• ベストアンサー

「人間としてやるべき事」を一言で言い表す言葉は無いでしょうか? 

「人間としてやるべき事」を一言で言い表す言葉は無いでしょうか?  「道徳に従って生きる事は人間にとっての○○である」 の○○に入るものを探していて、 「職責」「職務」 が意味合いとして一番近いと思っているのですが、 イマイチしっくりきません。 「使命」「運命」「天命」ですと、神様から与えられた仕事のような気がしますので、 人間それ自体が自分の意志でそう努力するように決定づけられている、という意味合いで用いたいのです。 どなたか良い言葉をご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。 宜しくお願い致します。

  • booter
  • お礼率59% (502/841)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#110427
noname#110427
回答No.3

>人間それ自体が自分の意志でそう努力するように決定づけられている 生きる為にやるべき事という意味では、「本能」が一番先に浮かびました。 その他、天成、素質、天質、資質、資性、天性、などが浮かびました。

booter
質問者

補足

ありがとうございます。現在の所私の言いたい事に一番近いです。 もうちょっと言うと「本質」がぴったりなのかと思いました。

その他の回答 (32)

  • g3452sgp
  • ベストアンサー率0% (0/9)
回答No.33

「人の道」を歩むことです。   http://www.geocities.jp/g3452sgp/hitonomiti

booter
質問者

お礼

これは宗教でしょうか?  回答ありがとうございました。

booter
質問者

補足

皆様、回答ありがとうございました。 そろそろ締め切ります。 各御回答者様方の回答は、それぞれのベストアンサーを持ち寄って頂いたのだと思っています。 できれば皆様にポイントを差し上げたいのですが、現状の私の疑問に対する回答に一番近かった回答にポイントを差し上げたいと思います。

回答No.32

 No.9&24です。  ★(趣旨説明) 「使命」「運命」「天命」ですと、神様から与えられた仕事のような気がしますので、  ☆ というのは たとえば次のように表現される命題を経たあとだという意味ではないのですか?  ▲ (イザヤ書 64:5) ~~~~~~~~  われわれはみな汚れた人のようになり、  われわれの義(ただ)しい行ないは、ことごとく汚れた衣のようである。  われわれはみな木の葉のように枯れ、  われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去〔らせ〕る。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしたち人間は 能力にもその生にも限りのある経験的で相対的な存在であるというその条件を確認したあとなのではないですか?  それなら 規範としての道徳は もう来ないはずだというのが わたしの考えなのですが どうでしょう?  つまりそうではなく そのように道徳規範が先行するかたちで掲げられるのならば それは 上の人間の条件をまだ経ていない段階でのたとえば単なるコギト(理性的思惟)にしか過ぎないと考えるのです。  それでは つまらないのではないでしょうか?  わたしたちは 《むさぼるなかれ》といった規範に仕える奴隷ではありません。あるいはさらに《慈悲こそが この上なき愛である》といった命題に振る舞わされるようなへっぽこにはつくられてはいません。それらは 単なる言葉です。  人智のきわみだと言っておかねばならないでしょうか? そうだとしても しょせん 人間の知恵の極みであるに過ぎません。  なんで わたしたち人間が  ★ 「人間としてやるべき事」  ☆ というふうに規定しなければならないのでしょう? 規定し得たとして それが どうしてじっさいの生活やひととの関係に対して先行するのでしょう?  あの人 この人 さらにあちらの人・・・わたしと人とのまじわりが先にあってこそ そういう決まり文句も得られてくるということではないのですか?  決まり文句が得られたなら それが今度は先行するというふうに順序が逆転するのでしょうか?  先人の知恵は 道程標のごとく道端に立てられているだけのことではないのですか?  ただ《わたし》ひとりの主観においては 《つとめ》という表現がよいとは思っております。朝 日が昇れば起きてはたらく こういう生活史観です。

booter
質問者

お礼

・・・すみません、正直言うと前半部分については私は頭が悪いのでよく分かりませんでした・・・。 >《つとめ》 これも一つの答えですね。 回答ありがとうございました。

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.31

「意思」だと個人的に思います。 >「放縦はしても良いが、それにより迷惑がかかったり、あるいは気を使わせたりするのであればそれは悪である」 の部分ですが、私も社会悪と考えます。放縦と自由は違います。自由は権利と義務の抱き合わせですが、放縦は義務すること、が理解できていない主体の一人歩きです。 booterさんは身障者の例を挙げていますが、私もかねてから同じことを思ってきました。身障者の方が社会福祉保障を求めるのは権利ですが、礼を言わないのは放縦です。それは人間性の問題になりますから。そこは健常者(という言い方の線引きも隙ではないのですが)と対等です。 同様、「お年寄りに席を譲れ」と私たちは躾けられてきましたが、小さい頃から違和感を感じてました。元気なお年寄りとどろどろに疲れたサラリーマンがいたら、私は後者に席を譲りたいときもあります。関連していることに、新聞の読者の投稿に載っているのが「席を譲ったら(年寄りと見るな、などの意味で)怒られた」とありますが、一般的に年寄りと見られる外見と言われた側の意識のずれですよね。譲った方はそう学習させられていることを「道徳」だと実行したまで。この年寄りこそ放縦だ、といえば言いすぎですかねぇ…。ならばそういう言われ方をされた方も感情的になるでしょうし、自分の道徳観が揺らぐかもしれない。そしてまじめな人なら葛藤もするでしょう。新聞に投稿する人はそういう方なのでしょうが。ですが一般的にはやはり性格が悪くても一応体力のない年寄りですし、席を譲りますよね(もっとも譲る場合の方が圧倒的に少ない社会ですがw)。それでも小さな好意(行為)でもひとつの社会規範になるわけで、言われた側にとってはそのとき「道徳」=「必要悪」となる場合もある。 ということを考えれば他の回答にもあるように道徳は変わるものだと思います。また小さな行為でもそれが別のことにリンクし、命を救うこともあれば「宿命」にもなります。ですが自分の中で普遍だと自信をもって実行していくのが道徳なのかもしれません。相手の反応や結果は裏切られるかもしれません。「道徳とは?」という命題とは別に、結果いかんにかかわらず、個人的、社会的な規範をもち、遂行し、そのための強い意志を持ち続けること、これが道徳する行為者のもつべきものだと思いました。行為のための基準や依拠するときの「道徳」の本質や意味は普遍的で変わらないものです。それは人間が長い時間をかけて失敗を繰り返しながら得てきた人類の英知でしょう。まぁ道徳の分野についてだけは人類は3歩進んで2歩下がるような進化の仕方をしてますが。 蛇足ですが「道徳」をの意味を知らない子供に教えるのは社会の役目なのですが、今の時代、大人たちがそういう義務を社会全体が怠っているわけですね。(学校の道徳の時間も教師のサボリの時間になってます)。というか子供のままの大人がどれほどいるか。 またbooter さんのように道徳について考える真摯な姿勢が「道徳に従って生きる事は人間にとっての【思考】である」ともいえるのではないでしょうか。

booter
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >道徳について考える真摯な姿勢が「道徳に従って生きる事は人間にとっての【思考】である」ともいえるのではないでしょうか。 いや、お恥ずかしいですがそんな高尚な人間ではないです。坊さんとか知識人に比べれば本当に低俗ですよ。 道徳価値はその時代や社会によって大きく変わります。 その昔、ビートたけしさんが「悪い事を思い切りやれる奴はいい事も思い切りやれる」という振り子理論を言っていました。 振り上げた拳をどこかにぶつけるのは自分の意志ですが、その拳を振り下ろした先が善なのか悪なのかというのは世間が決める事です。 だからと言って悪に放縦して良い訳ではなく、社会なるものをよく勉強して自分なりに出した正しい答えを持って突き進む信念が必要なんだと思います。でなければ社会の発展は望むべくもありません。 件の「誰に座席を譲るべきか? 」という事に数学や科学で求められる一般的、普遍的な解というものはありません。ただ自分が決断しなければならない時に自分がどう振舞うのかという考えを持っておかねばならないと思うのです。 哲学者「1人が死ねば5人が助かる、1人が生きると5人は死ぬ。正しい行いは?」 http://newslogho.blog48.fc2.com/blog-entry-488.html 「私たちの道徳的な根拠は、多くの場合矛盾しており、そして、何が正しくて、何が間違っているのかという問題は必ずしもはっきりと白黒つけられるものではない」 というのは、ああなるほどなと納得します。

回答No.30

booterさん。こんにちわ。 19番です。 ご返信ありがとうございます。 他の方への補足に書かれている通り、 「本質」なのだろうなあと思います。 今回もまた、 「>お題からは外れてしまう」のですが、 他に、こんな言葉たちも ○○に適切なんぢゃないかと思います。 「快・益・得・美・善」 「歓喜・安心・満足・幸福」

booter
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「快・益・得・美・善」 「歓喜・安心・満足・幸福」 これらも答えの一つになりますね。 ただ私は真善美とかの領域がいまだよく分からないので、 社会的(?)な方面などで人間とは何ぞやという事を知りたく思っています。

回答No.29

倫理

booter
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 直球ですね。

回答No.28

被っていたら申し訳ない。 「変化」だと私は思います。

booter
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 野性動物的な人間から文化的人間への変化、という事だと私は解釈しました。

noname#122986
noname#122986
回答No.27

#19です。 一度回答しましたがその後考えていました。 booter様が「職責」「職務」が一番近い答えとしているのですから、「務め」で良いと思います。 この回答は、外に求めても正解は無いと思います。内に求めてその時点の最良の言葉でよいのではないかとそんな気がしました。

booter
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 現在の所、一番近い答えが「本質」なのかな、と思っています。 >この回答は、外に求めても正解は無いと思います。内に求めてその時点の最良の言葉でよいのではないかとそんな気がしました。 そんな事は無いです。皆さんに回答して頂き知的刺激を受けている事にメリットがあります。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.26

「存在性」です と言う言葉をご紹介します。 人間のやるべき事は 存在し存続し存在を充実し 未来により良いものを託す 存在・存続の延長線上に、永遠が見えてきます。人間は「永遠への存在」を目指します。 これは持論です

booter
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 人間足りうる存在理由という事でしょうか。

  • rin00077
  • ベストアンサー率21% (117/534)
回答No.25

「渾身の願い」である。(長ければ単に願いだけでもよいかも) 道徳に従って生きる事ができるのなら、それにこしたことがない。 しかしながら人間はいろいろな条件により道徳をふみはずす。 そこで、そうならぬよう願う事こそ、その部分にはふさわしい。はい。

booter
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 これも答えの一つですね。

回答No.24

 No.9です。  ★ (No.9お礼欄) ~~~~~~~  ・・・?    >考えないで行動することになるから。  そうなのですか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 生活においてすでに《うそをつかない》でいることと 《うそをつくなかれ》という道徳規範にしたがってウソをつかないこととは 別です。  ウソをついてでも しかるべきことがら――たとえば 信頼関係をたもつこと――をその場で守ることはあり得ます。待った無しという場面では あとで説明をおこなうということと組み合わせて ウソをつくことがあり得ます。しかもいわゆる道徳規範の精神とするところ――生きることとよく生きること及びともによく生きることです――を守ることがあり得ます。  そのような意味において もし道徳がそのまま文字通りに従うべき道徳規範であるからという理由で  ★ 「道徳に従って生きる事は人間にとっての○○である」  ☆ というときには ○○には《凡愚にちかい 〈平凡〉》という言葉を入れました。  規範に文字通りに従うことは 《道徳》にかなうことでしょうか? どうでしょう?  道徳には もっと柔軟性があるはずだということが いわばこの物言いの事由です。   そして――これは 説明ないし根拠が ほんとうには 無いことなのですが――《道徳》よりも とうといことが人間にはあると信じるからです。これは 理性よりもとうといことと言いかえてもよいと思います。

booter
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ちょっと考えて見ますね・・・。

関連するQ&A

  • 好きな言葉 座右の銘 教訓

    あなたさまの 好きな言葉、座右の銘、教訓などを 教えてくれませんか? 私は最近この言葉が好きです 天命に生き 運命に挑戦し 使命に燃えて生きる

  • 《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?

     1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。  2. 特にもし量子論による答えがあるのでしたら おしえてください。  3. その昔アブラハムは 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。それは この地上における人間の生は 謂わば巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところをおこなうのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるが―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつは経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《去って行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為だと言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっているのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれであろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながす力のほうが 人間の自由意志による決定力よりも強いのではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?  7. この事態について 量子論による解明はありましょうか?  8. 違った角度から言い分があるという場合にも どうぞご回答をお寄せください。  * まだ熟さない感がありますが その点あらかじめおことわりしておきます。

  • 自己が人間である事に異論が挟まらない現状の考察

    自己の人格を人間と定義する事と、 自己の人格を仏陀と定義した過去との差異を研究するための題材集めです。 自らが人間である事に異論がはさまれる事は乏しい。 この人間と言う概念はおそらく西洋に発祥し、神が人間をお告げしたから私は神から人間を与えられたのだとでも言う感じの定義で、現代においてこの人間と言う概念は自己を表す事となっている。 私は仏と言う言葉を現代語訳すると人間と言う言葉になると考えていて、すなわち仏陀は人間を意味すると考える。 神から人間と言う自己を与えられたという西洋流と違って、東洋の仏陀と言う言葉には、自らの意思で人間を自覚するという意味合いがあるのではないかと類推しています。その人間としての意思が確信と自覚に似まで昇華されたのが、自らの信仰にたどりつく目覚めたもの仏陀であると考えます。 ただしこの私の持論は、個人の考えであって裏打ちが乏しい。 その点で題材提供としてご協力を仰ぎます。 おもに求めるのは、人間と言う自己の自覚の歴史的経緯です。 そのほかにも自説を発表してみたい方も、サル踊り扱いですが私なりの歓迎をします。

  • 「運命」と言う言葉、「恋愛」で使かう適切な言葉だと思いますか?

    「運命」と言う言葉について質問ですが。 僕、昔付き合っていた彼女に対して二人が出会って愛しあったのは運命だと思っていました...が、別れてしまいました。 別れるのが運命だったのでしょうか? ただ、恋愛での「運命」と言う言葉を使うのは、出会いが運命なのか?別れが運命なのか?どうゆう時に使う言葉か意味があるのか疑問に思い質問してみました。 そもそも「運命」と言う言葉って何回も使える言葉なんでしょうか?何回も使えたら「運命」って言えませんよね!?そんなに何回も言える軽い言葉でも軽い意味でも無いと思いますので。 そこで僕が思うには、恋愛に対して出会いは「奇跡」別れは「・・・」別れについてはあてはまる言葉が思いつきません?ただ、別れは「運命」と言う言葉もあてはまらない、適切ではないと思います。 そもそも「運」と「命」で「運命」になりますよね、僕が思う運命とは「生まれた時」と「死ぬ時」に使う為の言葉として適切だと思います。 人間みんな生まれる時には親や環境は選べません、金持ちの家庭の子として生まれる場合もあるし、貧乏の家庭の子として生まれる場合もあります。 どちらの家庭に生まれても幸せの環境か不幸な環境かは人それぞれ違うと思います。ですから「生まれる」時には親も環境も選べませんから、良い親、良い環境に生まれたら「運のいい命」で、良くない親良くない環境に生まれたら「運の悪い(良くない)」命として「生まれた」時に使う「運命」だと思います。その親、その環境に生まれた運命だったとして使える、僕が思う「生まれた時」に使う「運命」と言う言葉では適切だと思います。 ただ、中には生まれたけど母親が自分では育てきれないと思い込み病院など施設などに置き去りにして見捨てる親もいますし、酷い場合は生まれても自分の子を殺して隠したり、捨てる親もいます。 飛行機事故や車の事故でも、自分の隣の席の人は死んでも自分は助かったなどの事例ありますよね、死んだ人はその人の運命(運の悪い命)だったと僕は思います。運の良くて助かった命を「運命」とは言えないと思います。 なぜなら、助かったのは「奇跡」だっただけだと思います。運が良くて助かっただけの命を運命と言うのは何か違うと思います。また同じ様に大きな事故に何回か合って助かったとしても運命として使ったら運命の意味が分かりませんよね?「生きてる途中」に使う「運命と言う言葉」は適切では無いと僕は思います。 これが僕の思う「死んだ時」に使う「運命と言う言葉」だと思います。 あと、「運命は変えきれる」など言いますが、そもそも人の運命なんて誰にも分かんないと思います。僕が思う「生まれた時」の運命でしたら変えきれないでしょう、母親のお腹の中で変えるのは無理ですし生まれたばっかりでも赤ん坊ですから自分の意思では無理でしょう。 生まれた後は自分では「死ぬ時」の運命しか変えきれないと思います。 例えば、自殺とかは自分で「死ぬ時」の運命を変えた人になるでしょう。 「運命は変えきれる」とは「いい死に方にも悪い死に方にも変えきれる」と言うだけの意味だと僕は思います。「運命は変えきれる」と言う言葉はあくまでも占いでの予測や予想的な言葉にしかないと思います。 いい人生だったら「いい死に方」良い運の命(運命)になったと思います。ただ、上記でも書いた様にいい人生でも事故によって死んでしまったら「悪い死に方」運の悪い命(運命)になると思います。 ですから、「運命」と言う言葉は「運」に左右される「命」で「生まれた時」と「死んだ時」にしか適用されない適切な言葉だと思うのですが、皆さんはどう思います??? 文章が長い為区切って質問します。 1、恋愛に「運命」と言う言葉や意味は適切であるか? 2、恋愛に対して、出会いは「・・・」別れは「・・・」   「・・・」にあなたが思う言葉が有れば回答お願いします。 3、「運命」と言う言葉は何回も使える言葉なのか?何回も使ったら「運命」では無いと思いますが?使える回数有るなら僕が質問の様に「生まれた時」と「死ぬ時」の2回だけだと思います。 4あなたが思う「運命」と言う言葉はどういった時に使って言う言葉なんでしょうか?(恋愛と僕が思う事以外にありましたら答えて下さい) できれば全質問理由もお願いします。 僕は質問内容に書いた様に「運命」の言葉は「生まれた時」と「死んだ時」に使う為の言葉で有り意味も有ると思いますので僕なりには説得力が有って自信の有る質問内容だと思ってます。 それなりに僕が納得でき説得力が有る回答待ってます。 よろしくお願いします。

  • 死んではいけない理由 生きる意味とは?

    以前「死にたい」「自分は死ぬ」と言う事を友人に行ってしまった事があります。 その時に言われた事。 「死にたい」という言葉を二度と言ってはならない。 それは誰かが悲しむとか、他人に迷惑を掛けるからでは無い。 お前がこの世に産まれて来たからだ。 お前は神から生きる為に命を授かったのだ。 お前は選ばれしものなのだ。 お前は人間として生きていく為の権利を神から与えられたのだ。 だから生きる権利と義務がある。 そうでなければお前と言う人間はこの世には存在しないのだ。 生きる意味とは与えられた命を全うしなければならない。 それだけの事だ。 何も悩む事はないだろう? だいたい自殺するような人間はそれが運命であり、そんな人間は 俺に何も言わずにとっくに自殺しているはず。 生きるか死ぬかを悩んでいるならお前は生きる運命にある。 本当に死にたい人間は悩まない。すぐ自殺する。 と、言われました。 これで良いのですかね?

  • 運命について。

    日本の神話や伝承に「オイディプス王」のように神に定められた運命に翻弄された話(特に悲劇)がありますか? (数奇な運命を辿った人物や神の声にしたがって行動した英雄の話ではなく、運命を知らされながら、それに抵抗としたにもかかわらず結局そのとおりになってしまった、というような話) 私の限られた知識の中にはないように思います。 日本だけではなく、東洋哲学の観念に「神から定められた運命」というようなものはあるでしょうか?天命という言葉は聞きますが、、、それでも逆らっても逃れられぬ運命、といった感じは受けません。(私だけですか?) どうしてこのような違い(?)があるのでしょう? 洋の東西の違いだと言われればそれまでですが。。。 どういった観念が「運命」を生んだのでしょうか? 一神教の存在でしょうか? 思うところあればお聞かせください。 また、「違いなんてない。日本(もしくは東洋)にも、似たようなこんな話があるよ」という情報でもかまいません。

  • この感情を一言で表すとどういう言葉になるでしょう?

    この感情を一言で表すとどういう言葉になるでしょう? 文学的なピッタリの言葉が欲しいです。 因みに付き合ったりしてない年下の男性への感情です。 ・一人の男性として愛していると感じる。 ・一人の人間として尊敬もしている。 ・可愛らしくてキュンとする事も多々ある。 ・相手が臆病・引っ込み思案・自分に自信が無いので、母性も感じる。 ・余りにも尊敬の念を感じるので同じ土俵で会話なんて有り得ないと思う。 ・お茶目な人なので一緒にくだらない話を出来そうでもある。 ・近付いただけで呼吸もままならない程緊張する。 ・触れたい、匂いを知りたい、触れられたいと思う。 ・会いたくて会いたくて苦しくなる。 ・他の女性との関りを思うと妬けて仕方ない。 ・彼を癒し、安らげさせ、健康や仕事にも配慮し彼の邪魔をしない女性なら、どうか彼をお願いと思う。 人間の感情は複雑ですねー。 相反する感情も上記にはあります。 私が彼に抱いてるこの気持ちって何なのでしょうか。 どなたかズバッと教えて下さい。

  • 決定論について

     決定論について知りたいのですが、意味を辞書で調べると「全ては神や運命に決定されていて、人が人の意志を主張するのは人が無知だからだとする立場」というようなことが書いてありました。  ところが、私が買った本には「原因が一つ決まれば結果が一つ決まるという考え」とし、「今のやり方を変えれば未来にも影響を及ぼせる」としています。  私には辞書と本が同じことを言っているように思えないのですが、解釈の仕方が間違っているのでしょうか。それとも「~的決定論」のように、接頭語がつくことで意味が変わってくるのでしょうか。  どなたかご返答下されば嬉しく思います。

  • セネカの言う神とはどんな神のことでしょうか?教えて下さい

    セネカの道徳論集を今読んでいますが、よく神という言葉が出てきます。「賢者は不死であること以外は神と同等である」というような言葉も出てきます。  キリスト教ではなかったと思われるので、キリスト教の言う神ではないと思います。  だとすればローマ神話の神々のことを指すのでしょうか? 教えて下さい。ストア派で言う、宇宙の意志のようなもの、ロゴスのことなのでしょうか。そうであったとしたら、私はロゴスについてはよく知りませんので、それについても教えて下さるようどうぞよろしくお願い致します。

  • 友達をすぐ切り捨てる人間。

    【友達をすぐ切り捨てる人間】←これに関する言葉はないでしょうか? 例えば、友達をすぐ切り捨てる人間は、○○だ。のような言葉はないでしょうか? あと友達をすぐ切り捨てる人間の事をなんというのでしょうか? 又、【友達をすぐ切り捨てる人間】←に関する物語のようなものはないでしょうか?最終的に自業自得の運命を辿るなど。これに類似した物語でも構いません。 よくわからない質問ですいません。質問も多くてすいません。