なぜ情欲を劣情とするのか?

このQ&Aのポイント
  • なぜクリスチアニズムは情欲を貶めるのか?魂なしには肉の情欲は存在しない。情欲を抑制することは貞潔の一環。
  • なぜ情欲を劣情とするのか?性欲が貞潔に逆らって刺激することが少ない場合は苦労も少ない。クリスチアンの宗教的な教えにより情欲を抑えることが求められる。
  • なぜクリスチアニズムは情欲を劣情とするのか?セックスを行わない場合でも情欲は引き起こされる。情欲を抑えることにより慎み深さが重要視されている。
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なぜ情欲を劣情とするのか?

なぜ情欲を劣情とするのか?  人間の《情欲》をかつてクリスチアニズムは 何故かくも貶めたのか?  たとえばつぎのようにです。そこでの《魂》は 単純に広く《感性》のことだと思います。  ▲ (アウグスティヌス:情欲論) ~~~~~~~~~  魂なしには肉の情欲は存在しないから 確かに情欲を起こすことは 生きており感覚している本性の性質である。だから去勢された男でも情欲が欠けていないで 貞潔がそれを抑制しなければならない。  情欲を駆り立てる燃料が見出されない場合には 性欲が貞潔に逆らって刺激することがいっそう少ないから 苦労もいっそう少ない。しかるに性交の試みが たとえ〔去勢されているがゆえに〕それができなくとも カリゴヌスの恥ずべき行為に至らないように 慎み深さによって抑えられている。彼はワ゛レンティアヌス皇帝の息子の宦官であり 娼婦の告白により醜行の責任を負わされて 復讐の剣によって罰せられたと言われている。肉の実行はなかったとしても 〔情欲が〕肉的な情欲の渇望によって引き起こされなかったとしたら 集会の書ではそこから比喩がつけ加えられて    彼は目で見て 嘆息し 宦官のように処女を抱きしめ    かつ悲嘆している。 (シラの書(集会)30:20)  と語られはしなかったであろう。  (『ユリアヌス駁論』6:14 金子晴勇訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    問題(問い)は 二つないし三つあると思います。  ひとつには まづわたし個人の答えですが これも単純に《なぞの何ものかへの畏れ》の問題だと思われること。その畏れをないがしろにするなかれということ。そのためであり その意味であって 情欲じたいを取り上げるのではないであろう。あるいは情欲をおとしめること自体を意図していないのではないか。  いまひとつには この文章を書いた人じしんが つぎのようにも書いていること。少々クリスチアニズムの特殊な領域にも入りますが。  ▲ (同上 1・5) ~~~~~~~~~  かの全能者は 最初の人(アダムとエワ)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ちあふれる恩恵によって滅ぼしている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いづれの問題点についても これらのことが どうして人間の思惟やその観念として また観念の世界においてこそ唱えられ抱かれ頻々と説かれ やがてはそのような共同の幻想となってしまったのか。これが 三つ目の問いです。  言いかえると 前の二つの問題点は――それらについても 解説や批判を募っているのですが―― いづれも非思考として成り立っていると思われます。しかるに そのことがどうして想像力の問題あるいは知識の問題に成り下がってしまったのか? こういう問いです。  情欲論には 落とし穴があるのでしょうか? どういう落とし穴(あるいは つまづきの石)でしょうか?  さらにあるいは ひとは――もしそうだとしたら――なぜ情欲から離れなければならないのでしょう?

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回答No.1

人類が生物として生きる上での基本的欲求(三大欲求)は、 食欲、睡眠、性欲ですが、この内、前2者が個体を維持する ためのものであるのに対し、性欲だけが体力を使い、あまつさえ タンパク質まで放出する、消耗する欲求なので、性欲は強い 誘引効果があります。 人は、セックスで楽しむから、異性交遊は利己的な行為だと 思っていますが、実は利他的=種の維持なのです。 ただ、「強い誘引効果=快感を伴う」であるがゆえに、 そうした本能的バランスから外れ、意識的行動が優位になり 始めると、「種の意地」から外れて、避妊した上で快楽のみを 楽しみ始めたので、「消耗」はするわ、「種の維持」には 貢献しないわ、何のメリットもない(個体の快楽以外は)もの になり始めたのです。 ゆえに服を着せたり、ワイセツだの劣情だのと、遠ざける 必要が出てきた、ていう。

bragelonne
質問者

お礼

 サイテックスさん ご回答をありがとうございます。  先の質問で 《性愛⇒愛(友情や信頼)》のかたちを基軸としたときに この《情欲》について明らかにしておくべきという課題を持ったように思いました。  そこで ご回答は まづ第一印象としましては ひとことで申せば《ややこしい》でした。  言いかえるならば 答えとしてわたしは たとえば《情欲は 中立だ》というような見方を期待していましたし いまもまだあり得るのではないかとは思っています。  でもまだはっきりしません。  論旨に沿ってみてまいります。  それでもひとことにまとめようと思えば こうなりましょうか? すなわち  (1) 性欲には 第一次のものとそこから派生した第二次のものとがある。第二次のものは際限のない欲望であって これを情欲として・あるいは劣情と捉えて人間は制御する必要を見ているし そうしようとしている。  (2) 第一次の性欲は 食欲や睡眠欲と同じように 自然身体の本能に相当するような欲求であって そのぶんには 《本能的バランス》が保たれるという可能性を持つが しかも同時に 一方で体力を消耗するという性質を帯びているとともに 他方でそれゆえ強い誘因効果が伴なわれてもいる。それゆえこの特徴にもとづく限りで 第一次のそれとしての本能的自然の姿を逸脱することが出来る。非自然としての文化的行為となり得るし あるいはさらに反自然としてでもありうるような人間の意図をかたちづくりその意図にもとづくような意識的行動そのものと成り得るのだ。  (3) 繰り返すならば 第二次性欲は 非自然としての文化行為であるだけではなく あたかもすでに第三次性欲というべき次元において 人間の人間のための人間による性的欲望の様相を呈するようになった。  ☆ この要約については よろしければ文章にあとで添削をしていただくこととして いま特に第二次もしくは第三次の性欲をどう捉えるかを課題とします。  (4) このあたかも人間が自分たちのため〔だけ〕に《創造》したかのような人間に特有の第二次あるいは第三次の性欲は 情欲であり劣情であると認識すべき《悪》なのか?  ★ ゆえに服を着せたり、ワイセツだの劣情だのと、遠ざける / 必要が出てきた、ていう。  ☆ ていうそれなのか? すなわち  ★ そうした本能的バランスから外れ、意識的行動が優位になり / 始めると、「種の維持」から外れて、避妊した上で快楽のみを / 楽しみ始めたので、「消耗」はするわ、「種の維持」には / 貢献しないわ、何のメリットもない(個体の快楽以外は)もの / になり始めたのです。  ☆ というべきしろものであるのか? です。  たぶんその論点としては こうではないでしょうか?  (5) そもそもホモ・サピエンスなるヒトは 本能的自然を超えた知性的存在であるのではないか?   だから その知性による想像力が及び得るかぎりで 自由に振る舞うものだ。   そうして《種の存続》も維持して来たではないか? 何をぐちゃぐちゃ言うことがあるか。  (6) そんなにこの第三次性欲を嫌う・もしくは制御する必要があると言うのならば たとえばそれに伴う《劣情や猥褻感やその他もろもろの〈誘因効果なる手段〉》を欠いても 種の維持は出来るというのか?  言いかえると 第一次性欲なる自然のすがたのみをもってヒトは生きて行けるか?  こうなりましょうか? どうでしょう?

その他の回答 (4)

noname#111961
noname#111961
回答No.5

自然界では本能的(混沌)な状態であり、社会では混沌を分けて明確化しているため、本能的な感情は問題になる。人間だけが善悪をそれだと認識できる。

bragelonne
質問者

お礼

 おそらく――次に―― 第三次性欲の世界については 基本的にまづはやはり良心・信教の自由にもとづくと考えます。  つまりはもう少し具体的には表現の自由にもとづくものと考えますが 〔それでも おそらく〕この性文化とも言われる領域はもしそれが単独分立するというのであれば――つまりは言いかえると 《非自然としての文化のみ》だという野望を抱きこれを果たすとすると―― その動きは 何かとほかの人びとにもまた自分たちにも 人間の生活およびさらには人間の存在にとって非生産的・非建設的なことが起きてくるのではないか。と考えています。  これは つまりその不都合な点というのは ひとことで言って 人びとのあいだの《対話》が成り立たなくなるおそれのことです。  成り立たないとは言わずとも 対話の絡み合いが非常に薄いものになってくるのではないか?  どうでもよいことが多いと思えて来たり しかもそれでもいいかと見なしてしまったり さらにはほとんど同じことですが 相対主義の考えに落ち入ったり つまりは世間がきわめてのっぺらぼうの顔の無い景色に見えてくるのではないか?  そばが延びてしまい 人間のそして人それぞれの持ち味が薄くなってしまう。  それだからでしょうか? 情欲が劣情として貶められるのは。  けれども このときにも《情欲――少しでも自然の引力関係をはたらかせるもの――》であれば これがいけない・だめだとは ならないでしょうねぇ。どうですか?  たとえ第三次性欲の段階にあっても いやしくも泉から水の湧くがごとき自然の万有引力について どうして わるもの扱いするのでしょう?  あっ 分かった。こうではないですか? つまり 自然がわるいのではなく 文化がわるい。わるいのは文化だ。  その文化をつくり〔もて〕あそぶ人間の意志行為のあり方が問題である。自然にわざとさからうような人間の心は 悪である。のではないか?  どうも結構いい結論のひとつにたどり着きましたかねぇ?  いやぁ 何にも考えていなかったのに ここまで来ましたか。  いやぁ ここまで巡礼の道をともに歩いてきたみなさんとともに ちっくと よろこびつつ 自慢しましょうかねぇ? どうでしょう 19841116 さん?

bragelonne
質問者

補足

 19841116 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  今回も たぶん――という言い方はおかしいかも知れませんが―― おっしゃるとおりのように思います。  たぶん  ★ 本能的な感情は問題になる。人間だけが善悪をそれだと認識できる。  ☆ というとき 《本能的な感情――ダイナミズムとしての欲動・情欲――》をどう表わすか / つまりそれをツイ関係においてどのように自己表現の中に組み入れるか / さらにつまりは 要するにどのように恋の相手を口説くか この表現形式に《善悪 もしくは 人として納得のいくものであるかどうか》がかかっている。と思います。  設問のときから考えていたこととしては そのように《情欲》は中立であるという捉え方でした。  ただし No.1で psytex さんの提示された議論とのやり取りで 次のように考えました。つまり このツイ関係において自然にのごとく発生する情欲ないし性欲を その《自然度》において 二つないし三つの段階に分けてみるということでした。  1. 第一次性欲:あたかも自然の力のはたらきとしてのような両性        における互いのもしくは一方からの引力としてのような        欲求。         ツイ関係を形成する以前の自然力学。          * 斥力もあるか? あるがそれは 大きく引力の中におさま       るか? あるいは斥力はむしろあとに出て来る第三次性欲       にまつわる問題か?  2. 第二次性欲:第一次の引力関係なる自然に 人為という意味での       文化つまりその意味での非自然のはたらきがくわわるときの       願望もしくは欲望。        ふつうに ツイ関係を形成しようとする欲求であり すで       に意志行為である。        一般に人の表現としては言葉をつうじて・もしくは 言葉       によって解釈できるかたちをつうじての 《求愛ないし口説       き》を伴なう。  3. 第三次性欲:非自然の第二次性欲に いろんな飾りをつけ加える       ときの意志行為。性文化と呼ばれることがある。        しかも 人間の想像力は極みを知らないかのようで 非自       然としての人為だけではなく 初めの自然の引力関係にさか       らってでも・つまり反自然としてでも その――もはや通常の       ツイ関係とは呼べないまでの――性的な人間関係を繰り広げる       現象にまで広がる。  ☆ 第一次性欲の領域は ちょうど  ★ 自然界では本能的(混沌)な状態であり  ☆ というような情況であり この情況について第二次性欲の発進としてのように  ★ 社会では混沌を分けて明確化している〔。その〕ため本能的な感情は問題になる。  ☆ と考えられます。  すなわち たぶん こうだと思われます。  ( a ) 自然のツイ関係引力は 第二次性欲の段階で――人為的に・社会的に―― おのれの意志行為の内に含むかたちを取り 一般にこの自己表現としての意志行為におさめられる。  ( b ) もし性衝動としてのごとく第一次性欲が第二次の段階で わが意志行為の内に治められなかったとすれば そのときこの自然の衝動的な力に人の意志もしくは理性が屈したというその敗北の承認が 第二次段階における意志行為であると見なされる。  ( c ) これによって 人間の社会におけるツイ関係および二角関係の常識的ないとなみが保障される。  ☆ どうですかねぇ。ちょっと自信がありませんが たたき台にはなるのではないでしょうか?  ★ 人間だけが善悪をそれだと認識できる。  ☆ というときの《善悪》もしくは社会的な妥当性の問題 これは いま上に述べた( a・b・c )すなわち《自然と文化 その調和と葛藤 つまりは 引力と意志(理性)との綱引きのごとき調和と葛藤》について課題となるでしょうし。  あるいは もはや人間のツイ関係ないし性関係という領域があたかも独立したかのように社会文化的に繰り広げる第三次性欲の世界 そこにおける意志行為 ないし人びとの自己表現の形式 これが時には社会の場で問われることになるのでしょうね。  たぶん――の連続ですが―― 先の《意志行為における自然引力にかんする修業》の問題は わたしの結論としては 《たゆたえども沈まず》という答えを得ているのだと考えます。細かいところは省きます。(つまり 成案があるけれど割愛するというのではなく 特別に考えていないし いままだ考えようとしていないという意味ですが)。   

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.4

理由は複雑です。 まず、単純に気持ち悪いからです。 生まれたての赤ちゃんにも性欲はあります。おっぱいを吸う本能がそれです。 しかし、いつしか自我が芽生えて自律しますよね。 だから気持ち悪いのだと思います。興味はあっても、それに近づきすぎると すごく気まずくなって逃げたくなる。そういうものだと思います。 これは、別にかまととじゃなくっても、男性でも、きっとそうだと思いますよ。 何だかわからないものに、恐れているともいえると思います。 何だかわからないもの、これは「神秘」ですよね。 自然の雄大さ美しさに対する気持ちとおなじです。だから、何とか、分かろうとする。 言葉、絵画、彫刻などで。 でも、わからないんですよ。 グロテスクなエロ文化でもそれは分かったと言えません。 分からないから、へりくだって少し離れた位置から、へりくだる文化が エロ和歌です。 離れなければならないのではなく。 離れてしまうのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  これは めづらしいと言っていいでしょうか ご見解ですね。それとも わたしだけがそんな感じを受けるのでしょうか。  言いかえると 情欲というような呼び方とは別物であるような。劣情だとか あるいは 貶めるといった観点とも別物であるような。  ★ まず、単純に気持ち悪いからです。  ★ 興味はあっても、それに近づきすぎると / すごく気まずくなって逃げたくなる。  ★ 何だかわからないものに、恐れているともいえると思います。・・・これは「神秘」ですよね。  ★ 離れなければならないのではなく。 // 離れてしまうのです。  ☆ ふうーむ。ううーん。  ★ 気持ち悪い・気まずい・恐れ・離れてしまう  ☆ いやああああ こんな感じを持ったことはないです わたくしは。(もっとも まづはそのひとを知るというところから入るのをつねとしていたから 情欲というふうな感じは 初めはなかったと言えると思いますが)。  分からないから戸惑うというなら 分かりますが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・だから、何とか、分かろうとする。  言葉、絵画、彫刻などで。  でも、わからないんですよ。  グロテスクなエロ文化でもそれは分かったと言えません。  分からないから、へりくだって少し離れた位置から、へりくだる文化が / エロ和歌です。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ちょっと待ってください。これだと まだまったく知らない段階の・その段階だけの問題ですね。  準備段階として考えるというようなことですか?  いえいえ というより  なぜ情欲と呼び劣情と言うまでにそれを貶めてみるのか。これですよ。問いは。  もちろん 貶めてなどいないし そうする必要もないという答えであるなら それも見解だと思います。それなら 初めに想像していたところの《情欲は 中立である》という見方に近いと考えます。  そこのところは どうですか?  そうして No.3までは No.1でのやり取りの内容を引いていて 性欲には ふつうの自然の欲求と そしてそこから非自然としての文化を交えた情欲 あるいは さらに反自然的な要素が含まれると言わねばならないような錯乱した情欲 これらの種類に分かれると見ていました。あとのふたつは 貶められるであろうと見たわけです。  そこらへんのことは どうですか? よろしかったら どうぞ。  ★ これは、別にかまととじゃなくっても、男性でも、きっとそうだと思いますよ。  ☆ そう言えば わたしは かまととと言われたことがありました。思い出しました。かまくぢらだと言われました。たぶんそれは ちょうど次のようなうたに表わされたことを 男の側にも当てはめた格好が たえずわたしの一面において――あくまで一面だけです――あったからではないかと思っています。   ◆ (旧約聖書・雅歌3:5)~~~  エルサレムの娘たちよ、  わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、  あなたがたに誓い、お願いする、  愛のおのづから起こるときまでは、  ことさらに呼び起こすことも、  さますこともしないように。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  これは ずっとあとになって聖書を読んで分かったことです。そう言えば 何も知らずに こういうふうに――恋愛のどこか一面において――生きていたようだと。対象はいたのですが 《〈愛〉はおのづからは起こらなかった》という意味です。  脱線したようですが そんなところです。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

そもそも、「子を産むことを目的に結ばれる婚姻の契約の節度と情欲的な愛による結合とのあいだ」などと、自分でも訳の分からないことを言っているのさえ分らないご仁の言う事を、崇め祭っていること事態が訳が分らんのじゃ。確かにそんな屑はいつの世にもいるにはいるが、そんなご仁が馬鹿正直に皆に告白して懺悔をすれば良いと言うもんじゃあない。心あるまともな連中なら、情欲には勝てないなんちゅうことを言いながらが女にそんなヤクザな事をやった奴に対して、「あんた悪い人だね、もしかしたらわっちらよりもっと悪い人だね」ちゅうもんじゃ。ところがどうだ。でうす教じゃあ、そんなヤクザ男を、理屈をこねくり回すのが上手いってんで、天国に入れた聖人にしちまっている。そんなもんを天国に入れてやるたあ、でうすちゅう化け物も凄いヤクザもんだね。 前にも言ったが、神学とか何とか訳の分らない理屈をこねくり回したそんなヤクザもんに洗脳された連中が、世界中で少年少女達の性を弄んで、その子供達を不幸のどん底に陥れ、それをまたヨーゼフ・ラッツィンガーなんちゅう輩が自分の地位を利用して、そいつらの責任逃れの策略をしとったんじゃ。 女は駄目だと言いながら、品川や芳町で遊ぶ坊主どもも屑、情欲には勝てないなんて理屈をこねくり回しながら女を弄ぶヤクザもんも屑なんじゃ。世の中には、やっちゃあいけない、取り返しのつかない事もあるんじゃ。後で告白しようが懺悔しようが、最早手遅れっちゅうものがあるんじゃ。そんな事をしちまって、後で、情欲論ちゅう筆の立った書き物を残せば屑じゃなくなるってもんじゃない。そんな、女に手を出せない柔な連中や、情欲だなんだと理屈をつけて女を陵辱する輩の抱く妄想は、まともな人間なら若いうちにもっと真面目に伴侶を見付けて、とっくに卒業しちょるのじゃ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。それにしても ちょとつとはえらい名前にしたもんぢゃのお。  ★ 「子を産むことを目的に結ばれる婚姻の契約の節度と情欲的な愛による結合とのあいだ」などと、自分でも訳の分からないこと  ☆ その場(または一定期間)かぎりの場合とそうでない場合とを言っちゅうんよ。  《契約》はあまり褒めた表現ではない。それには もののあはれを知ることが先行しているはず。繊細の精神を同時にともなっていなくてはならない。  ☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~     やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君   ☆ これは 話が別ぢゃきに。ぶすの色情狂がのたまわっただけぢゃから。馬鹿にするもされるも しないもされないもない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 名誉棄損にならないために おぎなわねばならぬ。要するにこういう表現をするということは  《見てくれによっても 人柄あるいは人格全体をとおしてのまじわり(交通)によっても 男の目を自分のほうに向けられなかったから》と推し測られる。  これで評言はひととおりおしまいぢゃのお。  拾うとすれば:  ★ ヨーゼフ・ラッツィンガーなんちゅう輩  ☆ 語るに落ちる。  ★ 世の中には、やっちゃあいけない、取り返しのつかない事もあるんじゃ。  ☆ それを明らかにするのが この問いぢゃきに。なめたらいかんぜよ。  ★ 情欲論ちゅう筆の立った書き物  ☆ いちおうみとめちゅうがか。なんっちゃあ思っとらんのぢゃないがか。  ★ でうす教じゃあ、そんなヤクザ男を、理屈をこねくり回すのが上手いってんで、天国に入れた聖人にしちまっている。そんなもんを天国に入れてやるたあ、でうすちゅう化け物も凄いヤクザもんだね。  ☆ ローマでうす教が何を言って何をしているか知らんが 《聖人》の定義を知っとくとよか。  異性の身体を求めるという欲動のごときダイナミズムを第一次の性欲とすれば これをわが身に保つも そこから想像力にものを言わせて人為的に《文化》的にありとあらゆる手練手管をもてあそぶことを唯一の目的とした第二次性欲あるいはさらにこの非自然としての文化から何を思ったかあたまをわざと混乱と錯乱に落とし入れ反自然にまで到った第三次の性欲とよぶべき情欲 これらから自由となった状態 このような状態を含む人格においてわが生活態度が確立する(サンキーレ)ということ その確立した(サンクトゥス)境地を 《聖なる(サンクトゥス)》と言う。  ただしアウグスティヌスは 歳を取ってからも 朝起きたらふとんが濡れていたと告白している。  《卒業》はせんぢゃっても 卒業に向けて確実なあゆみを進めているなら それで 人間としては 過程として完全ぢゃきに。どぢゃ?  ローマ教会とそれに対抗するかぎりでのほかのいわゆる組織にもとづく教会 これらの影響をうけとっちゃあ何にもならぬ。それらは ゼロぢゃのうて マイナスと心得ねばならぬ。へのかっぱ。  ▲ (きみはヨブを見たか) ~~~~~~    神はヨブが試されることを悪魔に許した。    ヨブは試された。    悪魔は困惑させられた。  ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。  神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。  ヨブは言っております。    主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。    主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1:21)  と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブが藁ではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。  (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 後で告白しようが懺悔しようが、最早手遅れっちゅうものがあるんじゃ。  ☆ 《手遅れ》と決めるのは 人間のおこなうところではない。ひとがひとを――その信仰にかんして あるいは 人格そのものについて――裁定するなどということは〔それを 宗教組織にあっては おこなっておる〕 あり得ぬ話だ。  ★ 懺悔  ☆ っちゃ なんっちゃ思っとらん。するしないは 個人の信仰に何の関係もない。与えられて受け取るだけゆえ。その後 過去のことを告白する(コンフィテリ)というのは 《あぁ よかった。たも(網)で掬われた。ありがたい。うれしい。みなも聞いてくれ》と言っているに過ぎぬ。強いて言えば それによって《賛美している(コンフィテリ)》。  どうかまぼろしの敵から自由になられたし。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.2

そんなこたあ、女を抱けない柔わな男か、坊主どもが考えることじゃて。アウグスティヌスも坊主じゃったろが。女性方の相手の出来ない奴らは、まともな連中から見るととんでもない邪念を考え始めるようじゃ。今話題になってる、世界中のカソリックの坊主どもの少年少女達への性的陵辱や、それを出来るだけ目立たないように処理して、そんな坊主どもがさらし者にならないように裏で策略したヨーゼフ・ラッツィンガーなんちゅう輩をご存知じゃろが。この男、今ではベネディクト16世とか何とかいう名前に改名して、その責任逃れをしちょる。 これは、でうす教ばかりではないね。女に手を出しちゃいけないなんて言われていた日本の坊主どもも、でうす教の坊主と同じように劣情だらけじゃった。その点が、女性方とうまく行っている尋常な巷のまとも連中とは違うところだ。品川は有名な飯盛置き場じゃった。   品川の客はにんべんあるとなし てらかさむらいかって言っちょるんじゃ。もちろんお寺さんは陰間じゃ。   線香のどらとはさすが和尚なり どらは、放蕩。   一本一分(いちぶ)の線香を和尚立てて 陰間の揚げ代じゃ。線香が時間を計る見番しとった。    芳町は匂ひがやむと迎ひが来  女でも男でもよし町といひ もちろん坊主どもは男だけじゃ。守貞漫稿(近世風俗志)によると、「男色の客は士民もあれど僧侶を専とする也」とある。どうじゃ、情欲だ劣情だなどと言い出してそれに妙に興味を持つ輩は、でうす教の坊主ばかりじゃないことが分るじゃろう。それに坊主どもだけじゃなくて、巷にも、女に縁がない連中に限ってそんな言葉に興味を持ち、そのうちに皆に迷惑のかかる変なことをするもんじゃ。そんな箸にも棒にも掛からない連中は、、   やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君 なんて言われて、女性方に馬鹿にされて来たじゃろが。こんな妄想、まともな人間なら若いうちに伴侶を見付けて、とっくに卒業しちょるのじゃ。女に触れることも出来ず、一皮むけないでいつまでもそんな言葉に興味を示しているのは、異常な心の病気の持ち主ってことじゃないかな。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ そんなこたあ、女を抱けない柔わな男か、坊主どもが考えることじゃて。  ☆ これは  ○ なぜ情欲を劣情とするのか?  ☆ に対する答えがかですろうか? ただ  ★ 女に手を出しちゃいけないなんて言われていた日本の坊主どもも、でうす教の坊主と同じように劣情だらけじゃった。その点が、女性方とうまく行っている尋常な巷のまとも連中とは違うところだ。  ☆ この文章では 文脈から言っても ご自分でも《劣情》という言葉を使っておられる。つまり 《尋常な巷のまとも連中》と同じクラスに属する場合にも そうでないクラスの者の振る舞いに対しては その言葉を使うというところですね。つまり  ○ 性愛論もしくは情欲論についても 或る程度の範囲において共同主観(コモンセンス)を 言葉でも表わしておくことは 課題である。  ☆ と考えられる。すなわち  ★ こんな妄想、まともな人間なら若いうちに伴侶を見付けて、とっくに卒業しちょるのじゃ。  ☆ と言い放っておけるがかですろうか? すなわち 自分たちのクラスに関しては 使わないが  ★ 女に触れることも出来ず、一皮むけないでいつまでもそんな言葉に興味を示しているのは、異常な心の病気の持ち主  ☆ の振る舞いに関しては使わざるを得ないとすれば それは 社会共同の課題であり哲学の考えるところであるとなるだろうねぇ。それとも ばかにしたり 憐れんでやったり あるいはそれでもどうしようもないから放っておくといった方針ですろうか。  ◆ (ヰキぺ:大正天皇) 明治以降の近代天皇制で初の一夫一妻制をとった天皇である。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87  ☆ というように 或る程度の範囲において――成文化しなくても―― 社会の《常識》は現実の問題でもあるようぢゃきに 少しは考える余地はあるだろうね。つまりこの場合は むしろ放っておいた状態から そういう現実になった。そうではなく 《異常な心の病気》であるのなら あつかわなくっちゃならないだろうねぇ。つまり  ★ それに坊主どもだけじゃなくて、巷にも、女に縁がない連中に限ってそんな言葉に興味を持ち、そのうちに皆に迷惑のかかる変なことをするもんじゃ。  ☆ というところの・《坊主クラス》でもなく《まともクラス》でもない連中についても 哲学は声をかけるもんぢゃろうのお。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  そんな箸にも棒にも掛からない連中は、、   やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君  なんて言われて、女性方に馬鹿にされて来たじゃろが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 話が別ぢゃきに。ぶすの色情狂がのたまわっただけぢゃから。馬鹿にするもされるも しないもされないもない。    ▲ (アウグスティヌス:告白) ~~~~~~~~~~  その年ごろ 私は一人の女性と同棲するようになっていましたが それはいわゆる合法的婚姻によって識りあった仲ではなく 思慮を欠く落ち着きのない情熱にかられて見つけ出した相手でした。  けれども私は 彼女一人をまもり 彼女に対して閨(ねや=寝屋)の信実をつくしました。この女性との関係において私は 自分の経験によって 子を産むことを目的に結ばれる婚姻の契約の節度と 情欲的な愛による結合とのあいだに 何という大きなへだたりがあるかを 身にしみて知らされました。情欲的結合の場合にも 子は親の意に反して生まれます。いったん生まれると その子は愛されずにいられなくなるのです。( vol.4 ch.2 )     *  とやかくするあいだに 私の罪は増し加えられてゆきました。そしてこれまで閨をともにしてきたその女(ひと)は 婚姻の妨げとしてかたわらからひきはなされたので 彼女にしっかり結びついていた私の心はひきさかれ 傷つけられ だらだらと血を流しました。  彼女はあなた(神のこと)に向かって 今後ほかの男を知るまいと誓い 私のかたわらに 彼女から生まれた私の息子をのこして アフリカへ帰ってゆきました。  けれどもわざわいにも この女性のまねをすることもできず 二年後でなければ求婚の相手をわがものにできないことを思い 待つ期間の長さにたえかねて 婚姻そのものを愛するよりはむしろ情欲の奴隷であった私は 別の女をこしらえました。もちろん正妻としてではなく その女を 花嫁を迎えるまでつづいてゆく肉欲の習慣の相手にすることによって 魂の病気がすこしも弱まらずに かえってますます重くなり長引いてゆくためでした。( vol.6 ch.15 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~

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     なぜ情欲を劣情とするのか?  クリスチアニズムは 人間の《情欲》をかつて何故かくも貶めたのか?  たとえば次のようにです。  そこでの《魂 anima 》は 《霊〔なるナゾ〕》のことではなく むしろ単純に《動物 animal 》の本能にもかかわるような広い意味(?)での《感性》のことだと思います。  ▲ (アウグスティヌス:情欲論) ~~~~~~~~~  魂なしには肉の情欲は存在しないから 確かに情欲を起こすことは 生きており感覚している本性の性質である。だから去勢された男でも情欲が欠けていないで 貞潔がそれを抑制しなければならない。  情欲を駆り立てる燃料が見出されない場合には 性欲が貞潔に逆らって刺激することがいっそう少ないから 苦労もいっそう少ない。しかるに性交の試みが たとえ〔* 去勢されているがゆえに〕それができなくとも カリゴヌスの恥ずべき行為に至らないように 慎み深さによって抑えられている。  彼はワ゛レンティアヌス皇帝の息子の宦官であり 娼婦の告白により醜行の責任を負わされて 復讐の剣によって罰せられたと言われている。  肉の実行はなかったとしても 〔* 情欲が〕肉的な情欲の渇望によって引き起こされなかったとしたら 集会の書ではそこから比喩がつけ加えられて    彼は目で見て 嘆息し     宦官のように処女を抱きしめ     かつ悲嘆している。 (シラの書(集会) 30:20)  と語られはしなかったであろう。    (『ユリアヌス駁論』6:14 金子晴勇訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    問題(問い)は 二つないし三つあると思います。    (1) ひとつには まづ質問者個人の考えですが これも単純に《ナゾの何ものかへの畏れ》の問題だと思われること。  そのオソレをないがしろにするなかれということ。  きよらかなおそれを保てということ。  そのためであり その意味であって 情欲じたいを目の敵のごとくして取り上げるのではないであろう。  あるいは情欲をおとしめること自体を意図しているのではないのではないか。  (2) いまひとつには この文章を書いた人じしんが つぎのようにも書いていること。   少々クリスチアニズムの特殊な領域にも入りますが。  ▲ (同上書 1・5) ~~~~~~~~~   かの全能者は    最初の人(アダムとエワ)からであれ    その後に加えられたわたしたちの意志からであれ    わたしたちに起こっている悪を   その満ちあふれる恩恵によって   滅ぼしている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (3) いづれの問題点についても これらのことが どうして人間の思惟やその観念として――また倫理観念の世界においてこそ――唱えられ抱かれしきりに説かれ やがてはそのような共同の幻想となってしまったのか。これが 三つ目の問いです。  言いかえると 前の二つの問題点は――それらについても 解説や批判を募っているのですが―― いづれも《非思考の庭―信仰――》なる世界として成り立っていると思われます。しかるに そのことがどうして人間の思考や想像力の問題あるいは倫理規範として過度にこだわったりする問題に成り下がってしまったのか? こういう問いです。  (3-1) 国連人権高等弁務官による慰安婦問題の扱いは 常軌を逸しているように感じられます。  (池田信夫2014年08月25日 : 国連の誤解を逆輸入する「人権派」弁護士     http://blogos.com/article/93087/  )    (4) 情欲論には 何か・どこか 落とし穴があるのでしょうか? どういう落とし穴・あるいは つまづきの石でしょうか?    (4-1) さらにあるいは ひとは――もしそうだとしたら――なぜ情欲から離れなければならないのでしょう? これは (3-1)の問題につながっているかと思われます。  ☆ この問いは 前身がありすでに――ふと見たら――閲覧数が多く 《解決》もされた格好であり また質問者としても回答者とのやり取りをつうじてかなり問い求めをすすめ得たとは思っています。  ただし BA の選択について不覚を取ったとの思いがあり 現在の情況においても いまいちど吟味検証をおこたらず また あたらしい見解への期待をも持って 問うこととしました。突拍子もない見解なりとも自由にお寄せください。

  • 情欲は 罪ですか(続編)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な判断によってその実践として)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。   * 《このようなもの》とは 端的には 情欲です。一般化して    《理想のようなもの あるいは 理念とその美 これらのたぐいを   みづからに心地よい観念としての想像をとおして その表象に自分   から依り憑いていく心の片向き つまりは その弱さ》です。  それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。  しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。  魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。  自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。  (アウグスティヌス:『三位一体論』中澤宣夫訳 12・10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この一節を解釈してください。アウグスティヌスを知らなくても ピンと来る方がいらっしゃるのではないかと思いました。   前編=《QNo.4091848:情欲は 罪ですか =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4091848.html 》

  • 日本人は 魂が去勢されているのでしょうか?

    日本人は 魂が去勢されているのでしょうか?  考えられることとして:  1 暴力団や右翼による脅しを――それらが必然的なことかどうかを別として――含めて 天皇制という禁忌とその観念における心理的な委縮もしくはむしろそのタブーへの賛同。  2 核戦力を持たない者にとって 核の脅威。   3 CIA。  4 昔からもともとだ。   5 その他。  6 いやいや腑抜けなんかではない。このやろう いい加減にせんかい。  アンケートではありませんで ご見解をおおしえください。そして当然のごとく どうすればよいかが問われるはずです。その問いにもお答え願えればありがたいです。  なお私的なことですが この問いは 過去のわたしとのいきさつにかかわらず どなたからのご投稿をも歓迎いたします。いざこざの問題を超えた問いだと思うからです。

  • 今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。変な問いです

    今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。変な問いですね。 私の頭の中から現れたというのは間違いです。さて、どこから現れたのでしょうか。 本当の自分は何かということで悩んでいる方をみます。そして、二元論での回答が多いことに驚きました。 私たちの本性は、外面でもなく内面でもない。時間も空間も超えています。それは私たちの傍に常にあった。私たちは、生まれるたこともなく死んだこともなかった。「自分」というものがあると思っていることが間違いです。私たちの本性は、実在でも、非実在でもありません。時間も空間も存在しません。心も存在しません。魂も存在しません。「色即是空」もありません。「絶対」もありません。「空」もありません。それらは、自我が創り出した幻想です。自我自体も幻想です。自我はどこから来たのでしょうか。 言葉で考えているものは、すべて幻想となります。言葉を観念を離れてください。ありのままをみてください。「色即是空」、「空」を観念でとらえてはいけません。 外の問いを出してみますね。 質問1「一羽のカラスが鳴きながら飛んでいきました。その鳴き声はどこから現れたのでしょう。そしてどこに消えたのか。」 質問2「両手を叩くとパンと音がするでは片手の音はどんな音か。」(禅の公案) 二元論だと答えがでないでしょう。 もし、分る方は回答してみてください。でも、回答した瞬間に間違いとなりますよ。 私は誰か。これを見ているのは誰か。これを聞いているのは誰か。と常に問うてみてください。 私は誰か。この問いは、どこから現れますか。そしてどこに消えますか。 私・・・は・・・誰か・・・。どこから現れますか。 私は誰か。という問い自体には意味はありませんよ。 さて、今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。

  • われわれ日本人は 魂が去勢されていましょうか?

     われわれ日本人は 魂が去勢されていましょうか?  意思疎通がさえぎられていると感じるとき 人は気力が萎え 怒りも憤りをも通り越して 心が凍った状態になりがちです。    ( a ) コミュニケーションの問題――または コミュニケーションが問題――だと見るという場合。  ( a-1 ) 父親または母親との話が 実質的に途絶えたゆえ。埋められない溝が出来てしまった。  ( a-2 ) 兄弟姉妹または身近にいる人たちとの話が 成り立たなくなっている。  ( a-3 ) 学校の先生とのあいだが うまく行かない。  ( a-4 ) 職場の上司との関係が もはや人間的ではなくなってしまった。  ( a-5 ) 政治家や官僚などのアマテラス公務員との関係がこじれた。  ( a-6 ) マスコミとの関係がおかしくなり 相手とのチカラ関係で こちらが不利になってしまっている。  ( a-7 ) アマテラシテ天皇との関係が――想像上だとしても―― しっくり行く感じがしない。  ( a-8 ) 外国との関係。アメリカ? 中国? 韓国? 北朝鮮? ・・・  ( a-9 ) あるいは 自分自身との関係?  ( b ) そのほかの理由や事情によって われらが魂は去勢されているという場合。  ( c ) いやいや われわれは魂が去勢などされていない。バカも休み休み言いたまえというご見解の場合。  ・・・・  展望としては 人間の存在論ならびにコミュニケーション論そして日本人論といった主題だと考えます。  質問者のたたき台は これまでにおこなった設問の趣旨説明やそこでのやり取りが その内容となるとは思います。ここでは特にはありません。  ありませんが 思うところは 《自己主張や議論》の問題です。  ( a-10 ) 《自己主張をするな》という自己主張をおこなっている場合。  ( a-11 ) 《議論をする場ではない》と言って 質疑応答としての互いの問い求めを落としめる場合。  ( a-12 ) 《病院へ行け》という一つ覚えの台詞で回答する場合。  ( a-13 ) これらは けっきょくどうも 《答えを求めてはいけない。正解は出すものではない》と言っているように聞こえます。そのような遺伝子がすでに出来ているのでしょうか?  ( a-14 ) 《あいまいな応答をし そこにちょっとは高尚な専門用語をもちりばめて のらりくらりと けっきょくは事もなく済むように 人とはつきあって行きなさい》とでも言っているようです。このパタンは 刷りこまれていて 消えないでしょうか?  ( a-15 ) 自然科学では 世界の最先端を行く研究がなされていても 社会や人文のことになると 日本人は積極的にバカX阿呆なる状態になって見せる賢い大人にならなければダメだよとでも言っていましょうか?  ( a-16 ) 何のために? 何がかなしくて? 何の因果で?  ( a-17 ) たましいの去勢などは この認識とそれによる自己到来によって その場で一瞬にして 解けるのではないでしょうか。

  • 感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物

     ( a ) ヒトは 時間的な存在である。  ( b ) 時間的なるものには 限りがある。《限りのないナゾなるもの》に向き合いひとは おそれをいだく。相対的な経験世界のうちに生きる存在であることの自覚である。  ( c ) このきよらかなオソレにもとづき 知恵を持つ。境地としての知恵のほかに 理性なるものをも発達させる。  ( d ) やがて 知恵のもとの自由意志は かしこくもか おろかにもか オソレにも逆らい 理性をおのれの都合よいように用いるようになった。  ( e ) そしてさらにこの理性は 意志にも君臨しようとするまでに到る。それだけの発展性は備えていたらしい。  ( f ) その頃には 《無限というナゾなるもの》は 理性が観念としてあたまの中におさめてしまった。《観念の神》の誕生である。のちにこの神――つまり人びとのあたまの中にあるだけの観念の神――は死んだと宣言されねばならないほどだった。初めから死んでいるのに。  ( g ) さてここで突然 この理性が 性欲をめぐって ヘビなる情欲として《観念の性欲》の世界をこしらえてしまった。のではないか? サドとマゾッホらあらゆる想像力を動員して《きよらかな畏れ》に挑戦してみた。  ( h ) 風呂に井戸を掘るたら何たら言う人間は この《オソレ――この上なくつつましやかなひとなる存在のいだく畏れ――》 これをアーラヤ識かどうかは知らないが 深層の心理の中にだけ閉じ込めてしまった。かくて このヰルスに感染したときには 神は ムイシキであるとなった。       *  ◆ 《へび》の問題  § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味  次の文献によって わたしなりの分類をします。   ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html    ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~     (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂     (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ            あらぶる者:悪魔::荒魂     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。     (ε) ゆえに エロスを象徴。     ~~~~~~~~~~~~~~      § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。  併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。  この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。  § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。  言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。  こういう見方を持ちます。  § 4 この場合のムイシキは      (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)        =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ  のことです。  § 5 ムイシキの逆襲(?)  リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。  その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。  すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。  § 6 ムイシキとは 亡霊なり。  ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。  その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。  § 7 聖書におけるヘビの克服物語  イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。  いちおう理屈をつければ こうです。  悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。  イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。  ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。  ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。  § 8 聖書の関係個所を引きます。  ▲(創世記3:14-15) ~~~~  主なる神は、蛇に向かって言われた。   「このようなことをしたお前は   あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で   呪われるものとなった。   お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。   お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に   わたしは敵意を置く。   彼はお前の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分すなわち   ▲ ~~~~~~~~~~   彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」   ~~~~~~~~~~~~~  という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。  § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――  ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~  〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。  民はモーセのもとに来て言った。   「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、   わたしたちから蛇を取り除いてください。」  モーセは民のために主に祈った。  主はモーセに言われた。   「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ   を見上げれば、命を得る。」  モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。  ~~~~~~~~~~~~~  § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――  ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~  そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。  それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 11 いかなる事態であるか?  もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?  感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。  理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。  ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。

  • 情欲のない生殖とは どういうことか?

     性欲はあっても それ自体のためにするという思わくや意志行為はない。  その意味で 情欲から自由である。  その境地における生殖行為。  これは あるか?  アウグスティヌスが あると言っているようです。  ▼ (アウグスティヌス:身体より意志がわるい) ~~~~~~~~  霊魂(* 広く精神)のすべてのわざわいが身体からくると考える人は誤謬を犯している。  ・・・霊魂の重荷となる身体の腐朽は 最初に罪を犯した原因ではなく むしろそれの罰だからである。  朽ちる肉が霊魂を罪あるものとしたのではなく かえって罪ある霊魂が肉を朽ちるものとしたのである。   (『神の国』 泉治典訳 1981  §14・3)  ▼ (情欲のない生殖) ~~~~~~~~~~~  それゆえ もし罪がなかったならば 楽園の幸いにふさわしい結婚がなされ 愛せられる子を産み しかも恥ずべき欲情はなかったのである。  それがどのように可能であったかを 現在の実例をもって示すことはできない。しかしそうだとしても 多くの肢体が現在 意志に仕えている事実を見れば 一つの肢体が欲情なしに意志に仕えたということを信じがたいことと思ってはならないのである。わたしたちは手足を欲するままに動かして その肢体のなすべき仕事をさせるが そこには何の抵抗もなく わたしたち自身においても他の人びとにおいても見られるとおり容易である。・・・   (前掲書 § 14・23)  ▼ (自然本性を避けるのではなく・・・) ~~~~~  それゆえ 今書いていることをみだらな気持ちで読む者は 自然本性を避けるのではなくて咎を避けるべきであり 議論に必要な言葉をとがめるのではなくて 自分たちの恥ずべき行為をとがめるべきである。・・・   (同上)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 情欲のない生殖とは どういうことか?

     1. 性欲はあっても それ自体のためにするという思わくや意志行為はない。  その意味で 情欲から自由である。  その境地における性交=生殖行為。  これは あるか?  2. アウグスティヌスさんが あると言っているようです。  ▼ (アウグスティヌス:身体より精神ないし意志がわるい) ~~~  3. 霊魂(* 広く精神)のすべてのわざわいが身体からくると考える人は誤謬を犯している。  4. ・・・霊魂の重荷となる身体の腐朽は 最初に罪を犯した原因ではなく むしろそれの罰だからである。  5. 朽ちる肉が霊魂を罪あるものとしたのではなく かえって罪ある霊魂が肉を朽ちるものとしたのである。   (『神の国』 泉治典訳 1981  §14・3)  ▼ (同:情欲のない生殖) ~~~~~~~~~~~  6. それゆえ もし罪がなかったならば 楽園の幸いにふさわしい結婚がなされ 愛せられる子を産み しかも恥ずべき欲情はなかったのである。  7. それがどのように可能であったかを 現在の実例をもって示すことはできない。しかしそうだとしても 多くの肢体が現在 意志に仕えている事実を見れば 一つの肢体が欲情なしに意志に仕えたということを信じがたいことと思ってはならないのである。  8. わたしたちは手足を欲するままに動かして その肢体のなすべき仕事をさせるが そこには何の抵抗もなく わたしたち自身においても他の人びとにおいても見られるとおり容易である。・・・   (前掲書 § 14・23)  ▼ (承前:自然本性を避けるのではなく・・・) ~~~  9. それゆえ 今書いていることをみだらな気持ちで読む者は 自然本性を避けるのではなくて咎を避けるべきであり 議論に必要な言葉をとがめるのではなくて 自分たちの恥ずべき行為をとがめるべきである。・・・   (同上)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. この質問への回答として 次のような見方が提出されたことがあります。(端折っていますが ご紹介します)。    ◆ (前身の質問への或る回答) ~~~~~~  11. 劣情ゆえではなく、愛するが故に抱け、という事でしょうか?。親が子を愛すが故に抱くように。  12. でも人間してしまうと、気持ち良くなってしまうように出来てるので、快感はお釣りかお土産くらいに思えるようになれ、という事かな?。  13. 生殖行為付のプラトニックラブは可能か?という問いにも見えますが、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 自由な・さらに自由な・もっと自由なご見解がありましたら おしえてください。

  • 遊戯王 次元帝 デッキ診断お願いします。

    上級モンスター 邪帝ガイウスx3 風帝ライザーx2 氷帝メビウス 神獣王バルバロス 下級モンスター 異次元の生還者x3 異次元の偵察機x3 異次元の女戦士x3 サイバー・ヴァリーx3 魂を削る死霊x2 マシュマロン 魔法 次元の裂け目x3 サイクロンx2 月の書 増援 手札抹殺 おろかな埋葬 収縮 トラップ マクロコスモスx3 奈落の落とし穴x2 聖なるバリアーミラーフォース 神の宣告 激流葬 計40枚 デッキに入れる候補カード(自分的に) 魔導戦士ブレイカー バトルフェーダー 終末の騎士 魔宮の賄賂orマジック・ドレインorマジック・ジャマー 封印の黄金櫃(金銭的な問題でNG) 闇の誘惑(金銭的な問題でNG) 抜いたほうが良いカード、入れたほうが良いカードを教えてください! よろしくお願いしますm(_ _)m

  • われわれは 魂が去勢されていましょうか?

     意思疎通がさえぎられていると感じるとき 人は気力が萎え 怒りも憤りをも通り越して 心が凍った状態になりがちです。    ( a ) コミュニケーションの問題――または コミュニケーションが問題――だと見るという場合。  ( a-1 ) 父親または母親との話が 実質的に途絶えたゆえ。埋められない溝が出来てしまった。  ( a-2 ) 兄弟姉妹または身近にいる人たちとの話が 成り立たなくなっている。  ( a-3 ) 学校の先生とのあいだが うまく行かない。  ( a-4 ) 職場の上司との関係が もはや人間的ではなくなってしまった。  ( a-5 ) 政治家や官僚などのアマテラス公務員との関係がこじれた。  ( a-6 ) マスコミとの関係がおかしくなり 相手とのチカラ関係で こちらが不利になってしまっている。  ( a-7 ) アマテラシテ天皇との関係が――想像上だとしても―― しっくり行く感じがしない。  ( a-8 ) 外国との関係。アメリカ? 北朝鮮? 中国? ・・・  ( a-9 ) あるいは 自分自身との関係?  ( b ) そのほかの理由や事情によって われらが魂は去勢されているという場合。  ( c ) いやいや われわれは魂が去勢などされていない。バカも休み休み言えというご見解の場合。  ・・・・  展望としては 人間の存在論ならびにコミュニケーション論そして日本人論といった主題だと考えます。  質問者のたたき台は これまでにおこなった設問の趣旨説明やそこでのやり取りが その内容となるとは思います。ここでは特にはありません。  ひとつだけ取り上げるとすれば それは――最近にも設問したのですが―― 《わたし》の問題です。すなわち ( a-9 )の項目にあたります。  日本語では《わたし》なる存在について その《わたし》のほかにわざわざ《自我》という用語をこしらえて これによって自己の言わば確認をおこなうクセがついてしまったこと。  すなわちそれは 《自我》という用語を持ったことによって 《わたし》が 内部分裂してしまうとは言わないとしても わが自己還帰にとってきわめて不可解な道筋をたどらざるを得なくしてしまっているのではないか?   自己到来すなわち《われがわれに還る》というときのわれは ほかの誰れでもなく《わたしはわたしである》というその我れであることに決まっています。  それを わざわざ《自我に目覚める》だとか 《自我の確立が弱い》だとかといった遣い方において表現するクセがついたことによって 果たして《わたし》は どこにいるのか? どこに行ったのか? といぶからなくてはならない情況を生んでしまった。  こんな《自我》などという自己確認は おそらく日本人には なじみづらい。自我はせいぜいが 自己主張がつよいとか わがままを押し通すとかの意味合いにしか映らない。したがって世の中は 《自我を確立して――アマアガリして・またはアマアガリしたと同じ気分になって――街を颯爽と歩くアマテラス族》とそのほかのスサノヲ市民一般とに分かれてしまった。  これら二分された人びとのあいだで 話が合うかと言えば なかなか合わない。けれどもこのように世界が二分されるというのは ただひとつの原因すなわち《自我》などという用語を 日本語では持ってしまったからではないか? 不必要で余分な分裂であるのではないか?     アマテラス公民圏とスサノヲ市民圏との二階建てなる構造は その歴史も久しい。けれども 元はと言えば 両者はじつは じつの姉と弟どうしである。と神話はおしえる。それが 階層に分かれているとすれば その問題だけでよいはずだ。  《自我》なる問題を余分につけ足してしまっているのではないか? おまけに今ではその検証がなされ得ないと考えられている《無意識》なる仮説も いまなお・どうしてなのか からまっている。  ひとことで言えば アマアガリ・シンドロームと 自我ないし無意識症候群とが からまってしまっている。ほどくにほどけなくなってしまって われわれのあいだのコミュニケーションは 絡みに絡まってしまった。  いざ われこそはゴルディオスの結び目を解くアレクサンドロスなりという方 またはそうでない方 ご見解をお示しください。