44% (258/575)
回答No.3

「信長の野望」や「戦国無双」など歴史ゲームもので有名な光栄(現:KOEI)から、 「織田信長伝・覇望の日本(ひのもと)編」-井沢元彦著-が出版されました。 ここでは本能寺で明智光秀の襲撃を逃れた織田信長が天下を統一し、大坂に城を築いたところで終わっています。城の名は「太陽城」でした。したがって都市の名前も「太陽」だと思われます。 http://www001.upp.so-net.ne.jp/heian/oshiro/osakajo.html

tauhaha
質問者

お礼

ありゃ??未読でした 光栄も大好きなのに…不覚でした ありがとうございます

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.2

おそらく『別の機会』も『信長の名付けたであろう大坂の名前』も未発表でしょう。 思いつかなかったのか(史料がないので想像しかできませんから)、そもそも大坂と名付けたのは秀吉ではないという事実誤認に気づいたのかもしれませんね。

tauhaha
質問者

お礼

ありがとうございました

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