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数学は正しい?

glairの回答

  • glair
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回答No.5

(1)現代の理系の人々の多数派の常識的な回答は、と思われるところを想像を交えて書いてみます. 客観的存在しての「原理A」は、見つかっていない、とするのが現在のコンセンサス. 客観的存在としての「原理A」は、将来も決して見つからない、と論理的に主張する人もある. 根拠として数学の不完全性定理等がそれを隠喩しているから、とする. この主張にはある程度の妥当性がある、とも考えられている. (2)現代の文系の人の常識的な回答のうちの一例を想像を交えて書いて見ます. (客観的存在としてでなく)主観的存在としての「原理A」を見つけた、と思った人はいてもおかしくない.おかしくないどころか、人間が生きていくに際して、そのような「原理A」をなんとか工夫して持たぬかぎり安定して生きていくのは難しい、のではなかろうか.ここで「原理A」の表現形態は、お話、物語などの形態をとっていることが多い.個人にとって価値のあるお話、物語は、その個人の各種の知識や価値の体系を「基礎づける」ために重要なものである.時に、個人にとって非常に強い確信を持つお話は、その個人にとって「原理A」となる.一方、天才によって創設されたある優れた物語が、ある程度の普遍性を持って、文化の多数の人々に受け入れられたとき、その文化における共通の物語となることもある.このような優れたお話を、一定の集団の人々が受け入れることが出来たとき、受け入れた個人にとっての「原理A」となる.実例としては、中世の敬虔なカトリック教徒にとって、ある「原理A」とは、超越者の存在そのものに他ならない.このような例は各文化において枚挙に暇が無い. (3)理系と文系の接点を考えた人の意見として、ふと思い出すのに「宗教と科学の接点」という書籍があります.それを読んだときの記憶を思い出してその一部の論旨(と私が把握したところ)を記憶で以下に書いてみます. 近代西欧文化は、文化史上稀有とさえいえる”強靭な”自我を発展させることに、成功した.その結果他の文化圏には決して成長しえかかったような、近代科学を発展させることに唯一成功した.西欧文化の特徴とも言える近代科学とキリスト教、は相反するものとして論じられることが多い.その証左として相互の紛争事例である宗教裁判が挙げられてきた.しかしこの論点ばかりが強調されすぎ、かえって両者に共通うする性格と文化における両者の補完機能が見誤まられてきた感がある.実際は近代科学とキリスト教は西欧文化の発展において相互に補完しあってきた.両者に底通する思想は、gattoさんが質問中で仰っている「「ある原理A」みたいなものから、すべての」科学の「体系は導出できる」はずだ、という強い確信である.この強い信念に基づいて構築された科学は、その有効性において今や全世界を席捲しているとさえいえるほどとなった.実際問題として科学技術なくしてはもはや一日も過ごせないほどとなった.科学技術で月へもいけるし、近代医学によって多くの病にも勝てるようになり寿命も延びた.このように科学技術があまりに「有効」なので、あたかも、科学が示す世界観のみが有一の真実だ、とさえ考える人さえいるほどのものとなった.従来のキリスト教的価値観と科学が、文化内で保持していた相互補完機能も、今や崩れ、キリスト教的世界観の存在感は薄れてきている.西欧文化も、この平衡の崩壊による倫理の混乱状態が生じてきている.以前であれば科学の知を統御する存在として、キリスト教の倫理観が機能した.現在では強くなりすぎた科学を統御すべき指標が見当たらない.これが西欧文化の現在の行き詰まりの図式といえる.現代においては、この行き詰まりは世界を席捲している.ある「原理A」をなんらかの普遍的物語に見出すことのできる人はそれでよい.なんら問題ない.もしそのような既存の物語に見出すことのできなかった人は、個人の責任において、自らを基礎付ける物語の創造を行なうことが自分の人生を意味付けるためには必要となった.

gatto
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 博学な多くの方からのご回答に正直驚いています。 私自身はまったく理系の人間ではないのですが、 なぜ数学について聞いたかというと、数学の体系が もっとも論理的に「正確」にできているような気がした からです。 で、数学がすべてのーというのは言い過ぎにしても、多くのー 科学を記述する言語だとすると、その言語によって限界もまた あるということが予想されるような気がしたので、 数学自体の基礎は、じゃあどうなんだ、と思ったためです。 もっとちゃんと勉強しようと思います。(しかし 自分は頭が悪いなとさいきんつくづく思います。。。)

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